2016年1月22日金曜日

反日はどこからくるの

反日を追っています。そして守るべき日本とは何か考えています。

【戦後70年~東京裁判とGHQ(4)】
戦後史は闇市から始まった 占領政策の後遺症とWGIPの呪縛はなお…
GHQ新橋

 連合国軍総司令部(GHQ)の占領統治が始まった昭和20年9月。全国の都市部は焼け野原が広がり、バラック建ての闇市が点在した。東京では、新宿、新橋、上野、池袋などに闇市ができた。

 江戸東京博物館館長の竹内誠(82)は毎日のように上野の闇市を通って旧制上野中学に通った。
  饅頭、クジラベーコン、ピーナツ、タワシ、茶碗-。食料や生活用品が所狭しと並び、「これを足して、さらにおまけで」と威勢のよい声が響いた。飲み屋のバ ラック街もあり、夜になると「カストリ」と呼ばれる密造焼酎を求め、男たちが集まった。21年に入ると瓦礫は次第に撤去され、並木路子の「リンゴの唄」が あちこちで流れるようになった。
 上野駅前には小箱を脇に抱えた子供たちが進駐軍相手の靴磨きをしていた。上野山の坂道には米兵相手の娼婦「パンパンガール」が並び、理由は分からないが、頻繁に髪の毛をつかみ合ってけんかしていた。
 竹内と母親が上野公園で弁当を開いたら、後ろから子供の手がニュッと伸びて握り飯をつかんだ。戦災孤児だった。仕方なしに「どうぞ」と渡すとニヤッと笑って走り去った。竹内は懐かしそうにこう振り返る。
「戦争で敗れてどん底だったが、みんなは意外と明るく活気があった。今日より明日、明日より明後日と世の中がよくなっていくイメージをみんな持っていたんだな…」

× × ×

 連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーの主要な任務は、戦争犯罪人の処罰▽非軍事化▽民主化-の3つだった。そこでマニラの極東司令官時代からの部下「バターン・ボーイズ」をGHQの要所に配し、権力をより固めた。
 中でも信頼を寄せたのが、弁護士出身の将校である民政局(GS)局長、コートニー・ホイットニーだった。GHQ内で唯一マッカーサーとアポなしで面会でき、ほぼ毎夕1時間ほど面談した。これにより、ホイットニー率いるGSはGHQ内で覇権を握り、主要な占領政策をほぼ独占して推し進めることになった。
 だが、GSの「民主化」は急進的かつ社会主義的だった。戦前の政府要人や大物議員、財界人は「反動的」とみなして次々に公職追放し、日本社会党に露骨に肩入れしたため、政界は混乱が続いた。
 GSは、外相を経て首相となる吉田茂も敵視した。吉田の孫で、現副総理兼財務相の麻生太郎(75)はこう語る。
 「祖父はマッカーサーとの信頼関係を醸成することでGSの介入を排除しようとしたんだな。ホイットニーに呼ばれても『わしはトップとしか会わんよ』と無視を決め込んでいたよ」
では、どうやって吉田は、気難しいマッカーサーの信頼を勝ち得たのか-。

× × ×
GHQ吉田茂

 マッカーサーは執務中ほとんど席に着かず、室内を歩き回るのが癖だった。しかも軍人らしく7歩歩くと回れ右、また7歩歩くと回れ右-。これを見た吉田は茶目っ気たっぷりにつぶやいた。
 「まるで檻の中のライオンだな…」
 マッカーサーは一瞬ムッとした後、ニヤリと笑った。マッカーサーがフィリピン製の葉巻を勧めると、吉田は「私はキューバ製しか吸わないんだ」と懐から葉巻を取り出した。
 誰もが恐れる最高権力者に対して不遜極まりない態度だが、マッカーサーは「面白い奴だ」と思ったらしく、吉田との面会には応じるようになったという。
 ある日、吉田は「食糧難がひどく、このままでは大量に餓死者が出る。至急食糧支援をお願いしたい」と申し出た。マッカーサーは「では必要量を統計から弾いてくれ」と即答し、米国から大量の小麦粉や脱脂粉乳などを送らせた。
 ところが大量の在庫が出た。マッカーサーが吉田に「一体どんな統計データを元に必要量を弾いたんだ」と迫ると、吉田は平然とこう言ってのけた。
「日本がきちんと統計をできるなら米国と戦争なんてしていない」

× × ×

 果たしてGHQの「民主化」は成功といえるのか。
 マッカーサーのせっかちな性格を反映し、その動きは確かに素早い。20年10月4日には内相の山崎巌と特高警察の警官ら約4千人を罷免政治犯の即時釈放を命じた。11日には婦人解放や労組活動の奨励などの5大改革指令を出した。
 12月には日本政府に農地改革を命じ、国家神道を禁じる神道指令を発した。国会では婦人参政権を付与する衆院議員選挙法を改正・公布。その後も警察や内務省の解体などを着々と進めた。
 翌21年2月3日、マッカーサーは「戦争の放棄」など3原則を示し、GSに憲法草案の作成を命じ、憲法草案はわずか1週間ほどで完成した。4月には戦後初の衆院選を実施、11月に新憲法の公布にこぎ着けた。
 農地改革は全国の小作農の喝采を浴び、GHQの求心力を高めた。だが、あまりに農地を細分化したため、専業農家はその後減り続けた。後継者不足で耕作放棄地ばかりとなった農業の現状を見ると手放しでほめることはできない。
20万人超の公職追放は政財界に大混乱をもたらし、社会党や労組への肩入れは労働運動の先鋭化を招き、社会不安が深刻化した。財閥解体も産業界の復興を遅らせただけ。鉄道や道路などインフラ整備などにはほぼ無関心で、激しいインフレが人々を苦しめた。

× × ×

 GHQの占領政策の当初目標は、日本が二度と米国に歯向かわないよう、その潜在力をたたきのめすことにあった。「平和憲法」制定を含め、その目的は達成したといえる。
 だが、国際情勢がそれを許さなかった。欧州で米ソの対立が深刻化し、米政府内で「反共」の防波堤としての日本の重要性が再認識され始めたからだ。これに伴い戦前に駐日米大使を務めたジョセフ・グルーら知日派の「ジャパン・ロビー」が復権した。GHQ内ではGSと他部局の覇権争いがあり、23年10月の第2次吉田内閣発足時にはGSは力を失っていた。
 占領政策は「民主化」から「経済復興」に大きく舵が切られた。だが、超緊縮財政を強いるドッジ・ラインで大不況となり、日本の本格的な復興が始まったのは、皮肉にも昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争により特需となったからだった。
   × × ×
 GHQの「非軍事化」「民主化」の切り札はもう一つあった。民間情報教育局(CIE)が担った「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」だった。
これは徹底的な言論統制とプロパガンダ(政治宣伝)で日本人に贖罪意識を植え付けるという非民主的な策謀だった。

 言論統制の象徴である「新聞報道取締方針」は戦艦ミズーリでの降伏調印式から8日後の昭和20年9月10日に発せられた。GHQへの批判はもとより、進駐軍の犯罪・性行為、闇市、飢餓-など30項目が削除・発禁対象として列挙された。

  GHQは手始めに9月14日に同盟通信社(共同、時事両通信社の前身)を翌15日正午まで配信停止とし、事前検閲を始めた。9月18日には朝日新聞を2日 間の発禁処分にした。原爆投下を批判する鳩山一郎(後の首相)の談話を掲載したためだった。これ以降、各紙はGHQの礼賛記事を競って掲載するようになっ た。
 「日本軍=悪」「米軍=正義」という歴史観を刷り込む宣伝工作も着実に進められた。
 20年12月8日、日米開戦の日に合わせて新聞連載「太平洋戦争史」(計10回)が全国の日刊紙で始まった。中国やフィリピンで行った日本軍の残虐行為を断罪する内容で、GHQは連載終了後、文部省に対して太平洋戦争史を教科書として買い取るよう命じた。
 12月9日にはNHKラジオ番組「真相はこうだ」の放送を始めた。反軍国主義の文筆家が少年の問いかけに答える形で戦争中の政治・外交を解説するこのシリーズは2年間も続いた。
CIEの手口は巧妙だった。「誰が日本を戦争に引きずり込んだのか」という問いには「人物を突き止めるのは不可能。責任者は日本人自身だ」と答えて「一億 総懺悔」を促した。自らの言論統制は巧みに隠しながら、戦時中の検閲や言論弾圧を糾弾し、開戦時の首相、東條英機に怒りの矛先が向くよう仕向けた。

 放送当初は懐疑的・批判的な日本人も多かったが、情報に飢えた時代だけに聴取率は高く、次第に贖罪意識は浸透していった。

 ところが、昭和23年に入るとCIEは方針をジワリと転換させた。2つの懸念が出てきたからだ。1つは広島、長崎への原爆投下への憎悪。もう1つは、東條英機が東京裁判で主張した「自衛戦争論」だった。この2つに共感が広がると日本人の怒りは再び米国に向きかねない。
 こう考えたCIEは「侵略戦争を遂行した軍国主義の指導者層」と「戦争に巻き込まれた一般国民」という構図を作り出し、批判をかわすようになった。宣伝工作や検閲も日本政府に代行させるようになった。
 GHQの洗脳工作は見事に成功した。昭和26年9月8日のサンフランシスコ講和条約を経て独立を回復した後も、GHQの占領政策は肯定され、戦前は負の側面ばかりが強調された。
  文芸評論家の江藤淳が『閉された言語空間』でGHQの言論統制を暴いたのは戦後30年以上たった昭和50年代後半。ジャーナリストの櫻井よしこが『真相箱 の呪縛を解く』でさらに詳しく告発したのは21世紀に入ってからだ。WGIPは戦後70年を経た今もなお日本人の歴史観を束縛し、精神を蝕んでいる。
(敬称略)
産経ニュース2015.12.23
http://www.sankei.com/premium/news/151223/prm1512230010-n1.html

参考
吉田茂=マッカーサー往復書簡 
侮日新聞ジャパンタイムズのルーツ 

皇室のことは書かないと決めているのだが
以前から問題だと思っている外国特派員協会の記者が絡んでいるのでこの件だけ書いておく

どこかのブログだったかに
「愛子さまが試験管ベビーと海外では報道されている」
とあったので気になって元ネタを調べてみた

それで分かったのが
Independent の記事
Japanese princess's baby may be first test-tube emperor
http://www.independent.co.uk/news/world/asia/japanese-princesss-baby-may-be-first-testtube-emperor-682172.html (リンク切れ) 
By Richard Lloyd Parry in Tokyo  
22 April 2001

記事が存在したことはここでも分かる
http://www.bionews.org.uk/page_11088.asp


(´・ω・`)あー聞いたことある名前だわー(よりによってというか
https://twitter.com/dicklp/status/687142315928899584
慰安婦が大日本帝国の性奴隷の生き残りだってさ

外国特派員協会の反日記者
皇室問題にまで首突っ込んでたか

それでこんなスレをみつけたんで

リチャード・パリーが皇室を侮辱
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/sisou/1234082764/

『プリンセス・マサコ』を入手したところ
スレ内のページ数と記述は本で確認できた

訳者の藤田真利子氏曰く

プリンセス・マサコ―菊の玉座の囚われ人
ベン・ヒルズ
電子本ピコ第三書館販売
2007-08


(訳者あとがき より)
p348
わたしはこの本を「ある人権侵害の記録」として読んだ。人権を侵害されているのは雅子妃ひとりではなく、天皇をはじめとする皇室の人々であり、侵害しているのはわたしたち「日本国民」だ。

p349
ま ず、皇室の人の権利を考えてみよう。職業選択の自由がない。両性の合意に基づく婚姻の自由がない(決めるのはほかの人だ)。移動の自由がない(好きなとこ ろにいったりできない)。意見表明の自由がない。選挙権がない。あるのは生存権くらいのものである。人権が否定された状態の人はほかにもいると言うかもし れない。それくらいの忙しさは会社のトップなら普通のことだと言う人もいるだろう。でも、そうした人たちの存在が憲法に規定されているわけではない。この 存在は、国民に基本的な権利を補償している憲法に規定されているのだ。それを決めたのは「国民の総意」なのだそうだから(わたしは訊かれた覚えがないけど)、人権侵害しているのはわたしたち国民すべてということになる。というわけで、わたしは翻訳しながら罪悪感に駆られたのだった。
(だったら占領憲法はただちに破棄すべきってなるんだけどそれは)

【wiki】藤田真利子
訳書はジェンダー系の本が目立つかな

wikiにはなかったんだけど
アムネスティ日本藤田真利子https://www.meiji.ac.jp/infocom/gender/performance/research2011.html
何と アムネスティ日本理事長ですか
ネトウヨなんて殺されちまえby人権派 
石田城孝氏の弁解が聞きたいものでございます

出版社の第三書館ですが
辻元清美北川明
辻元清美と第三書館・北川明

うーん
自分には事実かどうか判断するすべはないのだが・・・・
とりあえず「海外紙が報じた」っていう場合、誰が書いてるのか探った方がいいんじゃないかと思う次第。
彼らが平気で嘘垂れ流すのを何度も見て来たし
それはティンパーリの時から今に至るまで変わらず。
国際宣伝処の顧問だったティンパーリ 
(ティンパーリもオーストラリア人だったな)

報道官会見記録(平成19年2月)
「Princess Masako」の著者及び出版社に対する抗議
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/hodokan/hodo0702.html#3-A
これもまた札付きジャパンタイムズがやらかしたらしい
ジャパンタイムズが煽った慰安婦騒動

あとこんなのもみつけた
http://www.japanfocus.org/-Herbert-P--Bix--David-McNeill/1936/article.pdf
この方もこのサイトも札付きでございますね

参考
「一人の人間、事件に簡単にレッテルをはることはできない」~『黒い迷宮──ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実』著者・リチャード・ロイド・パリー氏インタビュー~
http://blogos.com/article/110622/ 


【戦後70年~東京裁判とGHQ(3)】
ダグラス・マッカーサーの嘘と虚栄 「天皇に代わる存在」になるべく演出したが…
GHQパレード


 連合国軍最高司令官(SCAP)、ダグラス・マッカーサー(米陸軍元帥)は占領下の日本で5年8カ月にわたり最高権力者として君臨した。マッカーサーは回顧録にこう記している。

 「私は日本国民に対して事実上無制限の権力を持っていた。歴史上いかなる植民地総督も征服者も総司令官も私ほどの権力を持ったことはない。私の権力は至上だった…」
  マッカーサーは判で押したような生活を送った。毎朝10時すぎに宿所の赤坂・米大使館から連合国軍総司令部(GHQ)本部が入る日比谷の第一生命館まで 通った。午後2時ごろまでオフィスで執務した後、大使館に戻って昼食と昼寝。午後4時すぎにオフィスに再び戻り、午後8時すぎに帰宅した。

GHQマッカーサー第一生命

  第一生命館前には大勢の日本人が好奇の眼差しで待ち構えていた。マッカーサーは一瞥(いちべつ)もせずにゆっくりとした足取りで玄関に向かった。これが、 新たな統治者が誰かを印象づけるための演出だった。マッカーサーの姿を見た日本人は「回れ右」してお堀越しの皇居に一礼して帰っていった。

 月日を経ても群衆の数は一向に減らなかったが、皇居に拝礼する人は次第に減り、半年後にはわずか数人になった。マッカーサーはいつしか「堀端(ほりばた)天皇」と呼ばれるようになった。

 語学将校としてGHQに勤務し、この日本人の変化を興味深く観察していたアル・ゼルバー(95)はこう振り返った。
 「戦前の天皇は人々の前に姿を現すことがなく、日本人にとって遠い存在だったが、マッカーサーは権威者としての役割をうまく演じ、アメリカン・アイドル(偶像)として天皇の権威に置き換わったのだ」
× × ×
 マッカーサーが、愛機のC54輸送機「バターン号」で神奈川・厚木飛行場に降り立ったのは昭和20(1945)年8月30日の午後2時すぎ。トレードマークのコーンパイプにサングラス姿でタラップを降りたマッカーサーは出迎えの将校にこう語った。
 「メルボルンから東京まで遠い道だったが、どうやらたどり着いたようだな。映画でいう『結末』だよ」
マッカーサー家はスコットランド貴族の血を引く名家で、父のアーサー・マッカーサーJr.は南北戦争の英雄でフィリピン初代軍政総督だった。マッカーサー は陸軍士官学校を首席で卒業し、1930(昭和5)年に陸軍最年少の50歳で参謀総長に昇進。フィリピン軍事顧問を経て、41(同16)年にマニラ駐屯の 極東陸軍司令官となった。

 この輝かしい軍歴に傷をつけたのが日本軍だった。

 1941(昭和16)年12月8日の日米開戦直後、日本軍はルソン島に猛攻をかけた。マッカーサー率いる米軍は反撃らしい反撃もできずにマニラを捨てバターン半島とコレヒドール島に敗走した。マッカーサーは翌42(同17)年3月11日、「アイ・シャル・リターン」と言い残して家族や側近とともに魚雷艇で脱出、ミンダナオ島の秘密飛行場からB17でオーストラリアに逃れた。
 部下を見捨てての敗走にすぎないが、米紙は、米軍の勇敢な戦いを連日掲載して「英雄的抵抗」と称賛、マッカーサーに感謝の念を決議する州もあった。
 だが、この「神話」はマッカーサーの創作だった。嘘と誇張にまみれた戦闘報告を自ら執筆し、140回も新聞発表した。若いころに陸軍新聞検閲官として学んだ宣伝のノウハウが役立ったのだ。それだけにフィリピンでの屈辱だけは晴らさねばならなかった。
44(同19)年7月、サイパンが陥落し、日本の敗戦は決定的となった。第32代大統領のフランクリン・ルーズベルトは、米太平洋艦隊司令長官のチェス ター・ニミッツにマッカーサーの兵力を吸収させ、フィリピンを素通りして台湾、沖縄を攻略する方針だったが、マッカーサーが猛烈な巻き返しに出た。

  44年7月26日、ハワイ・ホノルルの司令部でルーズベルトを待ち受けたマッカーサーは3時間も直談判し、フィリピン攻略への作戦変更を求めた。大統領選 の有力候補と取りざたされるマッカーサーを邪険に扱えば世論の反発が大きい。ルーズベルトは渋々要求をのんだが、面談後に侍医に「アスピリンを1錠くれ。 私にあんな口調でしゃべるやつは会ったことがない」と吐き捨てた。

GHQマッカーサーニューギニア

 こうしてマッカーサーは44年10月、レイテ島に再上陸した。湾内の浅瀬でわざわざ船を下り、波しぶきに打たれながら上陸する姿を報道陣に撮らせ、「先陣を切る闘将」を印象づけた。
 44年12月25日のクリスマスにマッカーサーはレイテ島で勝利宣言した。これも嘘で前線では日本軍と死闘が続いていたが、直前に陸軍元帥昇進が決まったこともあり、ニュース効果を狙った虚偽の宣言だった。実際に掃討作戦が終了したのは4カ月後だった。
45(同20)年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を受け、ルーズベルトの後を継いだ第33代大統領、ハリー・トルーマンはホワイトハウスで勝利宣言を 行い、マッカーサーを連合国軍最高司令官に任命した。果たしてルーズベルトが存命だったら任命しただろうか。マッカーサーは妻に「老いた兵士への軍神マル スからの最後の贈り物だ」と語り、大いに喜んだという。

× × ×

 昭和20年9月2日、米戦艦ミズーリでの降伏文書調印式。マッカーサーは米海軍提督のマシュー・ペリーが黒船ミシシッピに掲げた星条旗を背に厳かに列席者に語りかけた。
 「われら主要参戦国の代表はここに集まり、平和回復の尊厳なる条約を結ばんとする。もはや不信と悪意と憎悪の念を抱いて会合しているのではない」
 だが、この寛容なる態度は偽りだった。直後に日本政府に対して、軍政による直接占領▽英語の公用語化▽軍票の使用-などを含む「三布告」を部下を通じて通告した。外相の重光葵が「ポツダム宣言に反する」と直談判したこともあり、公布は差し止めとなったが、マッカーサーによる間接統治は日本側が思っていたような生やさしいものではなかった。
× × ×
 マッカーサーは、自らが至上の統治者であることを印象づけることに腐心した。その決め手だったのが、昭和20年9月27日の昭和天皇との会談だった。
昭和天皇は自発的に米大使館を訪問したとされているが、実態は呼びつけたに等しい。2人は通訳を介し1時間ほど会談した。終始穏やかな雰囲気でマッカーサーが説明した占領方針に天皇も同意したとされる。

  だが、マッカーサーの最大の目的は昭和天皇と並んで写真を撮影し、公表することだった。ピンと背筋を伸ばす天皇陛下の横で腰に手をあて、くつろいだ表情を 見せるマッカーサー。どちらが統治者なのか、印象づけるには十分すぎる「証拠」だった。日本政府は2人の写真を掲載した新聞を発禁処分としたが、GHQは 即座に処分を覆した。

 翌21(1946)年の元日の新聞各紙で昭和天皇の詔書が発表された。その一節で自らの神格性を否定したことから「人間宣言」と言われる。だが、この詔書の草案もGHQが作成したという指摘もある。
 GHQ兵員情報教育部で米兵向け雑誌編集に携わり、後にUP通信(現UPI)で東京支局長などを務めたラザフォード・ポーツ(93)はこう語った。
「私もマッカーサーに執務室で会ったことはあるが、話したことはない。彼は常に日本人から尊敬されるように振る舞った。天皇に代わる存在になろうとしていたんだ…」

× × ×

 マッカーサーは、占領統治を成功させ、名声を高めた上での大統領選出馬を考えていたが、その野望は思わぬ形でくじかれた。
 1950(昭和25)年6月25日午前4時、北朝鮮軍(朝鮮人民軍)が朝鮮半島の北緯38度線を一斉に南進した。朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)だった。北朝鮮軍はソ連製T-34戦車240両を含む圧倒的な戦力で瞬く間に韓国軍を釜山まで追い詰めた。
  マッカーサーは国連軍を指揮して9月15日未明に仁川上陸作戦を決行。これが奏功し、38度線を突破して10月には平壌を制圧、中朝国境の鴨緑江近くまで 軍を進めた。すると「義勇軍」を名乗る中国軍(人民解放軍)が参戦し、国連軍は押し戻され、38度線付近で膠着(こうちゃく)状態に陥った。
 そんな中、マッカーサーは原爆使用を検討。51年(同26年)年3月24日には独断で「中国本土攻撃も辞せず」と公言した。これに激怒したトルーマンは4月11日、マッカーサーを解任した。第三次世界大戦となるのを恐れたからだった。
こうしてマッカーサーの日本統治はあっけなく幕を下ろした。

  それでも日本でのマッカーサー人気は絶大だった。新聞各紙は解任を惜しみ、業績をたたえる記事を続々と掲載した。帰国の日となった4月16日には、羽田空 港の沿道に20万人以上が詰めかけ、星条旗と日の丸を掲げてマッカーサー夫妻との別れを惜しんだ。マッカーサーもこの時ばかりは見送りの人々と握手を交わ し、バターン号に乗り込んだ。

 マッカーサーの占領統治の成否には疑問が残るが、統治者としての演出は超一流であり、間違いなく成功した。その呪縛(じゅばく)は70年を経た今もなお残っている。(敬称略)
産経ニュース2015.12.22
http://www.sankei.com/premium/news/151222/prm1512220004-n1.html

マッカーサーは日本をキリスト教国にしようとやってきたが大失敗に終わった
捜神 

週刊新潮・実態は『ニセ申請』の山と『不法就労者』の行列!① 続き

「母国で不倫をしたから」「気分で宗派をコロコロ変えた」
トンデモ難民続出の認定現場事情(2)〈週刊新潮〉


 日本の昨年の難民申請者数5000人に対し、実際に認定されたのは11人だった。これに対し「朝日」「毎日」新聞などを筆頭に、「日本は冷たい国だ」との声が上がっている。ところが現場で難民支援に携わる難民審査参与員に言わせてみれば、「よく5000人から11人を発掘したものだ」という。参与員の『さぽうと21』理事長の吹浦忠正氏は、難民受け入れ人数を増やそうと意気込み、参与員を引きうけてみたものの、実際に申し立てをする難民の主張は矛盾だらけか、難民の定義にあてはまらないものばかりだったという。

 また、NGO『難民を助ける会』で会長を務める柳瀬房子さんは、吹浦氏より長く10年以上も参与員を務めている。それでも、

「私も800人ほどの審査をしましたが、認定したのはごくわずかです」

 と言うのだ。

「例 えば、母国で、隣人と土地の境界線を巡って揉め、脅迫された、というもの。あるいは、母国で不倫をしてしまい、その夫から追われている、というもの。ま た、クリケットのレフリーをしていて、負けたチームから脅迫されている、というのもありました。要は、人間関係のトラブルによるものが多いのです。また、 難民申請をしながら、母国の駐日大使館に出向き、パスポートの申請をしている人も多い。これでどこが“母国の保護が受けられない”と言えるのでしょう か?」

 さらには、やはり参与員を2年半務めている、名古屋大学大学院国際開発研究科講師の浅川晃広氏も言う。

「パ キスタン人からの申請で“シーア派からスンニ派に改宗したため、シーア派に狙われる”というものがありました。しかし、実際に呼んで聞いてみると、これが また軽い。なぜ改宗したのか聞いても“気分で変えた”“行くモスクを変えたついでに”。しかも、宗派もコロコロ変えている。一事が万事、そんな感じなので す」

 かくして、現場を知る人々の問では、本当の「難民」を見つけるのは、石ころの山からダイヤモンドを探し当てるようなもの。「5000分の11」でも“よくぞ探した!”というレベル、というのが共通した認識となっていると言う。

「特集 実態は『ニセ申請』の山と『不法就労者』の行列! 『朝日新聞』が宣伝する『難民を受け入れない日本は冷たい国』への反論」
※「週刊新潮」2015年11月12日号
デイリー新潮
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151113-00010004-shincho-soci


本誌からその続き
p46・47
合法的就労の手段
 しかし、である。
 一体、なにゆえに日本の入管には、こんな「ニセ申請」が蔓延っているのであろうか?

「難民認定が、本来の意味を失い、外国人の出稼ぎのツールとして使われているからです」
 と、吹浦氏がその背景を説明する。
「もちろん、外国人は就労ビザがなければ、にほんでは働けません。しかし、2010年、難民認定制度が改正され、申請を行えば、その半年後から決定が下されるまでの間、日本で働く資格を得ることが出来るようになったのです。これ以降、申請者の数はグンと伸びました」

 法務省のデータによれば、10年に1202人だった申請者数は、1867人(11年)、2545人(12年)、3260人(13年)、そして、昨年の5000人と増加の一途をたどっている。

 先の柳瀬さんによれば、
「通常、難民申請は半年以内に可否の結果が出ます。そこから異議申し立てをすると面接まで2年、そこから可否の判断まで半年くらいかかります。つまり、申請を出してから決定まで3年はかかるのです」

 オマケに、難民申請は、一度不認定となっても、二度、三度と何度でも申請を出すことが可能

 単純計算として、4回申請を行えば、12年間日本で稼ぐことが出来るのだ。

 吹浦氏は言う。
「つまり、この制度改正で逆に外国人は、難民申請さえすれば、日本で長い期間、合法的に働けるようになったのです。こうして、観光ビザなどの資格で日本に入国し、それが切れるまでの間に難民申請を出せば、日本で金が稼げる。あるいは、日本に不法に滞在して働いていた者が入管に捕まっても、難民申請を出せば即座に退去しなくて済むばかりか、今度は合法的に収入を得ることが不可能ではなくなってしまったのです」

 だから、彼らにとって難民申請する理由などは、ウソでも、「難民」の定義に合致していなくても、何でも良い。難民になることではなく、申請を繰り返し、日本に長くとどまることが目的なのだ。
「そ のため、彼らは異議申し立ての場でも、たった5分ほどで終えたり、”何もありません”と言って帰ったり、酷い時は、面談をすっぽかしたりすることもあるく らいです。この”偽装難民”の裏には、申請の手続きに長けたブローカーが暗躍しているケースが多い。こうした事情によって難民申請者は急増し、当局はその 対応に追われています。”ニセ者”があまりにも多すぎるために、救うべき真の難民の救済が遅れてしまっていることが、難民認定の本当の問題なのです」 (同)

 こうした実態を、「朝日」や「毎日」は知っているのか。それでもなお、日本の難民認定は「厳しすぎる」「閉鎖的」と述べるのだとしたら、その目は曇っているとしか思えないのである。

跋扈するブローカー
 さらに、だ。

 後者のシリア難民の受け入れ「63分の3」という数字についても、「朝日」サイドの解釈には、疑問を感じざるを得ないのである。

「日本国際社会事業団」の常務理事で参与員の大森邦子さんは言う。
「実は『難民条約』による定義では、『シリア難民』のほとんどはそれに該当しない。彼らの大半は政府の迫害から逃れているのではなく、紛争という国の統治機構の破たんによって、国を離れた民だからです」

 それゆえ、政府は条約の解釈通り、迫害を受けている3名のみしか、「難民認定」をしなかった。

 しかし、残りの申請者についても、国外に追放するのではなく、「人道配慮」で、一時的に滞在を認める「在留許可」を出している。すなわち、申請者は全員、日本政府に庇護されていることになるのだ。

「私はこの措置は正しいと思います」

 と、大森さんが続ける。
「日 本は法治国家ですから、難民性を判断する際にも、条約の定義に照らして厳密に判断すべき。従来の定義に照らして厳密に判断すべき。従来の定義に入らない人 も、”かわいそうだから”と受け入れてしまえば、今後、再現なく定義外の人々も受け入れることになってしまうのです」

 一度、シリアで基 準を緩めてしまえば、万が一、北朝鮮が内紛によって崩壊した場合、シリアで認めたことを彼らについて認めない論理は何もない。来たから来る数万~数十万の 規模の集団を「難民」として受け入れる場合のさまざまなコストは想像できないほど大きいが、果たしてそれに日本人が耐えられるのか?いや、そもそも、それ に備えた議論すら進んでいないように思えるのである。

 また、朝日や毎日が引き合いに出すドイツについても事はそう単純ではない。

 ドイツ在住のノンフィクション作家・クライン孝子さんによれば、
「ド イツは、憲法に『政治的に迫害される者は庇護権を享有する』と明記している国。ヒトラーやナチスの過去を持つために、難民の受け入れに積極的にならざるを 得ない、という理由もあるのです。そのドイツにしても、これほど大量の難民を受け入れたことはありません。申請者の中には、審査を受けないまま、国内に潜 り込んでしまう人もいるし、ブローカーも跋扈している。『難民ビジネス』によって生み出された『難民』もいるのです。こうした点から、国内では受け入れに ついて批判的な意見も多い。メルケル首相の評価も急落しています」

 と言うから、まして「島国」で、古来、外国人の大量流入の経験がない日本にとって、その判断は慎重に慎重を重ねるべきもの。軽々しく、「積極的に」「大胆に」受け入れていいものではないのだ。

 当の「朝日」「毎日」に見解を問うと、朝日はコメントなし、毎日も「投射の主張は社説で書いた通りです」と答えるのみである。

 哲学者の適菜収氏は言う。
「日 本が『難民に冷たい国』かどうかはわかりませんが、難民認定については粛々と行うだけ。本当の難民は保護して、それ以外は認定しない。シンプルな話です。 実態に基づかず徒に”難民を受け入れろ”というのは、社会不安を煽るのみ。本当の難民がニセモノと同一視され、風評被害が及ぶ可能性もあると思います」

 現実を観ずに、観念の世界に遊ぶ。本音を避け、建前の議論に終始する。

 かつて「北朝鮮帰国事業」や「慰安婦」報道で失敗した過去を、「朝日」は難民問題でもそのまま繰り返しているように見えるのだ。

朝日新聞EU難民受け入れ実際は130人http://www.asahi.com/articles/ASHCF22BWHCFUHBI008.html
欧米をミナラエー(大笑い)


12難民46
12難民47

【関西歴史事件簿】
元寇・文永の役(上) モンゴル・朝鮮軍が日本で行った“殺戮”…それでも日本の武士「勇敢にして死をみること畏れず」

 今から740年前、中国全土をほぼ手中にし、日本も従属させたいモンゴル帝国(元)皇帝のフビライ・ハーンは朝鮮半島を治める高麗と連合で3万以上の兵を派遣する。元寇(げんこう)と呼ばれる日本本土が2度にわたり侵略を受けた事件である。対する日本は鎌倉幕府執権・北条時宗の命で集まった御家人ら約1万人。武勲をあげて所領拡大を目指した御家人らの士気も高かったが、兵力の差もさることながら、集団戦法と未知の兵器を前に日本の武士は次第に翻弄されていった。

突貫作業
 元への服属を求めるフビライの国書を携えて日本に渡った使節がたびたび追い返されたため、業を煮やしたフビライは武力による日本進攻を決意。軍船を造るにあたって、文永11(1274)年1月、戦艦300隻など軍船の建造を高麗に命じている。
 平成23年、長崎沖の海底から弘安4(1281)年の2度目の元寇で使ったとみられる沈没船が見つかっている。ほぼ完全な状態だったため復元してみると全長が27メートルに及んだ。
 これは当時の海外渡航用の貿易船と同じ構造で、一隻で100人程度の兵士が収容できる規模だったといい、1回目の進攻作戦でもこのような船を求めたことだろう。
 だが、日本に大船団を出すのに風向や潮の流れなどを考えると、建造期間は半年しかなく、元が派遣したホン・タグの指揮の下、高麗は約3万人の労働者を動員して、昼夜関係なく突貫に次ぐ突貫の作業だったという。
その様子は、「疾(はや)きこと雷電のごとし。民、これに苦しむ」などと表現されている。

 しかし、このときの現場を監督するキム・バンギョンは、強固な船だと期限内の完成は難しいと判断。費用が安くて簡単な構造の高麗船でしのぎ、期間内に高麗が造った船は大小900隻に達する。

 そして総司令官のキントが着任後の10月3日、総勢3万人以上からなる兵を収容した船団は合浦(がっぽ)(現在の大韓民国馬山)から出港する。兵の3分の2はモンゴルと中国で、あとの3分の1が高麗だった。
上陸許す
 連合軍の船は、戦艦のほか上陸用舟艇、補給船などからなり、日本近海は巨大なマストがたなびく、おびただしい数の軍船で埋め尽くされていた。
 時宗も高麗へ送り込んだスパイから間もなく攻めてくることを察知し、上陸が予想される九州北部の日本海沿岸に兵を配するも、まずは数で圧倒されることになる。
 10月5日、対馬の小茂田浜に上陸した元・高麗連合軍により、島を守る対馬守護代、宗資(助)国ら80人の兵や島民はことごとく殺害される。
 壱岐でも惨殺を繰り返し九州沿岸に迫ってきた連合軍に16、17の両日、肥前・松浦や平戸島、鷹島などが次々に攻められ、討たれた兵の数は数百にのぼったともいわれている。
 対馬、壱岐での敗戦の報に接した御家人らはただちに九州の拠点・大宰府へ向かい、その結果、九州の御家人を統括する鎮西奉行・少弐資能(しょうにすけよし)の3男、景資(かげすけ)を総大将に集まった兵は約1万人。
だが、元・高麗連合軍の動きは早く、20日に主力部隊の博多上陸を許す。3方から上陸する兵力は2万人で、日本側の数はその半分に満たなかったのだが、それでも士気は高かった。

ひるまない武士
 当時の御家人は戦(いくさ)で手柄をあげては、恩賞として新しい土地をもらうことを誉れとしていた。このため、われ真っ先に敵陣に突っ込んで功を競うことこそが潔(いさぎよ)い戦い方だった。

 御家人からすれば後鳥羽上皇と戦った承久の乱(1221年)以来、久々に訪れた所領拡大のビッグチャンス。当然、博多でも敵陣に突っ込んでいく。
 対する元・高麗連合軍は組織ごとに動く集団戦法だったので、先陣を切った御家人らが取り囲まれては討ちとられるといったシーンが相次いだ。
 さらに突然、けたたましい音とともに破裂する物体に終始、悩まされる。未知の兵器「鉄炮(てっぽう)」である。
 直径20センチ、重量4キロの球体が破裂してその破片が約50平方メートルに飛び散る仕組みで、殺傷能力は低かったようだが、強烈な爆音と爆風は勇猛な御家人らも腰が抜けるほどだった。
 コンパクトな短弓も驚異で、射程圏は約30メートルと日本の長弓に比べて6割程度だったが、その分、連射が効き、矢の先に毒が塗っていたために殺傷能力は高かった。
 日本側の視点で当時の戦いの様子を描いた「蒙古襲来絵詞(えことば)」では、御家人らに目がけて投げられた鉄炮が爆発し、短弓の矢が人だけでなく馬にも向けられていた様子がうかがえる。
 それでも立ち向かっていったため「勇敢にして、死をみることを畏(おそ)れず」などとする元側の記述もみられる。
(園田和洋)
産経ニュース2014.6.8
http://www.sankei.com/west/news/140608/wst1406080046-n1.html
 

『ザ・レイプ・オブ南京』日本語版出版をめぐる騒動1 続き

【前回のあらすじ】
アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』日本語版の版権を柏書房が取得
初歩的なミスが多いので修正を求める→チャンは一部認めたものの他は拒否
柏書房は苦肉の策として解説本を同時刊行することに→チャンは激怒→出版断念

これが経緯のはずだった



p239・240
 2月25日、私は東京・有楽町にある日本外国特派員協会の昼食会に招かれて、日本の歴史教育について講演した。この席で「アサヒ・イブニング・ニュース」の記者で英国人のピーター・マクギル氏は、次のような質問をして、私を驚愕させた。
「あ なたが意図してのことだとは思わないが、あなたは今、この国の右翼暴力団のヒーローになっています。連中は出版社を脅迫し、暴力や殺人までやってき た。・・・彼らは自由の言論の敵であり、民主主義の敵である。こういうことと、あなたがわれわれすべての納税者の税金でまかなわれている有名大学の教授で あるということとは両立するのか」
(マクギル記者発言はp250の記述を加筆:筆者)

 さらに昼食会の終了後、別の一人の外人記者が私に、「アイリス・チャンの翻訳書が右翼の脅迫で出版中止になったのは本当ですか」と真顔でたずねてきた。

  これは大変なことになっていると、私は直感した。誰かが、外国人記者の間にデマを流しているのである。それは、口コミなのだろうか、とも思った。しかし、 ひょっとして、あの悪質な「アサヒ・イブニング・ニュース」の記者が記事として書いているのかもしれない、と思いついた。それで、同紙を取り寄せて調べて みた。

 結果は、まさに私の予想どおりであった。2月19日付の「アサヒ・イブニング・ニュース」に「南京本の出版延期」という見出しで記事が掲載されている。執筆した記者の署名はない。その書き出しの部分を訳出すれば次のようになる。

「消 息筋が木曜日[2月18日]に語ったところによれば、東京の出版社が電話や手紙による脅迫を受けて、『ザ・レイプ・オブ・南京』の日本語版の出版を延期し た。・・・・本の製作を中止したのち、柏書房が語ったところによれば、手紙のうちの一通は極右グループのの構成員を名乗る男からのものであった。その脅迫 状には『出版すれば何らかの行動を起こす』と書かれていた」


p242
 3月3日午前、東中野修道氏と私は、東京・文京区にある柏書房を訪問し、日本語版出版延期の経過についてたずねた。

  応対に出た同社の佐保勲出版部長は、延期の理由について、「著者のほうから意見があり、著者と話を詰める必要を感じたので延期した」とし、右翼からの脅迫 が出版延期の理由だったのかという質問には、「そのこととわれわれの[出版延期の]決定との間には関連はない」と明確に否定した。

 また、月刊誌『創』4月号では、同社の芳賀啓編集長が「右翼よりも一般の人から間違いのまま出版していいのかという電話が多かった。しかし、困ったのはその後、出版延期が右翼の脅しがあったからだと報道されたこと。実際は著者による出版妨害だったのです」と語っている。


p243~245
(要約)

▼「ロサンゼルス・タイムズ」の3月1日付の社説
「何 十年もの間、日本の教科書は、朝鮮、中国、フィリピン、その他占領したアジアの国々でなされた[日本軍による]侵略と残虐行為をほとんど無視してきた。今 日でも、教科書は戦争中の行為を遠回しな言い方でしか取り上げていない。何千という数のアジア人女性が日本軍によって性奴隷にさせられたということを日本 政府がやっと認めるにいたったのは、1992年になってからだった。30万におよぶ中国人を大量殺害した1937年の狂乱事件の記録で、米人のアイリス・ チャンが書いた『ザ・レイプ・オブ・南京』の邦訳が、東京で来月[「先月」の誤りー藤岡]出版される予定だった。だが、右翼過激派が出版社を脅迫し、その 出版は無期延期されてしまった」

▼同紙3月14日付オピニオン欄
「日本における反米主義の高まり」ジェイコブ・ハイルブラン
「日本経済が不景気の泥沼から抜け出せないでいるなか、その数少ない成長産業の一つは、ネオ・ナショナリズムである」
「ご く最近、ナショナリストたちは、東京のある出版社が米国でベストセラーになったアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』を翻訳出版することを阻止し た。同書は1937年12月、30万の中国市民を日本軍が殺害した事件を扱ったものである。一カ月前、拡声器付きのトラックで日本を守れ式のスローガンを がなりたて街中を走り回っている手合いのナショナリストたちが、中国人の映画監督が製作した映画『南京1937』の上映を阻止するため、大阪のある映画館 に車ごとぶつかっていくという事件があった。もう、チャンの本は日本の読者には入手できないことになった」

筆者ハイルブランは「ニュー・リパブリック」誌の上級編集者で、最近数か月間日本に滞在した、と紹介されていた

▼「タイムズ」2月20日
「その本を押さえつけようとする右翼の脅迫が出版中止の決定に影響を与えたと消息筋は述べた」

朝日英字紙の謀略報道は、まさに世界中にデマをばらまく謀略としての機能を見事に果たした

藤岡信勝、東中野修道両氏は「アサヒ・イブニング・ニュース」「ロサンゼルス・タイムズ」東京支局(読売新聞社内)を訪問
それぞれの反応

▼「アサヒ・イブニング・ニュース」編集部→朝日新聞社広報室の担当に
p248
(要約)
朝日新聞社・副広報室長・帆江勇氏
・朝日新聞本紙に掲載された記事を元に英文記事を書いた
・翻訳原稿には末尾に「本の著者が出版社に出版中止を求め、出版社も刊行を延期した」とあったが、紙面スペースの都合で末尾部分を削って掲載した

p247
(要約)
▼「ロサンゼルス・タイムズ」サニー・エフロン支局長
訪問時談
・東京支局からこの件について情報は送っていない
・社説担当部局が独自の調査網で社説を書いている
・社説の情報源の調査&「ロサンゼルス・タイムズ」オピニオン面への藤岡信勝氏の文を掲載するべく本社へ働きかけると約束
→1カ月以上回答を棚上げ、掲載は拒否


デマを流すばかりでなく
それに反する言説を毎度毎度「右翼の抗議」にスリカエ
朝日新聞社は二重に罪を犯している

またおまえかアカヒ

どれだけ国内で研究を積み上げてもそれが海外に正しく伝わらないカラクリの一つ
かくして我々は「閉ざされた言語空間」から一歩も抜け出せず現在に至る。。。

参考
毎度毎度の「右翼のせい」
「ザ・カルト・オブ・ヤスクニ」騒動2 産経古森記者が言論弾圧? 
アンブロークン the unbelievable BROKEN story 

最近は何でも安倍のせい=アベノセイダーズという言葉がはやっておりますね。
もううんざり

最近では外国特派員協会の妨害にあっていた藤岡信勝氏
この時にも暴言吐かれていたわけですね・・
外国特派員協会 藤岡信勝氏らに対する姑息な嫌がらせ  

藤岡信勝氏 『ザ・レイプ・オブ・南京』について語る 5:06頃~

【youtube】「討論『南京』日中情報戦争」13-13(H19.1.13)
アイリス・チャンは日本語も中国語も出来ないって話にならんがな(゚∀゚)

アイリス・チャンの『the Rape of Nanking』がトンデモ本というのは知られた話だが
日本語版出版についての騒動があったのは知らなかった

wikiにも書いてあった
【wiki】ザ・レイプ・オブ・南京 

日本語版の出版延期問題
日本語版の出版にあたっては、原著出版直後に日本での翻訳権・出版権を得た柏書房が、「解説書」を同梱で出版しようとした後に、柏書房は出版を中止した。この出版中止について朝日新聞社の英字紙である「アサヒ・イブニング・ニュース」(1999年2月19日付)は「本の製作を中止したのち、柏書房が語ったところによれば、手紙のうちの一通は極右グループの構成員を名乗る男からのものであった。」と報じた。同趣旨の報道は「ロサンゼルス・タイムズ」でもなされた。チャン自身も「そのような動きは、日本の右翼組織の脅迫によって動機付けられたものと疑っている」と主張した。しかし、柏書房の芳賀啓編集長は、出版延期は右翼の脅しによるものではなく、著者の出版妨害であると語った。その理由について、柏書房は、チャンが事実誤認の訂正を拒否をしたためであると主張した。

アイリス・チャンの母親である張盈盈は、アイリス・チャンの思い出をつづる本でこの事情を次のように主張している。

柏 書房は1998年春ごろに翻訳版の版権を取得したが、何人かの歴史家や教授に翻訳書の批評を拒否され、そのうちの少なくとも一人は「得体のしれない組織」 から家族への脅迫を受けているのがその理由だったと聞いた。また本書の版権を取得したことについて、柏書房が脅迫されているという噂が流れた。そのような 状況下で、1998年8月に柏書房がアイリス・チャンに本書の内容の訂正を求め始め、10月に訂正箇所のリストを送ってきた。アイリス・チャンがそれを精 査したところ、その要求の主要部分は誤りの訂正ではなく、事件に関する解釈の押しつけであると判断されたために、単純なスペルミスなどの些細な10か所の誤りの訂正を認め、それ以外の訂正については断ることにして、その点を説明する覚書を柏書房に送った。その後、柏書房は一部の写真の削除や後書きの追加などを求めたが、いずれも同意できる内容ではなかったので、認めなかった。訂正要求についてアイリス・チャンは、たとえば盧溝橋事件における日本軍の役割の解釈など、柏書房側が訂正した解釈のほうに誤りがあると考えていた。

1999 年の2月に、アイリス・チャンが日本の記者から電話でインタビューされ、柏書房が同梱で本書に関する批判書を添付しようとしている事実を知り、その点につ いてアメリカ側の出版社に確認を依頼していたところ、柏書房が出版を断念するという発表をした。この件について、柏書房の芳賀啓編集長はAP通信社の取材 に対し、1999年2月の記事で、出版社が原作の書物を批判する書物を同梱することについて、元の書物の著者と相談する義務はないと述べたという。

な お、この時に訂正を求めるリストや批判書の制作の重要な部分を担当した人たちは、南京大虐殺について1970年代から調査研究している「南京事件調査研究 会」という組織の加入メンバーであり、日本では南京大虐殺の積極的な肯定派と受け取られている人々である。彼らが、柏書房の芳賀啓編集長を通して著者のア イリス・チャンに訂正等を求めた理由として説明したものは、次のような論理であったという。
日本の保守的なグループは、南京大虐殺が全く存在して いなかったと主張している。そのやり方は、南京大虐殺に関する記事の些末なミスをあげつらい、その錯誤をもって、全体の事実の否定を印象付けようとするも のである。これに対抗するために、日本語の出版では、すべての誤りを除去したいのだ。

張盈盈は、この出版頓挫の出来事の経緯から、日本における右翼的な勢力の圧力が非常に大きいことをうかがい知ることができると主張している。

同書は2007年12月に同時代社 (巫召鴻 訳)から出版された。邦題は『ザ・レイプ・オブ・南京 ‐ 第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』である。




p230~231
中学生も笑い出すおびただしい間違いの山

(要約)

「(江戸時代)250年間、日本の軍事技術は弓と刀の段階を超えることができなかった」[アイリス・チャン21p]
→1543年種子島に鉄砲伝来。日本は自前で鉄砲を生産し、生産量は世界一に

「15世紀の終わりから16世紀のはじめの時期までに、日本は徳川氏の支配を受けるようになっていたが、」[21p]
→江戸幕府成立1603年=17世紀初頭

「朝香宮の情報将校だったタイサ・イサモがのちに友人に告白したところ」 [40p]
→「長勇(ちょういさむ)大佐」に言及しようとして、「大佐」という階級名をファーストネームだと勘違い
 また当時の階級は中佐

このような初歩的な間違いだらけの本を翻訳してそのまま出版するわけにはいかず、柏書房は内外の研究者の論文を集めた『南京事件とニッポン人』という本を、翻訳書と同時に発売することになった。

p225
  1999年2月8日付に産経新聞夕刊は、社会面トップで『ザ・レイプ・オブ・南京』の翻訳書出版についての記事を掲載した。その見出しは、<レイプ・オ ブ・南京/修正せず日本語版刊行へ/出版元「著者の希望」/事実誤認を黙殺/ニセ写真、そのまま掲載>というものであった。

p226
  柏書房が出した「2月の新刊」という出版案内によれば、2冊目の本には「『ザ・レイプ・オブ・南京』を正しく読むために」というサブタイトルが付けられて いる。翻訳書本体に対する一種の解説書という位置づけであることがわかる。編者は「大虐殺派」の中心人物の一人である藤原彰氏で、収録される論文には、 「『ザ・レイプ・オブ・南京』の持つ意味と問題点」(井上久士氏執筆)など日本人研究者の論文のほか、アイリス・チャンの議論の進め方に一部批判的なスタ ンスをとっている、チャールズ・バレス、リチャード・フィン、デビッド・ケネディなど、アメリカの学者やジャーナリストの文章も含まれることになってい た。

柏書房が一種の解説書を同時に出すことにした理由(藤岡信勝氏の考察)
p234
(要約)

①柏書房は左翼系出版社であるが、歴史を中心に学術書を出版してきた実績があり、キワモノを出版しては、同社から本を出しているほかの著者の名誉に関わる 

②『ザ・レイプ・オブ・南京』の出版は、南京で大虐殺があったとする派の運動の一環で、このまま出版すれば反対派の総攻撃を浴び、運動にとって逆効果
(右左以前の著書っていうことですね・・)

ところが解説書の同時刊行を知らなかったアイリス・チャン氏は激怒し
柏書房は『ザ・レイプ・オブ・南京』の出版を断念した。

これが経緯なのだがこの後とんでもないことに

続き 『ザ・レイプ・オブ南京』日本語版出版をめぐる騒動2

参考
藤岡信勝氏 『ザ・レイプ・オブ・南京』について語る 5:06頃~

【youtube】「討論『南京』日中情報戦争」13-13(H19.1.13) 

米軍、フィリピンに駐留可能に 南シナ海に進出する中国を見据え、両国の利害が一致

 日本と同じく、四方を海に囲まれ、中国を隣国に持つフィリピン。かつては米軍が駐留していたが、フィリピンの選択を受け、1992年までに米軍はフィリピンから撤退した。その後、中国は南シナ海への進出を強め、現在、フィリピンは中国との間に激しい領有権争いを抱えている。2014年には、米軍の事実上の再駐留を可能にする「米比防衛協力強化協定」が結ばれたが、憲法違反だとの反対派の訴えにより、フィリピン最高裁で審理が行われていた。最高裁は12日、協定は合憲であるとの判断を下した。

◆貧弱なフィリピン軍を補う。建前上は「一時的」
 この協定は2014年4月、オバマ大統領のフィリピン訪問に合わせて署名された。正式条約ではなく、両国行政府間の枠組み合意である。海洋安全保障、フィリピン軍の能力向上、災害救援などでの協力強化を目的とする。

  具体的には、米軍は、フィリピン軍基地の使用、基地内での米軍用施設の設営、部隊、艦船、航空機の配備などを行えるようになる。ただしこれらは永続的なも のとしてではなく、あくまで一時的なものとして認められる。例えば部隊は永続的に駐屯するのではなく、ローテーション配備される。協定は有効期限を10年 としていて、これは延長が可能である。

 南シナ海問題がこの協定の原動力となった。協定の交渉は2013年8月から両国間で進められてき た。フィリピン軍だけの力では、到底、南シナ海問題で中国に立ち向かうことができない。インターナショナル・ニューヨーク・タイムズ紙(INYT)によれ ば、同軍には、機能しているジェット戦闘機はわずか2機しかなく、所有する艦船で最大のものは米沿岸警備隊の沿岸警備船の中古品であるという。フィリピン 軍はアジアで最弱の軍の1つであると同紙は語っている。近年、フィリピン政府は、アジアで最も装備の貧弱な自国軍の強化に苦労しており、米政府に頼ってい る、とAP通信は伝える。INYTによると、昨年アメリカは、フィリピンへの軍事支援として約8000万ドル(94億円)を拠出した。フィリピンは昨年、 東南アジアで最もアメリカの軍事支援を受けた国だった。

◆フィリピン政府は安心。アメリカも歓迎
 それだけに、協 定の発効に道を開いた最高裁の判断は、フィリピン政府に安心感を与えたようだ。フィリピンの指導者らは最高裁の判断を称賛した、とINYTは伝える。アキ ノ大統領の報道官は、協定によってフィリピンの防衛力は「世代交代的な躍進」が可能になるだろう、と語った。フィリピン上院の国防安全保障委員会のアント ニオ・トリリャーネス4世議長は、アメリカのプレゼンスの強化によって、フィリピンは中国の進出から自国を防衛できるようになるだろうと語った。「フィリ ピンが世界のこの地域において、もはや孤立した存在ではないと承知することが、中国に対してなんらかの心理的効果を有するだろう」と語っている。

  アメリカからもこの判断は歓迎されたことをAP通信は伝えている。INYTは、アメリカは、南シナ海での中国の影響力の高まりに対抗する取り組みにおいて 重大な勝利を得た、と報じた。ウォール・ストリート・ジャーナル紙(WSJ)は、両国がこの判断を歓迎した、と報じ、最高裁がアメリカのより大きな軍事的 役割に道を開いた、と報じた。

 これまでの南シナ海でのアメリカの取り組みには、実効性に欠ける面があったことをINYTはほのめかして いる。オバマ政権は、南シナ海での海上巡視を増やし、またフィリピンなどの同盟国に一層の軍事支援を提供することで、中国を思いとどまらせようと試みてい る、しかしアメリカは影響を与えるのに苦戦しており、中国は人工島で飛行場、軍事建造物、港湾施設の建設を推進している、と同紙は語る。

  だが、フィリピンとの協定は、アメリカに新たな力を与えそうである。WSJは、協定は地域でのアメリカの勢力を強化しそうなものだと述べている。カーター 米国防長官は、アメリカがアジア太平洋地域でのプレゼンスを強化するつもりでいる今、フィリピンは決定的に重要な同盟国だと評したという(AP通信)。マ ケイン米上院軍事委員長は、「フィリピン政府が、西フィリピン海で自国が中国の威圧の標的になっていることを認識し、米政府のリーダーシップを期待してい る今、この協定はわが国に、フィリピンとの同盟深化、フィリピン軍との協力拡大、東南アジアでのアメリカのプレゼンス強化の新たな手段を与えるだろう」と 声明で語った(WSJ)。

◆かつて米軍駐留を拒んだフィリピン
 フィリピンには、(アメリカの属領だった時代を含め)1世紀近く米軍が駐留していた、とAP通信は伝える。1986年、マルコス独裁政権が革命によって退陣させられ、フィリピンは民主化した。1987年に制定された新憲法で、 外国軍による基地の使用や駐留を認める条約に対しては、今後、上院による批准などが必要と定められた。基地協定により、フィリピン国内の米軍基地の駐留期 限は1991年までと定められていたが、基地の使用期限を延長する条約について、上院が否決したため、米軍の駐留は終了となった。1992年までに米軍は 撤退を完了した。当時、上院の否決は、ナショナリズムが高まる中で行われたとAP通信は語る。

 INYTは現在の状況について、フィリピンではいまだに多くの人がアメリカ軍を警戒しているが、そのフィリピンで協定が承認されたことは、地域における深刻な不安と、同盟関係の移り変わりを際立たせた、と他国の例も挙げつつ語った。

  協定が違憲であるとの訴えは、かつて条約を否定した上院議員のグループらが起こしたもの。協定は条約であって、上院の批准を必要とする、というのがその主 張だった。最高裁はその主張を認めず、協定は既存の条約の履行に関する行政合意であるとの政府側の主張を認め、合憲と判断した(まにら新聞)。

  最高裁の判断が示された12日には、アメリカ・ワシントンで、両国の外務・防衛担当閣僚による「2プラス2」安全保障協議が開かれた。両国の「2プラス 2」開催は2012年以来。最高裁の判断は、協議の始まる数時間前に発表された、とWSJは伝える。この点について、産経ニュースは、最高裁は協議開催を 前に、司法としての判断を示した格好だ、と指摘した。
(田所秀徳)
NewSphere2016.1.14
http://newsphere.jp/world-report/20160114-1/

フィリピンが米軍出ていけ!と憲法改正したとはじめて知ったのはこの時
復興庁暴言ツイート騒動と子ども被災者支援法

その頃フィリピンに斎藤まさしこと酒井剛氏がいたらしい
「東アジア共同体」と斎藤まさし 

酒井剛氏が沖縄に出没していることから見て、沖縄も同様にしたいのであろうと
思っていた矢先にフィリピンが米軍再駐留を認めることになった

それにしてもフィリピンのナショナリズムの高まりから米軍撤退を求めたことは肯定して
日本のナショナリズムは全否定って矛盾だよね

【南シナ海緊迫】
フィリピンの若者がスプラトリーの島に上陸 軍も食料提供 中国「強烈な不満」
フィリピン47人上陸
http://globalnation.inquirer.net/134258/filipino-youths-sail-to-kalayaan-isle

  【シンガポール=吉村英輝】フィリピンの若者が、同国が実効支配する南シナ海のスプラトリー(中国名・南沙)諸島パグアサ島に船で上陸し、中国との摩擦が 強まっている。フィリピン政府は、中国を国際司法機関に提訴し、人工島造成などによる同海域の「主権」主張が「不当」と対抗しているが、中国は無視。フィ リピン国内で市民らの不満が高まっている。

 現地からの報道によると、15~27歳のフィリピンの男女47人が昨年12月26日、パグアサ島に到着。約500キロ離れたパラワン島を出航し、フィリピン国軍の退役軍人が同行した。
 同団体は上陸したメンバーの写真をフェイスブックに掲示し、「(フィリピンの)排他的経済水域(EEZ)への中国侵出実態の真実を伝えたい」と訴え、政府の対応に不満を示した。
 フィリピン国軍は、安全上の観点から渡航の自粛を求めていたが、上陸後は食料などを提供。大統領報道官は昨年12月27日、「他の方法」を検討すべきだとしながらも、「若者たちの愛国心は認める」と述べた。

  パグアサ島には、フィリピンの漁民らが居住し、国軍も常駐する。だが、約25キロ沖合のスービ礁では、中国が岩礁を埋め立てた人工島で巨大滑走路を造成し 軍事拠点化を進めている。パグアサ島を管轄する町長は昨年11月、中国の公船が、沖合2カイリ(約4キロ)に10日間停泊し、島への補給活動を監視してい たと訴えている。
 一方、中国外務省の陸慷報道官は昨年12月、同団体の行動に「強烈な不満」を表明。フィリピンに、実効支配する島や岩礁から人員や設備の撤収を求めた。
 中国による南シナ海の領有権主張をめぐっては、フィリピンの提訴を受けた常設仲裁裁判所(オランダ・ハーグ)が昨年10月末、本格審理を決定。今年中に判断を示すが、中国は同裁判所に「管轄権はない」と応じない姿勢を示している。
 法的解決を拒みながら力による一方的な現状変更を続ける中国に対し、米国は人工島周辺に艦船を航行させる「自由の航行」作戦に着手し、継続する方針だ。
産経ニュース2016.1.3
http://www.sankei.com/world/news/160103/wor1601030032-n1.html 
 

「世界の工場・中国」は終わった リーマン以来の貿易前年割れ…トドメはTPP

 中国が「世界の工場」と呼ばれた時代は完全に終わった。輸出と輸入を合わせた2015年の貿易総額が前年比8・0%減の3兆9586億ドル(約468兆円)とリーマン・ショック後の09年以来の前年割れ。16年以降もさらなる下振れが予想されている。

 15年の輸出は2・8%減。原材料や部品を輸入して安価に組み立て大量輸出する加工貿易で急成長してきた中国だが、人件費高騰や労使紛争の頻発などで競争力が失われ、繊維や衣料品、機械・電子部品など外資系の工場が相次いで中国から撤退した。

 環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)が発効すれば有望な輸出拠点となるベトナムなどへのシフトが加速するとみられ、中国の輸出産業は地盤沈下が止まらない。

 輸入に至っては14・1%減の1兆6820億ドルと落ち込んだ。不動産市況や株式市場の低迷で内需が低迷、人民元安で輸入価格も上昇した。

 輸入の動きは国内総生産(GDP)と連動するといわれ、19日に発表される15年の中国のGDPでは統計数字の信憑(しんぴょう)性も問われている。

 貿易失速を受けて、13日の上海株式市場で、総合指数の終値は2015年8月下旬以来、約4カ月半ぶりに終値が3000を下回った。

  過去30年間で中国の貿易総額がマイナスとなるのは、アジア通貨危機のあった1998年とリーマン・ショックの影響を受けた2009年の2回しかない。

 政府系の中国社会科学院も16年の輸出は前年比0・6%減、輸入は3・0%減と予想しており、中国経済はさらに沈みそうだ。
zakzak2016.1.14
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20160114/frn1601141700008-n1.htm 

確かに中国本土はそうなのかも。だけど・・・

TPPは中国包囲網とも言われているが
中国はTPP参加国の企業を買いその網にホイホイと入り込んでいるので全然包囲できてない
河添恵子さんが言ってた

中国企業の畜産買収攻勢で波紋 大手商社が警戒、優良物件で争奪戦
スミスフィールドhttp://jp.wsj.com/articles/SB10001424127887324182504578514143813850224

  食肉大手などの中国企業が豚肉・牛肉牧場や加工会社の大型買収に乗り出し、波紋を広げている。経済成長や食生活の変化で国内生産が需要に追いつかないた め、先手を打ち出した格好だ。日本の大手商社は「輸入牛肉の買い付けや牧場買収で『買い負ける』例も増えた」と警戒感を強める一方、中国市場の商機を取り 込むことで、日本向けの安定供給確保につなげたいとしている

 「異変だ…」。丸紅の関係者が漏らした。同社が1988年に参画 した豪州ニューサウスウェールズ州の牛牧場レンジャーズバレー。日本式の高級穀物肥育牛が人気を呼び、今年に入り、中国向け輸出が前年比で3~4割伸び出 したからだ。丸紅は中国向けを増やす一方、拠点増強や米国を中心に新たな畜産生産拠点の検討に入った。
国内業者に募る不信
 伊藤忠商事は今年1月、カナダの養豚・豚肉の一貫生産会社ハイライフの株式33.4%を約50億円で取得した。狙いは中国市場。

 共同で安心・安全な豚肉販売を強化しようと意気込む。三菱商事も中国食糧最大手のコフコや伊藤ハム、米久と中国で豚肉の生産事業に参画。2017年までに約1250億円を投じ、食肉や加工食品事業を拡大し、巨大市場を取り込む構えだ。

 これまで中国は、畜産自給を国策として、飼料向け穀物確保は輸入と海外の農地取得で動いてきた。
だが、穀物輸入が急増する中、飼育に必要な水不足もあり、「海外の牛肉や豚肉農場の買収で安定供給を図る戦略に転換した」(大手商社)。海外に供給先を求 めるのは、上海市の川で大量の豚の死骸が発見されるなど中国の消費者が国内業者に不信感を持っている事情もある。今後、ブラジルやニュージーランドなどで 牛肉や豚肉の生産拠点確保を加速するとの見方が強い。

 中国食肉大手、双匯(そうかい)国際は今年9月、米豚肉生産大手のスミスフィールド・フーズを47億ドル(約4926億円)で買収、米当局の正式承認を得た。スミスフィールドの最大顧客が日本だっただけに、日本企業に衝撃が走った。

養豚農家の仲介も
 買収劇は続く。12月23日、双匯国際はメキシコ冷凍食品大手と共同でスペインの食肉加工大手カンポフリオ・フードの共同買収提案を発表。それぞれ株式を保有するライバル同士だったが、手を組み、傘下に収めた。
 中国勢の大型買収を引き金に世界規模で優良物件の争奪戦が加速する公算も大きい。
実際、豪州の牧場買収を検討していた日本企業は、中国勢が価格をつり上げた結果、手がでなかったという。

 ある商社の幹部は今春、中国の食肉加工企業にデンマークの養豚農家を仲介した。「中国企業に日本向けの供給元を奪われかねない」と不安もよぎったが、「中国市場も同時に取り込まないと日本向けの供給すら危うくなる」のが現実だ。

 とりわけ、勢いを増すのが牛肉だ。 農畜産業振興機構によると12年の中国の冷凍牛肉の輸入量は前年の約3倍の6万525トン。今年1~10月期の輸入量は前年同期の7.3倍と過去最高を更 新する勢いを見せる。「韓国レストランやハンバーガーチェーンの台頭で牛肉の消費が急増している」(農畜産業振興機構)
外交で冷え込む日中関係だが、中国の食生活の変化を踏まえた、日本企業の次の一手が求められる。(上原すみ子)
SankeiBiz2013.12.30
http://www.sankeibiz.jp/business/news/131230/bsc1312300503001-n1.htm 
米国企業の化けの皮を剥がすと中国企業、という恐ろしいことになってるわけですね。


お金出してるのはこういうところ。
中国銀行とモルスタ、双匯のスミスフィールド買収に融資へ

[香港 31日 ロイター] - 中国食肉大手の双匯国際による米豚肉生産大手スミスフィールド・フーズSFD.Nの買収で、中国銀行(BOC)(601988.SS)(3988.HK)と米モルガン・スタンレー(MS.N)が合わせて70億ドルを融資することが、関係筋の話から31日明らかになった。

双匯は今週、スミスフィールドを現金47億ドルで買収することで合意。スミスフィールドによると、債務引き受けを含む買収総額は71億ドルになる。
関係筋によると、中国銀行は40億ドル、モルガン・スタンレーは30億ドルを融資する。両行とも融資条件に関しては、コメントを差し控えている。
双匯による買収案は、中国による米企業の買収案としては過去最大。対米外国投資委員会(CFIUS)の審査を受ける見通し。
ロイター2013.6.1
http://jp.reuters.com/article/l3n0ec3d6-shuanghui-bank-of-china-mstanl-idJPTJE94U01O20130531

(´・ω・`)あーグローバルってホント嫌 

関連記事はこちらから→【アンブロークン the unbelievable BROKEN story】

中国の富豪、ハリウッドのスタジオ買収を発表

(CNNMoney) 中国トップクラスの富豪、王健林(ワンジエンリン)氏が率いる大連万達集団(ワンダ・グループ)は12日、米ハリウッドの映画会社「レジェンダリー・エンターテインメント」を35億ドル(約4000億円)で買収すると発表した。

王氏は軍の兵士から実業界へ乗り出し、不動産と娯楽の分野に帝国を築いた人物。2012年には米映画館チェーンのAMCエンターテインメントを買収し、映画館運営の世界最大手を誕生させた。かねてハリウッドのスタジオも買収したいと話していた。

レジェンダリーが手掛けた最近のヒット作には「ジュラシック・ワールド」や「インターステラー」、「バットマン」シリーズなどがある。

王氏は声明で「レジェンダリーの買収により、ワンダは世界最大の収益を誇る映画会社となる。中国、米国という世界の2大市場でワンダの存在感を高めることができる」と述べた。

万達集団は山東省青島で広さ200ヘクタールという映画製作拠点の建設も進めている。

レジェンダリー傘下には映画のほか、テレビやデジタル、コミック部門がある。トーマス・タル最高経営責任者(CEO)は買収後も現職にとどまる見通しだ。
CNN.co.jp2016.1.12
http://www.cnn.co.jp/showbiz/35076094.html
(コミック部門・・これは嫌~な予感)


レジェンダリーといえば
アンブロークン製作会社にしてソフトバンクが出資しているわけだが

レジェンダリーソフトバンク

アンブロークンについてずっとツイートしてきたけど、これが一番反響あったかな
ソフトバンク嫌われ過ぎw

日本語のwikiがないんで英語版を見たら
【wiki】Wang Jianlin 

王健林

げ。世界経済フォーラムですか(ゲンナリ

王健林・大連万達集団父親は人民解放軍のヒーローで、故毛沢東主席とともに戦ったこともある人物だ。その父親の影響で、王氏は15歳で人民解放軍に入隊することができた。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150218/277692/

エコノミスト元記事
http://www.economist.com/news/business/21643123-chinas-biggest-property-tycoon-wants-become-entertainment-colossus-its-wanda-ful-life

ふーん
大連というと
日本がせっせと投資したところ、だよねぇ

日中友好協会もそうだけど
抗日記念館・名誉議長のいとこ=日中友好協会会長
全ては自分の首を絞めるためだったとさ。めでたしめでたし。
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