2016年1月27日水曜日

反日はどこからくるの

反日を追っています。そして守るべき日本とは何か考えています。

ひまわり学生運動からはじまって民進党大勝利で一応の帰結をみた台湾総選挙だが
蔡英文政権 ここからが本当のスタート

ひまわり学生運動を今まで取り上げず静観していたのは自分的に理由があって

19
小4詐称青木大和のおかげでサヨク人脈が芋づる

10香港デモお前らのデモイケテないhttps://twitter.com/yamato3994/status/520479394570047491

組織力、戦略性、語学力・・
これを見て全米民主主義基金が関わってるんじゃないかなぁと思ったわけですが
やっぱりそうかも

中国から見た香港デモ――背後にアメリカと台湾独立派

遠藤誉 | 東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士

 香港デモに関して中国政府は背後に全米民主主義基金や台湾独立派があると見ている。たしかに11月29日に台湾で行われた統一地方選挙には多大な影響を与えた。香港デモが消えそうな今、中国は勝利者なのか? 

 12月2日、北京政府寄りの台湾国民党の馬英九が惨敗により党主席の座を辞任する意向を示し、中台統一は遠のくばかりだ。

◆全米民主主義基金とは
 少なからぬ読者の方は、すでに全米民主主義基金のことをご存じだとは思うが、念のため簡単にご説明しよう。この基金はレーガン政権時代(1981年~89年)の83年に他国の民主化を支援するために設立されたもので、英語ではNational Endowment for Democracy(NED)と称する。中国では米国国家民主基金会と訳されているが、ここでは日本流に全米民主主義基金あるいはNEDと称することにする。

 NEDの資金源は主としてアメリカの国家予算、特に国務省のアメリカ国際開発局から受けている。もともと対外諜報活動を行うCIA(Central Intelligence Agency、中央情報局)が秘密裏に行ってきた業務の一部を公然と行うために設立されたものだ。「思想と価値観」を「輸出」するため、同時に資金援助をしてきた。

 中国はNEDが他国の内政に干渉し、民主化運動を支援しているとして、早くからNEDの活動を警戒してきた。それだけ中国が「民主的ではない」からだろう。

 今般の香港デモの「占領中環」(オキュパイ・セントラル)(香港の中心地を占領する)方針を提唱したのは、香港大学法律学系の戴耀廷(たい・ようてい)副教授、香港中文大学社会学系の陳健民副教授およびキリスト教牧師・朱耀明などである。

 このうち、香港中文大学の「香港米国センター」は香港にある8大学を横につなぐ大学連盟機構を形成している。今年3月15日と16日、このセンターは人材特訓を行い、「占領中環」の中心となる若者を養成したという。

 1989年6月4日の天安門事件以来、NEDは共産圏の労働者階級ではなく若者にターゲットを絞って養成するようになり、大学などにあるアメリカ研究センターに資金を援助し、もっぱら若者の養成に主眼を置いているようだ。

 香港デモのリーダーとして若者を牽引したのが18歳になったばかりの黄之鋒。彼は頻繁に香港のアメリカ領事館に出入りしていただけでなく、「カトリック教平和委員会」を通して、活動資金として予め10万米ドルを2012年11月にNEDから受け取ったと、9月26日付の「環球時報」などが書いている。環球時報は中国共産党の機関紙「人民日報」系列の新聞である。

 環球時報は、NEDは今年3月になると黄之鋒にさらに160万米ドルを渡しており、もし占領中環デモにより当局から監視されるようなことになれば、必ずアメリカに留学させ、その資金の全額をNEDが負担すると黄之鋒に約束しているのだと、報道している。

 また、5月8日にはアメリカのダニエル・ラッセル国務次官補(東アジア・太平洋担当)が香港に行き、これら「占領中環」派たちと接触したという。

 つまり今般の香港デモの背後にはNEDがあり、そのNEDのバックにあるのはアメリカ国務省なので、「アメリカの二面性」を中国は強く非難している。NEDから香港の「占領中環」派に送られた支援金額は、中国メディアによれば4億香港ドル(約61億2千万円)親中系香港メディアによれば3400万香港ドル(約5億2千万円)だと報道されている。

◆デモの背後には台湾独立派と連携する黎智英が――中国メディア
 人民日報も、また中国政府の通信社である新華社通信も、デモの背後には、NED以外に、「台傳媒」(台湾メディア)の総裁である黎智英(れい・ちえい)がいたと報道している。

  1948年に中国大陸の広東省で生まれた黎智英は、1960年、12歳のときに香港へ渡った。現在の中国(中華人民共和国)が1949年に誕生すると、父 親は香港に逃げてしまい、母親は思想が悪いとして労働改造所にぶちこまれたので、まだ幼かった黎智英は、姉妹の生活の面倒を見るため、港で荷物を運搬する 苦力(クーリー)(肉体労働者)の仕事をした。そのとき香港から来た旅客が賃金の代わりにチョコレートをくれた。そのあまりの美味に驚き、香港はきっと夢 のような世界にちがいないと思い、澳門(マカオ)から泳いで香港に辿り着いた。

 やがて定職に就いたが、会社の厳しい過失処分に懲りて自分でファッション店を創業し、1989年に天安門事件が起きると、胸に抗議の言葉を書いたTシャツ20万枚を、天安門事件抗議デモに参加する香港の若者たちに配った。このことから政治家と接触するようになり、民主党の元老、李柱銘らと知り合う。

 1990年に『台週刊』という台湾情報を伝える週刊誌を創刊し、95年には「リンゴ日報」(Apple Daily)を創刊。2003年になると台湾でも「台湾リンゴ日報」を創刊するなどして、2010年には「中華民国」の国籍を取得した。

 人民日報や新華社は、黎智英が台湾民進党の前主席である施明徳と陰謀して、「占領中環」を推し進めたと断罪している。

  香港が乱れれば、先月末(11月29日)に台湾で行われた統一地方選挙に影響を及ぼし、国民党のように中国大陸と仲良くして「一国二制度」などを遂行され たら悲劇だと台湾国民に印象付ける。それによって国民党が大敗するように持って行くというのが、黎智英と民進党の狙いだというのである。

 それは一理あるかもしれない。

 事実、前回のコラムに書いたように北京寄りの国民党が惨敗し、台湾独立を唱える民進党が圧勝した。

 しかし、12月1日、黎智英は学生たちが主導権を握るべきだとしてデモから抜けることを宣言した。また、香港大学の戴耀廷副教授ら「占領中環」を呼び掛けた理論派団体も、12月2日には離脱を宣言し、学生たちにも撤退を呼び掛けている。

 いま現在、残っているのは大学生団体「香港専上学生聯会(学聯)」と高校生団体「学民思潮」だけだ。

 NEDが背後にいたのかどうかは別としても、筆者の目から見れば「占領中環」という戦術が良くない。

 もっと別の意思表示の方法があったはずだ。市民の共感を得られるような方法であったならば、中国中央の圧力があったとしても、反デモ署名を今ほどまで集めることは困難だっただろう。

 もし背後にNEDがいて、アメリカが手を引いたのだとすれば、それはアメリカ国内における警察と黒人差別に関するデモがアメリカ全土に広がっており、香港どころではなくなってきたという事情があるからかもしれない。

 そしてもし、黎智英の背後に台湾の民進党があったのだとすれば、その目的は十分に果たされたと言えるのだろう。

 いずれにしても、こうなったら当局の思う壺だ。

 警察が強硬措置を取っても、もはや市民からの抗議はないと、当局は読んでいるにちがいない。

 だからといって、これを中国中央の勝利と言っていいだろうか?

  2日に、台湾の国民党党首である馬英九が、統一地方選挙惨敗の責任を取って党主席の座を辞任する意向を表明した。これにより、中国共産党と台湾の国民党の 党首同士としての会談の可能性はなくなり、中国が改革開放以来描いてきた中台統一へのロードマップは断ち切れてしまった。
(結局会談は実現したが任期終了間近での会談に意味があったのかどうか)

 香港への高圧的な姿勢と民主への弾圧は、思いもかけない形で中国中央に跳ね返ってきている。
チャイナ・マネーがどんなに強くとも、最後に生き残るのは「金」ではなく、「人間の尊厳」と「自由と民主」でなければならない。
YAHOO!ニュース2014.12.3
http://bylines.news.yahoo.co.jp/endohomare/20141203-00041165/


環球時報がソースってどこまで信じていいかわからないながらも
それをにおわせる動きではあったんですね
民進党が左派であること
アムネスティ台湾代表がいることなど考えてもどうもそれくさいと自分も思う

全米民主主義基金の関与があったとしても、台湾が一つの民主国家であることは台湾にとってもいいことだと思うので支持するが
アメリカが手突っ込んで関与するのが良い結果をもたらすとは限らないし

現にアラブの春は良い結果をもたらしたとは言えないと思うし

日本においては・・・
→ 陰謀論じゃない。ウクライナで起こったこと。 
非常に警戒すべきことじゃないかと思える

おめでとう!良かったね!と思う一方
冷たい予感で我にかえってしまう・・

それでも

民進党副総裁陳健仁東日本大震災支援民進党副総裁陳健仁東日本大震災支援2
【youtube】【台湾CH Vol.116】総統選挙―民進党勝利の意義と今後の日台関係[桜H28/1/22]

日本頼むよ!とサイン送られたからにはそれに応えたいよね

追記2016.1.27

【youtube】【宮崎正弘】台湾総統選レポート[桜H28/1/18]

6:32~
渡邊哲也氏「民進党のプロモーションって従来のプロモーションと全く違うんですよね。あの、日本の政権交代選挙でもありましたけど、明らかに欧米型のコンサルティング会社、PR会社が入ってるんじゃないかと思われるフシが様々見えたということですね。」

7:30~
宮崎正弘氏「各社号外出しましたけどね、一番突飛なのは、ほら見て下さい。リンゴ日報。この大きさでカラーですよ」
台湾総選挙リンゴ日報蔡英文 

うん。やっぱり話は一致してるように思えるね。 

台湾総選挙の際中国が何かやらかすのではないかと思っていたが
尖閣周辺で「武装」中国船が領海侵犯
大変静かだった理由その2を発見
(理由その1→「台湾独立」とは言えない台湾


【youtube】1/3【討論!】台湾W選挙の結果とアジアの未来[桜H28/1/23]

21:05~
福 島香織氏「蔡英文さんの勝利演説、素晴らしかったですね。で、私まぁここまで言うかと思ったのは、一番ハイライトのフレーズっていうのが、今日の選挙結果 は台湾の民意のあらわれであり、中華民国は一つの民主国家であり2300万の台湾人が共に堅持すべきものであります。私達の民主制度、国家のアイデンティ ティ、国際環境は必ずや十分に尊重されるべきものであり、これに対するいかなる攻撃も両岸関係の安定を破壊するものと認識します。ここまで言い切ったんで すね。これ見出しに取りますよね、普通なら。中華民国は一つの民主国家です。これ完全に92コンセンサス(→【wiki】九二共識を否定してるんですよね。

で、 これははっきり言って民意です。誰も中国と台湾が一つの国だなんて思ってる人はいません。今の台湾人は。国民党もそうです。国民党は国民党の党是に入っ ちゃってるから言ってるだけだけども、全然状況が違うことも、政治システムが違うことも、分かってるわけで、国民党内であってもちょっとおかしいのはみん な分かってて、特に台湾の新世代、ひまわり学生運動起した人達ってのはこれを一番よく分かってるんですね。

だから私もリンフェイフォン(→【wiki】林飛帆)って台湾リーダーも取材しましたし、今度時代力量ってひまわり運動から出ている政党ですけども、そこですーごい若者に人気のあるフレディ・リムさん(→【wiki】フレディ・リム) にも取材しました。デスメタルのね。日本でもすごい大好きな人いっぱいいて、私の友達もね、フレディに会って来てってみんな言うんで、分かった会って来る よ~みたいな感じで会って来たんですけども、彼らの言葉を聞くと、独立とか統一とか古い。なぜなら、今台湾は民主国家だから、っていう認識なんですよ。僕 は生まれてからずっと、つまり2008年くらいが小学校低学年くらいで、ものを考えられる頃からずっと台湾は民主国家だったのに、いきなり何か民主国家 じゃないみたいな雰囲気になって、どうしたことか、っていう戸惑いがひまわり学生運動になったんですよね。その運動を通して勝利して、我是台湾人(=私は 台湾人:筆者)とか言ってスローガン出てましたけど、普通語で出てましたけど、要するに私達は台湾人だっていうところに今辿り着いて、それを察知した民進 党の運動が勝利した。

実は国民党の人もそう思ってるんです。国民党員も。青の人もほとんど。ただ馬英九が違うと。だからこの選挙の後で国 民党がどうなるか。分裂しちゃうのか、あるいは、フェニックスみたいに一端滅亡してから甦るのか分からないですけども、急におかしいよと。だけど勝利宣言 でここまで言ったんだけど、中国はあんまり怒ってないというか、激しい反応はしてないん ですよね。で、中国は何を考えてるのかというと、とりあえず蔡英文のことは様子見。さっき経済の話出ましたけども、実際経済運営してたら米とか柴・・燃料 とか高いってことが分かるはずだって環球時報が書いてましたけれども、要するに実際国の運営してみたら口で言うようにね、中国のこと突っぱねることは出来 ないと。絶対蔡英文は妥協するって思ってるんですよ。だからギリギリギリギリ4年間絶対いじめられると思うんですよね。で、実際妥協するかどうか我々はドキドキしながら見ている。

こ の勝利宣言で、みんなの民意だと。中華民国は一つの民主国家です、と蔡英文言い切ったけれども、これが4年の間に、次の選挙の前にひょっとするとね、妥協 しちゃって一つの中国って言い出すことがあるんじゃないかと。私民進党支持者にそんなことあったらどうしますって中国の圧力に屈してと、そんなことになっ たら有権者への裏切りだから民進党政権は壊れるというようなことは言ってましたけど、結局中国はものすごく自信を持ってます。 環球時報ってのは人民日報のタブロイド判でね、民衆にアピールするような新聞なんですけどそこでね、要するにアメリカの軍隊は台湾を守り切れるほど強くな いと。で、経済は台湾は中国の経済から離れたら窒息すると。中国の経済にすり寄れば繁栄すると。はっきり言って我々が外交的経済的手段をこうじたら台湾な んか一たまりもないって。こう言ってるんですよね。だから必ず4年の間に蔡英文は屈すると。妥協すると。ここまで挑戦状突き付けられたら本当にいばらの道 だなぁと。客家のお金持ちのお嬢さんで何不自由なく暮らせる身分なのにこんな辛い仕事を選んで大変だなぁって思いますけども、なので私は、日本の国がどう いう風に台湾に接するかってのはすごく大きなポイントだと思います。

日本にとっても台湾が一つの民主国家であるという国家アイデンティ ティを持つっていうのはすごく重要なことなんですね。これがこれからの10年20年の東アジア情勢の一番のポイントになると思います。要になると思いま す。そういう意味では2016年が歴史的選挙だとおっしゃった意味がよく分かると思います。だから私は2014年のひまわり学運が起こったのがはじまり だったと思っているので2016年のこの選挙が一つの到達点だけど、実はこっからが真のはじまりで、蔡英文政権を4年間もたせるか、もたせないか、あるい は台湾の民主国家アイデンティティを維持させるかさせないか、っていうことがこの東アジア情勢の、日本の尖閣問題とかも含めて大きく左右されるということ ですね。

蔡英文さんね、記者会見の時に英語の通訳がつくんですね。国際記者の前で。通訳の英語の部分だけ、国際社会、って言ってる時に、日本とアメリカ、その他の国々を含む国際社会って英語では言ってるんですよね。これは中国語では言えないんだけど、頼むよ!っていうサインなので受け止めて欲しいですよね。」


中国が存外に静かだったのは
わざわざ砲艦持ち出さなくても取り込み済みだよっていうことでは・・余計悪いやんけ・・
と自分も思っていた
中共には強気一択しか選択肢がないからそう言わざるを得ないんだろうが

(力によってとって代わられるシステムって嫌よね。ひたすら強気一択。虚勢張って常に等身大よりいかに大きく見せるかっていう。謙遜は美徳ではなくて弱い。優しいは弱い。付け込まれるスキ)

蔡英文さんはLGBT推進派
→http://blogos.com/article/155888/
フレディ・リムさんはアムネスティ・インターナショナル台湾代表
民進党はリベラル政党なんですよね

音楽は素晴らしいし自分も好きなんだけど
政治となるとどうなんだろう・・と不安にはなるよね
日本の自称リベラルは見習わないで(失礼)、地に足つけて頑張って欲しい・・


【youtube】CHTHONIC - Broken Jade Official Video | 閃靈 [ 玉碎 ] MV (英語版) |

台湾総選挙で中国が何かしでかすか?と思っていたのが随分静かだったので
尖閣周辺で「武装」中国船が領海侵犯
どこかに何か書いてないかなと思ってウロウロ記事見て回ったけどよく分からない。

ぼんやり動画見てたらようやくそれらしいことに触れている個所発見

【youtube】【台湾CH Vol.116】総統選挙―民進党勝利の意義と今後の日台関係[桜H28/1/22]

31:51~
永山英樹氏「実際中国はですね、蔡英文さんに怒れないですね。なぜならば蔡英文さんは今回圧倒的な勝利をおさめました。台湾の民衆は台湾独立を支持してるんだ、ということが中国に伝わってしまうと、習近平さんのこれまでの対台湾工作が失敗したということになって、政敵からですね、競争相手から足引っ張られかねないことになってしまう。今回中国側の御用メディアの論評見ても分かるんですが、今回の民進党の勝利は中国の問題じゃなくて台湾国内の問題、馬英九がね、政治失敗したから、有権者民進党に票入れちゃったんだと。不景気だから、経済不振だから向こうに入れちゃっただけなんだと。そういったことで中国の台湾工作が失敗したんじゃありませんというようなことを強調してるわけなんですね。

国務院の台湾事務弁公室のコメント見ても分かるように一言も蔡英文とも書いてない、民進党とも書いてないわけですね。書いちゃったら敵に回すことになって、これから仲良くできなくなる。中国共産党は実は民進党とも仲良くしたいんです。仲良くしなかったら平和統一出来ないでしょ。台湾人と仲良くして交流を通じてどんどん篭絡していくのが、中国の戦わずして勝つ戦法ですから。だから民進党敵にしたくない、というのもあるわけですね。

(日中友好協会会長が「友好」と言いつつ色々工作していたのも同じですね
抗日記念館・名誉議長のいとこ=日中友好協会会長 )

確 かにね、我々の立場は一貫していると言うけれども、こういう分析があるんですね。これは中国国内向け、中国の強硬派、タカ派向けのメッセージだということ ですね。それから、中共は一つの中国を認める政党と交流しながら、中華民族の偉大な復興を遂げていきたい。こう言ってます。どういうことかと言うと、中華 民族の偉大な復興というのはですね、台湾を併呑するという意味なんです。そうやって中華民族の偉大な復興は遂げられるんですよと。台湾を回収することで大 清帝国の偉大な版図は回復できるし、あるいは、台湾という戦略的な要所を取ってアジアに覇権を打ち立てるということでですね、これは台湾統一を意味してる んですね。

ところが今一つの中国を支持する政党は30何議席しかなくなっちゃってるわけなんで、そういう意味で今回の民進党の勝利という のはですね、中国統一、中国拡張の夢をとりあえず挫折させたという意味で、アジアの安全保障からみればとても意義のあることだったというわけですね。」

36:45~
永山英樹氏「アメリカ政府はですね、前の民進党政権、陳水扁さんの時はですね、色々と、国連加盟の動きを見せたりして、中国を怒らせ、緊張を高め、アメリカから嫌われてしまったわ けですね。ところが今回蔡英文さんはそういった経験を踏まえてですね、今回自重しますよと。中国を刺激しないようにやりますよと。そういったメッセージを 何度も何度も送り、先程の当選後のコメント見てもですね、中華民国の憲法体制守りますって言ってるでしょ。昔のね、陳水扁さんの時代だったら台湾と中国は 別々の国ってはっきり言ってるんだけども、そういうことも言えなくなっている。このように自重したわけなんですね。だからアメリカも安心して陳水扁政権と 交流していきましょうっていう動きになっている。日本政府もおそらく同じだと思うんですけども。ただ、これで良かった良かったというのは間違いだと思うん ですね。

日本のメディアも今回中国に刺激を与えないようにしたと。そういった蔡英文さんを評価してますけども、ただ、それで、評価するの は結構なんですけどね、忘れてはならないのは、今回台湾は自重することで、抑えることによってですね、自らの自決権、台湾の将来どうするかっていう権利を 自ら規制を加えてるんです。例えばですよ、台湾は国連加盟した方がいいんですよ。国際社会の一員になりたいんですから。ところが、国連加盟と言うと中国怒 る。怒るからアメリカは言うなって言う。蔡さんはアメリカの支持が必要だから言わないわけですよ。こういった不条理があるのか、っていうわけですね。例え ば台湾独立、台湾独立、って蔡さんのことみんな言うわけですけれど、実際台湾独立って中国からの独立じゃなくて中華民国体制からの脱却という意味なんです。中華民国憲法やめて新しい憲法作ろう。CHINAやめよう、というわけですね。そしたら中国は怒る。だからアメリカそれを許さない。蔡さんもそれを言えないわけなんですね。

つまり、アメリカの、あるいは中国の圧力を受けてこのように台湾は、小さな国台湾は自分達の自決権を放棄するとは言わないけども、規制を加えちゃってるわけなんです。こういったことを国際社会は忘れていいのか。ただ台湾は中国と仲良くやってくれればいいんだ、そういって無責任な考え方目立ちますけども、一体どこがですね、台湾の自由を守れと言ってくれてるのかということですね。まぁそういった言論はないわけじゃないんですけどね。ただ多くは忘れてますよね。

台湾は中国の植民地でもアメリカの植民地でもないわけなんですからね、ま、日本はね、台湾を国と認めてなくても国は国ですしね。少なくとも中国の一部じゃないんですから。本当に台湾の人達と同じ気持ちで応援していきたいですね。」
(夜郎自大国二つの間で汲々とする日本に驚くほどソックリ)


「台湾独立」活動、断固として反対…中国が談話

【北京=中川孝之】中国国営新華社通信によると、中国の国務院台湾事務弁公室は16日深夜、台湾総統選の結果を受けて談話を発表。

 「我々の対台湾政策は一貫して明確で、選挙結果で変化はしない。これからも『1992年合意』を堅持し、いかなる形式の『台湾独立』分裂活動にも断固として反対する」と、名指しは避けながらも、当選した蔡英文(ツァイインウェン)氏をけん制した。
読売ONLINE2016.1.17
http://www.yomiuri.co.jp/world/20160117-OYT1T50013.html 


余談
「俺の主席がこんなに萌えるわけがない!」台湾次期総統候補・蔡英文氏が艦これのあのキャラに激似!
http://togetter.com/li/909990

【youtube】 3D小英幕後製作花絮 
とってもかわいい蔡英文たんw


【youtube】亮點(萌版)台灣總統大選候選人蔡英文選舉歌 [輝き(萌えver)台湾総統選立候補蔡英文(英ちゃん)選 
いい曲ですね

そしてどっかの国が秋葉原を目の敵にするのも分かるような気がしたのであった 

松井石根大将が涙の訓示をしたという件について

【youtube】【小川和久】マット安川のずばり勝負2016年1月22日(金)中国、米国、北朝鮮、世界の安保体制が変動中!!日本のとるべき道とは?

37:28~
小川和久氏「日本の慰安所のシステムは南京攻略戦が発端だと言われてますが、とにかく乱暴狼藉の限りを尽くしたところあるんですね。民間人の婦女子に対する性的暴力が振るわれてあの時の司令官の松井石根大将は泣いたん ですから。何たることをしてくれたのかと。そんなことがはびこったんでは反日感情は高まる、占領地の治安は悪くなる、統治も出来ない、しかも性病が蔓延す るのをコントロールできないから戦闘能力が下がる、そういったことを全部含めて慰安所のシステムを考え出し、まずは遊郭を経営している日本側のみなさんと 相談して協力をしてもらう。それに対して慰安婦の輸送は軍がやります。慰安所の管理は部隊によっても違いますが、管理部があるところは管理部がやる。主計 将校がやる部隊もある。だから中曽根さんは主計官として慰安所を設置した話を講演会でしていたし、それからフジサンケイグループの鹿内さんは陸軍の主計将 校としてね、それやったって自分で言ってますよ。これ別に性的暴力が振るわれないための仕組みですからね。」

40:15~
小川和 久氏「なんかたわごとばっかりガキみたいな話ばっかりして、いつまでたっても謝罪外交繰り返す話なんですよ。一回ばーんと認めると色んなとこから声が出て も、一回ちゃんとやりましたからって他の国もいや、日本はちゃんとやったからって認めてくれるわけ。そこまでやんないとダメ。だから他の国が謝ったか謝っ てないかってそりゃ謝り方色々あるんでね。だから一回そのへんから抜けないと日本人は、私も含めてだけど外交や安全保障は島国で来たから分かんないんで す。第一次安倍政権の時は言い訳から入っていって誰も聞かなかった。で、その後安倍さんすごく勉強してきてるから今回は各国の反応みながらうまく路線をよ い方向に修正してますよね。」


松井石根大将の訓示について
たまたま動画で聞いたばっかりだったので書き起こし


【youtube】「討論『南京』日中情報戦争」13-10(H19.1.13) 


【youtube】「討論『南京』日中情報戦争」13-11(H19.1.13)

13-10 の 7:03~ 
藤岡信勝氏「よくね、松井石根大将が軍紀が弛緩しているって訓示をしたっていう話ありますね。あれも私ずっと気になっていたんですけどね、実はあの時の現場にいた一人がね、もう亡くなられましたけど、犬養総一郎さんという方なんですね。この方は松井大将は何を言い出したのかと思ってですね、非常にしらけたというか、何を言ってるんだと。そういう雰囲気だったそうですよ。聞いてる人達が。というのはそういう状態でないからね。

そ れで、なぜ松井大将がそういう訓示をしたかというと、犬養先生の話で私ずっと繋げてみて分かったんですけど、つまり南京の現地じゃなくて上海にね、いる外 務省の本省に電報が行ってるわけですよ。それは、南京で何かひどいことがあったらしいと。日本軍によるね。そういう風聞のようなものが入っていて、これは 大事な情報だからっていうんで現地の外務省の担当者が本省に通報したと。だけど私はね、南京で日本軍の大虐殺めいたことが起こると予想して、待ち構えてい たと思うんですね。南京事件は、たまたま起こった事件を後からどうしたっていうんじゃなくて、最初から仕組まれていたと思うんですよ。だからジャーナリス トを装って、国民党が雇ってたっていうね、最初から情報戦なんです。事件があって後から宣伝して情報戦になったんではなくて、事柄の最初から情報戦なんで すね。」

水間政憲氏「先生それね、間違いないと思いますよ」

藤岡信勝氏「それで上海にそういう風聞が伝わったのはそう いうことやるぞやるぞって話になってたと思うんですね。それが本省に行って、外務省から逆に松井大将のところに、その外務省ルートで、こういうことが来て るからっていうことで。つまり松井大将は現地を見て軍紀が緩んでるから嘆かわしいって訓示したんじゃなくて、外務省の本省ルートで来た情報を元に、皇軍の 厳しい軍紀にしては、 けしからんと。そういう訓示をしたと、そういう流れになってるんですよ。こういう流れがあるんで、外務省系統の人はどうしても、何か民間人に対する相当ひ どい集団的なことがあったらしいと。いう風なイメージをずっと持ってらっしゃるんですが、それはこういうことなんですね。

だから松井大将のその話もね、花山信勝とのあれなんかも、そのことも含めて、私は情報戦に一部引っかかってたという風に思うんです。」

中村粲氏「松井大将の涙の訓示ってのはあれ間違いだったんですね。12月18日じゃなくて実は2月の7日なんですね。これはあの、上海時代を書いた松本重治さんも 認めてるんですね。で、私松井さんはねそういう風な訓示をされたかもしれないけど、その時にはね虐殺とか、捕虜の処刑についてはご存じなかったと思うんで すよ。あの人の耳に入っていたのは略奪とか強姦とか、そういったものであって殺害については松井さんの耳には入ってないと思うんですね。」

藤岡信勝氏「それにしてもけしからんと。そういう思いを持たれたかもしれませんね。」

中村粲氏「松井さんがそれを知ってたら許すはずがないんですよ。」

水間政憲氏「先生が今ね、宣伝が用意されていたと。それは実証できるんですよ。同じ城壁で、南京攻略戦の時に無錫を 通ってるんですよね。あそこも城壁都市なんですよ、同じように。ところが無錫では虐殺あったって、未だかつて言われたことないですよね。で、上海戦の後、 南京に行くまでの間、相当日本軍やられましたからね。南京よりもっとカーっと感情的に頭に来てる時に無錫通ってるんですから、無錫周辺で大虐殺あってもい いんですよ。南京であるなら。ところが、その当時情報戦やるのに無錫大虐殺って言っても世界の誰も何だ無錫って、って分かんない。南京は中国の首都ってこ とで有名ですから。もう南京でやろうと。無錫は通ったにしても同じような城壁ですからね。だからそういうことだと思いますよ。藤岡先生が言ってるように、 南京で宣伝戦をやろうと。それで、アメリカ、欧米を味方につけて軍事物資とか金を融通してもらとうと。そういう戦略があったと思いますよね。」

中村粲氏「藤岡さんがね、保守系の人間でも軍紀厳正だったのを認めない人がいると言ってましたが、私はそんなことないと思いますよ。非常に軍紀は厳正だったと思いますよ。南京事件においてもね。いくつも例ありますよ。」

軍紀厳正だったのを認めない人→例)小川和久氏、ですかねぇ
(小川氏が保守系なのかどうか知らねども)
軍事アナリストで情報戦について語っているのに
「一度謝ってしまうべき」と何でそんな花畑なのか非常に疑問
(動画コメント欄も同様の疑問が出てますね)
じゃぁ日韓基本条約は何だったのよと
敗戦国なら条約覆されても文句言うなと?


中村粲氏も多少の捕虜の不法処刑があったことを認めた方がいいと言ってるんで
この国の病根は根深いと言うべきか
それこそグローバルスタンダードで通用しないと認識した方がいいんじゃないかと思いますね

軍事アナリストがこんなでは
この先も謝罪外交は続き、情報戦に負け続ける未来しか見えないんですが

敗残兵・便衣兵の処刑については
非戦闘員と選別して良民証を発行してる
動画にも残っている

【youtube】戦線後方記録映画「南京」 1938年東宝文化映画部作品.avi 34:30頃

参考
A級戦犯ではなかった松井石根大将 

南京大虐殺()を論じる前にまず踏まえておくべきこと
大屠殺(中国)と大虐殺(日本)の違い 

【戦後70年~東京裁判とGHQ(4)】
戦後史は闇市から始まった 占領政策の後遺症とWGIPの呪縛はなお…
GHQ新橋

 連合国軍総司令部(GHQ)の占領統治が始まった昭和20年9月。全国の都市部は焼け野原が広がり、バラック建ての闇市が点在した。東京では、新宿、新橋、上野、池袋などに闇市ができた。

 江戸東京博物館館長の竹内誠(82)は毎日のように上野の闇市を通って旧制上野中学に通った。
  饅頭、クジラベーコン、ピーナツ、タワシ、茶碗-。食料や生活用品が所狭しと並び、「これを足して、さらにおまけで」と威勢のよい声が響いた。飲み屋のバ ラック街もあり、夜になると「カストリ」と呼ばれる密造焼酎を求め、男たちが集まった。21年に入ると瓦礫は次第に撤去され、並木路子の「リンゴの唄」が あちこちで流れるようになった。
 上野駅前には小箱を脇に抱えた子供たちが進駐軍相手の靴磨きをしていた。上野山の坂道には米兵相手の娼婦「パンパンガール」が並び、理由は分からないが、頻繁に髪の毛をつかみ合ってけんかしていた。
 竹内と母親が上野公園で弁当を開いたら、後ろから子供の手がニュッと伸びて握り飯をつかんだ。戦災孤児だった。仕方なしに「どうぞ」と渡すとニヤッと笑って走り去った。竹内は懐かしそうにこう振り返る。
「戦争で敗れてどん底だったが、みんなは意外と明るく活気があった。今日より明日、明日より明後日と世の中がよくなっていくイメージをみんな持っていたんだな…」

× × ×

 連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーの主要な任務は、戦争犯罪人の処罰▽非軍事化▽民主化-の3つだった。そこでマニラの極東司令官時代からの部下「バターン・ボーイズ」をGHQの要所に配し、権力をより固めた。
 中でも信頼を寄せたのが、弁護士出身の将校である民政局(GS)局長、コートニー・ホイットニーだった。GHQ内で唯一マッカーサーとアポなしで面会でき、ほぼ毎夕1時間ほど面談した。これにより、ホイットニー率いるGSはGHQ内で覇権を握り、主要な占領政策をほぼ独占して推し進めることになった。
 だが、GSの「民主化」は急進的かつ社会主義的だった。戦前の政府要人や大物議員、財界人は「反動的」とみなして次々に公職追放し、日本社会党に露骨に肩入れしたため、政界は混乱が続いた。
 GSは、外相を経て首相となる吉田茂も敵視した。吉田の孫で、現副総理兼財務相の麻生太郎(75)はこう語る。
 「祖父はマッカーサーとの信頼関係を醸成することでGSの介入を排除しようとしたんだな。ホイットニーに呼ばれても『わしはトップとしか会わんよ』と無視を決め込んでいたよ」
では、どうやって吉田は、気難しいマッカーサーの信頼を勝ち得たのか-。

× × ×
GHQ吉田茂

 マッカーサーは執務中ほとんど席に着かず、室内を歩き回るのが癖だった。しかも軍人らしく7歩歩くと回れ右、また7歩歩くと回れ右-。これを見た吉田は茶目っ気たっぷりにつぶやいた。
 「まるで檻の中のライオンだな…」
 マッカーサーは一瞬ムッとした後、ニヤリと笑った。マッカーサーがフィリピン製の葉巻を勧めると、吉田は「私はキューバ製しか吸わないんだ」と懐から葉巻を取り出した。
 誰もが恐れる最高権力者に対して不遜極まりない態度だが、マッカーサーは「面白い奴だ」と思ったらしく、吉田との面会には応じるようになったという。
 ある日、吉田は「食糧難がひどく、このままでは大量に餓死者が出る。至急食糧支援をお願いしたい」と申し出た。マッカーサーは「では必要量を統計から弾いてくれ」と即答し、米国から大量の小麦粉や脱脂粉乳などを送らせた。
 ところが大量の在庫が出た。マッカーサーが吉田に「一体どんな統計データを元に必要量を弾いたんだ」と迫ると、吉田は平然とこう言ってのけた。
「日本がきちんと統計をできるなら米国と戦争なんてしていない」

× × ×

 果たしてGHQの「民主化」は成功といえるのか。
 マッカーサーのせっかちな性格を反映し、その動きは確かに素早い。20年10月4日には内相の山崎巌と特高警察の警官ら約4千人を罷免政治犯の即時釈放を命じた。11日には婦人解放や労組活動の奨励などの5大改革指令を出した。
 12月には日本政府に農地改革を命じ、国家神道を禁じる神道指令を発した。国会では婦人参政権を付与する衆院議員選挙法を改正・公布。その後も警察や内務省の解体などを着々と進めた。
 翌21年2月3日、マッカーサーは「戦争の放棄」など3原則を示し、GSに憲法草案の作成を命じ、憲法草案はわずか1週間ほどで完成した。4月には戦後初の衆院選を実施、11月に新憲法の公布にこぎ着けた。
 農地改革は全国の小作農の喝采を浴び、GHQの求心力を高めた。だが、あまりに農地を細分化したため、専業農家はその後減り続けた。後継者不足で耕作放棄地ばかりとなった農業の現状を見ると手放しでほめることはできない。
20万人超の公職追放は政財界に大混乱をもたらし、社会党や労組への肩入れは労働運動の先鋭化を招き、社会不安が深刻化した。財閥解体も産業界の復興を遅らせただけ。鉄道や道路などインフラ整備などにはほぼ無関心で、激しいインフレが人々を苦しめた。

× × ×

 GHQの占領政策の当初目標は、日本が二度と米国に歯向かわないよう、その潜在力をたたきのめすことにあった。「平和憲法」制定を含め、その目的は達成したといえる。
 だが、国際情勢がそれを許さなかった。欧州で米ソの対立が深刻化し、米政府内で「反共」の防波堤としての日本の重要性が再認識され始めたからだ。これに伴い戦前に駐日米大使を務めたジョセフ・グルーら知日派の「ジャパン・ロビー」が復権した。GHQ内ではGSと他部局の覇権争いがあり、23年10月の第2次吉田内閣発足時にはGSは力を失っていた。
 占領政策は「民主化」から「経済復興」に大きく舵が切られた。だが、超緊縮財政を強いるドッジ・ラインで大不況となり、日本の本格的な復興が始まったのは、皮肉にも昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争により特需となったからだった。
   × × ×
 GHQの「非軍事化」「民主化」の切り札はもう一つあった。民間情報教育局(CIE)が担った「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」だった。
これは徹底的な言論統制とプロパガンダ(政治宣伝)で日本人に贖罪意識を植え付けるという非民主的な策謀だった。

 言論統制の象徴である「新聞報道取締方針」は戦艦ミズーリでの降伏調印式から8日後の昭和20年9月10日に発せられた。GHQへの批判はもとより、進駐軍の犯罪・性行為、闇市、飢餓-など30項目が削除・発禁対象として列挙された。

  GHQは手始めに9月14日に同盟通信社(共同、時事両通信社の前身)を翌15日正午まで配信停止とし、事前検閲を始めた。9月18日には朝日新聞を2日 間の発禁処分にした。原爆投下を批判する鳩山一郎(後の首相)の談話を掲載したためだった。これ以降、各紙はGHQの礼賛記事を競って掲載するようになっ た。
 「日本軍=悪」「米軍=正義」という歴史観を刷り込む宣伝工作も着実に進められた。
 20年12月8日、日米開戦の日に合わせて新聞連載「太平洋戦争史」(計10回)が全国の日刊紙で始まった。中国やフィリピンで行った日本軍の残虐行為を断罪する内容で、GHQは連載終了後、文部省に対して太平洋戦争史を教科書として買い取るよう命じた。
 12月9日にはNHKラジオ番組「真相はこうだ」の放送を始めた。反軍国主義の文筆家が少年の問いかけに答える形で戦争中の政治・外交を解説するこのシリーズは2年間も続いた。
CIEの手口は巧妙だった。「誰が日本を戦争に引きずり込んだのか」という問いには「人物を突き止めるのは不可能。責任者は日本人自身だ」と答えて「一億 総懺悔」を促した。自らの言論統制は巧みに隠しながら、戦時中の検閲や言論弾圧を糾弾し、開戦時の首相、東條英機に怒りの矛先が向くよう仕向けた。

 放送当初は懐疑的・批判的な日本人も多かったが、情報に飢えた時代だけに聴取率は高く、次第に贖罪意識は浸透していった。

 ところが、昭和23年に入るとCIEは方針をジワリと転換させた。2つの懸念が出てきたからだ。1つは広島、長崎への原爆投下への憎悪。もう1つは、東條英機が東京裁判で主張した「自衛戦争論」だった。この2つに共感が広がると日本人の怒りは再び米国に向きかねない。
 こう考えたCIEは「侵略戦争を遂行した軍国主義の指導者層」と「戦争に巻き込まれた一般国民」という構図を作り出し、批判をかわすようになった。宣伝工作や検閲も日本政府に代行させるようになった。
 GHQの洗脳工作は見事に成功した。昭和26年9月8日のサンフランシスコ講和条約を経て独立を回復した後も、GHQの占領政策は肯定され、戦前は負の側面ばかりが強調された。
  文芸評論家の江藤淳が『閉された言語空間』でGHQの言論統制を暴いたのは戦後30年以上たった昭和50年代後半。ジャーナリストの櫻井よしこが『真相箱 の呪縛を解く』でさらに詳しく告発したのは21世紀に入ってからだ。WGIPは戦後70年を経た今もなお日本人の歴史観を束縛し、精神を蝕んでいる。
(敬称略)
産経ニュース2015.12.23
http://www.sankei.com/premium/news/151223/prm1512230010-n1.html

参考
吉田茂=マッカーサー往復書簡 
侮日新聞ジャパンタイムズのルーツ 

皇室のことは書かないと決めているのだが
以前から問題だと思っている外国特派員協会の記者が絡んでいるのでこの件だけ書いておく

どこかのブログだったかに
「愛子さまが試験管ベビーと海外では報道されている」
とあったので気になって元ネタを調べてみた

それで分かったのが
Independent の記事
Japanese princess's baby may be first test-tube emperor
http://www.independent.co.uk/news/world/asia/japanese-princesss-baby-may-be-first-testtube-emperor-682172.html (リンク切れ) 
By Richard Lloyd Parry in Tokyo  
22 April 2001

記事が存在したことはここでも分かる
http://www.bionews.org.uk/page_11088.asp


(´・ω・`)あー聞いたことある名前だわー(よりによってというか
https://twitter.com/dicklp/status/687142315928899584
慰安婦が大日本帝国の性奴隷の生き残りだってさ

外国特派員協会の反日記者
皇室問題にまで首突っ込んでたか

それでこんなスレをみつけたんで

リチャード・パリーが皇室を侮辱
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/sisou/1234082764/

『プリンセス・マサコ』を入手したところ
スレ内のページ数と記述は本で確認できた

訳者の藤田真利子氏曰く

プリンセス・マサコ―菊の玉座の囚われ人
ベン・ヒルズ
電子本ピコ第三書館販売
2007-08


(訳者あとがき より)
p348
わたしはこの本を「ある人権侵害の記録」として読んだ。人権を侵害されているのは雅子妃ひとりではなく、天皇をはじめとする皇室の人々であり、侵害しているのはわたしたち「日本国民」だ。

p349
ま ず、皇室の人の権利を考えてみよう。職業選択の自由がない。両性の合意に基づく婚姻の自由がない(決めるのはほかの人だ)。移動の自由がない(好きなとこ ろにいったりできない)。意見表明の自由がない。選挙権がない。あるのは生存権くらいのものである。人権が否定された状態の人はほかにもいると言うかもし れない。それくらいの忙しさは会社のトップなら普通のことだと言う人もいるだろう。でも、そうした人たちの存在が憲法に規定されているわけではない。この 存在は、国民に基本的な権利を補償している憲法に規定されているのだ。それを決めたのは「国民の総意」なのだそうだから(わたしは訊かれた覚えがないけど)、人権侵害しているのはわたしたち国民すべてということになる。というわけで、わたしは翻訳しながら罪悪感に駆られたのだった。
(だったら占領憲法はただちに破棄すべきってなるんだけどそれは)

【wiki】藤田真利子
訳書はジェンダー系の本が目立つかな

wikiにはなかったんだけど
アムネスティ日本藤田真利子https://www.meiji.ac.jp/infocom/gender/performance/research2011.html
何と アムネスティ日本理事長ですか
ネトウヨなんて殺されちまえby人権派 
石田城孝氏の弁解が聞きたいものでございます

出版社の第三書館ですが
辻元清美北川明
辻元清美と第三書館・北川明

うーん
自分には事実かどうか判断するすべはないのだが・・・・
とりあえず「海外紙が報じた」っていう場合、誰が書いてるのか探った方がいいんじゃないかと思う次第。
彼らが平気で嘘垂れ流すのを何度も見て来たし
それはティンパーリの時から今に至るまで変わらず。
国際宣伝処の顧問だったティンパーリ 
(ティンパーリもオーストラリア人だったな)

報道官会見記録(平成19年2月)
「Princess Masako」の著者及び出版社に対する抗議
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/hodokan/hodo0702.html#3-A
これもまた札付きジャパンタイムズがやらかしたらしい
ジャパンタイムズが煽った慰安婦騒動

あとこんなのもみつけた
http://www.japanfocus.org/-Herbert-P--Bix--David-McNeill/1936/article.pdf
この方もこのサイトも札付きでございますね

参考
「一人の人間、事件に簡単にレッテルをはることはできない」~『黒い迷宮──ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実』著者・リチャード・ロイド・パリー氏インタビュー~
http://blogos.com/article/110622/ 


【戦後70年~東京裁判とGHQ(3)】
ダグラス・マッカーサーの嘘と虚栄 「天皇に代わる存在」になるべく演出したが…
GHQパレード


 連合国軍最高司令官(SCAP)、ダグラス・マッカーサー(米陸軍元帥)は占領下の日本で5年8カ月にわたり最高権力者として君臨した。マッカーサーは回顧録にこう記している。

 「私は日本国民に対して事実上無制限の権力を持っていた。歴史上いかなる植民地総督も征服者も総司令官も私ほどの権力を持ったことはない。私の権力は至上だった…」
  マッカーサーは判で押したような生活を送った。毎朝10時すぎに宿所の赤坂・米大使館から連合国軍総司令部(GHQ)本部が入る日比谷の第一生命館まで 通った。午後2時ごろまでオフィスで執務した後、大使館に戻って昼食と昼寝。午後4時すぎにオフィスに再び戻り、午後8時すぎに帰宅した。

GHQマッカーサー第一生命

  第一生命館前には大勢の日本人が好奇の眼差しで待ち構えていた。マッカーサーは一瞥(いちべつ)もせずにゆっくりとした足取りで玄関に向かった。これが、 新たな統治者が誰かを印象づけるための演出だった。マッカーサーの姿を見た日本人は「回れ右」してお堀越しの皇居に一礼して帰っていった。

 月日を経ても群衆の数は一向に減らなかったが、皇居に拝礼する人は次第に減り、半年後にはわずか数人になった。マッカーサーはいつしか「堀端(ほりばた)天皇」と呼ばれるようになった。

 語学将校としてGHQに勤務し、この日本人の変化を興味深く観察していたアル・ゼルバー(95)はこう振り返った。
 「戦前の天皇は人々の前に姿を現すことがなく、日本人にとって遠い存在だったが、マッカーサーは権威者としての役割をうまく演じ、アメリカン・アイドル(偶像)として天皇の権威に置き換わったのだ」
× × ×
 マッカーサーが、愛機のC54輸送機「バターン号」で神奈川・厚木飛行場に降り立ったのは昭和20(1945)年8月30日の午後2時すぎ。トレードマークのコーンパイプにサングラス姿でタラップを降りたマッカーサーは出迎えの将校にこう語った。
 「メルボルンから東京まで遠い道だったが、どうやらたどり着いたようだな。映画でいう『結末』だよ」
マッカーサー家はスコットランド貴族の血を引く名家で、父のアーサー・マッカーサーJr.は南北戦争の英雄でフィリピン初代軍政総督だった。マッカーサー は陸軍士官学校を首席で卒業し、1930(昭和5)年に陸軍最年少の50歳で参謀総長に昇進。フィリピン軍事顧問を経て、41(同16)年にマニラ駐屯の 極東陸軍司令官となった。

 この輝かしい軍歴に傷をつけたのが日本軍だった。

 1941(昭和16)年12月8日の日米開戦直後、日本軍はルソン島に猛攻をかけた。マッカーサー率いる米軍は反撃らしい反撃もできずにマニラを捨てバターン半島とコレヒドール島に敗走した。マッカーサーは翌42(同17)年3月11日、「アイ・シャル・リターン」と言い残して家族や側近とともに魚雷艇で脱出、ミンダナオ島の秘密飛行場からB17でオーストラリアに逃れた。
 部下を見捨てての敗走にすぎないが、米紙は、米軍の勇敢な戦いを連日掲載して「英雄的抵抗」と称賛、マッカーサーに感謝の念を決議する州もあった。
 だが、この「神話」はマッカーサーの創作だった。嘘と誇張にまみれた戦闘報告を自ら執筆し、140回も新聞発表した。若いころに陸軍新聞検閲官として学んだ宣伝のノウハウが役立ったのだ。それだけにフィリピンでの屈辱だけは晴らさねばならなかった。
44(同19)年7月、サイパンが陥落し、日本の敗戦は決定的となった。第32代大統領のフランクリン・ルーズベルトは、米太平洋艦隊司令長官のチェス ター・ニミッツにマッカーサーの兵力を吸収させ、フィリピンを素通りして台湾、沖縄を攻略する方針だったが、マッカーサーが猛烈な巻き返しに出た。

  44年7月26日、ハワイ・ホノルルの司令部でルーズベルトを待ち受けたマッカーサーは3時間も直談判し、フィリピン攻略への作戦変更を求めた。大統領選 の有力候補と取りざたされるマッカーサーを邪険に扱えば世論の反発が大きい。ルーズベルトは渋々要求をのんだが、面談後に侍医に「アスピリンを1錠くれ。 私にあんな口調でしゃべるやつは会ったことがない」と吐き捨てた。

GHQマッカーサーニューギニア

 こうしてマッカーサーは44年10月、レイテ島に再上陸した。湾内の浅瀬でわざわざ船を下り、波しぶきに打たれながら上陸する姿を報道陣に撮らせ、「先陣を切る闘将」を印象づけた。
 44年12月25日のクリスマスにマッカーサーはレイテ島で勝利宣言した。これも嘘で前線では日本軍と死闘が続いていたが、直前に陸軍元帥昇進が決まったこともあり、ニュース効果を狙った虚偽の宣言だった。実際に掃討作戦が終了したのは4カ月後だった。
45(同20)年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を受け、ルーズベルトの後を継いだ第33代大統領、ハリー・トルーマンはホワイトハウスで勝利宣言を 行い、マッカーサーを連合国軍最高司令官に任命した。果たしてルーズベルトが存命だったら任命しただろうか。マッカーサーは妻に「老いた兵士への軍神マル スからの最後の贈り物だ」と語り、大いに喜んだという。

× × ×

 昭和20年9月2日、米戦艦ミズーリでの降伏文書調印式。マッカーサーは米海軍提督のマシュー・ペリーが黒船ミシシッピに掲げた星条旗を背に厳かに列席者に語りかけた。
 「われら主要参戦国の代表はここに集まり、平和回復の尊厳なる条約を結ばんとする。もはや不信と悪意と憎悪の念を抱いて会合しているのではない」
 だが、この寛容なる態度は偽りだった。直後に日本政府に対して、軍政による直接占領▽英語の公用語化▽軍票の使用-などを含む「三布告」を部下を通じて通告した。外相の重光葵が「ポツダム宣言に反する」と直談判したこともあり、公布は差し止めとなったが、マッカーサーによる間接統治は日本側が思っていたような生やさしいものではなかった。
× × ×
 マッカーサーは、自らが至上の統治者であることを印象づけることに腐心した。その決め手だったのが、昭和20年9月27日の昭和天皇との会談だった。
昭和天皇は自発的に米大使館を訪問したとされているが、実態は呼びつけたに等しい。2人は通訳を介し1時間ほど会談した。終始穏やかな雰囲気でマッカーサーが説明した占領方針に天皇も同意したとされる。

  だが、マッカーサーの最大の目的は昭和天皇と並んで写真を撮影し、公表することだった。ピンと背筋を伸ばす天皇陛下の横で腰に手をあて、くつろいだ表情を 見せるマッカーサー。どちらが統治者なのか、印象づけるには十分すぎる「証拠」だった。日本政府は2人の写真を掲載した新聞を発禁処分としたが、GHQは 即座に処分を覆した。

 翌21(1946)年の元日の新聞各紙で昭和天皇の詔書が発表された。その一節で自らの神格性を否定したことから「人間宣言」と言われる。だが、この詔書の草案もGHQが作成したという指摘もある。
 GHQ兵員情報教育部で米兵向け雑誌編集に携わり、後にUP通信(現UPI)で東京支局長などを務めたラザフォード・ポーツ(93)はこう語った。
「私もマッカーサーに執務室で会ったことはあるが、話したことはない。彼は常に日本人から尊敬されるように振る舞った。天皇に代わる存在になろうとしていたんだ…」

× × ×

 マッカーサーは、占領統治を成功させ、名声を高めた上での大統領選出馬を考えていたが、その野望は思わぬ形でくじかれた。
 1950(昭和25)年6月25日午前4時、北朝鮮軍(朝鮮人民軍)が朝鮮半島の北緯38度線を一斉に南進した。朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)だった。北朝鮮軍はソ連製T-34戦車240両を含む圧倒的な戦力で瞬く間に韓国軍を釜山まで追い詰めた。
  マッカーサーは国連軍を指揮して9月15日未明に仁川上陸作戦を決行。これが奏功し、38度線を突破して10月には平壌を制圧、中朝国境の鴨緑江近くまで 軍を進めた。すると「義勇軍」を名乗る中国軍(人民解放軍)が参戦し、国連軍は押し戻され、38度線付近で膠着(こうちゃく)状態に陥った。
 そんな中、マッカーサーは原爆使用を検討。51年(同26年)年3月24日には独断で「中国本土攻撃も辞せず」と公言した。これに激怒したトルーマンは4月11日、マッカーサーを解任した。第三次世界大戦となるのを恐れたからだった。
こうしてマッカーサーの日本統治はあっけなく幕を下ろした。

  それでも日本でのマッカーサー人気は絶大だった。新聞各紙は解任を惜しみ、業績をたたえる記事を続々と掲載した。帰国の日となった4月16日には、羽田空 港の沿道に20万人以上が詰めかけ、星条旗と日の丸を掲げてマッカーサー夫妻との別れを惜しんだ。マッカーサーもこの時ばかりは見送りの人々と握手を交わ し、バターン号に乗り込んだ。

 マッカーサーの占領統治の成否には疑問が残るが、統治者としての演出は超一流であり、間違いなく成功した。その呪縛(じゅばく)は70年を経た今もなお残っている。(敬称略)
産経ニュース2015.12.22
http://www.sankei.com/premium/news/151222/prm1512220004-n1.html

マッカーサーは日本をキリスト教国にしようとやってきたが大失敗に終わった
捜神 

週刊新潮・実態は『ニセ申請』の山と『不法就労者』の行列!① 続き

「母国で不倫をしたから」「気分で宗派をコロコロ変えた」
トンデモ難民続出の認定現場事情(2)〈週刊新潮〉


 日本の昨年の難民申請者数5000人に対し、実際に認定されたのは11人だった。これに対し「朝日」「毎日」新聞などを筆頭に、「日本は冷たい国だ」との声が上がっている。ところが現場で難民支援に携わる難民審査参与員に言わせてみれば、「よく5000人から11人を発掘したものだ」という。参与員の『さぽうと21』理事長の吹浦忠正氏は、難民受け入れ人数を増やそうと意気込み、参与員を引きうけてみたものの、実際に申し立てをする難民の主張は矛盾だらけか、難民の定義にあてはまらないものばかりだったという。

 また、NGO『難民を助ける会』で会長を務める柳瀬房子さんは、吹浦氏より長く10年以上も参与員を務めている。それでも、

「私も800人ほどの審査をしましたが、認定したのはごくわずかです」

 と言うのだ。

「例 えば、母国で、隣人と土地の境界線を巡って揉め、脅迫された、というもの。あるいは、母国で不倫をしてしまい、その夫から追われている、というもの。ま た、クリケットのレフリーをしていて、負けたチームから脅迫されている、というのもありました。要は、人間関係のトラブルによるものが多いのです。また、 難民申請をしながら、母国の駐日大使館に出向き、パスポートの申請をしている人も多い。これでどこが“母国の保護が受けられない”と言えるのでしょう か?」

 さらには、やはり参与員を2年半務めている、名古屋大学大学院国際開発研究科講師の浅川晃広氏も言う。

「パ キスタン人からの申請で“シーア派からスンニ派に改宗したため、シーア派に狙われる”というものがありました。しかし、実際に呼んで聞いてみると、これが また軽い。なぜ改宗したのか聞いても“気分で変えた”“行くモスクを変えたついでに”。しかも、宗派もコロコロ変えている。一事が万事、そんな感じなので す」

 かくして、現場を知る人々の問では、本当の「難民」を見つけるのは、石ころの山からダイヤモンドを探し当てるようなもの。「5000分の11」でも“よくぞ探した!”というレベル、というのが共通した認識となっていると言う。

「特集 実態は『ニセ申請』の山と『不法就労者』の行列! 『朝日新聞』が宣伝する『難民を受け入れない日本は冷たい国』への反論」
※「週刊新潮」2015年11月12日号
デイリー新潮
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151113-00010004-shincho-soci


本誌からその続き
p46・47
合法的就労の手段
 しかし、である。
 一体、なにゆえに日本の入管には、こんな「ニセ申請」が蔓延っているのであろうか?

「難民認定が、本来の意味を失い、外国人の出稼ぎのツールとして使われているからです」
 と、吹浦氏がその背景を説明する。
「もちろん、外国人は就労ビザがなければ、にほんでは働けません。しかし、2010年、難民認定制度が改正され、申請を行えば、その半年後から決定が下されるまでの間、日本で働く資格を得ることが出来るようになったのです。これ以降、申請者の数はグンと伸びました」

 法務省のデータによれば、10年に1202人だった申請者数は、1867人(11年)、2545人(12年)、3260人(13年)、そして、昨年の5000人と増加の一途をたどっている。

 先の柳瀬さんによれば、
「通常、難民申請は半年以内に可否の結果が出ます。そこから異議申し立てをすると面接まで2年、そこから可否の判断まで半年くらいかかります。つまり、申請を出してから決定まで3年はかかるのです」

 オマケに、難民申請は、一度不認定となっても、二度、三度と何度でも申請を出すことが可能

 単純計算として、4回申請を行えば、12年間日本で稼ぐことが出来るのだ。

 吹浦氏は言う。
「つまり、この制度改正で逆に外国人は、難民申請さえすれば、日本で長い期間、合法的に働けるようになったのです。こうして、観光ビザなどの資格で日本に入国し、それが切れるまでの間に難民申請を出せば、日本で金が稼げる。あるいは、日本に不法に滞在して働いていた者が入管に捕まっても、難民申請を出せば即座に退去しなくて済むばかりか、今度は合法的に収入を得ることが不可能ではなくなってしまったのです」

 だから、彼らにとって難民申請する理由などは、ウソでも、「難民」の定義に合致していなくても、何でも良い。難民になることではなく、申請を繰り返し、日本に長くとどまることが目的なのだ。
「そ のため、彼らは異議申し立ての場でも、たった5分ほどで終えたり、”何もありません”と言って帰ったり、酷い時は、面談をすっぽかしたりすることもあるく らいです。この”偽装難民”の裏には、申請の手続きに長けたブローカーが暗躍しているケースが多い。こうした事情によって難民申請者は急増し、当局はその 対応に追われています。”ニセ者”があまりにも多すぎるために、救うべき真の難民の救済が遅れてしまっていることが、難民認定の本当の問題なのです」 (同)

 こうした実態を、「朝日」や「毎日」は知っているのか。それでもなお、日本の難民認定は「厳しすぎる」「閉鎖的」と述べるのだとしたら、その目は曇っているとしか思えないのである。

跋扈するブローカー
 さらに、だ。

 後者のシリア難民の受け入れ「63分の3」という数字についても、「朝日」サイドの解釈には、疑問を感じざるを得ないのである。

「日本国際社会事業団」の常務理事で参与員の大森邦子さんは言う。
「実は『難民条約』による定義では、『シリア難民』のほとんどはそれに該当しない。彼らの大半は政府の迫害から逃れているのではなく、紛争という国の統治機構の破たんによって、国を離れた民だからです」

 それゆえ、政府は条約の解釈通り、迫害を受けている3名のみしか、「難民認定」をしなかった。

 しかし、残りの申請者についても、国外に追放するのではなく、「人道配慮」で、一時的に滞在を認める「在留許可」を出している。すなわち、申請者は全員、日本政府に庇護されていることになるのだ。

「私はこの措置は正しいと思います」

 と、大森さんが続ける。
「日 本は法治国家ですから、難民性を判断する際にも、条約の定義に照らして厳密に判断すべき。従来の定義に照らして厳密に判断すべき。従来の定義に入らない人 も、”かわいそうだから”と受け入れてしまえば、今後、再現なく定義外の人々も受け入れることになってしまうのです」

 一度、シリアで基 準を緩めてしまえば、万が一、北朝鮮が内紛によって崩壊した場合、シリアで認めたことを彼らについて認めない論理は何もない。来たから来る数万~数十万の 規模の集団を「難民」として受け入れる場合のさまざまなコストは想像できないほど大きいが、果たしてそれに日本人が耐えられるのか?いや、そもそも、それ に備えた議論すら進んでいないように思えるのである。

 また、朝日や毎日が引き合いに出すドイツについても事はそう単純ではない。

 ドイツ在住のノンフィクション作家・クライン孝子さんによれば、
「ド イツは、憲法に『政治的に迫害される者は庇護権を享有する』と明記している国。ヒトラーやナチスの過去を持つために、難民の受け入れに積極的にならざるを 得ない、という理由もあるのです。そのドイツにしても、これほど大量の難民を受け入れたことはありません。申請者の中には、審査を受けないまま、国内に潜 り込んでしまう人もいるし、ブローカーも跋扈している。『難民ビジネス』によって生み出された『難民』もいるのです。こうした点から、国内では受け入れに ついて批判的な意見も多い。メルケル首相の評価も急落しています」

 と言うから、まして「島国」で、古来、外国人の大量流入の経験がない日本にとって、その判断は慎重に慎重を重ねるべきもの。軽々しく、「積極的に」「大胆に」受け入れていいものではないのだ。

 当の「朝日」「毎日」に見解を問うと、朝日はコメントなし、毎日も「投射の主張は社説で書いた通りです」と答えるのみである。

 哲学者の適菜収氏は言う。
「日 本が『難民に冷たい国』かどうかはわかりませんが、難民認定については粛々と行うだけ。本当の難民は保護して、それ以外は認定しない。シンプルな話です。 実態に基づかず徒に”難民を受け入れろ”というのは、社会不安を煽るのみ。本当の難民がニセモノと同一視され、風評被害が及ぶ可能性もあると思います」

 現実を観ずに、観念の世界に遊ぶ。本音を避け、建前の議論に終始する。

 かつて「北朝鮮帰国事業」や「慰安婦」報道で失敗した過去を、「朝日」は難民問題でもそのまま繰り返しているように見えるのだ。

朝日新聞EU難民受け入れ実際は130人http://www.asahi.com/articles/ASHCF22BWHCFUHBI008.html
欧米をミナラエー(大笑い)


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【関西歴史事件簿】
元寇・文永の役(上) モンゴル・朝鮮軍が日本で行った“殺戮”…それでも日本の武士「勇敢にして死をみること畏れず」

 今から740年前、中国全土をほぼ手中にし、日本も従属させたいモンゴル帝国(元)皇帝のフビライ・ハーンは朝鮮半島を治める高麗と連合で3万以上の兵を派遣する。元寇(げんこう)と呼ばれる日本本土が2度にわたり侵略を受けた事件である。対する日本は鎌倉幕府執権・北条時宗の命で集まった御家人ら約1万人。武勲をあげて所領拡大を目指した御家人らの士気も高かったが、兵力の差もさることながら、集団戦法と未知の兵器を前に日本の武士は次第に翻弄されていった。

突貫作業
 元への服属を求めるフビライの国書を携えて日本に渡った使節がたびたび追い返されたため、業を煮やしたフビライは武力による日本進攻を決意。軍船を造るにあたって、文永11(1274)年1月、戦艦300隻など軍船の建造を高麗に命じている。
 平成23年、長崎沖の海底から弘安4(1281)年の2度目の元寇で使ったとみられる沈没船が見つかっている。ほぼ完全な状態だったため復元してみると全長が27メートルに及んだ。
 これは当時の海外渡航用の貿易船と同じ構造で、一隻で100人程度の兵士が収容できる規模だったといい、1回目の進攻作戦でもこのような船を求めたことだろう。
 だが、日本に大船団を出すのに風向や潮の流れなどを考えると、建造期間は半年しかなく、元が派遣したホン・タグの指揮の下、高麗は約3万人の労働者を動員して、昼夜関係なく突貫に次ぐ突貫の作業だったという。
その様子は、「疾(はや)きこと雷電のごとし。民、これに苦しむ」などと表現されている。

 しかし、このときの現場を監督するキム・バンギョンは、強固な船だと期限内の完成は難しいと判断。費用が安くて簡単な構造の高麗船でしのぎ、期間内に高麗が造った船は大小900隻に達する。

 そして総司令官のキントが着任後の10月3日、総勢3万人以上からなる兵を収容した船団は合浦(がっぽ)(現在の大韓民国馬山)から出港する。兵の3分の2はモンゴルと中国で、あとの3分の1が高麗だった。
上陸許す
 連合軍の船は、戦艦のほか上陸用舟艇、補給船などからなり、日本近海は巨大なマストがたなびく、おびただしい数の軍船で埋め尽くされていた。
 時宗も高麗へ送り込んだスパイから間もなく攻めてくることを察知し、上陸が予想される九州北部の日本海沿岸に兵を配するも、まずは数で圧倒されることになる。
 10月5日、対馬の小茂田浜に上陸した元・高麗連合軍により、島を守る対馬守護代、宗資(助)国ら80人の兵や島民はことごとく殺害される。
 壱岐でも惨殺を繰り返し九州沿岸に迫ってきた連合軍に16、17の両日、肥前・松浦や平戸島、鷹島などが次々に攻められ、討たれた兵の数は数百にのぼったともいわれている。
 対馬、壱岐での敗戦の報に接した御家人らはただちに九州の拠点・大宰府へ向かい、その結果、九州の御家人を統括する鎮西奉行・少弐資能(しょうにすけよし)の3男、景資(かげすけ)を総大将に集まった兵は約1万人。
だが、元・高麗連合軍の動きは早く、20日に主力部隊の博多上陸を許す。3方から上陸する兵力は2万人で、日本側の数はその半分に満たなかったのだが、それでも士気は高かった。

ひるまない武士
 当時の御家人は戦(いくさ)で手柄をあげては、恩賞として新しい土地をもらうことを誉れとしていた。このため、われ真っ先に敵陣に突っ込んで功を競うことこそが潔(いさぎよ)い戦い方だった。

 御家人からすれば後鳥羽上皇と戦った承久の乱(1221年)以来、久々に訪れた所領拡大のビッグチャンス。当然、博多でも敵陣に突っ込んでいく。
 対する元・高麗連合軍は組織ごとに動く集団戦法だったので、先陣を切った御家人らが取り囲まれては討ちとられるといったシーンが相次いだ。
 さらに突然、けたたましい音とともに破裂する物体に終始、悩まされる。未知の兵器「鉄炮(てっぽう)」である。
 直径20センチ、重量4キロの球体が破裂してその破片が約50平方メートルに飛び散る仕組みで、殺傷能力は低かったようだが、強烈な爆音と爆風は勇猛な御家人らも腰が抜けるほどだった。
 コンパクトな短弓も驚異で、射程圏は約30メートルと日本の長弓に比べて6割程度だったが、その分、連射が効き、矢の先に毒が塗っていたために殺傷能力は高かった。
 日本側の視点で当時の戦いの様子を描いた「蒙古襲来絵詞(えことば)」では、御家人らに目がけて投げられた鉄炮が爆発し、短弓の矢が人だけでなく馬にも向けられていた様子がうかがえる。
 それでも立ち向かっていったため「勇敢にして、死をみることを畏(おそ)れず」などとする元側の記述もみられる。
(園田和洋)
産経ニュース2014.6.8
http://www.sankei.com/west/news/140608/wst1406080046-n1.html
 

『ザ・レイプ・オブ南京』日本語版出版をめぐる騒動1 続き

【前回のあらすじ】
アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』日本語版の版権を柏書房が取得
初歩的なミスが多いので修正を求める→チャンは一部認めたものの他は拒否
柏書房は苦肉の策として解説本を同時刊行することに→チャンは激怒→出版断念

これが経緯のはずだった



p239・240
 2月25日、私は東京・有楽町にある日本外国特派員協会の昼食会に招かれて、日本の歴史教育について講演した。この席で「アサヒ・イブニング・ニュース」の記者で英国人のピーター・マクギル氏は、次のような質問をして、私を驚愕させた。
「あ なたが意図してのことだとは思わないが、あなたは今、この国の右翼暴力団のヒーローになっています。連中は出版社を脅迫し、暴力や殺人までやってき た。・・・彼らは自由の言論の敵であり、民主主義の敵である。こういうことと、あなたがわれわれすべての納税者の税金でまかなわれている有名大学の教授で あるということとは両立するのか」
(マクギル記者発言はp250の記述を加筆:筆者)

 さらに昼食会の終了後、別の一人の外人記者が私に、「アイリス・チャンの翻訳書が右翼の脅迫で出版中止になったのは本当ですか」と真顔でたずねてきた。

  これは大変なことになっていると、私は直感した。誰かが、外国人記者の間にデマを流しているのである。それは、口コミなのだろうか、とも思った。しかし、 ひょっとして、あの悪質な「アサヒ・イブニング・ニュース」の記者が記事として書いているのかもしれない、と思いついた。それで、同紙を取り寄せて調べて みた。

 結果は、まさに私の予想どおりであった。2月19日付の「アサヒ・イブニング・ニュース」に「南京本の出版延期」という見出しで記事が掲載されている。執筆した記者の署名はない。その書き出しの部分を訳出すれば次のようになる。

「消 息筋が木曜日[2月18日]に語ったところによれば、東京の出版社が電話や手紙による脅迫を受けて、『ザ・レイプ・オブ・南京』の日本語版の出版を延期し た。・・・・本の製作を中止したのち、柏書房が語ったところによれば、手紙のうちの一通は極右グループのの構成員を名乗る男からのものであった。その脅迫 状には『出版すれば何らかの行動を起こす』と書かれていた」


p242
 3月3日午前、東中野修道氏と私は、東京・文京区にある柏書房を訪問し、日本語版出版延期の経過についてたずねた。

  応対に出た同社の佐保勲出版部長は、延期の理由について、「著者のほうから意見があり、著者と話を詰める必要を感じたので延期した」とし、右翼からの脅迫 が出版延期の理由だったのかという質問には、「そのこととわれわれの[出版延期の]決定との間には関連はない」と明確に否定した。

 また、月刊誌『創』4月号では、同社の芳賀啓編集長が「右翼よりも一般の人から間違いのまま出版していいのかという電話が多かった。しかし、困ったのはその後、出版延期が右翼の脅しがあったからだと報道されたこと。実際は著者による出版妨害だったのです」と語っている。


p243~245
(要約)

▼「ロサンゼルス・タイムズ」の3月1日付の社説
「何 十年もの間、日本の教科書は、朝鮮、中国、フィリピン、その他占領したアジアの国々でなされた[日本軍による]侵略と残虐行為をほとんど無視してきた。今 日でも、教科書は戦争中の行為を遠回しな言い方でしか取り上げていない。何千という数のアジア人女性が日本軍によって性奴隷にさせられたということを日本 政府がやっと認めるにいたったのは、1992年になってからだった。30万におよぶ中国人を大量殺害した1937年の狂乱事件の記録で、米人のアイリス・ チャンが書いた『ザ・レイプ・オブ・南京』の邦訳が、東京で来月[「先月」の誤りー藤岡]出版される予定だった。だが、右翼過激派が出版社を脅迫し、その 出版は無期延期されてしまった」

▼同紙3月14日付オピニオン欄
「日本における反米主義の高まり」ジェイコブ・ハイルブラン
「日本経済が不景気の泥沼から抜け出せないでいるなか、その数少ない成長産業の一つは、ネオ・ナショナリズムである」
「ご く最近、ナショナリストたちは、東京のある出版社が米国でベストセラーになったアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』を翻訳出版することを阻止し た。同書は1937年12月、30万の中国市民を日本軍が殺害した事件を扱ったものである。一カ月前、拡声器付きのトラックで日本を守れ式のスローガンを がなりたて街中を走り回っている手合いのナショナリストたちが、中国人の映画監督が製作した映画『南京1937』の上映を阻止するため、大阪のある映画館 に車ごとぶつかっていくという事件があった。もう、チャンの本は日本の読者には入手できないことになった」

筆者ハイルブランは「ニュー・リパブリック」誌の上級編集者で、最近数か月間日本に滞在した、と紹介されていた

▼「タイムズ」2月20日
「その本を押さえつけようとする右翼の脅迫が出版中止の決定に影響を与えたと消息筋は述べた」

朝日英字紙の謀略報道は、まさに世界中にデマをばらまく謀略としての機能を見事に果たした

藤岡信勝、東中野修道両氏は「アサヒ・イブニング・ニュース」「ロサンゼルス・タイムズ」東京支局(読売新聞社内)を訪問
それぞれの反応

▼「アサヒ・イブニング・ニュース」編集部→朝日新聞社広報室の担当に
p248
(要約)
朝日新聞社・副広報室長・帆江勇氏
・朝日新聞本紙に掲載された記事を元に英文記事を書いた
・翻訳原稿には末尾に「本の著者が出版社に出版中止を求め、出版社も刊行を延期した」とあったが、紙面スペースの都合で末尾部分を削って掲載した

p247
(要約)
▼「ロサンゼルス・タイムズ」サニー・エフロン支局長
訪問時談
・東京支局からこの件について情報は送っていない
・社説担当部局が独自の調査網で社説を書いている
・社説の情報源の調査&「ロサンゼルス・タイムズ」オピニオン面への藤岡信勝氏の文を掲載するべく本社へ働きかけると約束
→1カ月以上回答を棚上げ、掲載は拒否


デマを流すばかりでなく
それに反する言説を毎度毎度「右翼の抗議」にスリカエ
朝日新聞社は二重に罪を犯している

またおまえかアカヒ

どれだけ国内で研究を積み上げてもそれが海外に正しく伝わらないカラクリの一つ
かくして我々は「閉ざされた言語空間」から一歩も抜け出せず現在に至る。。。

参考
毎度毎度の「右翼のせい」
「ザ・カルト・オブ・ヤスクニ」騒動2 産経古森記者が言論弾圧? 
アンブロークン the unbelievable BROKEN story 

最近は何でも安倍のせい=アベノセイダーズという言葉がはやっておりますね。
もううんざり

最近では外国特派員協会の妨害にあっていた藤岡信勝氏
この時にも暴言吐かれていたわけですね・・
外国特派員協会 藤岡信勝氏らに対する姑息な嫌がらせ  

藤岡信勝氏 『ザ・レイプ・オブ・南京』について語る 5:06頃~

【youtube】「討論『南京』日中情報戦争」13-13(H19.1.13)
アイリス・チャンは日本語も中国語も出来ないって話にならんがな(゚∀゚)

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