2016年9月28日水曜日


「加瀬英明のコラム」メールマガジン

題 名 : 日本が戦後歩んだ71年の道は、正しかったのだろうか

 今年は、岸信介首相の生誕120周年に当たる。

 いま、アメリカが世界秩序を守るのに疲れて、内に籠ろうとしている。日本は好むと好まざるをえず、自立することを強いられよう。

 日本は戦後歩んできた道が、はたして正しかったか、熟考することを迫られている。

 私は岸首相が戦後の日本の首相のなかで、もっとも傑出した首相だったと、考えてきた。

 岸首相が求めた日米安保条約の改定

 岸首相は1960年に、日米安全保障条約の改定を、身命を賭して行った。

 吉田茂首相が1951年にサンフランシスコにおいて講和条約に調印した時に、日米安保条約が結ばれた。この条約は不平等条約で、米軍が日本に無期限に駐留することを認めたが、アメリカが日本を防衛する義務を負っていなかった。

 占領軍が駐留を続けるようなことだったが、当時、日本には警察予備隊しかなかったから、仕方がなかったといえよう。

 岸首相は日本を再び独立国家としようとして、信念を燃やしていた。アメリカと交渉して安保条約を改正して、アメリカに日本を守る義務を負わせるとともに、両国の合意によって延長できる期限を設けた。

 岸首相が求めた新条約

 新条約は「相互協力及び安全保障条約」と呼ばれ、経済をはじめとする諸分野において、協力することがうたわれ、日米関係に新しい時代をもたらすものだった。そのために、アイゼンハワー大統領が、戦後、最初のアメリカ大統領として訪日することになった。

 岸首相は安保条約の改正を成し遂げたが、左翼勢力によって煽動された反対運動によって、志なかばにして辞職せざるをえなかった。

 アイゼンハワー大統領の訪日を準備するために来日した、ハガティ秘書を乗せた乗用車が、羽田空港を出ようとする時に暴徒によって囲まれて、立往生する事態が起った。岸首相は大統領が来日しても、安全を守ることができないという判断から、訪日を断らざるをえなくなり、その責任をとって辞職した。

 もし、あのような大規模な反対運動が起らなかったとしたら、日本の歯車が狂うことはなかった。

 日本の進むべき道とは

 日本を取り巻く国際環境は、今日までつねに厳しいものであってきたが、日本はアメリカに国家の安全を委ねて、安眠を貪ってきた。

 いまこそ、私たちは岸氏が日本の進路をどのように描いてきたのか、学ばなければならないと思う。

 私は5月に、日本の保守派を代表する月刊誌『正論』の新聞広告「総力特集 迷走するアメリカ 日本を守るのは誰か」を見て、暗然とした。テレビや新聞は、ドナルド・トランプが共和党大統領候補として指名されることが、ほぼ確定したと報じていた。

 アメリカのヨーロッパ化が始まっている。かつてヨーロッパは世界の覇権を握っていたが、重荷を担うのに疲れ果てて、内に籠るようになった。

 いま、日米関係が大きく揺らごうとしている。

 アメリカが迷走をはじめた、という。しかし、日本がこれまで「平和憲法」という呪文を唱えながら、迷走してきたのではないか。

 真の独立国家こそが自らの国を護る

 日本は独立を回復してから、経済を優先して国防を軽視することを国是としてきたが、「吉田ドクトリン」と呼ばれてきた。いま、この“吉田ドクトリン”が破産した。

 私は吉田首相が講和条約に調印して帰ってから、政治生命を賭けて憲法改正に取り組むべきだったと、説いてきた。

 吉田首相は国家観を欠いていた。独立国にとって軍の存在が不可欠であるのに、旧軍を嫌ったために、警察予備隊を保安隊、自衛隊として改編したものの、今日でも自衛隊は警察隊か、軍隊の擬い物でしかない。

 吉田首相と岸首相を比較することによって、いったい戦後の日本が、どこで誤まってしまったのか、理解することができる。

 アメリカのダレス特使が、占領末期に対日講和条約の締結交渉のために来日して、吉田首相に「日本が再軍備しないでいるのは、国際情勢から許されない」と、強く迫った。

 独立国は第一に自国を護る精神がいる

 吉田首相はそれに対して、「日本は経済復興の途上にあり、国民に耐乏生活を強いている。軍備に巨額の金を使えば、復興が大きく遅れてしまう。それに理由なき戦争にかり出された国民にとって、敗戦の傷痕がまだ残っており、再軍備に必要な心理的条件が失われたままでいる」といって、頑なに反対した。

 だが、軍を創建するのは予算の問題ではあるまい。軍は精神によって存在する。独立国は精神によってつくられている。

 アメリカは日本を完全に非武装化した憲法を強要したことを、悔いていたから、独立回復とともに、憲法を改正ができたはずだった。

 吉田首相が日本が暴走したために、先の戦争を招いたと信じていたのに対して、岸首相は日米戦争がアメリカによって、一方的に強いられた自衛戦争だったと、考えていた。

 岸氏は敗戦直後に占領軍によって、A級戦犯容疑者として逮捕されたが、入獄直前に「名に代へてこの聖戦の正しさを 萬代までも伝へ残さむ」と詠んで、高校の恩師へ贈っている。

 不平等条約でよいではないか

 吉田首相は在職中に、憲法改正に熱意を示すことがなかった。引退後、口では憲法を改正すべきことを唱えたが、大磯で贅に耽るかたわら、積極的に推進することがなかった。

 吉田元首相は岸首相が1957年に日米安保条約改定のために、アメリカに滞在していた間に、毎日新聞に「訪米の岸首相に望む」と題して、寄稿している。

 「安保条約、行政協定の改正などについて意見が出ているようだ。しかし、私はこれに手を触れる必要は全然ないと信ずる。今までのとおりで一向差支えない。条約を結んだ以上は互いに信義をもって守ってこそ国際条約といえる。(中略)不対等の条約もあって、それを結ぶことによって、国の利益になるなら私は喜んでその条約を結ぶ。下宿屋の2階で法律論をたたかわしているようなことで政治はやれない」(6月14日朝刊)

 独立国なら憲法を改正すべきだ

 岸氏は巣鴨から釈放されると、「憲法を改正して独立国にふさわしい体制をつくる」という旗印を掲げて、日本再建連盟を結成した。1953年に、吉田首相の自由党から衆議院議員選挙に当選すると、憲法調査会の初代会長に就任している。政界から退いた後も、自主憲法制定国民会議会長として、全国をまわって憲法改正をすべきことを訴えた。

 岸首相は安保条約を改定して、アイゼンハワー大統領の訪日を成功させたうえで、憲法改正への道筋をつけることを、目論んでいた。

 岸内閣が退陣した後は、池田勇人首相をはじめとする、いわゆる“吉田学校”によって政治が支配され、“吉田ドクトリン”のもとで、日本の迷走がずっと続いた。

 いまなお、占領下でアメリカが強要した日本国憲法と、“吉田ドクトリン”による日本の呪縛が続いている。

 岸首相といえば、日本では「昭和の妖怪」と綽名されているが、吉田茂こそ「昭和の妖怪」の名に、ふさわしいのではないか。

 安倍内閣が安保関連法成立の意義

 1960年の安保騒動は、岸首相が辞職すると、安保条約が発効したというのに、国会を囲んで荒れ狂ったデモが、何もなかったように沈静した。まるで悪夢をみたようだった。
マスコミが1970年の数年前から「70年危機」として喧伝したにもかかわらず、一部の学生が新宿駅構内で騒いだだけで、終わった。

 反対運動は、国民のごく一部にしかあたらない勢力によって、つくりだされたのだった。

 安倍内閣が安保関連法を成立させた。この時も、新聞や大手テレビがさかんに煽って、連日、国会を囲んでデモや集会が行われたが、“お祭騒ぎ”に終わった。

 いま、私たちは岸首相の再評価を行うことが、求められている。

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