浅海一男の“その後”
2012年11月13日
犯罪者・浅海一男の“その後”
廖承志(りょう しょうし)は、1963年から83年の死去までのあいだ、中国共産党で最も知日派として知られ、中日友好協会の設立時から死去まで会長であった。中共の外交における対日専門家育成の基礎を作ったとされる。
彼は日本生まれの日本育ちで、早稲田大学に在籍したこともあった。日本語は江戸っ子なみのベランメエ調も話すことができるほどで、1972年の日中国交正常化交渉では首脳の通訳として活動した。こう紹介すると、日中友好に尽力した日本に好意的な中共の要人と思われるかもしれないが、普通の支那人なみの卑劣感であった。
高山正之氏が週刊新潮に連載しているコラム「変見自在」に、この廖承志のことが書かれていた(‘12.8.30号)。
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廖承志は日本との国交回復を前に、まず記者交換協定を結んだ。文革騒ぎの少し前のことだ。
日本の新聞は競って記者を送り出したが、廖はその群れの中から浅海一男を見つけだした。肩書きは毎日新聞労組委員長だが、戦前は上海事変に従軍し、日本軍士官が百人斬りを競ったという与太を書いた記者だ。
戦後、その記事を証拠に2人の少尉は日本軍の残虐性の象徴として雨花台で処刑された。
しかし嘘はばれる。彼は閑職に追われ、毎日新聞も「1億人の昭和史」の中で彼の記事に疑問符を付けていた。
もし書いた当人がでっちあげを自供したら、それと関連させて支那が囃した南京大虐殺の嘘もばれる。
廖承志は今、手を打つべきだと考え、「金も仕事もやるから家族ごと北京にこないか」と浅海を誘った。
彼は針の筵の祖国を捨てて支那に渡り、娘の真理も北京大学に入れてもらった。彼女は今も政府施設に店を出し優雅に暮らしている。
その代償はただ一つ「百人斬りはホントだった」と言い続けることだった。
おかげで南京大虐殺は生き残り、支那は3兆円のODAを日本から巻き上げた。安い買い物だった。
ソ-ス:犯罪者・浅海一男の“その後”: 心に青雲
百人斬り裁判の中で浅海一男は知っていたが、その後のことは知らなかった。
こんな優雅な生活をしていたとは腹が立つ。
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