2016年1月22日金曜日


浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

毛沢東①

2011-12-28 16:34:41 | 資料

毛沢東 マオ・ツォートン
1893年12月26日生まれ(没1976年9月9日)
現代世界史に大きな功績を残した人物とされているが、おそらく人類史上最も人々を死に追いやった人物である。彼の政策による犠牲者は最低でも数千万人といわれている。
1907年、弱冠14歳で羅一秀と最初の結婚をするも、1910年、年上の妻はわずか20歳で死去した。
1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。
1919 年、長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。この頃、新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗 と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなり のもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。
1921年7月23日、毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会(党大会)に出席する。1923年6月、第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれた。
1926年広州農民運動講習所所長。この頃「農村で都市を包囲する」といった思想が確立していったといわれる。
井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。
しかし抗日戦を戦っているのは国民党軍であり、彼の共産党軍は土地の搾取ということに変わりはない。なおこの根拠地に潜伏中、江西省出身の女性・賀子珍と暮らすようになり、1929年には長女が誕生している。
1931年11月、瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。
国 民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日、ついに江西ソビエトを放棄して敗走、いわゆる「長征」を開始す る。この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の 失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。
しかしこの「長征」は、後から作られた創作で、現実は毛沢東自身は洞窟に隠れ住み蒋介石からは洞窟のゲリラどもと呼ばれていた。
毛沢東は中央書記処書記に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。
1936年12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件(西安事件)で、宿敵である蒋介石と手を結び、第二次国共合作を構築する。
1937年7月7日に始まった日中戦争では抗日戦線を展開、国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。
しかし、日中戦争において日本軍と交戦したのは主に国民党軍であった。
共産党側は、朱徳率いる八路軍が日本軍へのゲリラ戦を行う以外は日本軍と国民党軍の交戦を傍観し、戦力を温存して、共産党支配地域の拡大に傾注したのである。この時期、毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。
1938年には長征時代の妻・賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優・江青と結婚した。
この時の毛沢東の主な政策は、阿片の生産である。共産党支配下で栽培しそれを連合軍に売り資金を蓄え、来るべく国民党軍との内戦に備える戦略である。
日中戦争末期の1945年5月、中国国民党は第6回全国代表大会を開催し、孫文が提唱した革命の第3段階である「憲政」に入ることを示した。
一 方、毛沢東は同時期に開催されていた中国共産党第7回党大会で『連合政府論』を提唱し、国民党案に不同意を表明した。日中戦争当時、共産党と国民党は表面 上協調関係を結び、毛沢東も蒋介石の権威に従っていたが、戦争終結を目前にして、毛沢東は「蒋介石と対等な指導者」としての立場をめざし、共産党と国民党 の対立は深刻になっていった。終戦直前の8月13日、毛沢東は蒋介石との武力闘争を内部指示として発した。
1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に通告、8月15日に終戦を迎えた。
1946年国共内戦が起きると、毛沢東は、地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得していった。
毛沢東率いる中国人民解放軍(1947年9月、八路軍から改称)はソビエト連邦からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によって軍事支援を削減された国民党軍に対して大規模な反撃に出た。
1949年1月、人民解放軍は北平(北京)に入城し、4月23日には国民政府の根拠地・首都南京を制圧した。
1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、この段階では国共内戦は終息しておらず、11月30日に重慶を陥落させて蒋介石率いる国民党政府を台湾島に追いやったものの、1950年6月まで小規模な戦いが継続した。

1949年12月から1950年2月にかけてソ連を訪問してヨシフ・スターリンの70歳の誕生日を祝い、中ソ友好同盟相互援助条約を締結するなどして、ソ連の援助を引き出した。
その後に勃発した朝鮮戦争では、ソビエト連邦とともに北朝鮮を支持して中国人民志願軍を派遣。この戦争で、毛は長男の岸英を国連軍の一国であるアメリカ空軍の爆撃で失った。
建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東は、1952年9月24日、突如として社会主義への移行を表明した。
1953年1月よりソ連型社会主義をモデルとしたとした第一次五カ年計画をスタートさせ、農業の集団化などの社会主義化政策を推進していった。
国家主席に就任した毛沢東は、自己に対する反対勢力を粛清していく。
1957年春、毛沢東は知識人階級に対し、自由に共産党批判をするよう求めた。「百花斉放」政策である。しかし毛沢東は同時に「引蛇出洞」(ヘビをねぐらからおびき出す)と言う秘密発言もしていた。
前年の秋、ハンガリー暴動が起こり、中国でも知識人たちが同様な穏健・自由主義路線を望んでいることが分かっていたので、毛沢東が先手で罠を仕掛けたのである。
多くの知識人から共産党の独裁化を批判されると、毛はこれを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。
1957年、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、ソ連が15年以内に鉄鋼、石油などの生産高の面でアメリカを上回るだろう、と 宣言した。
当時モスクワに滞在していた毛沢東は、兄貴分であるソ連の後について、中国は15年以内にイギリスを追い越すだろうと語った。この発言は、世界各国共産党首脳たちの熱烈な拍手を浴び、中国国内でも盛んに宣伝された。
毛沢東の「大躍進政策」
 そこで毛沢東は1957年に約535万トンであった中国の鉄鋼生産高を翌年には倍の1070万トンにするよう命じた。ここから全人民製鉄・製鋼運動が展開されることになった。
 
しかし本格的な製鉄コンビナートを作るだけの資本も、時間もない。いらだった毛沢東は、産業革命以前の「土法高炉」を全国に展開し、人海戦術で鉄鋼生産を行うことを命じた。

  「ワイルド・スワン」の作者ユン・チアンは、この年、小学校に入ったばかりであったが、その校庭にかまどと「るつぼ」の形をした大きな鉄の桶が据えられた。先生たちが24時間休みなしで薪をくべ、生徒たちが拾い集めてきた鉄くずをその桶に入れる。
先生たちが製鉄に動員されているので、授業もなく、ユンは先生の家で掃除や子守りもした。 
ある先生は、とけた鉄を浴びて、両腕に大やけどを負い、病院に見舞いに行ったユンは、そこでも医師や看護婦が、土法炉の火を絶やさないように、走り回っている姿を見る。
 
  しかし、素人が薪をくべて作った鉄は、農機具用にすらならなかった。ユンの家の鍋や釜も、ベッドのスプリングもすべて、溶かさてしまった。

6000万人の労働力を投入して、308万トンの何の役にも立たない「牛の糞」のような鉄が作られたのでる。
  無駄になったのは、膨大な労働力だけではない。土法炉の燃料として、大量の石炭が使われた。そのために、逆に正規の製鉄所が燃料不足に陥り、操業停止に追い込まれる所が出てきた。
 
さらに石炭を買えない農民は、樹木を伐採して、薪とした。全人民製鉄・製鋼運動はたちまち、全人民樹木伐採運動へと一変した。この環境破壊は、数十年後にも続く悪影響を残す。

山はハゲ山になり、土地もやせてしまった。一度大雨が降れば土砂が田畑に流れ込み、肥えた土地も荒れ地になってしまった。これでどうして豊かになることができるのだろうか。
  また、かまどを作るには、レンガが必要である。そのために古代からの城壁を破壊して、そのレンガが用いられた。前漢時代に国都長安を守る東の関門として、 2千年の歴史を持つ河南省の函谷関の2層の楼閣、甘粛省威武県の唐代からの城壁など、いくつもの由緒ある建造物がこうして破壊された。
   毛沢東の一言で、なぜ全人民がこれほど、愚かな運動に全力をあげて取り組んだのか? 共産党の幹部たちは、鉄鋼生産のノルマを課され、毎日生産高を報告することが求められた。
上級幹部の関心は、毛沢東の命じた「1070万トン」という数字 のみであった。その鉄を使うあてがあるわけでもなく、品質もどうでも良い。当然、下からの報告は水増しされる。
 
水 増し報告に反対した良心的な幹部は、統計局長を含め、「右派」のレッテルを貼られ、労働改造所か、牢獄に送り込まれていた。残る党幹部、官僚も、専門技術 者たちも、この運動がいかに人民を苦しめ、経済発展を阻害しているか、分かってはいても、保身のためには、口を閉ざすしかなかったのである。

  鉄鋼増産と並んで、毛沢東の念願であった人民公社による農村の共産化が進められた。「共産主義は天国だ。人民公社はその掛 け橋だ。」というスローガンが、1958年以降、中国全土に響き渡った。
 
  2千から2万戸を一つの単位として、人民公社を作り、その中では、人々は田畑や森林、家畜、農機具などすべての私有財産を提供し、共有化する。自宅での食 事は禁止され、農民は農作業が終わると、公共食堂で食事をとる。収穫はすべて国のものとされるので、誰も農作業の能率など気にしない。農村にも鉄鋼生産の ノルマがあるので、農耕作業は二の次にされた。そして食べたい だけ食べるので、食料備蓄はまたたく間に底をついた。
 
  人民公社は地方の共産党官僚の管理化におかれ、やがて各公社が、毛沢東の歓心を得ようと、食糧増産の大ボラ吹き競争を始める。ある公社が、今まで1畝 (6.7アール)あたり200斤(100k g)程度しか小麦がとれなかったのに、2105斤もの増産に成功し た、とのニュースを人民日報で流した。毛 沢東が提唱した畑に隙 間なくびっしりと作物を植える「密植」により、出来高が10倍にもなったというのである。
 
すると、他の公社も負けじと、水稲7000斤、1万斤などという数字を発表し始めた。8月には湖北省麻城県で、1畝あたり稲の生産高3万6956斤というニュースが報道された時、人民日報は四人の子供が密植された稲穂の上に立っている写真まで掲載した。
 
これらは完全なでっちあげであった。農民に徹夜作業で何畝かの田畑の稲や麦を1畝に移し変えさせたものだ。しかしこれだけ密植すると、風が通らず、蒸れてすぐに作物がだめになってしまうので、農民は四六時中、風を送っていなければならなかった。
 
  出来高の水増し報告により、上納すべき量も増やされ、農民たち自身の食料がさらに減らされた。こうして、農民たちの製鉄運動への駆り立て、人民公社化によ る効率低下、さらに上納分の増加により、食糧備蓄も底をつき、1960年から61年にかけて、中国全土を猛烈な飢饉が襲った。

  幹部の粛清の後、59年には毛沢東はさらに大々的な反右傾運動を展開した。農民や人民公社の幹部・役人で、少しでも政策に不平不満をもらすものは、どしどし摘発された。その総数は中国全土で1000万人にのぼったと鄧小平は述べている。
 中国全土での餓死者は、2~3千万人と言われている。55年から58年までの平均人口増加率2.29%を適用すると、61年末の人口は7億632万人になるはずなのに、実際にはそれより4,638万人少なかった。
 毛沢東の「大躍進」政策によって、中国人民は近代史上、最大規模の大量餓死に駆られたのであった。
  61年初めには、毛沢東も「大躍進」政策を続けることができなくなり、劉少奇や鄧小平などの実務派に政治運営を譲った。鉄鋼増産運動は中止され、農民の収入も働きに応じて分配されるようになった。
鄧小平が「白猫でも黒猫でもネズミをとるのが良い猫だ」という発言をしたのは、この頃だ。「ネズミをとる」とは、「国民を食わせる」という事なのである。
 
  実務派の市場主義的舵取りにより、2年ほどで中国経済はふたたび好調に動き始めた。しかし、一時後退した毛沢東は、権力奪還を狙って、逆襲に出る。中国人民の前には「文化大革命」という次の悲劇が待ち受けていた。

文化大革命

大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つけた。

しかし、彭徳懐に代わって国防部長となった林彪によって1964年に『毛沢東語録』が出版されるなど、大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東は密かに奪権の機会をうかがっていた。
1966 年5月、北京大学に反革命批判の大字報(壁新聞)が貼り出され、大学などの教育機関や文化機関を中心に、党・国家機関に対する「造反」が起こった。過激派 となった青少年は「紅衛兵」と称して、各地で暴動を引き起こした。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極 的に支持した。
文化大革命とは、毛沢東などが行った、文化の名を借りた劉少奇などの右派(穏やかな革命路線)打倒のための政治闘争である。これにより中国政府当局は、数千万人以上の中国国民を殺戮したと言われる。この恐怖政治下では、国民は完全に思想言論の自由を奪われていた。
1966年8月18日には、自ら天安門広場に赴き、100万名の紅衛兵を謁見して彼らを煽動、「四旧打破」のスローガンを打ち立てた。紅衛兵運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。


劉少奇・鄧小平らを実権派(経済政策の調整・柔軟化を唱える党員は、「走資派」というレッテルを貼られた)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動、すなわち「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。
この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。
文 化大革命では紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあっ た者まで及んだ。彼らの家族までも紅衛兵によって徹底的に迫害された。また、紅衛兵運動は文化財を破壊するなどの極端な「左」傾偏向主義運動に発展した。
毛沢東の奪権目標であった劉少奇・鄧小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。これを受けて1968年、毛沢東は学生たちの農村への下放を指示した。


周恩来

2011-12-27 19:21:12 | 資料

周恩来 ヂョウ・オンライ
1898年3月5日生まれ(没1976年1月8日)
妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)李鵬(養子・のちに首相)。
中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務める。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」の異名がある。
 周恩来は江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれた。
1912年、清朝が崩壊し、中華民国が建国された。
1913年、周恩来は天津の南開中学校に入学し、革命の息吹に触れる。
南開中学卒業後の1917年に、日本に留学。日本語の習得不足により第一高等学校と東京高等師範学校の受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現政治経済学部)に通学。
南開学校では数学、物理、化学などをすべて英文のテキストで教わっていたため、その知識を日本語で表現する苦労をあじわった。
日本では勉学に励む他、友人と活発に交流して祖国の将来について語り合っている。また日比谷公園や靖国神社、三越呉服店や浅草など、各所を積極的に見てまわっている。
日本社会や日本人についてもよく観察しており、これが知日派としてのベースをつくった。
1918年、留学生の一斉帰国運動も起きるが、周恩来は冷静な対応をしている。一旦中国に帰るが、再来日。
やがて、母校の南開学校が大学部を創設するということを知って、帰国を決意した。
船に乗るために神戸に向かう途中、京都の嵐山に寄って歌った詩「雨中嵐山」は、嵐山の周恩来記念碑に刻まれている。
1919年4月に帰国し、南開大学文学部に入学。その直後に中国近代史の起点となる五・四運動が起きる。周恩来は学生運動のリーダーとなって頭角を現していく。
1920年パリに留学する。
労働党の研究のためにイギリスに渡り、エディンバラ大学に入学を許可されるが、中国政府からの奨学金が下りずに断念しフランスに戻る。
パリ郊外のフランス語学校でフランス語を学び、まもなく天津の四名の勤工倹学生とともに、フランス中部の町でフランス語を学ぶかたわら『益世報』に通信をかくアルバイトをした。
その後中国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部が作られるとその書記となった。この留学時代の仲間には、李立三や鄧小平、陳毅、朱徳など後の中国共産党の幹部となった者が多数いた。
 1944年11月、26歳の周恩来は国民党が幹部養成のためにもうけた黄埔軍官学校(校長・蒋介石)の政治教官、政治部主任となった。
軍官学校である からむろん軍事を教えるが、国民党はこの学校を直接統制下におくために、ソ連赤軍にならって政治委員制をとった。あにはからんや、国民党ではなく、共産党 がこの政治部を掌握することになる。周恩来は抜群の組織能力を発揮し、黄埔軍官学校の共産党員を四三人にふやし、その党支部を直接指導することになった。
 周恩来は毛沢東に継ぐ中国共産党の実力者として絶対的な信望を集め、膨大な行政機構を掌握し縦横に動かした。
多くの人々が、周の卓越した記憶力と人をそらさぬ話題の豊富さなどの魅力を語っている。

 人心の機微をつかむという周恩来の本領が最も良く発揮されたのが、日中戦争の分岐点ともなった西安事件である。
 孫文の死後、蒋介石は孫文の遺志を無視して中国南部の共産党根拠地に対して大規模な攻勢にでた。そして共産党の根拠地は、国民党の軍隊の重圧下に置かれた。
東北地方には日本軍の謀略により父張作霖を殺された張学良があった。張学良は満州の帝王になるべき人物であったが日本軍と戦うために蒋介石の軍門にくだる。しかし蒋介石はそんな張学良に対して日本軍ではなく共産党に対する討伐を命じた。
しかし、張学良も配下の東北軍も、日本と戦おうとしている共産党と戦う気はなく共産党に対する討伐は遅々としてすすまなかった。業を煮やした蒋介石は1936年12月自ら西安に赴いて共産党への攻撃を監督しようとした。
しかしその蒋介石を張学良が逮捕監禁し、ほどなくして蒋介石と共産党の周恩来との会談が実現した。

 この後蒋介石は「一致抗日」を受け入れ第二次国共合作が実現するのである。世界はこの時の周恩来という人物の外交手腕と説得力をはじめて知ることになった。
 中国では国民党と共産党は国共合作をおこない、協力しあって地方軍閥と戦うために、北伐戦争をすすめようとしており、そのために大量の幹部を必要としていた。聶栄臻、李富春、鄧小平らはモスクワ東方大学で学んだのち帰国することになったが1927 年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。1931年、蜂起したものの根拠地を失っ た部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村での ゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。
1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰、長征に参加し八路軍一二九師政治委員となる
  周 恩来は、中国共産党の毛沢東の下で主に外交を中心に大きな役割を果たしてきた。日中戦争中は南京や重慶など国民党の監視下で、国民党や米国との交渉にあた り、日中戦争終了後の国共重慶会議にも出席、新中国成立からまもない1950年にはモスクワにかけつけ、難航する中ソ会談で毛沢東主席の力となった。
 周恩来は、中国が初参加した国際会議である1954年ジュネーブ会議に臨んだのをはじめ、新中国の対外交渉のほとんどすべての案件を手がけてきた。
そして毛沢東夫人の江青との激しい権力抗争や文化大革命による失脚の危機を乗り越えていった。

 周恩来は1976年1月8日78歳で死去する。人々は周恩来の死をいかなる英雄の死よりも悼んだ。
 周恩来の原籍は浙江省紹興小保佑橋百歳堂にある。魯迅逝去二周年記念のとき、周恩来はこうのべた。「血統では私は魯迅先生の本家筋かもしれない。二人とも浙江紹興の周家だからである」。

 スターリン 没後、国際共産主義運動の主導権を フルシチョフ と 争った毛沢東は、ソ連修正主義批判を続け、ソ連を本気で怒らせてしまう。文革がとめどない混乱を招き、内乱状態になったため、その収束のため中ソ国境の珍 宝島で「小競り合い」を演出した (第一次珍宝島事件) つもりが、ソ連の復讐戦 (第二次珍宝島事件) を招き、やがてはソ連に核先制攻撃を考えさせるほどの危機を招く。
  革命輸出外交で孤立していた「毛沢東中国」は、窮余の一策「敵の敵と結べ」を実行してニクソンを招請という「ウルトラ C」を演出するが、米中折衝の実務を取り仕切って国際的な脚光を浴びたのは周恩来であった。「上御一人」の影を薄くした周恩来を、「天上天下、唯我独尊」 を以て自任する毛沢東は絶対許せず、以後、徹底的に周恩来をいびり抜くのである。男の嫉妬ほど怖いものはない!
 それだけならまだよかった。毛沢東の周恩来いびりが「自分より先に死なせる」よう悽愴さを帯びるようになったについては、毛沢東の執念深さによる両者の関係のなお一段落の展開がある。
 毛沢東は、自分が発動した文革運動が、中央から地方まで多くの党政高級幹部の大きな恨みを買ったことを知った。毛沢東は、人に恨まれないならともかく、一度恨まれたらいっそのこととことん恨まれよう、という人物だった。
 文革が進み、文革も自分も人々に嫌われていることを察知した毛沢東は、自分が叩かせた子分どもから慕われる周恩来が、死後、必ずや、自分を批判するに違いないと信じて、断固周恩来を死に追いやるのである。
 それでもなお、毛沢東に逆らわぬ従順な周恩来は、死ぬ直前、毛沢東の詩を読み上げさせ、毛を讃える「東方紅」を口ずさむ。
 周恩来が毛沢東にイカれたのは、毛沢東に弱点を握られ、常に脅迫されていたからである。だがそれだけではない。周恩来は共産主義と共産党の大義を信じ、毛沢東に従ったのは、毛沢東こそ大義を実現する人物と信じたかららしい。
 紅軍敗走の長征の最中、中共の大きな分岐点となる遵義会議まで毛沢東の上司であった周恩来の作戦はことごとく失敗し、農民出身の大胆で粗野な毛沢東の的を得たゲリラ戦のお陰で紅軍がなんとか
生き残る事が出来た。

周恩来はそんな毛の強い指導力、決断力に魅了されていったのだ。
この会議に於いて周恩来が毛沢東を支持したことにより毛沢東が中共の最高指導者に躍り出て人気実力共に毛沢東を圧倒していた周恩来が盲目的なまでに以後死ぬまで毛沢東に追従していくことになる。

その姿は周恩来という人間が異常な程のマゾフィストではないかと疑いたくなるほど痛々しいまでの忠犬ぶりを発揮することになるのだ。

 周恩来は毛沢東の迫害に耐え抜くが、革命家人生の最期にやっと毛沢東に逆らった。毛沢東から「投降派」として批判された周恩来は、「革命の晩節を全うする」ため、病院で毛に聞かせるべく叫ぶ、「私は党に忠実だ、人民に忠実だ、私は『投降派』じゃない!」

後列左から3人目 日本留学時 




 


鄧小平

2011-12-24 21:51:36 | 資料

鄧小平
1904年8月22日生まれ(1997年2月19日没)
1978年から1992年のあいだ事実上の中華人民共和国の最高指導者であった。
身長が150㎝という小柄ながら、中国において非常に大きな存在だったといえる。
 中国国家主席鄧小平は、若き日、ロスチャイルドの企業ルノーで教育を受けた。
 ルノー・フランスで教育を受けていた彼は、「共産主義者」と見なされ、フランス警察に逮捕されかかる。
しかし、鄧小平のアパートを急襲する直前に、父鄧文明の所属する中国マフィア洪門会の在フランス支部の支援と、共産主義者レーニンやトロッキーに莫大な援助をしていたロスチャイルドの密通情報により逮捕を逃れてソ連に逃亡する。
 この鄧小平の亡命支援を担当したのが、ロスチャイルドの穀物商社ドレフュスの幹部であり、またルノーの経営陣の一員で鄧小平に目をかけていたジャンバティスト・ドゥーマンである。
ドゥーマンは、ソ連の指導者スターリンと共に、ソ連の穀物を西欧に輸出するアンテグラ社を経営していた。
このソ連とのパイプが鄧小平の逃亡ルートとなった。この支援が無ければ、後の中国共産党の指導者鄧小平は存在しない。

 
鄧小平一族の経営する「保利実業」は、ロスチャイルドの軍事産業としてイラン・イラクなどに毒ガス・細菌兵器・核兵器部品の輸出を行って来た。
 鄧小平・栄毅仁の「CITI」の投資事業の司令塔として、事実上この中国最大の民間企業を指揮してきた香港財閥・李嘉誠グループで、世界最大規模のメディア企業「ホリンジャー・グループ」は、カナダ・アメリカ・イスラエル・イギリスに新聞社80社、週刊誌を115所有・経営し、経営陣には金で殺人を請け負うカナディアン・マフィア「ブロンフマン一族」を迎え入れている。
 このホリンジャー・グループは、傘下にネオコン派の牙城の1つである、イスラエルのエルサレム・ポスト紙を抱え、この新聞社の重役リチャード・パールが、ブッシュの国防政策会議議長としてイラク戦争を決定して来た。
 このホリンジャーが、次々とメディア産業を買収していく資金は、表向きはカナダ・バンクーバーの投資会社「ジー社」となっていたが、このジー社の経営は李嘉誠グループであった。
   階級闘争が盛んだった時代に彼はこう言い放っている。「白猫であれ黒猫であれ鼠を捕るのがいい猫だ」この言葉は彼が観念論をしりぞけ、物事を実務的、実際的に処理することを好むという鄧小平の態度をよく表す言葉である。
誰 もが知る鄧小平のとった行動のなかでもっとも有名なことは「改革開放」であろう。中国の沿海都市である深センや珠海をはじめとし5個所を経済特区として外 国からの資本や技術などを吸収する役割を持ち、製造業を中心とする企業を誘致し輸出志向型の目指すもので、外資企業に対しては、税制、土地使用などの面で 経済特区以外の地域への投資よりも優遇している。
経済面で外資を受け入れることで経済特区を頭として中国の経済成長率は飛躍的に伸びてきた。
今 思うとなぜはじめから中国全土を外資に開放しなかったのかと思うところだが、それが鄧小平の経済改革で見せた彼の性格のあらわれである。中国全体を外国資 本に開放したらどうなるか、彼は資本主義国家の汚染を含んだ空気に社会主義的慣行に馴れていた中国国民をさらすのは危険であると考えたのである。
まずは小さな窓を作り、そこから資本主義国家の近代化の風を内部にまで送っていこうと考えたのである。そしてその小窓から開いた風が中国の飛躍的な成長への追い風となったのである。
 
1904年四川省広安県の名家に生まれる。鄧小平の兄弟は姉一人、弟三人、妹一人の七人兄弟であり、そのなかで彼は長男として育てられた。
鄧小平は1919年に15歳で中学を終え、重慶に開設されたフランス「勤工倹学」のための予備校に合格し、翌20年夏に卒業した。そしてフランスに留学した。
鄧小平の中学時代にはロシア十月革命が起こっており、これに刺激されて中国では半植民地からの解放を求める反帝国主義運動が始まった。この様な動きは四川省にもおよんでおり、鄧小平もその時代の流れを敏感に受け止めていた。
フランスに渡った鄧小平は勉学にいそしむために工場で働いた。生活は後の生活からとはずいぶんかけ離れた倹約に倹約を重ねた生活であった。
当時の苦学生の食事はというと一日に一杯のミルクとクロワッサン一個であったという。そのため成長期に十分な栄養を取ることが出来なかったため鄧小平の身長が低いといわれている。
その半世紀後の1974年にニューヨークの国連総会に出席したとき、帰国途中にわざわざパリに立ち寄り、クロワッサンを100個ほど買いパリ留学生に配ったという。
 
  鄧小平が政治活動に足を踏み入れたのは1922年中国少年共産党に入党したことからである。翌23年に中国少年共産党の後進である社会主義青年団欧州支部の常務委員に選ばれたことからであった。
組織の中で最も若かった鄧小平は『赤光』のガリ版印刷の仕事をまかされた。彼はガリ版印刷の仕事を巧みにこなし、仲間から「ガリ版博士」のニックネームをつけられた。このときの編集長であった周恩来は彼の仕事を高く評価した。この欧州支部の仲間が後の共産党を担っていった。
のちに鄧小平はモスクワへ移り、中国人革命家を養成するために設けられた中山大学で唯物史観や革命論などを学んだ。そこで蒋介石の長男の蒋経国と一緒に学んだ時期もあった。同級生として肩を並べていた二人が後に台湾海峡を隔てて睨み合う仲になろうとは思ってもいなかっただろう。
1927年鄧小平は祖国に戻り、西安の中山軍事学校で政治部の主任教官になった。この年の4月、 蒋介石が「上海クーデター」を起こし、それまで同盟勢力であった共産党員を弾圧しかかってから、鄧小平も中山軍事学校を追われて、共産党の本拠地となって いた漢口で党中央の仕事にたずさわることになった。このときすでに党政治局のトップ集団になっていた周恩来は鄧小平に「秘書長」のポストを用意した。
そして、鄧小平は会昌県委員会書記になった。右江ソビエト(中国革命本拠地)の上層部の意見とは全く逆の毛沢東の意見を擁護した。そのため鄧小平も党上層部にはむかったかたちとなり、しばし監禁された後、県の書記という役職からちっぽけな村の巡視員に降格された。これが鄧小平一度目の失脚となる。
のちに中央軍事委総政治部の指示をし、「紅星報」の編集長を務めた。これが復活への足がかりとなる。かたや毛沢東は党に残存し実権を握り、彼の計らいで鄧小平は秘書長に返り咲き、党での地位も少しずつ上がっていった。
  鄧小平は党の総書記に就任した。毛沢東は大躍進の失敗を振りかえり、自ら党の第一線を退く意見を述べた。毛沢東の本心は退く気など全くなかったようで、大躍進の失敗に対してみんなから労いの言葉をかけてもらいたかったようである。
 鄧小平は党の総書記として大躍進の失敗を振りかえり、現実問題の飢餓救済を行うにあたって毛沢東とは全く逆の政策をとらなくてはいけないということに党政治部の誰もが気付いていた。ただ誰も毛沢東を諌める決心がつかなかったのである。
 ここで鄧小平は腹をくくって先ほどの毛沢東の意見に対して国家主席に劉少奇が適任との意見を述べた。こうなると誰も鄧小平の意見に反対するものはなく、毛沢東はろくに慰留もされず第一線を退くかたちとなった。
  彼はまず、農民が自分で開拓した土地については個人耕作の権利を認め、養鶏やアヒルの飼育で農家が金儲けをするのを公認した。毛が旗を振って大々的に進めた農業の集団化を、部分的に崩してみたのである。
この程度の農家に対する改革で、はっきりした数字となって現れてきた。手応えを十分に感じた鄧小平は、安徽省をモデルにして農家の一部を家族単位で請負耕作に出した。
人民公社の農村風景が少しずつ変わっていき、「自分たちの田畑」を取り戻した農民は嬉々として「自分の作物」を育てるようになっていった。これが一部の地域で明らかに成功だと分かった。そして鄧小平はこの農村改革を全国に広めていった。
  毛沢東の政策を180度転換させたからといって鄧小平は毛沢東のことを疎んじていたわけではなかった。しかし毛沢東は自分のしたことがすべて否定されたように感じ、鄧小平をはじめとする実権派を快く思っているわけがなかった。
自分を邪魔者扱いされていたように感じた毛沢東は第一線に復帰した。毛は権力を行使し、実権派をじわじわと失脚させていった。次第に党の要職を自分と同じ思想をもつ者で固めていった。これが中国にひどい傷跡を残す文化大革命の始まりであった。
当然鄧小平にもその矛先は向けられた。「砲撃を加えよ」と呼びかける壁新聞が権力の所在地である中南海に毛の手によって張り出された。それをきっかけに鄧を「実権派ナンバー2」と名指しで批判したおびただしい数の壁新聞が街頭を埋めていった。
やがて鄧小平は総書記の職を剥奪され、その年の暮れには中南海の自宅に軟禁される。これが鄧小平2度目の失脚になる。
鄧小平は政治に舞台から姿を消したように思われたが、復帰に対する情熱は消えてはいなかった。鄧小平は毛沢東にあてて四千字に及ぶ長文の手紙を書いた。手紙はちゃんと毛沢東に届いていたが返事はこなかった。鄧小平はそこであきらめるわけもなく、再び毛沢東に手紙を書いた。
この鄧小平の熱意が毛沢東に通じたのか、19733月鄧小平は再び北京に副首相として舞い戻る。長い間同志としてともに中国のために働いてきた周恩来も鄧小平の復帰を心から待ち望んでいたのであった。6年間の長い失脚期間だった。
鄧小平は復帰後、文化大革命のためにいわれのない罪で軟禁されている者の復帰に身を粉にして働いた。これは自分の復帰に力を貸してくれた周恩来同志の望みでもあった。もちろん復帰してなお「四人組」の執拗な圧力に徹底的に抵抗しなければならなかった。
  197618日、周恩来がみんなに惜しまれつつこの世を去った。「四人組」にとっては願ってもないチャンスの到来であり、鄧小平にとっては同志を失ってしまったことで大きなピンチであった。15日、周恩来の追悼会が人民大会堂で営まれた。そこで追悼の辞を読み上げた鄧小平はそのまま公開の場から姿を消してしまった。そのまま中南海の自宅に軟禁された。
45日、北京の天安門広場に200万人という大群衆が、亡くなった周の遺影を掲げて集まり、収集のつかない騒ぎになった。これに対し「四人組」は武力鎮圧を命じた。この騒ぎを「四人組」は鄧小平が裏で糸を引いているとでっちあげ、鄧小平の役職を剥奪した。これが鄧小平三度目の失脚であった。99日に毛沢東が逝去したときも、鄧小平は追悼会に出ることすらできなかった。
  し かし、「四人組」が鄧小平を人民日報などで批判すればするほど、世論の鄧小平を支持する声は高まっていったのである。毛沢東という後ろ盾をなくした「四人 組」の威力は次第に衰えていった。鄧小平のいない党中央も「四人組」をこのままのさばらしている訳はなく、四人組を追い払う策を練っていた。毛の死去から28日後、「四人組」はあえなく逮捕された。鄧小平は「四人組」の逮捕に踏み切り、新たに党の主席になった華国鋒に四人組の逮捕に賛同するという内容の手紙を書いた。二度目の失脚の時に毛主席に当てた手紙と同様なことを書いた。19777月、鄧小平は三度目の復活を果たした。
   党 に戻った鄧小平は、胡耀邦や趙紫陽など力強い人材を復活させた。いよいよ鄧小平時代の幕開けである。だが、復活した彼に懸案が二つあった。「毛主席が決め たことはすべて守る」ことによって権力を守ろうとしていた「すべて派」の勢力を削っていくこと、「四人組」の蘇生を防ぐことである。そして、文化大革命時に「四人組」によって党を追われた者達を復帰させた。
  次第に、「すべて派」は追いつめられていき、華国鋒は主席の座を退かざるを得なくなった。華国鋒は鄧小平を復帰させたことで、自分の首を絞めることになってしまったのである。
 中 日新聞の社説にこのような文があった。-何より強烈なのは、社会主義でありながら徹底して改革開放路線を貫いたことだ。「資本主義といわれるのを恐れる な。判断の基準はこれが国と人民を豊かにするかどうかだ」「社会主義は『貧しくても平等』ではない。すべての人が豊かになることだ」鄧氏のヴィジョンの真 骨頂である。
次の指導者には「次の五十年で経済を世界の中くらいの国にするように」と言い残した。その中核になる香港返還のレールは自らのアイデアで敷いたものだった。
鄧小平は、自分の引退後もしくは、死んだ後までもの中国のヴィジョンを見据えていたのである。このように、先々を考えることが国の行く末を決めていくことだ。

江沢民

2011-12-23 09:30:05 | 資料

江沢民 チアン・ツォーミン
1926年8月17日生まれ
鄧小平引退後の中華人民共和国の最高指導者
江沢民の実父江世俊は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関に協力をしていた。
叔 父の江世侯(上青)は中国共産党の幹部であったが、嫡男を得ないまま1939年に日中戦争に地元匪賊に殺害された。江沢民は、公式にはこの江世侯の養子と いうことになっているが、本家の次男である江沢民が、祖父からみて第6子にあたる叔父江世侯の養子となるのは、中国の家族慣行では異例であり、「漢奸の息 子」という出自を隠すためと考えられている。
1946年4月、中国共産党に入党
彼は日本語を学び日本語を話すが、公には秘密にされている。
上海交通大学卒業後、上海市で食品工場や石鹸工場のエンジニアとして働く。
1966年に発動された文化大革命では実権派として攻撃されたものの、「革命烈士の子弟」とされたため、被害は少なかった。
1985年、上海市の実力者で、かつて江沢民を第一機械工業部に引き上げた汪道涵の推挙により、上海市長に転出。
1989年4月、胡耀邦(1987年、保守派により党総書記を解任)が死去したことを契機に民主化運動が高まっていった。しかし、最高指導者の鄧小平は民主化運動を「動乱」と規定した。
民主化運動に理解を示していた趙紫陽が第13期4中全会において、全職務を解任されて失脚した代わりに、江沢民は鄧小平によって党総書記・中央政治局常務委員に抜擢された。
さらに同年11月の第13期5中全会において、鄧小平から党中央軍事委員会主席の地位を継承し、翌1990年3月には国家中央軍事委員会主席に就任する。
江沢民が1993年3月に国家主席に就任して以来、最高指導者が総書記・国家主席・党中央軍事委員会主席を兼任して権力を一元化するようになった。
2001年11月には中国の世界貿易機関への加盟を実現し、経済開放の加速と国際経済のグローバリゼーション化の動きへの適応を図った。さらには「3つの代表」理論を提唱し、資本家の存在を認め、資本家の共産党入党を認めるなど、中国を実質上資本主義国化させていった。
また、1997年7月には香港、1999年12月には澳門の中国への返還も実現させた。現代中国史の研究者である天児慧は江沢民を「大国化する中国の建設に貢献した」と評する。
江沢民の任期から中華人民共和国は大国意識を剥き出しにした対外強硬路線が目立つようになり、1996年には中華民国総統選挙に圧力をかけるため台湾海峡にミサイルを撃ち込んでアメリカ軍の緊急展開を招くなど情勢を緊迫させた。
他にも同年にCTBT採択直前に駆け込みで核実験を強行し、世界中から非難された。1999年の国慶節では15年ぶりに軍事パレードを挙行し、軍事力を誇示した。
また江は総書記在任中、上海市長・党委書記時代の部下を次々と中央に引き上げ、枢要な地位に就けて「上海閥」を形成し、その総帥として政界に君臨した。
  しかし事実は中国共産党が、国民党との内戦において勝利を得た後、江沢民は中国共産党に紛れ込み、富貴を求めるために、自分は早年に中国共産党に加入し、 後に賊に撃たれて死亡した叔父の江上青の養子となったと偽証し、この関係を利用して、数年間で初級幹部から電子工業部の副部長へと昇進した。江沢民の昇進 は、その本領によるものではなく、人間関係において上手く立ち回ったためであることは、明らかである。
 江沢民は上海市委書記在任中、毎年上海で春節を過ごす李先念、陳雲などの党内の元老に対して、媚びへつらうことを極めた。かつて、李先念氏に誕生日祝いのケーキを送るため、上海市委書記たる者が、大雪の積もる中、数時間も恭しく待っていたのである。
 1989年6 月4日に起きた“64”天安門事件は、江沢民の生涯におけるもう一つの転機となった。事実を報道しようとする『世界経済導報』を強烈に弾圧し、更に人民代 表大会委員長の万里氏を軟禁した。そして、“64”事件への弾圧を支持したことで、中国共産党の総書記まで、のし上がったのである。
  江沢民は “64”事件よりかなり以前に、鄧小平宛に秘密裏の書簡を送り、“断固とした措置”の採用、さもなければ“国及び党も没する”と要望していた。この15年 来、江沢民は“安定はすべてを圧倒する”ということを理由にして、異議を唱えたすべての人士、及び独立信仰団体に対して、ほしいままに弾圧虐殺を行って来 た。
 中ロ両国が1991年に国境線を定める際、江沢民は、中国により帝政ロシア及び旧ソ連への侵略を全面的に認め、『アイグン条約』をはじめとする、すべての中ロ不平等条約を引き受け、百数十万ヘクタールのも中国領土を譲渡した。
 江沢民の略歴を見渡すと、売国奴の長男であるにも関わらず、烈士の遺児と偽証し、身をもって共産党の“騙し”を実践して来たのである。“64”天安門事件の虐殺を支持し、民主化運動及び信仰の人士を弾圧することで、自ら共産党の“殺し”を実践したのである。
法輪功
  法輪功は“真”を唱道する。これには本当のことを言い、偽りのないことを成す、ということを含んでいる。しかし、中国共産党はその反対に、常に嘘によって 洗脳を行ってきた。“嘘を言わなければ偉業は成し遂げないものだ”という手口より、政権を掠め取った後、毎回の運動の中で、累々と血の債務を負っているの である。
 もし人々が本当のことを言うようになれば、民衆は中国共産党が、元来ソ連に頼り、殺人、拉致、逃亡、アヘン栽培、偽の抗日などで、家業を作り上げたということを知るようになる。これは中国共産党にとって正に最期の到来である。
 法輪功は“善”を唱道し、常に他人を考慮し、善を成さなければならない。しかし、共産党は常に“残酷に闘争し、無情な仕打ち”を提唱してきた。中国共産党の模範的英雄である“雷鋒”は、「敵に対しては厳しい冬のように冷酷無情でなければならない」と言っている。
 実際のところは、中国共産党は敵に対してだけでなく、党内部の人に対しても、 ほとんど変わらない。中国共産党の開国元老、元帥そして国家主席をも含めてみな、情け容赦もない批判や殴打、残酷刑などを受けていた。“階級の敵”に対す る虐殺は、なおさらそれ以上に恐ろしいものである。もし“善”が社会で優勢に立ったら、それらの“悪”を基礎とする群衆の運動は、もう出現できなくなるの である。
 『共産党宣言』の中で、「今日に至っても、すべての社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と述べている。これは共産党の歴史観及び世界観を代表している。
 法輪功は矛盾が現れてきたら、自分の問題を顧みるように唱道している。この世界観は、内に向かい反省するというものであり、共産党の外へ向けられた闘争哲学とは、きつ然と対立している。
故に江沢民は、法輪功を徹底して弾圧し、虐殺を繰り返すのである。
法輪功の道徳面での高い基準は、中国共産党にとって耐え難いものである。
 法輪功の発展の方式は、人から人へ、心から心へ伝わり、採用される管理方式は、来るも去るも自由であり、非常に緩い管理で ある。これは中国の厳密組織とは全く異なっている。それにも関わらず、中国共産党の毎週一回、あるいは数回に渡る政治学習、組織生活はまるで形骸化された ものとなっている。党のイデオロギーに対する党員の承認は、ほとんどゼロである。しかし、法輪功学習者らは、自覚を持って“真・善・忍”を実践している。 また、法輪功の心身の健康に対する改善は、修煉者数を二乗の速度で増加させ、修煉者は自ら望んで李洪志師の諸著作を学び、自費により法を広めていた。わず か7年間で、法輪功学習者は無から一億人にまで増加した。当時、およそすべての中国の公園で、法輪功を煉功する際の音楽が流れていた。
 共産党は、法輪功が中国共産党と群衆を“争奪”している“宗教”であると流言している。実際のところ、法輪功が人にもたらしたのは、一種の文化と 生活様式であり、中国人がすでに遺失してから久しくなった、祖先の文化及び伝統の根である。江沢民及び共産党が、これほどまでに法輪功を恐れているのは、 この種の伝統的な道徳が、一度群衆と溶け合って一体となってしまえば、いかなる力もその迅速に拡大する勢いを、阻むことができなくなるからである。こうし た生まれついての伝統は、共産党により数十年間断絶され、改ざんされた。
 再び伝統そのものを拾い上げることは、歴史の選択であり、一種の広大な群衆が苦難を経験した後に、自分の選択した帰結である。この種の選択の必然 となる結果は、つまり是非を唱え、邪悪を捨て去ることである。つまり共産党に対する根本的な否定及び除去でもある。これは中国共産党にとって死への急所を 刺されたようなものである。特に法輪功を修煉する人数が、中国共産党員の人数を超えたときの、中国共産党の内心から発した恐怖と嫉妬は想像に難くない。
   江沢民の生活は、極めて荒んで腐敗していた。豪華な専用機を購入するため9億元をも使い込んだ。国庫から数百億元を取り出しては、息子の商売に使った。姻 戚関係を利用して、すべての親族及び腹心を、部級以上の高官に抜擢した。部下の汚職行為を庇護し、すべてにおいて頂点を極めていた。
 概括的にいうと、江沢民の暗い心理、独裁権力への欲望、残虐な人格及び“真・善・忍”に対する恐怖により、江沢民が理由もなく、法輪功の弾圧を起こしたゆえんである。このことは共産党組織と極めて一致しているのである。
  法輪功の問題においては、当時の中国共産党政治局の7人の委員の中で、ただ江沢民だけが弾圧することに固執していた。江沢民の打ち出した口実とは、“党が 滅び、国が滅ぶ”ことに関連しているのである。これが中国共産党の最も敏感な神経に触れた。江沢民個人の権力維持と中国共産党の一党独裁維持は、ここで高 度な統一が得られたのである。
 1997年の中国共産党十五大会及び2002年の中国共産党十六大会のとき、江沢民は政敵を失脚させたが、彼自身は規定を顧みず、権力を握ったまま退こうとはしなかった。
 1999年7月19日夜、中国共産党高層会議を司会する江沢民は、権力を持って法に代わり、自ら認識を “統一”し、一人で全面的な弾圧の決定を下し、中国政府の名義で全面的に法輪功を取り締まり、世人を騙した。
  1999年7月20日以降の5年間、民間経由で伝えられ明らかになった中で、少なくとも1,128名の法輪功学習者が迫害されて死亡した。迫害致死の事案 は、全国30の省、自治区、直轄市に分布している。2004年10月1日現在、死亡案件の発生率の高い地区は、上から黒龍江、吉林、遼寧、河北、山東、四 川、湖北などである。その中で最も年少の死亡者は、生後10ヶ月の乳児、最も高齢なる者は72歳である。女性が51.3%を占め、50歳以上の老人が 38.86%を占めている。しかし、中国共産党の官員によって、密かに迫害され死亡した法輪功学習者の数は、実際にはこの数字を遙かに超え数十万人と伝え られている。
 そして、法輪功学習者に加えられた各種 の残酷刑は、さらに数え切れないほど多い。めった打ち、鞭打ち刑、電撃刑、冷凍刑、縄縛り刑、長時間にわたる手枷と足枷、火あぶり、焼きごてによる焼け ど、吊り下げ刑、長時間に渡って佇ませる刑、跪かせる刑、竹串あるいは針で刺す刑、性的虐待、強姦などがある。
2000年10月、遼寧省馬三家労働教養所の看守人員は、18名の女性法輪功学習者たちを裸にして、男性の牢屋に投入し、受刑者らに任意に強姦させ、蹂躙した。これらすべては血の痕跡が点々と付くものであり、文字で伝えることなどとてもできない。
調査の結果、“精神病治療”の手段を持って、法輪功学習者を迫害する事案は、中 国23の省、市、自治区に普く分布され、少なくとも百以上の省、市、県、区の精神病院が迫害に参与したことが分かった。事案の数量及び分布範囲から見て も、法輪功学習者への精神薬物の乱用における迫害は、計画され、上から下まで組織的に実施された政策であることが分かる。少なくとも千以上の精神状態が、 正常である法輪功学習者らが、強制的に精神病院、薬物乱用者の監禁所へ監禁され、多くの人が強制的に多種の中枢神経を破壊する薬物を注射された。
江沢民は1999年、法輪功弾圧の当初、“三ヶ月”で法輪功問題に決着をつけると企んでいた。しかし、中国共産党は法輪功の力を過小評価し過ぎたと共に、伝統及び信仰の力を軽視したのである。
  2009年12月、アルゼンチン連邦裁判所のラマードリッド裁判官は、中国 前国家主席・江沢民と前政法委員会書記・羅幹の両被告に、精神団体法輪功への集団弾圧を主導したことで、ジェノサイド(集団虐殺罪)と拷問の罪で刑事訴訟 手続を起動し、逮捕状を発行すると裁定した。同国では「普遍的管轄権」や「引き渡し審理」を行使して人道に反する犯罪を追及する初のケース。
 この案件でもっとも注意すべきなのは、犯罪数量の多さと深刻さを摘発したことであり、犯罪は今もなお発生していることである。
国際逮捕状が出された者

重慶市委書記・元商務部長 薄熙来

前北京市委員会書記長 賈慶林
規律検査部門責任者 呉官正
法輪功を迫害する専門機関「610弁公室」のトップ 羅幹
元国家主席 江沢民
以上の者は「アルゼンチン連邦裁判所」及び「スペイン国家法廷」から逮捕状が出されており、国際引き渡し条約加盟国により逮捕される。

 

中国の深窓 続き

2011-12-21 06:48:30 | 資料
   1980年代、90年代、中国のアメリカ大使館の報道官=大使館の「顔」として、中国政府要人の動向、中国政府内部での権力闘争の動き、また国家主席の 病気の様子等を詳細にマスコミに伝えていたジェームズ・リリー。このマスコミ「顔なじみ」の報道官は、単なる報道官ではなかった。

リリーは、後に国家主席となる鄧小平、江沢民等と個人的な親友であり、リリー自身がその親友ルートで中国政府内部の機密情報を入手していた。

リリーは表向き大使館職員であったが、実体はCIA情報官であった。

   1928年、中国の青島で生まれたリリー。その父はロックフェラーの代理人として、中国での石油採掘、販売ルート開拓のため1916年に中国に入国して いた。リリーの母の旧姓はイネズ・ブッシュ。後に2代に渡り大統領を出すブッシュ一族の一員であった。リリーは青島で「従兄」のピーター・ブッシュと遊 び、幼少時代を過ごした。ブッシュ一族もロックフェラーの部下として中国に入っていた。1910年代、約100年前の事であり、中国とブッシュ=ロック フェラー一族の親交の深さが分かる。

 成人したリリーは従兄のブッシュと共に、ピョンヤン(現在の北朝鮮)の外国人学校で教育を受ける。 ここでの同窓生、親友達の多くは後に北朝鮮の政府要人となり、リリーはCIA情報官として親友達の行う北朝鮮の「共産主義革命」を強力に支援する。北朝鮮 の政府機密がCIAに「筒抜け」になる基盤は、こうしてブッシュ、リリー一族により形成される。

 北朝鮮の学校を卒業後、リリーとブッ シュは米国のイエール大学を卒業する。CIA上級情報官の養成学校と呼ばれるイエールを卒業後、リリーはCIA情報官となり、中国、台湾、韓国の大使を歴 任し、現地に詳細なCIA情報網を作り上げる。台湾の富豪の資金を中国に投資させ、中国を経済大国に成長させ、また韓国・北朝鮮の対立、和平を巧みにコン トロールするCIAの「要」の役割を、ロックフェラーの弟子リリーは果たし続ける。

  第二次世界大戦中、米国は中国の共産党、そして国 民党(後の台湾政府)を支援し、日本軍を中国大陸から追い出す戦略を取る。リリーは、中国共産党の人民解放軍の軍事教育の担当者として中国軍を育て上げ、 中国共産党指導者達からの絶大な支持を取り付ける。これはCIA情報官としてのリリーの仕事である。

リリーは中国共産党と協力し、中国に軍事用の滑走路を作り、そこに米国製のB29爆撃機を数機持ち込んだ。リリーは中国共産党と協力し、日本の本土をそこから爆撃した。また、米国製戦闘機で中国共産党軍のパイロットを育成した。

   戦後、この中国空軍の育成部隊はそのまま国民党台湾政府に「渡され」、東南アジアと中国国境での麻薬・アヘン栽培=輸送企業、エア・アメリカ社となる。 東南アジア側での麻薬栽培は台湾政府が、中国・雲南省側は中国共産党政府が担当し、それを運搬する中国共産党=台湾政府の「合弁・麻薬企業」が、エア・ア メリカ社である。

中 国共産党軍、中国空軍を育てた組織がそのまま台湾政府に渡され、中国共産党と台湾政府が「協力して」国境地帯で生産する麻薬の運搬企業と成る所に、中国と 台湾の「対立」等がマヤカシであり、政治的「作り話」である事が明確に出ている。このエア・アメリカ社の取締役が、後に大統領となる父ブッシュである。


  71年、中国は国連に加盟し国際社会に「復帰」する。そのためにリリーの「親友」鄧小平が国連に出席し演説する「段取り」と、中国の国連加盟のための「根回し」はCIA情報官リリーが行って来た。

後 に、大統領になる父ブッシュが米国政府の北京事務所(後の大使館)の所長の任務を終え、リリーと共に中国を離れる時、見送りに来た鄧小平は.長年の中国共 産党への貢献の「お礼のプレゼント」に何が欲しいかと2人に質問した。ブッシュとリリーは、「中国の軍事施設、諜報組織のどこにでも自由に出入りする権限 が欲しい」と答えた。

77 年9月、ブッシュとリリーが再び訪中した時、鄧小平は全ての中国の軍事施設を開放し、ブッシュ、リリーに自由に出入りさせた。リリーは中国の機密施設を 「自由にスパイ」する許可を、後に国家主席になる男から得た。見返りにリリーは、ロックフェラーが南シナ海の石油開発資金を出すプランを鄧小平に提供し た。この石油開発プロジェクトから生み出される多額の利益=資金が、中国共産党内部での鄧小平の出世と国家主席就任を確実にさせた。さらにその見返りとし て、後に国家主席となった鄧小平は、中国経済を開放しリリー=ロックフェラーに中国市場を「提供」した。この「開放政策」が現在の経済大国中国を生む。鄧 小平とリリー=ロックフェラーの一体化が、現在の中国を「生んで」いた。

これ等は全て77年、未だ米国と中国が国交回復する「以前」の話である(国交回復は79年)。こうした水面下での米国・中国の一体化の下、後の国交回復が準備される事になる。

70年代、中国と米国が国交回復するためのキッシンジャー訪中、ニクソン訪中の「下準備」は、ロックフェラーのオイルマン=CIA情報官リリーが行って来た。そして79年、両国の国交は回復する。

中国と米国の国交回復、中国の経済大国化が、第二次世界大戦中の中国=米国による、対日本「ハサミ撃ち」部隊によって担われて来た事が分かる。


中国共産党軍=米軍のB29による日本本土爆撃等・・ここに中国=米国一体化による日本「叩き」の出発点がある。


 

  1998年、中国政府が作成した対、日本戦略文書「中国国務院対日内部文書」には「日本は基礎科学研究を、おろそかにし、既に技術水準では欧米に劣る2流 国家になっている。日本は中国の戦略的パートナーとしては、ふさわしくない。中国は米国、ロシアとの同盟関係を最重要視し、国家戦略を立てるべきである」 と記載されている。

一方、同じ98年、米国ホワイトハウスが作成した「世界の国力比較研究」には、「日本は.既に技術水準では欧米に劣る 2流国家になっている。日本は、米国の戦略的パートナーとしては、ふさわしくない。米国は中国との同盟関係を重要視し、アジア戦略を立てるべきである」と 記載されている。

中国政府と、米国政府の中枢が作成した、この2つの「国家戦略文書」は、ほぼ内容が同一であり、「誰かが作成した原版を、中国語と英語に翻案した」としか考えられない。

いずれにしても、10年程前から中国と米国は、アジアにおける「日本排除戦略」を協調して練り上げて来た事が分かる。第2次世界大戦でも中国と戦争し、米国を敵に回した時、日本は「ハサミ撃ち」に会い、壊滅状態に追い込まれている。

   「中国.北朝鮮を敵視し」米国との同盟関係に「頼る」という現在の日本の戦略、日本人の思考パターンは決定的に「時代遅れ」になっている。新しい国家戦 略を持たなければ、日本は窮地に追い込まれる。「米国は日本を裏切る」という、国際社会では「誰でも自分を裏切り、敵と成り得る」という、ごく当たり前の 常識の下、国家の戦略を再構築しなければならない。


 
尖閣諸島でのトラブルは、アメリカの軍事戦略として、中国=アメリカが画策した

日本の尖閣諸島への中国の、「事実上の侵略行為」によって、

日本人はアメリカへとの安保条約に「頼る」必要性を十分に「認識させられた」。
沖縄米軍基地問題で、前鳩山政権が、「米軍基地撤廃」を追及した事が誤りである事を「日本人全員に認識させる事」が、尖閣諸島への中国の「侵略を、アメリカと中国が同意の上で画策した」本当の、目的である。

「アジアで、戦争=冷戦を起こす事」が、アメリカ軍事産業にとっての利益である。
尖閣諸島でのトラブルは、アメリカの軍事戦略として、中国=アメリカが画策した。

中国の深窓

2011-12-20 07:18:24 | 資料
1900年、アメリカの西海岸と東海岸を結ぶ、アメリカ横断鉄道が完成した。
 アメリカ国内の全ての農産物、工業製品、原油、ガソリンが、この鉄道によって米国国内全域に豊かに流通し始める。名目だけでなく実態として、この年にアメリカの国家としての「統一」が完成する。
 現在でも、米国の電力の70%が、この鉄道によって運ばれる石炭の火力発電によって産み出されている。文字通り、アメリカの全産業の基盤=電力が、この鉄道によって支えられている。

 この鉄道は、2つの家族により2分され経営されている。アメリカの全産業の基盤を、たった2つの家族が支配している。モルガン一族のモルガン銀行、ブッシュ大統領一族のハリマン銀行である。

 そして、モルガン銀行、ハリマン銀行の事実上のボスが、ロックフェラーである。

 金融業に「のみ」強く新たな技術開発には鈍感なモルガン一族より、ロックフェラーは、技術開発部門と軍事産業等に強いブッシュ一族を優遇して来た。

 親子2代に渡り大統領を産み出すブッシュ一族の権力の源泉は、鉄道の支配とロックフェラーによる恩恵、そこにある。

このアメリカ大陸横断鉄道は、中国から「輸入」されるクーリーと呼ばれる奴隷によって建設された。
 鉄道業者ブッシュ一族は、中国からの「奴隷輸入」により財産を作った奴隷貿易業者でもあった。
 鉄道建設という厳しい重労働を行うクーリーは、塩とアヘン無しには働かなかった。
 つまり鉄道業者は、奴隷だけでなく、アヘン密輸業者でなければ勤まらなかったのである。

 
ブッシュ元大統領一族は、鉄道建設と奴隷貿易と麻薬の密輸で財産を築いた一族である。
石油で財を成したというが、それはあくまで表向きの顔だと言える。
国のブッシュ一族に、鉄道建設の労働力としてクーリーを供給したのが、中国大陸の青幇紅幇
というマフィア組織であった。
 伝統的に青幇・紅幇といったマフィア組織は、中国に入港してくる麻薬の密輸船に対し、麻薬代金を現金ではなく、手形で支払っていた。
手形は、決済期日まで現金にはならない。だが密輸船の船長達は、直ちに手形を現金化して船出していった。
しかし、手形は中国マフィアの振り出したものである。銀行がその手形を割り引くということは、間違いなく確実にマフィアから支払いを受けられるという自信が有ったことになる。
 つまりこの銀行は、青幇・紅幇を暴力で強制でき、広大な中国大陸の隅々までマフィアを追いつめ、強引に手形代金を取り立てる能力を持っていた事になる。
 それは青幇・紅幇の大ボスでなければ、手形を割り引く銀行の経営は不可能と言うことになる。
 この中国マフィアの手形割引銀行「ブラウン・シプリー銀行」こそ、ブッシュ一族の銀行ハリマン銀行の英国支部である。このハリマン銀行の下に中国マフィア青幇・紅幇が居たことになる。
 1937年、中国侵攻を行っていた日本陸軍は、戦争資金調達のため陸軍省から直接アヘン密売を行うため、担当官として藤田勇を中国に派遣。
中国マフィアの青幇から一部資金提供を受け、イランからアヘン20万ポンドを密輸して中国全土で売りさばき、日本軍の武器調達を行った。
 1939年4月には、日本軍が青幇・紅幇を掌握して再組織し、日本陸軍省軍事課長、岩畔豪雄の指揮下に置き、中国全域を対象とした麻薬販売組織を創立する。
この岩畔の下では、岸信介、佐藤栄作、池田勇人が動いていた。

 
中国の麻薬組織は、日本が敗北すると、そのまま中国共産党の軍事訓練を担当した、米国CIA(当時はOSS)に引き継がれ、中国共産党が政権を掌握した後には、青幇・紅幇は特務機関に姿を変え、CIAと中国共産党のパイプ役を担う。
 中国が市場開放路線に舵を切ったのも、2007年に米国議会が、中国共産党と一体化して戦中の日本の従軍慰安婦問題で、日本非難決議を行った際に動いたのも、このパイプである。
しかし対象は中国大陸であり、朝鮮半島の事を問題化しての決議ではなく、朝鮮人ロビーストの成果であるというのは、日本のメディアによる捏造である。
 戦後、ゴールデン・トライアングルのチャン・ピョンギョク、サスーン、アイゼンベルグ、里見甫、ジョージ・ブッシュらが麻薬運搬企業「エア・アメリカ」を創設する。
この企業により、ゴールデン・トライアングルから、麻薬が世界中に運ばれて来た。
この世界最大のアヘン地帯の現場を指揮してきたのは、シー・サプライ社というCIAのフロント企業である。その創立者はCIA極東部長のデスモンド・フィッツジェラルド
(現在は、アフガニスタンが世界一のアヘン製造地)

 
このシー・サプライ社の運転資金は、台湾・台北の金融会社ウエスタン・エンタープライズから出ている。経営者は国民党の資金管理者だった人物で、原資は終戦時に日本軍から受け取った金・銀が使われた。そして台湾の麻薬を扱うのは、「天同盟」というマフィア組織である。

 
戦前からロスチャイルド直属として、中国アヘンを仕切っていた中国在住のサスーン一族は、イスラエルのアイゼンベルグにより皆殺しにされ、中国アヘン市場からは姿を消して仕舞った。
このアイゼンベルグが、イスラエルの諜報組織「モサド」を創立した一族である。
 戦後の中国大陸の麻薬取引は、イスラエルが握っている。
 中国、北朝鮮の、核兵器開発の主役をイスラエルが演じたのも、その理由からである。
 エア・アメリカ創立に名前を連ねた、イスラエルとブッシュ一族。
ブッシュのネオコン派がイスラエル・ロビーそのものであり、イラク戦争は石油利権だけでなくイスラエルを守る為に戦争を強行したという事情がある。

 
麻薬の一体化により、イスラエル、CIA、台湾の諜報組織、中国共産党には太いパイプが通っている。
  中国共産主義を嫌ったこの麻薬組織の一部勢力は、台湾国民党の配下に入り、中国・ベトナム・ラオス国境地帯に世界最大の麻薬生産地帯「ゴールデン・トライ アングル」を創立し、さらに台湾政府のスパイ・特務機関を形成し、麻薬生産を行い中国共産党と台湾国民党とのパイプ役となっている。
なぜなら、中国共産党下の麻薬・諜報組織と台湾政府の諜報組織は、元々日本陸軍の麻薬組織にいた仲間であり「敵」ではない。
このパイプが、中国共産党が市場開放政策を採用した初期に、密かに大量の台湾資本投資を中国にもたらした太いパイプとなったのである。
 ゴールデン・トライアングルを創立した台湾国民党のスパイ組織のトップの一人チャン・ピョンギョクは、実は中国共産党の周恩来元首相の従兄弟であり、中国雲南省産のアヘン売買を長年一手に引き受けていた。
 ピョンギョクの日本陸軍時代の麻薬組織の同僚が吉田茂で、その右腕・腹心の部下が自民党元政調会長の松岡松平であった。その松岡とピョンギョクは吉田茂を介して、無二の親友でもあった。
田中角栄はこの松岡に頼み込み、台湾のスパイ組織のボス、ピョンギョクに依頼して中国共産党首脳と話を付けて貰った上で、日中国交回復を行った。
この時完全にCIAは、蚊帳の外に置かれていた。

 
現在青幇・紅幇特務機関の本拠地のビルが、上海ジェスフィールド街76番地にある。
その同じビルの中に、CIAが事務所を構えている。
親台湾の米国の目をかいくぐって日本独自で中国共産党に交渉し、国交回復を計った田中角栄だったが、彼は裏でこの太いパイプが通っていることを知らなかった。

 
日本の最大の欠陥は、この特務機関・諜報組織を敗戦と共に米国に譲り渡し、その後全く諜報機能を欠いたまま外交や国の交渉を進めているところにある。
CIAだけでなく各国諜報機関に良いように翻弄され、手の内をすべて晒したまま相手に有利な方向に導かれ、国益をただただ垂れ流している。
 金の卵を産む貴重な鶏を演じているのが今の日本の姿である。
 特務機関・諜報機関は中国で発祥し、現在の各国諜報機関の基礎を成してきたが、彼らは国に忠誠を尽くすとは限らない。何故なら、敵味方に見える各国の諜報員のその根底には、元は同一組織内の仲間から派生して来ているからである。



中国共産党 次期首脳たち

2011-12-17 08:22:26 | 資料

習近平 (シー・チンピン、Xi Jinping)

1953年6月1日生まれ
中華人民共和国副主席、2012年国家主席が約束されている。
父は習仲勲(元国務院副総理)
胡錦濤直系である中国共産主義青年団(共青団)の李克強より党内序列が上である。
リベラルな姿勢で知られる。官僚の腐敗に対しては厳しく臨み、政治的にも経済的にも開放的な姿勢をもった指導者として知られる。しかしその反面対米対日に強硬な発言が多い。
副主席に就任して以降は、北朝鮮、ミャンマーなどといった世界の独裁国家を擁護したり、豊富な資源を有する発展途上国と「国益」と言う観点から結びつきを強めているとされる。
ウルムチ虐殺事件の責任者で、死者197名、負傷者1721名と発表されたが、約3000名が死亡したとされる。
江沢民前総書記ら上海閥の影響力をバックに、太子党を代表してのし上がってきた人物。
しかし、かれの主席就任後には権力闘争の激化が予想される下地が存在する。
 次期主席に最右翼の位置にいる習近平(国家副主席)に最大のアキレス腱がある。
 姉の斎橋橋(習橋橋)は北京の中民信房地産開発理事長で夫は同社のCEOだが、両人の国籍はカナダである。
 弟は豪州に住んでいる。
 前妻の何玲玲は外交官の娘で、現在英国に居住している。
 
 今の習近平夫人の膨麗媛は人民解放軍政治部歌舞団長。海外公演がおおい。日本にも公演にやってきた。
ふたりが知り合ったのは密輸事件の主犯=頼昌星の友人の紹介といわれ、87年に結婚した。
習夫妻の愛娘は習明沢。浙江省外語大学からハーバード大学へ留学し、いま24時間の警備に囲まれながら通学、いずれ米国籍を取得する布石ではないかと噂されている。

 このほか習近平の親戚縁者の多くが海外で暮らし、事実上の亡命を成し遂げている。
なぜこうなったのか。
理由は習の父親=習仲勲が文革で悲惨な目に遭い、一家、親族は下放され、惨めな境遇を十数年。
したがって改革開放と同時に多くが海外に自由を求めて飛び出したからである。

 他方、このような家族背景は、これまでの共産党であれば、絶対に許されない条件であり、つるし上げを食らうだろうに、なぜ習近平への攻撃材料に使われないのかと言えば、江沢民も曽慶紅も、息子娘らは海外で生活したことがあり、げんに曽の息子は豪州に永住している。
政敵もまた同じ被攻撃材料をかかえるためお互いが不問にふしているのである。
 
 だから彼らが「愛国」などと獅子吼すると民衆は誰も信じないことになる。

  習副主席は2009年3月31日から4月3日まで3泊4日で河南省を視察した際、開封市の開元名都大酒店(ニューセンチュリーグランドホテル)に宿泊し た。ホテル側は「次期最高指導者」として有名な中国共産党の最高指導者が宿泊するというので、最上階のスイートルームを用意したが、当日ホテルに現れた習 氏の秘書から「通常のシングルルームでよろしい」と言われたため、仕方なく下層階のシングルルームを用意したという。
さらに、ホテル側が驚いたのは、習氏がマイ枕やマイスリッパばかりでなく、歯ブラシや歯磨き粉、シャンプーや石けんなどの洗面用具も持参してきたことだ。習氏はホテル側が部屋に用意していたアメニティ類は一切手を付けていなかったという。


李克強 リー・クーチアン
1955年7月1日生まれ
安徽省定遠生まれ。胡錦濤とは、戸籍上は同郷人である。
文化大革命が終息した1970年代末に全国普通高等学校招生入学考試が復活すると、北京大学法学部に入学する。1982年に大学を卒業し、その後は大学院に進学して法学と経済学の博士号を取得する。
1976年に中国共産党に入党する。
2007年10月の第17期1中全会で中央委員から二段飛びの政治局常務委員に 当選。同様に常務委員となった習近平とともに第18期以降を支える第5世代の核心と目されているが、胡錦濤が江沢民時代に就いていた中央書記処第一書記に は習近平が任命され、李は国務院入りして温家宝総理の補佐をしているとの報道があったため、現時点で胡錦濤の後継者に一番近いのは習近平とされる。
2008年3月17日の全国人民代表大会第11期第1回会議で国務院常務副総理に任命された。
部下を決して怒鳴りつけることはせず、公私で他人の悪口を言わず、周囲に常に笑顔を見せているという。
共産主義青年団にいた頃は胡錦濤と行動をともにすることが多かった。胡錦濤は李克強の人柄を見込んで青年団書記候補に抜擢した。青年団時代の幹部によると、李克強は敵を作らない、という。
学校部長であった頃にある部長との意見の相違で対立したことがあり、李克強が中央第一書記になると、その部長は報復を恐れていたが、ある日、李克強は彼を呼び寄せ、人事異動の際に彼の昇格を伝え、新しい官舎の鍵を渡したという。
かつて世田谷区の小沢一郎邸宅に居候していた経緯があり、現在でも小沢の中国人脈として最も太いパイプを有している。

 李克強副首相、「内需拡大は発展戦略の起点」

2011-12-16 11:25:49     cri

 中国の李克強副首相は15日に、「中央経済活動会議の精神を全面的に貫き、安定の中で進展を図るという活動の基調を把握し、内需拡大を発展戦略の起点にするべきだ」と強調しました。
 これはこの日 に北京で開かれた全国発展改革活動座談会に出席した際、述べたものです。この中で李克強副首相は、「内需拡大は中国発展戦略の起点であり、発展方式の転換 に対する基本的な要求および主要な任務でもある。内需拡大の戦略を断固として変わることなく実行し、特に最終需要の拡大を重視すべきだ。低所得者の収入の 増加、中等所得者比率の増加に力をいれる。一連の措置を講じて雇用の創出と就業を奨励し、住民の消費能力を向上させていかなければならない。内需拡大の最 大の潜在力は都市化にある。中長期の都市化発展計画、政策と措置の画策を速め、規模やタイプの異なる都市の発展を協調させていくべきだ」と述べました。 (董燕華、吉野)
http://japanese.cri.cn/881/2011/12/16/181s184315.htm
李克強副首相、保障性住宅の質と公平な入居を強調
2011-11-28 10:19:00  cri
 李克強副首相は25日、河北省の保障性住宅(中低所得者向けの福祉住宅)の建 設現場を視察した際、「今年、全国で1000万戸の保障性住宅を建設する。各級政府は建設プロジェクトに力をいれ、その質を確保すると共に、透明で公平な 入居を確保し、住民に利益をもたらして、発展促進の政策をどこでも、誰にでも確実に実施しなければならない」と指摘しました。
 また、保障性住宅の公平な入居の基礎を固め、不動産市場の健全な発展の条件を作るため、李副首相は「中央の関係部門と地方は互いに協力し、全国の都市部個人住宅情報システムの樹立を加速していく必要がある」と強調しました。(Katsu、大野)
http://japanese.cri.cn/881/2011/11/28/181s183509.htm


2011.11.30 中国株日記
http://diary.china-stock.fool.jp/?eid=1235735
●担当者
「こういう風に太陽光パネルを敷地に敷き詰めれば、それだけでこの一帯の電力が賄われるんですよ。ね、素晴らしいでしょ主席、これからは自然光発電の時代ですよ」

●近平
「いやいや、これだけの敷地でマンション一棟分の電力かね、全くの無駄だな。原発一基でマンション何万棟分の電力賄えると思っとるのかね?」


中国共産党

2011-12-16 10:34:13 | 資料
中国共産党中央政治局常務委員会

胡錦濤 
中共中央委総書記、国家主席、中軍委主席、中華人民共和国中央軍事委員会主席
1942年12月21日生まれ 
1959年9月、清華大学水力エンジニアリング学部に入学する。
清華大学在学中の1964年4月、中国共産党に入党。
1975年、ちょうどその頃、失脚から返り咲いた鄧小平によって「より革命的で、より若く、より知識があり、より専門的な」次世代の指導者を育成することを目指すプログラムが実行され、それによって多くの有能な若手党員が見出された。
 有能な若手党員の一人として、胡は甘粛省党委第一書記である宋平の推薦により、1980年に中国共産主義青 年団の甘粛省委員会書記に就任した。かつてインフラ整備の建設工事を宋平が視察した際にその案内役を務めたのが胡錦濤であり、宋平は胡錦濤に対して好印象 を抱いたという。
胡耀邦との出会い
 1981年9月、甘粛省党委員会は、胡錦濤を、鄧小平の娘(鄧楠)と胡耀邦の息子・胡徳平とともに、中国共産党中央党校にて共産党の高級幹部となるための訓練を受けさせることを決定した。これは、地方の甘粛省から中央に異動していた宋平の推薦によるものであった。
 鄧楠は胡錦濤 に良い印象を持ち、そのことを父・鄧小平に報告している。また、胡耀邦の息子も胡錦濤を自宅に招待し、胡耀邦に初めて対面させている。胡耀邦は共産主義青 年団出身の後輩である胡に親しみを込めて握手をしたことで、それまでの緊張がいっぺんに解けた。その日、彼ら2人は膝をまじえて天文地理、歴史文学、政治 情勢、国際問題、現在の仕事に至るまで語り合った。その後も胡錦濤は胡耀邦をしばしば訪問し、2人の親交はますます深まった。
中央委員候補
1981年7月2日、鄧小平は省級党委員会書記の全体会議を召集し、若手幹部の 起用が共産党政権の命運にかかわる重要な問題であることを述べ、4、5年後には政権の危機を招くであろうという警告を発し、問題の解決として古参幹部から 率先してポストを若手に譲ることを要求した。その際、鄧小平は
  1. 年齢は45歳以下。
  2. 共産主義青年団での仕事の経験がある。
  3. 高学歴で末端組織での職歴がある。
  4. 政治思想面に問題がない。
という4つの基準を示した。胡錦濤は当時39歳で、甘粛省最年少の局長幹部であ り、中央党校在学中であり、第12回総会甘粛省代表に選出されていた。さらに、中央党校で研修を受けていたことで胡耀邦の近くにいたこと、清華大学の学長 でもあった蒋南翔が、ここの常務副学長に任命されており、自身のかつての教え子である胡を強く推した。
1985年7月、胡錦濤は、胡耀邦によって貴州省党委書記に抜擢された。さらに9月には党中央委員に昇進した。
上海幇の構成員とは対照的に、胡錦濤はそのキャリアの多くを中国の裕福な沿岸地域でなく貧しい内陸地域で積んだ。そのため部分的には、彼は上海幇と比較して西洋的な考えになじみがないと言えよう。
1980年代に北京では民主化を求める抗議活動が起こり、その結果胡耀邦が失脚したが、同じように起こった地方の学生の民主化を求める抗議活動に対して胡錦濤は慎重に対処した。
チベットでの活動
1988年6月、チベット自治区党委書記伍精華が重病のため辞職した。趙紫陽総書記は、2つの貧しい貧困地域(甘粛省・貴州省)で働いていたことを理由に、胡錦濤をチベット自治区党委書記に指名した。同年12月に書記に就任したが、チベット自治区の区都ラサではデモ活動が起こっていた。
1989年1月19日、ラサにて公開裁判をおこない、前年3月に起きた抗議運動 に加わって逮捕された僧侶に死刑判決を含む重罪判決を言い渡した。その際、僧侶の頭を押さえるなどチベット民衆に対する見せしめとなった。その直後の1月 28日、パンチェン・ラマ10世が急死したが、多くのチベット人は胡がそれにかかわったと信じている。
同年3月には抗議運動が大規模なデモ行進にまで発展したため、胡はラサ全市に3月8日午前零時から戒厳令を布告した。戒厳令布告は天安門事件に先立ち中華人民共和国史上初めてのことであった。
日本では、この時にチベット独立運動を押さえ込んだことで党指導部の信頼を勝ち 得たと言われることもあり、2008年のチベット動乱の際にもメディアで批判される根拠となった。その後、1989年6月に天安門事件が勃発した際も、そ の民主化運動のチベットへの波及を防ぐため、ラサを戒厳令下に置いた。以降チベット自治区の最高責任者にあった4年間、「1.分離主義の弾圧、2.経済建 設を推進」する政策を実行した。
1992年の第14回党大会が行われる前に、鄧小平や陳雲など党長老たちは、鄧小平を中心とする「第二世代」から江沢民を中心とする「第三世代」へスムーズに権力の移譲を行うために、後継者を選出した。
さらに鄧小平は「第四世代」を代表する50歳以下の人物を将来の指導者として選 出することを提案した。この時、宋平が将来の指導者として胡錦濤を推薦した。結果として、胡は党中央政治局常務委員に選出された。これは中華人民共和国建 国史上2番目の若さだった。同時に党中央書記処書記にも選出された。
2002年の第16回党大会で権力の移譲が行われ、江が権力の中心から退いた。 しかし江は自身の派閥である上海幇から呉邦国、賈慶林、曽慶紅、黄菊、李長春を中央政治局常務委員に配置し、また自身も党中央軍事委員会主席のポストを手 放さず、院政を敷くものだと思われていた。
胡錦濤は、常に自分を隠し通してきた。「これといって目立つ特徴がないのが胡錦濤の最大の特徴」なのである。

党総書記・国家主席

2002年11月15日、党総書記に選出された胡錦濤は、翌2003年3月15日、第10期全国人民代表大会第1回会議において国家主席に就任。胡錦濤指導部は、中国を「民主文明を持った政治大国」とするべく、漸進的な政治改革を進めている。
上海幇との主導権争い
院政を敷いたかに見えた江沢民だったが、2004年に党中央軍事委員会主席の座も胡錦濤に譲り渡した。これにより、胡錦濤は中国人民解放軍のトップにもなり、党・政・軍の全ての権力を事実上掌握した。しかし江沢民を中心とする上海幇との権力闘争は以降も続くことになる。
その後の胡錦濤は権力基盤の強化で一定の成功を収めている。2005年8月には 人民解放軍の機関紙「解放軍報」が胡錦濤を称賛する記事を連日掲載するようになった。これは胡錦濤が軍部との間に協力関係を築いたことを示している。 2006年9月には上海市党委書記の陳良宇が汚職の疑いで解任され、上海幇が勢力を失ったとされた。
しかし、2008年3月15日の第11期全人代第1回会議にて、胡錦濤自身は再 び国家主席に選出され、国家中央軍事委員会主席にも選出されたものの、自身と同じ共青団の出身である李克強を国家副主席にすることができず、上海幇の推す 習近平が国家副主席に就任するなど、上海幇の影響力は依然として残っている。
 胡錦濤主席が民主的で好ましく親日的にも成り得ると甘く考えてはならない。
そもそも胡錦濤が鄧小平に見込まれたのは、チベット動乱の時に党中央の指示を待つことなく、自ら鉄兜を被って戦車に乗り込み、大弾圧の先頭に立ったからだ。
10万人の僧やインテリが無惨に殺されたチベット動乱で、弾圧の功を立てたことが彼の最高権力の地位への出発点だった。その後チベットでは数年間で120万人が殺害されている。
彼は到底私達が考える民主的な指導者ではあり得ないだろう。
胡錦濤の長男 胡海峰(39歳)は、IT(情報技術)系ベンチャー大手精華同方の持ち株会社「精華ホールディングス」で共産党委書記を務める経営責任者である。
2011年7月23日になって「百度」「新浪網」「網易」といった中国の大手ポータルサイトなどでは、胡海峰に関するニュースが一斉に削除された。また同氏に関する外国の報道も大部分がブロックされた。
このブロックは精華ホールディングス傘下のスキャナーメーカー「威視公司」がアフリカ南部のナミビアでの汚職事件に関与していることと関連がある。
ナミビア警察当局がすでに北京に係官を送り胡海峰を参考人として取り調べた。


呉邦国 
全国人民代表大会常務委員長(衆議院議長に相当) 中国のNo.2という立場である。
1941年7月生まれ
1960年から1967年にかけて、清華大学無線電子学科真空トランジスタ学部に学ぶ。
1964年4月に中国共産党に入党。
  • 1991年 上海市党委書記
  • 1992年 党中央政治局委員
  • 1994年 - 1997年 党中央書記処書記
  • 1995年 国務院副総理(工業担当)
  • 2002年 党中央政治局常務委員
  • 2003年 全国人民代表大会常務委員長
  • 呉邦国の自説
    「われわれのあらゆる法律法規は、いずれも中国共産党の指導のもとで制定されたものであり、われわれの制定したあらゆる法律法規も、いずれも中共の指導と中共の執政地位を強化し、中共が人民を指導し国家を治めるためのものでなければならない」と述べた。

     呉邦国は、これを全人代の数十年間で立法におけるもっとも重要な経験と位置付けているが、彼は中共独裁の根底まで晒け出したと言われている。

     呉邦国は同大会の報告で、中国は「多党が交替で執政することを行わない、指導思想の多元化を施さない、三権分立と二院制を実施しない、連邦制をしない、私有化を行わない」と明言し、そしてこれらは中共政治局の審査を受けて通ったものと強調する。
     呉邦国は江沢民の上海組のメンバーと見られるが、上海組の色彩がうすく言行も慎んで行うので、これまで慎重派または中間派とも見られていた。しかし、今回の態度表明は、従来の曖昧さを一掃し一党独裁の現状を必死に守る保守派へと変身しているのである。

      呉邦国の報告について、中共中央政治局常務委員9人の中で、賈慶林・中国政治協商会議主席、イデオロギー担当の李長春、李克強筆頭副総理、周永康法政委員 会書記はこぞって「すべてに賛成する」と態度表明した。これに対し、温家宝と賀国強中共紀律検査委員会書記は、一切言及していない。

       
    温家宝 ウェン・チアパオ) 
    中華人民共和国国務院総理
    1942年9月15日生まれ
    1960年に北京地質学院(現・中国地質大学)へ入学。
    1965年4月、中国共産党に入党し、1968年に研究生課程を卒業、地質関係の技術者として働き始める。
    1968年から1978年までの間、甘粛省地質局に配属され、地質鉱産部門の技術員・行政指導員として業務に従事。
    1979年には甘粛省地質局副局長に就任。後に党総書記・国家主席となる胡錦濤と同様に、当時の甘粛省委員会書記だった宋平によって抜擢された温家宝は、1982年、国務院の地質鉱産部政策法規研究室主任となる。
    中国内外のマスメディアからは、特権階級からかけ離れた庶民的な人物というイメージを持たれており、「人民の総理」と評される。
     温家宝は、3月14日の全人代の閉幕式での記者会見で、ふたたび政治改革を呼 びかけた。彼は、世界には永遠に変わらないものはなく、止むことなく続けて改革を行うことによってこそ国が生気を保つことができる。そして、政治改革は経 済改革の保障であり、政治改革を行わなければ経済改革の成功はあり得ないし、すでに得た成果も失われる危険があると指摘する。

     しかも、温家宝は「中共の最大の危機は腐敗であり、腐敗の土壌を取り除くために制度と体制を改革すべきである」、「国の命は人心にある」とも主張する。

     これらの言論は、政府報告を読むのではなく記者会見であるだけに、己の意志をある程度自由に述べることができるものと思われる。

    NEWポストセブン
    2011.11.20 07:00
     中国の温家宝首相がこのほど、天津市にある母校の南海中学(中学校と高校を併設)で講演し、日中戦争や国共内戦に巻き込まれ少年時代に極貧生活を送ったことや、父や祖父が中国共産党による政治運動で迫害を受けたことなど幼いときからの半生を赤裸々に語った。
    中国の政治家が自らの生い立ちを公の場で語るのは極めて異例。温氏は自らの体験をもとに、「指導者にとって重要なことは民情、民心、民意を尊重することで、民心に背けば政権の存亡に関わる」と強調し、党内で台頭しているとされる保守派を暗に批判した。
    温氏は1942年生まれで今年69歳。南海中学では12歳から18歳までの6年間過ごした。卒業してからすでに51年が経ち、今回も含めて、これまで4回母校を訪問しているが、生い立ちに触れるのは初めて。
    それによると、温氏は天津市郊外の農村で生まれ、祖先は代々農民だった。しかし祖父が貧しい子供のために私設小学校を設立し校長になったものの、いつも教師と資金集めに走り回っており、祖母が生活を支えるために、漢方薬を売り、トウモロコシを育てていたという。
    ところが、日中戦争のため、常に生命の危険にさらされていたほか、その後の国共 内戦で、形勢不利とみた国民党軍によって村が焼き払われ、温一家は天津市内の戦災民の避難所に逃げ込むが、その途中、祖母が病気で死亡。さらに、避難所で 国共両軍の激しい戦闘に巻き込まれたものの、その翌日、天津市は人民解放軍によって解放されたという。
    しかし、全財産を失った温家の生活は極貧状態で、9平方メートル一間の部屋に祖 父や父母、温少年ら3人の子供の6人が暮らしていた。そのような生活が、温氏が寄宿舎に入る南海中の入学まで続いた。温氏は小学校時代、ジフテリアにか かったことがあるが、その際、父親が腕時計を売った金で薬を買い、温氏はことなきを得たが、父親はそれ以来、時計を持ったことがないという。
    さらに、温家を苦難が襲う。温氏が南海中学在学中、右派分子らを糾弾する共産党 の政治運動である反右派闘争や百花斉放・百家争鳴運動が発動され、インテリだった祖父が身柄を拘束された上、経歴などを調査・批判された。その心労から祖 父は1960年に脳溢血で倒れ、死亡。父親も批判されて、郊外の養豚所に連行され豚の世話を強要されるなどの政治的迫害を受ける。その後、父親は釈放され て、図書館の仕事を任されたという。
    温氏は自然地理が好きな父親の影響を受けて、自身も地球科学に興味を持ち、北京 地質学院(単科大学)に入学した。在学中に共産党に入党、成績も優秀だったため大学院で学び、計8年間の大学生活を過ごしたのち、辺境地帯の甘粛省で14 年間の省政府勤務を続けた。その後、中国政府の地質鉱産部政策法規研究室主任として中央に呼び戻された後は、順調に出世して、首相にまで上りつめる。
    温氏は自身の少年時代や中学・高校時代の苦難に満ちた生活を振り返って、「政策 の善し悪しを図る唯一の基準は民衆が喜ぶか喜ばないか、満足するか満足しないかだ。中国は世界で最も貧困層が多い国のひとつなのだから、政府や社会は貧困 層に平等な権利を与えられるかどうかが重要だ」と指摘するとともに、「国家の命は人心にあり、政府が人心に背けば、社会の発展と政権の存亡にも影響する」 と力説する。
    さらに、温氏は「中国は現在、(民衆を顧みない)官僚主義や腐敗が蔓延してい る」として政治体制改革の必要性を強調するなど、改革に反対する保守勢力を強く牽制した。新しい指導部を決める来年秋の第18回党大会まで1年を切ってい ることから、党内での権力闘争が激しくなっていると伝えられるが、「温氏の発言は保守派の台頭を強く警戒するもの」と北京の中国筋は指摘している。
    http://www.news-postseven.com/archives/20111120_71552.html 
    温家宝首相の息子は平安保険(中国生保第二位)の4000万株保有の筆頭株主。

     
    賈慶林 
    全国政治協商会議主席
    1940年3月生まれ
    中国共産党中央政治局常務委員
    1958年に河北工学院電力学部に入学し、電気設計と製造を専攻。在学中の1959年12月に中国共産党へ入党する。
    1985年から1996年の間、福建省において党委員会常務副書記、省長、党委書記などの要職を歴任。1995年に陳希同北京市党委書記を中心とす る汚職事件が発覚すると、翌1996年に北京市長に任命され、市政の建て直しに取り組む。1997年、汚職捜査指揮を取っていた尉健行の後任として北京市 党委書記に就任。同年、中央政治局委員となる。
    2002年11月に中央政治局常務委員、2003年3月、全国政治協商会議主席に就任。党内序列第4位。
    北京市長就任に関しては、喬石、胡錦濤、朱鎔基などがそれぞれ別の推薦者を出していたが、江沢民の強い推薦もあり、就任が決定した。また福建時代に 夫人がアモイで発生した遠華密輸事件に関与したとの噂も流れたが、これも江沢民の配慮で明らかにならなかった。これらの点から、賈は上海出身ではないもの の黄菊と共に特に熱心な江沢民派と目されている。なお、政治局常務委員就任に際しては同じく江沢民派である曽慶紅、黄菊と共に1割程度の批判票が出た。

    曽慶紅 
    中華人民共和国国家副主席 中共中央書記処書記
    1939年7月生まれ 
    中国共産党の指導者世代では「第4世代」にあたるが、「第3世代」の最高指導者を務めた江沢民から大きな信頼を得ていた。正式な党内序列は5位だが、その権力から実質的に胡錦涛に次ぐナンバー2の地位にあるとも言われていた。
    曽慶紅はまた、両親が党幹部であるため出世が通常より早いとされる、いわゆる太子党のまとめ役として影響力を発揮してきた。
    第17期党大会で中央委員からは退いたが、同じく太子党の習近平、石油利権などで近い賀国強、周永康が常務委員に昇格し、引退後も一定の影響力は保持すると見られる。

    曽慶紅の息子は700億元の不動産王だが、公金600億元を転用した疑惑がもたれている。闇から闇だろうが、いつまでも自分達の悪政を「反日」によって事態のすり替えで済まそうとする。


    黄菊 国務院常務副総理
    呉官正 中央紀律検査委員会書記
    李長春
    羅幹 中央政法委員会書記





    官害

    2011-12-14 11:36:05 | 資料


    村民たちと対峙する警察隊(村民提供写真・大紀元)
    広東省での大規模抗議への武力弾圧、現地農民は海外メディアにSOS
    【大紀元日本12月14日】農民の大規模抗議が続いている広東省陸豊市烏坎村では11日の朝方4時半頃から、村民を襲撃しようとする500人余りの警察が、それに気づいた村民5千人と激しく対峙する一幕があった。
      村民たちは棒や農具などで自衛し、警察は大量の催涙弾やその他の弾薬を発射し、一時は草木に引火して小火騒ぎになった。朝9時頃に双方が退散した。この前 に逮捕された村民5人のうち、1人は拷問により死亡。いまでは村に通じる各道路には警察の検問所が配置され、水や電力が止められ、食糧の運び込みも禁止さ れているため、村民らは出入りが出来なくなっている。村民らは、海外メディアに向けて事態の緊迫性を訴え、助けを呼びかけている。
    大規模抗議事件の経緯
    同村では、数千ムー(1ムーは約666平米)の畑と約1万ムーの土地が村の幹部に無断で売却されたとして、村民らは政府機関への直訴を続けてきた。

     ラジオ・フリー・アジア(RFA)の報道によると、村民らは政府に2つの訴求を出している。一つは無断売却された土地の回収。もう一つは村民たちの選挙で村の幹部を決めることだ。しかし、上級政府は一切この要求に対応しなかった。

     このような状況下で9月21日、数千人の村民は市政府の前で抗議デモを行い、村役場や複数のビルの窓ガラスを割るなどした。

     翌22日、抗議を続ける村民には特殊警官隊は武力で弾圧しはじめた。村民らは複数のパトカーを引っくり返したり、壊したりするなどの激しい双方の衝突があり、数十人の村民が負傷して入院した。



    9月24日、村民は自発的に「村民臨時代表理事会9月24日、村民は自発的に「村民臨時代表理事会」「村婦女代表連合会」などの組織を結成、当局との対話を要求した。しかし、その後の3カ月間、当局の解決策が出されていない。
      11月21日、数千人の村民は「独裁を反対」「人権を返して」などのプラカードや幕を掲げて、同市政府前までデモ行進し、座り込み抗議を行った。現地政府 は表向きで問題を調査して対応すると約束したが、その一方で、村の主要道路で警察の検問所を設置するなど監視を強化し、そして相次ぎ5人の村民を逮捕し た。

     海外の中国情報サイト「看中国」の報道が引用した現地村民の証言によると、現地政府は最初、13人の村民代表を選出して、政府と対話するよう提案した。実際には、この13人は身柄拘束の対象にされた。

     12月5日、村民たちは抗議を続けた。同月9日から、大量の警察が村を包囲した。現在村では水と電力供給が止められ、食糧の運び込みも禁止されている。数百人の警察が主要な道路に検問所を設置、村民は村に出入りできなくなった。

      10日夜、村民・薛錦波さんは逮捕3日後に急死した。現地政府は、死因は心臓疾患と説明したが、遺族は拷問による死亡を主張している。「アジア週刊」の取 材に答えた遺族は、薛さんには心臓疾病はないという。指の爪は何本も剥がれ、複数カ所の骨折があるなど薛さんの遺体は酷く損傷しており、明らかに拷問を受 けていたと主張する。

     薛さんの死を知った村民たちは、怒りをさらに募らせ、更なる大規模な抗議を遂行しようとした。11日朝
    方、500人余りの特殊警官隊が村民らを襲撃しようとしたため、双方が激しく衝突した。

     またRFAの報道によると、インターネットでの情報では、もう1人の逮捕者も死亡したという。もし事実であれば、逮捕された5人の村民のうち、2人が死亡したことになる。

     12日から、村民たちは海外メディアの取材を避けるようになった。


    警察隊が発射した爆発物(村民提供写真・大紀元)
     村民の陳さんが大紀元に寄せた情報によると、現在、村のインターネット接続が遮断されているという。彼は「もし、陸豊市、ひいては土地が強制収用された全国の農民が一致団結して抗議を行えば、中共当局はこのように恣意的に弾圧できなくなる」と語った。

     一方、現地政府はこのほど特別通告を発表、「国外の敵対勢力がこの抗議事件を煽いでいる。そのためすでに沈静化した情勢が再び悪化した。事件の性質は村内部の対立ではなくなった」と定論した。

     同市の邱晋雄・副市長は、これから逃走中の村民代表を指名手配するとし、村民たちが自発的に結成した組織を取締ると明言した。

     1人の村民は香港紙・蘋果日報の電話取材に対して、現地の状況は「非常に緊迫している」とし、いつ流血事件が発生してもおかしくないと証言した。彼は「メディアには事の真相を最高指導部に早く知らせてほしい。この1万人余りの命を救ってほしい」とSOSを出した。

    (記者・唐明、翻訳編集・叶子)

    http://www.epochtimes.jp/jp/2011/12/html/d97670.html

     

    中国の戸籍制度と農民移住制限

     中 国の戸籍(戸口)制度の最大の特徴は住民の管理と、都市と農村の人口移動、とくに農村から都市への流入を厳しく制限することにある。戸口には「城市戸口」 (都市戸籍)と「農村戸口」(農村戸籍)があるが、「農村戸口」を持つ農民が都市に移転することは基本的に禁止されているのである。戸口登記条例第一〇条 二は「公民が農村から都市に移転するときは、必ず都市労働部門の採用証明、学校の合格証明または都市戸籍登録機関の転入許可証明を持参し、常住地の戸籍登 記機関に転出手続きを申請しなければならない」と定めているから、農民による都市部への移住は、都市での就職・大学入学や軍への入隊など以外に原則的に不 可能である。

    こ うした戸籍制度による統制によって、中国では農村と都市という二つの異なった世界が人為的に作り出されている。経済的格差はもとより、福祉や公共サービス などの面においても都市と農村のあいだに大きな格差が設けられてきた。とくに計画経済時代においては、国有企業労働者・幹部・知識人などを主体とする都市 住民は給与や定年後の年金を保障され、医療・教育・育児などの手厚い杜会保障を与えられてきたのに対し、農民にはそれらの保障がわずかしかなかった。戸籍 制度の実施によって中国国民は特権を享受する都市住民と犠牲を強いられる農村住民という二大階層に分けられてきたといえる。胡鞍鋼博士が本書の「序文」に おいて指摘している「一つの中国に二つの社会制度」とは、まさにこのような状況を的確に表す国情分析である。
    現在では、改 革・開放政策のもとで人口の移動が激しくなるのにしたがって、戸籍制度による管理が徐々に困難となってきた。とくに急速な産業化によって、都市や経済特別 区などでの労働力需要に応じて数千万人の農村剰余労働力が集団的に都市部に流入しはじめた。都市部も大量の安い労働力を必要としているから、その流入を認 めざるをえない。彼らの一部に都市戸籍を与えたり、就労のための臨時戸籍を設けたりする場合もあるが、戸籍を与えられぬまま都市に定住して働く者が圧倒的 に多い。
    しかしながら、 戸籍を持たないまま都市に定住していると、彼らは医療や子供の教育などの面で、都市住民の享受できる公共サービスから排除されるだけでなく、就職・賃金・ 労働条件などの面でも差別を受けやすい弱い立場に立たされる。このような排除と差別がまた、農村住民の都市移転と都市部での就業を妨げる大きな阻害要因と なっているのはいうまでもないことである。

    中国政府はこれ まで「共産党の指導」と台湾問題・少数民族問題に関する異論を固く禁じてきたのに加えて、今後は「国家の安全に対し危険な言説」の範囲を拡充し、たとえば 農村・農民問題や環境問題など民生に深く関わる問題についても、政府や国営新華社通信の立場=大本営発表ではない独自の取材や言論を封殺するという。この ことはまさに、メディアが伝えるべき内容、あるいは一般の中国国民が知りたいと願う内容のほとんどを奪うに等しいものであり、中国13億人の「奴隷」化を 加速させるだろう。
      それでも、さまざまな国内外の情報や財を元手に、党・国家とは距離を置いて独自の活動の空間を持ちうる都市の中間層はまだ良い。むしろ、彼らが混乱を嫌い 「安定」を求めるあまり中国共産党と一蓮托生となっているという現実がある。中間層と彼らの独自の活動空間が増えれば民主化は進むという政治学的知見は今 のところ中国の実情を説明できていない。
     むしろ問題 は、声を上げるだけの知識もなければ、自らの出自にとらわれて衣食住にすらしばしば事欠く人々である。中国にはそもそも、国家が意図的につくった奴隷が数 億人いる。すなわち、農民戸籍にさせられた膨大な数の人々である。都市戸籍と農民戸籍の違いについては、最近日本のメディアでもしばしば伝えられるところ であるが、そもそも「労働者と農民の国として建国されたはずの中華人民共和国で、何故農民が苦しむのか」という疑問を拭えない方も多いだろう。
     しかし、市場 経済化の中国は今や労働者と農民の国とは到底言えない。中国のマンパワーの中核として先進的な科学技術や商業活動を担うのは、今やあくまで洗練されたテク ノクラートである。そこで中国共産党は、彼らを取り込むために「三つの代表」論を掲げて党規約を変更し、中国共産党は労働者・農民の代表というよりも、中 国の先進性を代表する政党であるとはっきりと規定した。実際、教育水準が低い革命世代の老幹部が退場するのに代わり大卒ホワイトカラーの入党工作を展開す るなど、中国共産党はここ十数年のあいだに開発独裁政党に変わった。それは分かりやすく言えば「巨大なシンガポール人民行動党」である。このような集団か らみれば、低い教育水準や開発の遅れにあえぐ広大な農村部の人々は、あくまで恩恵的に「発展」の果実を与える対象でしかない。

     そもそも、肝 心の毛沢東時代においても、農村戸籍所持者の位置づけは極めて低いものであった。いや、今日の農村戸籍所持者をめぐる問題は、計画経済の時代に生み出され た社会構造をそのまま継承した結果であるとすら言える。毛沢東が蒋介石と国民党を追い払い中華人民共和国を建国した当時、長年の混乱に陥っていた中国は 「一窮二白(貧乏で何もない)」な状態であった。しかも、朝鮮戦争に義勇軍を出兵して多大な犠牲を払ったにもかかわらず、ソ連から十分な援助を得られたわ けでもなかった。こうした中で米国との(そして50年代末以降はソ連とも)核戦争の危機に備えて国力を蓄えるならば、結局のところ農民を徹底的に管理する ことで、彼らが生み出した農作物の価値のほとんどを国家に留保し、それを元手に工業を興すしかない(マルクス主義経済学で原始的蓄積という)。しかしそれ だけでは、農民は働いても報われず窮乏して反乱を起こすしか行き場がなく、それではゼロから興す計画経済は成り立たない。そこで必要とされたのは、喜んで 窮乏生活に甘んじつつ生産への意欲を持続するという「都合の良い農民」であり、それは一般的な人間的欲求を捨てるようマインドコントロールされた農奴と同 義である。
     そのために毛 沢東が用意したものこそ、農村社会における階級闘争という名の劇薬である。贅沢は悪であり、毛主席の教えに従って貧しさに甘んじ、生産を党と国家のために 捧げ奮闘することこそ革命的で善である。このような論理を、もともと共同体が脆弱で個別の農家のフリーハンドが大きい中国の農村社会(小農社会)に持ち込 まれた結果、ある倒錯した事態が生じた。すなわち、自ら汗水流して得た富を地道に蓄え拡大再生産に励む自作農は「反動」な「富農」であり、経営能力が低く 借財を重ねて転落してきた貧農・小作農・ごろつきは「革命的」だということになる。そこで毛沢東の支配のもとでは、優秀な自作農がことごとく「階級の敵」 として殺害された。そして国家による計画=厳格な収奪のもと、配給は微々たるものにとどまり、しかも「平等」の名の下ではどれだけ働いてもみな同じ配給で ある以上、真面目に働くことは無意味になり、あらゆる創意工夫の契機が失われていった。その代わりに、階級闘争において大胆に敵を打倒することで「革命 性」や「刻苦奮闘」が表現され、さらには「革命的」に振る舞わなければ即座に「反動」扱いされるというヒステリー的な社会構造が蔓延した。これが合作社・ 人民公社制度に象徴される毛沢東時代の集団化の真相であり、国家農奴制がたどった悲劇である。
     さらに文革 中、都市のエリートは「農民に再教育を受ける」という大義名分のもと農村に追放され(下放)、「階級的に上位な」農民からの陰惨な攻撃に遭遇した。これは ある意味で、「毛沢東の農奴」に陥れられた人間たちによる都市戸籍所持者への報復であった。そして、悲惨な農村体験をした都市戸籍所持者が、改革開放以後 今度は農民や出稼ぎ労働者に対して極めて冷たい態度をとりつづけている。
     こうして、毛 沢東の国家農奴制は中国社会に救いがたい溝を生み出した。今日も農村戸籍所持者は、単に「都市戸籍でない」というだけの理由で、賃金・福利厚生・居住・子 弟の教育面で劣悪な条件しか与えられず、彼らが生み出した利益のほとんどは都市戸籍所持者が享受していることに変わりはない。国家が土地と人民を厳格に管 理することで成り立つ毛沢東の錬金術は、市場経済とかたちを変えても未だに生きているのである。
    鄧小平「先富 論」以来の中国は、先に沿海部の大都市が発展し、その利益や経験を中西部の農村地域に波及させ、内陸部が労働力を出して沿海部が援助をするという関係にお いて「中国の特色ある社会主義の優越性」を発揮させ、農村・農民・農業を取りまく「三農問題」を解決することを掲げてきた。また、そのための重要な結節点 を整備するべく、農村部における都市化と行政区画の整理統合を図った(重慶市が名義上「世界最大の市」でありながら、実際にはひとにぎりの重慶市街地と巨 大な農村地域の和であるのは、四川省東部の複数の地区を重慶市に従属させたからに過ぎない)。こうして農村地域が地方大都市の牽引力とともに動き出せば、 「三農問題」は自ずと解決して農民は救われ、共産党の正当性を保てるだろう……。それが90年代末以来の「西部大開発」の一大目的である。リーマン・ ショック後の中国経済回復策における重要な柱のひとつである「家電下郷」(農村部での電化製品普及)政策も、農村部の都市産業育成を軸とした経済発展と余 剰人口の吸収のために掲げられている。
    しかし、それで農民が救われるとは思えない。農民はあくまで農村戸籍所持者である。内陸の都市に住む住民や、そこに商機を求めて外からやって来る大都市出身のエリートとは、戸籍の面において越えられない壁がある。
      どれだけ苦労しても報われなければどうすれば良いか? 上述の通り、毛沢東時代には、真面目に働かなくともどのみち誰もが同じ分配であるという現実が杜撰 な社会を生み出した。現在も同じことであり、真面目に働いているように見せかけて手を抜けば良い。中国各地の建築現場で頻発する「おから建築」(鉄筋を満 足に使わず、コンクリートも不純物が多いなど、極めて脆い建造物のたとえ)の倒壊や、開通したばかりの道路の陥没、そして耐久力の低い製品など、全てにお いて努力しても報われないがゆえに「創意工夫による良き仕事」を欠いた結果である。それは言い換えれば、やむを得ず労働する「農奴」=農民工たちの「自己 防衛」ないし都市戸籍所持者への「反逆」なのかも知れない。
    農村出自であるがゆえに正当に報われない農民労働者が中国全土にひしめいていることを考えれば、今後類似の事件がいつ繰り返されてもおかしくないし、彼らの不満の表明が突如過激なかたちをとって増加することも予想される。

    中国の人身売買と結婚事情

    2011-12-13 13:32:03 | 資料
    東南アジアの女性誘拐増加、中国で売買
    [2011年12月3日17時41分]ニッカンスポーツ・コム
     3日付の中国英字紙チャイナ・デーリーによると、中国公安省当局者はこのほど、同紙の取材に対し、ベトナム、ミャンマー、ラオスを中心とした東南アジア各国で女性をだまして誘拐し、中国の農村などで「花嫁」として売買する事件が増えていることを明らかにした。
     当局者は保護された女性の全体的な数は明らかにしなかったが、中国の警察当局が7~9月に国境地帯で実施した集中取り締まりでは、南部の広西チワン族自治区で30件、雲南省で21件の事件を摘発し、ベトナムの女性計74人を保護した。
     女性は20~30代の農村出身者が多く「中国の大都市で金持ちと結婚できる」などとだまされて中国に連れてこられ、1人2万~5万元(約25万~61万円)程度で売買されている。風俗店で違法に働かされる例も多いという。
     女性は中国南部だけでなく、各地で売買されているとみられ、北部の河北省でも2009年4月以降、ベトナムなど東南アジアから誘拐されてきた「花嫁」200人以上が警察に保護された。(共同)
    http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp1-20111203-872023.html

     

     中国で人身売買組織摘発 608人逮捕、子ども178人救出

    2011.12.09  CNN.co.jp

    (CNN) 中国公安省は、全土の警察の連携捜査で2つの人身売買組織を摘発し、子ども178人を救出、容疑者608人を逮捕したと発表した。「人身売買の摘発に乗り出して以来、最大の成果」と強調している。

    発端は5月に四川省で起きた交通事故だった。この事故で偶然、子どもの人身売買組織の存在が明るみに出たことから警察が捜査を開始し、組織のリーダーの男を特定。8月には福建省で別の人身売買組織の存在が発覚し、リーダーの女を突き止めた。

    両組織は中国全土で子どもを誘拐して売り渡していたとされ、10省・自治区の警察が連携し捜査員5000人を動員して半年に及ぶ捜査を実施した結果、先週になって容疑者の逮捕に踏み切った。

    救出された子どもは児童保護施設で保護され、家族を探している。中には具合が悪く手当てが必要な子どももいるといい、世話をするために女性警察官を派遣したという。

    中 国では子どもと女性の人身売買が大きな問題となっており、政府は2009年4月から全土で摘発を強化。これまでに約5万人を逮捕し、子ども約1万8000 人、女性約3万5000人を保護した。公安省は「今後も子どもの人身売買は一切容認しない姿勢を貫く」と強調している。

    人身売買で「売られた」女性、半分以上が中国人女性=英国
    英 紙「デーリー・テレグラフ」によると、英国で性風俗産業に従事する女性のうち、すくなくとも1万7000人の外国人女性が性風俗産業で働くことを強制され ているという。さらに、人身売買の対象として「売られた」女性の数は2600人にのぼり、その半分は中国人女性だという。中国新聞社が報じた。
     英国の英国警 察長協会(Association of Chief Police Officers:ACPO)が2年にわたって売春や人身売買の実態について調査を 行い、発表した報告によれば、イングランドとウェールズで性風俗産業に従事している女性は約3万人に達したが、うち1万7000人が外国からの移民だっ た。さらに、人身売買の対象として英国に来たという女性は2600人で、その半分以上が中国人女性だった。また、9600人の女性は売られてきたのか、自 ら密入国したのか確認できなかった。
     報告によれ ば、英国に売られてきた女性たちは、「英国で働く」ということだけを知らされ、現地到着後にはじめて性風俗産業に従事することを知ったケースが多い。彼女 たちの多くは巨額の借金があるため、性風俗産業に身を置かざるを得ず、借金をすべて返済するまで毎日働き続けるという。
     英国警察長協会は中国人女性の数の多さに驚きを示すと同時に、現在の調査は不完全で、調査対象に含まれていない売春宿などがある可能性を示唆した。(編集担当:畠山栄)
    http://news.livedoor.com/article/detail/4960607/

     

     

    中国では男性22歳女性20歳にならないと結婚出来ない。

    中国では一人っ子政策が採られて来た結果、男女比が118対100で、世界の平均が103(~107)対100であることを見ると明らかに男性が多すぎる。これは「男性を重視し、女性を軽視する」という伝統的な発想から、胎児が女性とわかると堕胎を行うためとされている。

    堕胎をしない場合、闇から闇に売られていくことが頻繁に行われている。

    中国では都会戸籍と農村戸籍と分けられ、都市部の発展と農村部の衰退が大きな格差を生んでいる。農村の貧困から逃れようと多くの人々が都会に出稼ぎに出るが、その結果農村では高齢化と後継者不足のため、ますます格差が増大する結果を招いた。

    中国・ベトナム人花嫁の失踪・誘拐事件が多発


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