第2章 インテリジェンスの常識に欠ける日本
から

p65~69
メディアキャンペーンに常に失敗する日本
  実際、満州事変から日中戦争へと至る展開は、まさにそうしたギャップ(蒋介石政権が盛んに行っていた対米ロビー活動に対し、日本は倫理的にアンフェアなこ とをしていると感じ対策をとらなかった:筆者)が日本にもたらす悲劇を如実に物語る出来事だった。その揚げ句、不必要にアメリカとの対立を激化させ、国際 連盟から脱退し、真珠湾攻撃にまで発展してしまった。なぜ日本は、あのような泥沼の戦争に突き進んだのか。一般的には、「軍部の暴走」のためとされるが、 ではなぜ政府は軍部を抑えられなかったのか。その答えの一つはここにある。近年ようやく、旧陸軍の幹部や右翼団体(左翼ではない!)の中に、中国やソ連の 秘密工作網があったことが、公開資料から少しずつわかり始めている。

 また、1930年代を通じ、中国はアメリカでロビー活動なり政治工作なり、やはり世界の常識から見て当たり前の情報工作活動を行っていた。一方、日本はアメリカにおいて、そうした試みをほとんど行わなかった。

 これについては、当時のアメリカ大使・出淵勝次にまつわる有名なエピソードがある。1931 年に満州事変が勃発し、日本が国際的に非難されていたときのことだ。アメリカの広告会社が大挙してワシントンの日本大使館に押しかけ、「われわれが日本の 言い分をアメリカの世論に大々的にキャンペーンしてあげます。だから契約書にサインを」と迫ってきたそうである。
 ところ が日本外務省の念頭には、「そんなことに予算は割けない」という思いがある。これは今でもそうだが、外務省の経常費から若干の広報予算(これも最近、民主 党政権の「事業仕分け」によって大幅にカットされたが)は出せても、プロパガンダ予算は出せない。第一、高度なプロパガンダ工作のノウハウなど、「外交に は無縁」というのが当時も今も日本外務省のカルチャーだ。したがって、出淵大使は広告会社をすべて断って追い返したという。すると彼らは、その場でタクシーに乗って中国大使館に行き、大々的に契約を結んだ。その結果、その後に起こった上海事変も専ら日本側から武力行使を開始したように歪められて報じられ、アメリカ国内で反日キャンペーンが沸き起こり、それがヨーロッパに波及していった。

  あるいは日露戦争時も同様だった。1905年、ポーツマス講和会議の場に小村寿太郎全権とロシアの全権ウィッテが集い、交渉がいよいよ翌週あたりから始ま るというとき、ニューヨークの新聞をはじめ多くの新聞の論調が、一挙に親露的に変わったのである。それまでアメリカは、英米に代わって極東でロシアの脅威 を防いでいる日本を応援するスタンスだった。だから講和のための仲介も引き受けたのである。しかし土壇場になって一変したわけだ。

 そこで指摘しておくべきことは二つある。一つは、講和会議直前の日本海海戦で日本海軍があまりにも華々しく勝ったため、アメリカ太平洋岸の関係者が日本脅威論に傾き始めたこと。これが後々、太平洋戦争につながったと考える人もいる。

  しかしもう一つは、ロシアの全権代表ウィッテが大々的にメディア・キャンペーンを行い、多額のお金を動かし、アメリカの新聞に対し片端から親露的なスタン スへと転向させていった。さらに交渉の進展状況など、アメリカの新聞が欲しがるニュースを日露間の約束を破ってリークしながら「日本はこんなに厚かましい 要求をしている。われわれは平和を願い、一日も早く講和したいのに」などと付け加える。するとアメリカの新聞は「日本が樺太をよこせ、賠償金をよこせ、と 法外な要求を突き付けているから戦争が終わらないのだ」という論調になる。だから小村全権は、樺太の半分しか取れず、賠償金はすべてあきらめるという窮地 に追い詰められたのである。

 実はこのとき、日本は樺太の要求もすべて取り下げるよう求められていた。そうしなければ交渉は決裂、という 段階まで追い詰められていたという。日本にとって決裂は許されない。とくに当時の日本は、ウォール街からお金を借りなければ戦費が一日も続かない状態だっ たからだ。ここでアグレッシブに公称して決裂させたとなれば、ウォール街は出資を嫌がる。逆に貸金の返済を求めてくる可能性もあった。したがって、小村全 権はそれ以上、無理強いできなかったのである。

 その結果、日本は賠償金だけでなく、領土割譲についてもすべてあきらめる方向で話しがま とまりかけていたが、その最後の瞬間に小村のもとに、東京経由で一つの極秘情報がもたらされた。「ロシア皇帝は樺太の南半分なら割譲してもいいと考えてい る」というものだ。それは、ロシア駐在のイギリス情報筋からもたらされた秘密情報だった(一般には、アメリカの駐露大使がイギリスに知らせたことになって いるが)。

 そこで小村全権はもう一度押し返し、ギリギリで北緯50度線以南の南樺太の割譲をようやく確保したのである。もし賠償金も領 土割譲も双方とも得られなかったら、当時の常識からいって、日本が戦勝国とはされなかったろう。いわば日本はギリギリでイギリス情報部に救われたわけだ。 イギリスが日本の同盟国だったから、そうしたインテリジェンスの供与がなされたのである。

 同時に、日本の外務省はイギリス外務省から 「あなた方のメディア戦略は間違っている。アメリカの新聞にはもっとニュースを出さないと、一方的にロシア有利な記事になってしまう」と忠告されたとい う。そこで急に、日本代表団は新聞発表(プレスリリース)の場を一日に二回~三回も設定するようになったとも伝えられている。

 ただ日中戦争の際も、この教訓は活かされなかったことになる。なぜ日本の外交は、伝統的にしばしば不可思議な大失敗をしてきたのか。その一因が、ここにあるわけだ。

  繰り返すが、外交官というものは、こうしたプロパガンダを表面上、否定しつつ、しかし「ここぞ」という局面では容赦なく徹底して行う。これがふつうの外交 の世界なのである。そして国として相手国のマスコミをどう動かすか、というメディア戦略は、当然ながらある種のインテリジェンスの世界とつながっている。 インテリジェンス活動とは、単にスパイが書類を盗んでくるという類の話ではないのである。


特定秘密保護法で「戦前の日本に戻る」とか言ってる人 →( @∀@)φは戦前の日本すらぬるいという事実をどう考えているのだろう。

p35
一般国民に対する監視は徹底して行ってきた。ところが、「ゾルゲ事件」が示すように、日本では上層部に対しては全く情報監視が行き届かなかった。

あ、尾崎秀実は朝日新聞(ry

p35~37(抜粋
 「インテリジェンス」というファクターを捨象して歴史は全く理解できない、ということが強調されねばならない。とくに日本の近現代史はそうである。  
 もちろん、全てが情報活動によって決まった、などというつもりはない。しかし、優れた戦略的方針に沿って情報活動が効率的に行われたときに成功を生む例は、国際政治の歴史、革命や戦争の歴史の至るところに、見出すことができる。
 日本も明治初年の非力な時代には優れた情報文化を持っていたが、軍事力など「むき出しの力」に自信を持った途端、情報を軽視するようになった。
  戦後の日本にも似たところがある。「むき出しの経済力」というのは軍事力と同じで、実は、それ自体ではほとんど無力なのである。「バブル」とその崩壊から 学ぶべき教訓はここにある。軍事力にしても、経済力にしても、その使い方、つまり戦略の体系がなくてはならず、さらにその背後に広い意味でのベーシック・ インテリジェンスあるいは「国策のソフトウェア」がなければならない。こうした「知の体系」に裏打ちされた力の蓄積でなければ、そうした「むき出しの力」 は、常に早期の崩壊を免れない。また、そうした自己の力に対する評価それ自体も、常に抑制的でなければならない。

第二次世界大戦中の反日プロパガンダポスター
http://japanese.china.org.cn/photos/2011-11/01/content_23782976_10.htm

参考
中国の謀略宣伝工作戦後占領政策に追従した売国的言論人たち敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり