ロスチャイルド家
18世紀後半にフランクフルトのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)出身のマイアー・アムシェル・ロートシルトが銀行家として成功し宮廷ユダヤ人となった。彼の五人の息子がフランクフルト(長男アムシェル[3])、ウィーン(二男ザロモン)、ロンドン(三男ネイサン)、ナポリ(四男カール)、パリ(五男ジェームス)の五か所に分かれて銀行業を拡大させた。二男と五男は鉄道事業へ出資をして創設に関わった[4]。この他、一家はスペインのMZA鉄道(マドリード・サラゴサ・アリカンテ鉄道)と上部イタリア鉄道 Società per le Ferrovie dell'Alta Italia もファイナンスした[5]。
やがて、フランクフルト家、ウィーン家、ナポリ家は絶家したが、ロンドン家とパリ家が現在まで残っている。両家は日露戦争のころ日本政府へ巨額を貸し付けた歴史をもつが、それでさえ普仏戦争の賠償シンジケートに比べると彼らの仕事では小さい方だと分かる[6]。現在はN・M・ロスチャイルド&サンズが、M&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を受託するプライベート・バンキングを行っている。一方、リオ・ティントやイメリーズという大規模な工業事業も支配した[7][8]。イメリーズは2008年現在グループ・ブリュッセル・ランバートの筆頭株主である[9]。
門閥として名高く、ロマノフ家とはHubert de Monbrison (15 August 1892 – 14 April 1981) の三度にわたる結婚を介して家族関係にある[10]。また、ベアリング家ともギネス家を介してやはり家族関係である[11]。
目次
歴史
マイアー登場以前
フランクフルト・ユダヤ人は1462年以来ゲットーに押し込められてきた。また法律・社会的に様々な制約を受け、職業は制限されていた[13][14]。ロートシルト家も代々商売していた家柄だが、マイアーの代までは小規模に過ぎず、生活も貧しかった[12]。
ファミリーネームはもともと「バウアー」もしくは「ハーン」と呼ばれていたが[15]、「ロートシルト(赤い表札)」[注釈 1]の付いた家で暮らすようになってからロートシルトと呼ばれるようになった。そこから引っ越した後もそのファミリーネームで呼ばれ続けた[16]。しかしフランクフルト・ユダヤ人が法的にファミリーネームを得たのはフランス占領下の1807年のことであり、それ以前のものはあくまで通称である[15]。
ヘッセン・カッセル方伯の御用商
ヴィルヘルムは領内の若者を傭兵として鍛え上げ、植民地戦争の兵員を求めるイギリスに 貸し出す傭兵業を営んでおり、その傭兵業の儲けでヨーロッパ随一の金持ちになっていた。小規模ながら両替商を兼業するようになっていたマイアーもヴィルヘ ルムの傭兵業に関わらせてもらい、イギリスで振り出された為替手形の一部を割引(現金化)する仕事を任されるようになった[20][21][22]。とはいえマイアーの担当額はわずかであった。ヴィルヘルムとしては交換比率が下がらないようなるべく多くの業者に自分の外国為替手形を扱わせたがっており、その一人がマイアーだったということに過ぎない。マイアーは基本的に1780年代末まで注目されるような人物ではなく、ヴィルヘルムにとってはもちろん[注釈 2]、フランクフルト・ゲットーの中においてさえそれほど有名人ではなかった。しかも1785年にはヴィルヘルムがヘッセン・カッセル方伯位を継承してヴィルヘルム9世となり、フランクフルトから離れたカッセルのヴィルヘルムシェーヘ城に移ってしまったため、一時マイアーとヴィルヘルム9世の関係が疎遠になるという危機も起こった[24]。
一方、物品商の仕事の方はフランクフルトがイギリスの植民地産品や工業製品を集める一大集散地になっていたこともあって順調に推移し、1780年代にはマイアーはかなりの成功を収めていた[23]。
やがてマイアーの息子たちが成長して父の仕事を手伝うようになり、長男アムシェルと二男ザロモンがヴィルヘルムシェーヘ城に頻繁に出入りするようになった。彼らはヴィルヘルム9世の宮廷の正規の金融機関である「ベートマン家」 や 「リュッペル・ウント・ハルニエル(Rüppell und Harnier)」などの大銀行を回って、彼らと気難しいヴィルヘルム9世の間の使者の役割を演じ、ヴィルヘルム9世から気に入られるようになった。そし て1789年にはロスチャイルド家もヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関の一つに指名されるに至り、その対外借款の仕事に携われるようになった[25][26]。1795年頃からヴィルヘルム9世の大きな投資事業にも参加できる立場になる[27]。
こうしてロスチャイルド家は1790年代に急速に躍進した[28]。その頃にはロートシルト家の収入は信用供与と貸付が主となっており、商人というより銀行家に転じていた。その活動範囲もドイツに留まらず、ヨーロッパ中へと広がっていった[29]。
ナポレオン戦争
戦争の混乱の中、ドイツでは綿製品が不足して価格が高騰した。これに目を付けたマイアーの三男ネイサンは1799年からイギリス・マンチェスターに常駐し、産業革命で大量生産されていた綿製品を安く買い付けてドイツに送って莫大な利益を上げるようになった。その金を元手にネイサンは1804年からロンドンの金融街シティに移り、N・M・ロスチャイルド&サンズを創設して金融業を開始した[31][32]。
1800年代にはヴィルヘルム9世への影響力も飛躍的に増大し、1803年にロスチャイルド家は宮中代理人の称号を得ている[33][34]。
1806年にナポレオン・ボナパルト率 いるフランス軍がプロイセン侵攻のついでにヘッセンにも侵攻してきた。ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世。 1803年にヘッセン選帝侯に叙された)は国外亡命を余儀なくされたが、この際に選帝侯の巨額の財産の管理権・事業権はロスチャイルド家に委託された。以 降ロスチャイルド家はフランス当局の監視を巧みにかわしつつ、大陸中を駆け回って選帝侯の代わりに選帝侯の債権の回収にあたり、回収した金は選帝侯の許し を得て投資事業に転用し、莫大な利益を上げるようになった[35][36][37]。
またフランス当局やフランス傀儡国家ライン同盟盟主カール・テオドール・フォン・ダールベルク大公、フランクフルトの郵便制度を独占しているカール・アレクサンダー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯などと親密な関係を深めていき、独自の通商路を確保し、また情報面で優位に立ち、大きな成功に繋げていった[38]。
ナポレオンは1806年に大陸封鎖令を 出して支配下の国々に敵国イギリスとの貿易を禁じたが、これがロスチャイルド家にとっては更なるチャンスとなった。大陸封鎖令により大陸諸国ではコー ヒー、砂糖、煙草、綿製品などイギリスやその植民地からの輸入に頼っていた商品の価格が高騰した。また逆にイギリスではこれらの商品の価格が市場の喪失に より暴落した。そこでロンドンのネイサンはイギリスでこれらの商品を安く買って大陸へ密輸し、それを父や兄弟たちが大陸内で確立している通商ルートを使っ て大陸各国で売りさばくようになった。これによってロスチャイルド家は莫大な利益を上げられた上、物資不足にあえいでいた現地民からも大変に感謝された[39][40]。
この独自の密輸ルートはイギリス政府からも頼りにされ、イギリス政府は反フランス同盟国に送る軍資金の輸送をネイサンに任せていた。パリに派遣された末弟ジェームズと連携して、イギリスの金塊を公然とフランス経由でイベリア半島で戦うイギリス軍司令官ウェリントン公爵のもとに送り届けたこともあった[41][42]。
この時期にロスチャイルド家はフランクフルト・ユダヤ人の解放を推進する役割も果たした。「あらゆる人民の法の前での平等と宗教的信仰の自由な実践」を謳ったナポレオン法典を 一般市民法としてフランクフルトに導入する際にフランクフルト大公ダールベルクはフランクフルト・ユダヤ人団体に44万グルデンを要求したが、そのほとん どをロスチャイルド家が建て替えて実現に漕ぎつけたのである(ナポレオン敗退後に自由都市の地位を取り戻したフランクフルト市によって取り消されてしまう が)[43][44]。
マイアーの死去と五家の創設
マイアーは何よりも一族の団結を望んでいた。ロートシルト家の家紋に刻まれた「協調(concordia)」もマイアーの遺訓であり、その精神は彼の5人の息子たち、長男アムシェル(1773-1855)、二男ザロモン(1774-1855)、三男ネイサン(1777-1836)、四男カール(1788-1855)、五男ジェームズ(1792-1868)にも受け継がれた[46][47]。
父の遺訓に従ってフランクフルトの事業は長男アムシェルが全て継承し、他の4兄弟はそれぞれ別の国々で事業を開始することになった。ウィーンには二男ザロモンが1820年に移住した。ロンドンはすでに三男ネイサンが移住していた。ナポリは四男カールが1821年に移住した。パリは五男ジェームズがすでに移住していた[48]。
五家は相互連絡を迅速に行えるよう情報伝達体制の強化に努めた。独自の駅伝網を確保し[49]、伝書鳩も飼育して緊急時にはこれを活用した。またその手紙は機密保持のためヘブライ語を織り交ぜていた[50]。こうした素早い情報収集が可能となる体制作りがロスチャイルド家が他の銀行や商人に対して優位に立つことを可能としたといえる。ワーテルローの戦いの 際にもロンドン家当主ネイサンはいち早くナポレオンの敗戦を知ったが、自分たちの情報収集の早さが他の投資家にも知られており、その動向が注目されている ことを利用して、逆にイギリス公債を売って公債を暴落させた後、買いに転じてイギリス勝利のニュースがイギリス本国に伝わるとともに巨額の利益を上げるこ とができた[51][52]。
ウィーン体制下
ついで1818年10月の同盟軍のフランス撤兵と賠償金分配を話し合うアーヘン会議でもロスチャイルド家は弾き出されそうだったが、この時にジェームスがフランス公債を大量に買って一気に売り払うという圧力をかけたことが功を奏し、オーストリア帝国宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒから会議に招かれ、ザーロモンとカルマンが名声を高めた。以降メッテルニヒとの関係が強まり、1822年にはロスチャイルド一族全員がハプスブルク家より男爵位を与えられ、また五兄弟の団結を象徴する五本の矢を握るデザインの紋章も与えられた[54]。以降ロスチャイルド家はその名前に貴族を示す「von(フォン)」や「de(ド)」を入れることになった[55]。権威は実を伴った。1825年の恐慌でイングランド銀行の救済に貢献し、後に公認の鋳造所を持つほどに同行との関わりを深める。
この時期、ロスチャイルド家は鉄道分野には熱心な投資を行っている。ウィーン家のザロモンは1835年に皇帝の認可を得て鉄道会社を創設し、中欧の 鉄道網整備に尽くした。フランクフルト家のアムシェルも中部ドイツ鉄道、バイエルン東鉄道、ライン川鉄道等の整備に尽くした。パリ家のジェームズもフラン スや独立したばかりのベルギーの鉄道敷設に尽力したが、同じユダヤ系財閥のペレール兄弟と競争になった[56]。
帝政ロシアとの闘争とバクー油田
また1904年の日露戦争では、初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドがニューヨークのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフから「日本の勝利がユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒のきっかけとなる」との誘いを受けたのを機に日本の最初の戦時公債の起債の下請けを行った。3回目と4回目の起債ではロンドンとパリのロスチャイルド家がそろって発行団となった[58]。
一方でパリ家当主アルフォンスは1883年に財政困窮に陥ったロシア政府の公債発行に協力してやっており、その見返りとしてバクー油田の中でも最大級のバニト油田をロシア政府より与えられた。アルフォンスはバクー油田の開発にあたっていた科学者・企業家アルフレッド・ノーベルと協力して開発を進めた。また1914年にはロイヤル・ダッチ・シェル石油に油田を売却し、同社の大株主に転じた。自らの油田を売ってでもヨーロッパ石油産業の再編を進めることでロックフェラーのスタンダード石油がヨーロッパに進出してくるのを阻止する狙いがあった。また1917年にロシア革命が起こってツァーリ体制が崩壊し、ボルシェヴィキ政権が外国資産を全て接収したが、ロスチャイルド家はこの時に売却しておいたおかげでロシア革命による打撃を受けずにすんだ[59]。
衰退
また電信技術の向上でこれまでロスチャイルド家の最大の武器だった素早い情報収集がもはや特別な物ではなくなってしまったこともある。そのためライバル財閥が次々と力をつけてきてロスチャイルド家の影響力は相対的に低下したのである[62]。
1914年に勃発した第一次世界大戦はロスチャイルド家に更なる危機をもたらした。この戦争でロスチャイルド家は敵味方に引き裂かれてしまった。兵役年齢の者はそれぞれの祖国の軍隊に入隊して祖国のために戦った。ロンドン家はエヴェリン・アシル・ド・ロスチャイルドをパレスチナ戦線で失った。ロスチャイルド家の中で最も栄えていたロンドン家は、第一次世界大戦中の税制変更期に初代ロスチャイルド男爵ナサニエルとその弟二人が相次いで死去する不幸があったことで、その財産に莫大な相続税を かけられて衰退しはじめた。ロスチャイルド家の銀行は株式形態ではなく個人所有だったため相続税増税の直撃を被ったのである。19世紀に手に入れた豪邸を 次々と手放すことを余儀なくされた。またロスチャイルド銀行の業務の大きな部分を占める公債発行が戦争のせいで危険な投資になってしまったこともロスチャ イルド家にとっては厳しかった。第一次世界大戦後のロスチャイルド家はこれまで投資した事業を守るだけで精一杯という状況にまで陥っていった[63]。
ナチスによる弾圧
ドイツ国内のロスチャイルド家に由来する記念碑や名称もナチス政権誕生とともに取り払われていった。ロスチャイルド並木通りはカロリング王朝並木通りに変えられた。ドイツ国内にあったロスチャイルド家所有の財団法人や慈善施設も経済や銀行業のアーリア化により財産放棄か二束三文で買い取られていった。フランクフルト家の最後の当主ヴィルヘルムの娘婿だったマクシミリアン・フォン・ゴールドシュミット=ロートシルトの財産も政府に没収された[67]。
1938年にオーストリアがドイツに併合された際には、ウィーン家の者はほとんどがイギリスへ亡命していたが、当主であるルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト男爵のみがウィーンに残っており、併合とともにゲシュタポに連行された。戦前期にはまだ絶滅政策は 行われておらず、財産没収と国外追放がナチスのユダヤ人政策だったので、ルイも全財産没収と外国へ出ていくことに同意するのを条件に釈放され、アメリカへ 亡命した。第二次世界大戦後もウィーンには戻らず、子孫もなかったためウィーン家はこれをもって絶家した(戦後オーストリア政府はナチスが没収したルイの 財産をルイに返還しているが、ルイはその全額を寄付しているので財産上も残らなかった)[68][69]。
1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻でパリが陥落すると、パリ家の銀行や邸宅もナチスに接収された。またパリ家は美術品の収集で知られており、陥落直前に美術品の外国移送に励んだが、移送できなかったものは陥落後に押収された。パリ家の人々の多くはアメリカへ亡命し、ロチルド家御曹司ギーはアメリカからイギリスにわたってド・ゴールの自由フランス軍に入隊した。自由フランス軍の財政は少なからずロスチャイルド家によって支えられていた[70][71]。
ロンドン家は直接の被害を免れたが、1940年から1941年のイギリス本土空襲時には子供たちはワドスドン城ヘ疎開した。ドイツやオーストリアから逃れてきていた孤児たちも預かり、この城に一緒に収容している[72]。戦時中大陸にいて逃げ遅れ、ナチスの手にかかったロスチャイルド家の者が2人出た。フランス家のフィリップの妻エリザベートとロンドン家の第3代ロスチャイルド男爵ヴィクターの叔母にあたるアランカだった。前者はラーフェンスブリュック強制収容所、後者はブーヘンヴァルト強制収容所で落命している[73]。
第二次世界大戦が終わった時、残ったロスチャイルド家はロンドン家とパリ家の二つだけとなった[74]。大戦の影響でロスチャイルド家の衰退は更に進んだ。ロンドン家もパリ家も収入が大きく落ち、出費は増える一方で更に多くの豪邸を売り払うことを余儀なくされた[75]。
戦後復興
パリ家の戦後復興は1949年に正式に当主となったギー・ド・ロチルドを中心にして行われた。ド・ゴール将軍やジョルジュ・ポンピドゥーの協力を得てパリ・ロチルド家の再興に成功している。1981年に社会党党首フランソワ・ミッテランが大統領になった際に一時ロチルド銀行が国有化されたが、ミッテランの社会主義政策の失敗後、ギーの息子ダヴィド・ド・ロチルドの指導の下に再建され、今日にいたっている[78][79]
2003年にはロンドン家とパリ家の両銀行が統合されたロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングスが創設され、フランス家のダヴィドがその頭取に就任した[80]。
現在
現在、ロスチャイルド家が営む主な金融グループは3つあり、それぞれ別れて事業を営んでいる。一つ目はEdmond de Rothschild Groupである。Edmond de Rothschild Groupはスイスに本拠を置く金融グループであり、傘下に、スイスを中心に世界中で富裕層の資産運用(プライベート・バンキング)を行うBanque privée Edmond de Rothschildや、フランスを中心に世界中でワイナリーを営むCompagnie Vinicole Baron Edmond de Rothschildなどがある。グループの傘下企業の一つBanque privée Edmond de Rothschildはスイス証券取引所に上場しており、2011年においてその総資産は140.2億スイスフランである。[81]
二つ目はThe Rothschild Groupである。The Rothschild Groupはフランスのパリに本拠を置くParis Orléansを金融持ち株会社とし、その傘下にフランスの投資銀行Rothschild & Cie Banqueやイギリスの投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズやスイスを中心に活動するプライベートバンクRothschild Bankなどをもつ。[82]ヨーロッパを中心に45カ国にオフィスを持ち、事業はM&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を行うプライベート・バンキングが中心である。特にM&Aでは取り扱い件数がヨーロッパで一番多い。The Rothschild Groupの金融持ち株会社であるParis Orléansはパリ証券取引所に上場しており、2012年においてその総資産は89.2億ユーロである。[83]
なお、3つの金融グループはそれぞれの分野で傑出した業績を誇るが、それぞれの国においてより規模の大きな競合企業が存在する[87][88][84]。
現在のロスチャイルド家を代表する人物として、Edmond de Rothschild Groupを統括するバンジャマン、The Rothschild Groupを統括するダヴィド、RIT Capital Patnersを統括する第4代ロスチャイルド男爵ジェイコブ・ロスチャイルドらがいる。ロスチャイルド家の7代目の後継者は、ダヴィドの息子、アレクサンドル・ド・ロチルドとなる予定である。
ロスチャイルド家とワイン
その後もフィリップとその一族は、カリフォルニアの「オーパス・ワン」、チリの「アルマヴィーヴァ」などのワインを手がけ、いずれも高い評価を獲得している。
フィリップはシャトー・ムートンを最高級のワイン・ブランドとして確立させる一方、1930年代には庶民にも手軽に飲める高品質のワインブランド 「ムートン・カデ」を創り出した。シャトー・ムートンの技術と経験で造られた新作ワインが手頃な値段で楽しめるとあって、ムートン・カデの需要は徐々に高 まっていった。今日ではムートン・カデはフランスで最もよく飲まれているワインとなっている[89]。
世界中の人に愛されているブランドでもあり、2004年には世界で1500万本販売された[90]。日本ではワイン専門店のみならずスーパーなどでも販売されており、日本人にとっても手軽に飲めるワインとなっている。
ロスチャイルド家系図
家祖と「五本の矢」
マイアー・アムシェル (1743-1812) |
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アムシェル・マイアー (1773-1855) (フランクフルト家) |
ザロモン・マイアー (1774-1855) (ウィーン家) |
ネイサン・メイアー (1777-1836) (ロンドン家) |
カール・マイアー (1788-1855) (ナポリ家) |
ジェームズ (1792-1868) (パリ家) |
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フランクフルト家(1901年閉鎖)
ウィーン家(1938年閉鎖)
ロンドン家
ナポリ家(1901年閉鎖)
パリ家
アメリカン・ロスチャイルド
彼らを公開されている系図から探し出すことは困難である。しかし、役職等から一族であることが推察できる。- ルイス・F・ロスチャイルド - N・M・ロスチャイルド&サンズ社長 NATO海上輸送計画会議米国代表
- ジョゼフ・ロスチャイルド - ロスチャイルド印刷社長 コロンビア大学教授 中東和平委員会副会長
- マイケル・ロスチャイルド - プリンストン大学教授 カリフォルニア大学教授
ロスチャイルドに関する著作
- ロスチャイルド家 世界を動かした金融王国 中木康夫 誠文堂新光社, 1960
- ロスチャイルド ヨーロッパ金融界の謎の王国 ジャン・ブーヴィエ 井上隆一郎訳 河出書房新社 1969 世界の企業家
- フレデリック・モートン『ロスチャイルド王国』高原富保訳、新潮選書、1975年
- ギー・ド・ロスチャイルド『ロスチャイルド自伝』酒井傳六訳、新潮社、1990年
- 広瀬隆『赤い楯 ロスチャイルドの謎』集英社、1991年 のち文庫
- ロスチャイルド世界金権王朝 一極世界支配の最奥を抉る! ジョージ・アームストロング 馬野周二監訳 徳間書店, 1993.2.
- デリク・ウィルソン『ロスチャイルド──富と権力の物語』本橋たまき訳、新潮文庫、1995年
- 横山三四郎『ロスチャイルド家──ユダヤ国際財閥の興亡』講談社現代新書、1995年
- ロスチャイルド自伝 実り豊かな人生 エドマンド・デ・ロスチャイルド 古川修訳. 中央公論新社 1999.10.
- ロスチャイルド夫人の上流生活術 ナディーヌ・ロスチャイルド 伊藤緋紗子訳. PHP研究所, 2001.11.
- ロスチャイルド家の上流恋愛作法 愛される女性たちの秘密 ナディーヌ・ロスチャイルド 鳥取絹子訳 ベストセラーズ, 2002.9.
- ヨアヒム・クルツ『ロスチャイルド家と最高のワイン―名門金融一族の権力、富、歴史』瀬野文教訳、日本経済新聞出版社、2007年
- ユースタス・マリンズ『世界権力構造の秘密』成甲書房、2007年
- 世界最大のタブー『ロスチャイルドの密謀』ジョンコールマン博士+太田龍 著、成甲書房、2007年
- 富の王国ロスチャイルド 池内紀 東洋経済新報社, 2008.12.
脚注
注釈
出典
- ^ An historic motto of Rothschild family
- ^ 横山(1995) p.59
- ^ 五人兄弟で唯一、トゥルン・ウント・タクシス家が所有するレーゲンスブルク宮殿(ザンクト・エメラム修道院)に入り、郵便事業の経営に参画した。
- ^ それぞれオーストリア北部鉄道と北部鉄道 (フランス)
- ^ それぞれの出典。MZA, SFAI の順。
- Miguel A. López-Morell, José M. O’Kean The Rothschild House business network in Spain as an example of entrepreneurial decision-taking and management structure 2016年1月閲覧
- C Ciccarelli, Alessandro Nuvolari TECHNICAL CHANGE, NON-TARIFF TRADE BARRIERSAND THE DEVELOPMENT OF THE ITALIAN LOCOMOTIVES INDUSTRY, 1850-1913 2014 p.6.
- ^ 日露戦争のポンド建て借款は考えずに各戦争の4億3432万8700フランと50億フランを比較したもの。数値の出典は各戦争の記事に添えた。
- ^ The Rio Tinto Company: an economic history of a leading international mining concern, Charles E. Harvey (1981), page 188
- ^ Return of the Rothschilds: the great banking dynasty through two turbulent centuries, I.B.Tauris, 1995, Herbert R. Lottman, page 299
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- ^ “RIT Capital Patners Annual report 2012”. ritcap.co.uk. 2012年7月19日閲覧。
- ^ Bloomberg Global Financial Advisory M&A Rankings
- ^ Swiss Banks Buck Secrecy Squeeze With $53 Billion of Inflows Bloomberg
- ^ ヨアヒム・クルツ著 『ロスチャイルド家と最高のワイン』 2007年 日本経済新聞社 256頁
- ^ Kiley, David, BusinessWeek. “Winning Back Joe Corkscrew”. 19, July, 2012閲覧。
- ^ 広瀬隆 『ジキル博士のハイドを探せ データベース全地球取材報告』 1988年4月 (ダイヤモンド社) 217頁
参考文献
- 池内紀 『富の王国ロスチャイルド』 東洋経済、2008年(平成20年)。ISBN 978-4492061510。
- 大澤武男 『ユダヤ人ゲットー』 講談社〈講談社現代新書1329〉、1996年(平成8年)。ISBN 978-4061493292。
- 小倉欣一・大沢武男 『都市フランクフルトの歴史 カール大帝から1200年』 中央公論社〈中公新書1203〉、1994年(平成6年)。ISBN 978-4121012036。
- ヨアヒム クルツ 『ロスチャイルド家と最高のワイン 名門金融一族の権力、富、歴史』 日本経済新聞出版社、2007年(平成19年)。ISBN 978-4532352875。
- ジャン・ブーヴィエ 『ロスチャイルド ヨーロッパ金融界の謎の王国』 井上隆一郎訳、河出書房新社〈世界の企業家2〉、1969年(昭和44年)。ASIN B000J9Q8KI。
- フレデリック・モートン 『ロスチャイルド王国』 高原富保訳、新潮社、1975年(昭和50年)。ISBN 978-4106001758。
- 横山三四郎 『ロスチャイルド家 ユダヤ国際財閥の興亡』 講談社〈講談社現代新書1252〉、1995年(平成7年)。ISBN 978-4061492523。
関連項目
- イングランドのロスチャイルド家
- フランスのロチルド家
- オーストリアのロートシルト家
- ナポリのロートシルト家
- ロスチャイルド男爵
- ロスチャイルド家 (映画)
- ロックフェラー家 - アメリカの名門実業家ファミリー
- ゴールドシュミット家 - ユダヤ人の銀行家ファミリー
- ユダヤ・ウォッチ - ユダヤ陰謀論を展開するアメリカのウェブサイト
- 宗教事業協会
外部リンク
歴史
- ロスチャイルド家公式サイト- ロスチャイルド家についてその歴史から現在の事業や文化的遺産まで幅広く紹介している
- ロスチャイルド家について - ユダヤの百科事典(Jewish Encyclopedia)より
- Rothschild Archive
- Edmond de Rothschild Group - スイスに本拠を置くプライベート・バンキングを営む金融グループ
- The Rothchild Group - 投資銀行業務を中心に活動する金融グループ
- Paris Orléans S.A. - The Rothschild Groupを統括する金融持ち株会社
- Rothschild Private Banking & Trust - The Rothschild Groupのプライベート・バンキング部門
- RIT Capital Partners plc - ロスチャイルド家によって設立されたロンドンに本拠を置くインベストメント・トラスト
- Domaines Barons de Rothschild (シャトー・ラフィット・ロートシルト)
- Baron Philippe de Rothschild SA (シャトー・ムートン・ロートシルト)
- Compagnie Vinicole Baron Edmond de Rothschild - Edmond de Rothschild Groupが所有する会社
- Rupert & Rothschild Vignerons
- Waddesdon Manor (イギリス)
- Ascott House (イギリス)
- Exbury Gardens (イギリス)
- Villa Rothschild Kempisnki (ドイツ)
- Villa Ephrussi de Rothschild (フランス)
- Château de Montvillargenne (フランス)
- Château de Ferrières (フランス)
- Hôtel Salomon de Rothschild (フランス)
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