2015年9月11日金曜日

反日はどこからくるの

反日を追っています。そして守るべき日本とは何か考えています。

歴史通 2015.7月号

ジョン・ダワーのノーマン再評価で
「日本悪玉論」拡散

産経新聞編集委員 岡部伸

(一部抜粋)

p60~62
 評論家の江崎道朗氏によると、ノーマン復権を唱えたダワー教授の理論の下敷きになったのがベトナム反戦運動を展開したニュー・レフト(新左翼)だっ た。彼らは、ソ連の支援を受けた北ベトナムが勝利し、共産政権ができれば、東南アジアにも共産主義政権が誕生し、世界共産化が進むと考えた。ところが 1965年のインドネシア共産クーデターが阻止され、反共を掲げる東南アジア諸国連合(ASEAN)が創設された。そこでニュー・レフトの理論的指導者、カリフォルニア大学のヘルベルト・マルクーゼ教授が1969年、『解放論の試み』を出版し、アジア・アフリカの解放には、共産勢力の強化より、資本主義国の弱体化が必要と訴えた。

皇室解体と加害責任追及
 このマルクーゼ理論を基にダワー教授は、ベトナム、ひいてはアジアの民主化を阻害する米国の帝国主義者たちがアジアで影響力を保持するのは、日米同盟と日本の経済力があるからだとして、日米同盟を解体し日本を弱体化することが、アジアの民主化につながると考えた。そしてダワー教授らは次のように訴えた。

「占 領政策で日本の民主化は進んだものの、日本の官僚制を活用する間接統治と『逆コース』で占領政策が骨抜きとなり、『天皇制』など戦前の専制体制が温存され た。さらに昭和天皇の戦争責任を不問にするなど東京裁判が不徹底に終わったため、日本は『過去の侵略を反省できない、アジアから信頼されない国家』になっ た。そこでもう一度、徹底した民主化(憲法の国民主権に基づく皇室解体)と東京裁判のやり直し、アジア諸国への加害責任の追及を行うべきだ。そのため民主 化と加害責任の追及を行う日本の民主勢力(例えば、家永三郎氏のような『勇気』ある歴史家たち)を支援するべきだ(ダワー教授は1999年、後述する『抗日連合会』土井たか子元社民党党首らと連携して、家永三郎氏にノーベル平和賞を受賞させる運動を展開している」

「暗黒史観」であるノーマン理論を引き継いで「未完の占領改革」を徹底せよというのである。こうして日本の加害責任を改めて追及して日本を弱体化させ、アジアの民主化を促すという世界戦略が米国のニュー・レフトの間で確立されたのである。

ノーマン理論復権
 米国でのダワー教授のノーマン再評価を受けて日本でもノーマン理論が復権する。没後20年を期して77年に全集が刊行され、87年には全集の増補が刊行される。さらに左派リベラル勢力が「一般国民もアジア侵略の加害者である」と戦争責任を問い始めた。

 その理論を支えた一人となった一橋大学の油井大三郎名誉教授は 1989年にノーマンを再評価する『未完の占領革命ー米国知識人と捨てられた日本民主化構想』を上梓し、「武装解除されても、天皇制が残るならば、日本は 他の世界にとって未解決な危険な問題であり続ける」とのノーマンの発言を引用して、アジアから信頼を得るには、日本人自身が天皇制解体や加害責任追及を完 遂するべきだと唱えた。言い換えれば東京裁判をやり直し、日本の加害責任を徹底追及しなければ、「占領革命」が完了しない、と訴えかけた。

 こうしてノーマンが説いた「アジアへの加害者責任」の自虐史観は日本に浸透し、日本で謝罪外交の必要性が理論化された。日本国内で運動の中心的役割を果たすのが家永教科書検定訴訟支援運動だった。この結果、1980年代後半ごろから日本を始め世界各地に日本に謝罪と補償をさせる「反日」組織が誕生する。

 東南アジアなどの戦争の被害地を訪問して加害者としての日本の歴史を確認する「ピース・ボート」運動が83年に辻元清美衆院議員が発起人となって始まる。84年には家永教科書訴訟を支援する形で「南京事件調査研究会」が発足され、84、87年に中国を訪問し、中国側の主張に沿って『侵華日軍南京大屠殺資料専輯』を翻訳して出版するなど「南京大虐殺」キャンペーンを始めている。また86年には、中国、韓国などの反日活動家を訪日させ、日本の加害責任を追及する国際ネットワーク構築が始まった。

 韓国で親北系のハンギョレ新聞で「『挺身隊』怨念の足跡取材記」の慰安婦キャンペーンが始まるのは90年1月だった。翌2月17日、戸塚悦朗弁護士が国連人権委員会で「従軍慰安婦・強制連行」を取り上げている。

  在米中国人が日本の戦争責任を蒸し返して米国や国連を舞台に日本に謝罪と補償を求めて反日宣伝を行う「対日索賠中華同胞会」が出来るのは87年だ。狙いを 「南京大虐殺」に絞った「紀念南京大虐殺受難同胞連合会」を結成、翌92年にはカリフォルニアで「抗日戦争史実維護会」が組織される。

 米国での中国系反日活動に連動して88年に香港で「香港紀念抗日受難同胞聯會」が結成されたのを皮切りにカナダなど世界各地で同趣旨の組織が結成され、94年12月、30を超える中国系反日組織を結集させる連合体として「世界抗日戦争史実維護聯合会」(抗日連合会)が 結成される。中国政府と連携した中国系米人たちが「日本に戦争での残虐行為を謝罪させ、賠償させる」 ことを主目的に設立した「抗日連合会」が、「歴史戦」の主役として北米で日本の戦争責任を追及する苛烈な反日プロパガンダを20年にわたって繰り返してい る。南京事件のほかに捕虜虐待、731部隊、慰安婦を挙げてきた。戦犯裁判や対日講和条約での日本の責任受け入れを一切、認めない点で明白な反日組織だ。 昨年、カリフォルニア州グレンデール市やニュージャージー州で慰安婦像を設置したのは記憶に新しい。「南京大虐殺」を目撃したとするドイツ人のジョン・ ラーベの日記を発掘し、ドイツを「南京大虐殺」キャンペーンに捲き込んだり、反日集会に参加したアイリス・チャンに『ザ・レイプ・オブ・南京』を執筆させたりしたのも「抗日連合会」だった。

 21世紀になると、ノーマンの再評価が広がる。ライシャワーの駐日大使時代の特別補佐官で、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院の学院長を務めたジョージ・パッカード氏も2001年に東京・六本木の国際文化会館で、 「ライシャワーの日本近代史観は楽観主義が強すぎて軽視される一方、ダワーの『敗北を抱きしめて』やハーバート・ビックスの『昭和天皇』などの著作にみら れるように、ライシャワーと対照的なノーマンの史観に評価が高まっている」とライシャワーを批判し、ノーマンを持ち上げた。

 こうした ノーマン再評価を背景に中国、韓国はじめ、米国やカナダ、香港でも「日本の加害者責任」と人権を結びつけ、日本を弱体化させる反日国際ネットワークが次々 と構築され、反日プロパガンダは現在も世界で広がっている。中国が仕掛ける「歴史戦」の活断層はこのあたりにあるともいえる。


ジョージ・パッカード氏@国際文化会館
国際文化会館ライシャワーハーバートノーマン
http://www.i-house.or.jp/programs/publicprogram2002/

国際文化会館といえば

イタリアで実刑を受けたにも関わらずアントニオ・ネグリ氏を招聘したところ
テロリストもNO PROBLEM!国境なんてないさ

そして・・
歴史国際文化会館侮日新聞ジャパンタイムズ ニフコ会長10億円申告漏れ 海外転々

参考
反日ネットワークの正体 
羽仁五郎とハーバート・ノーマン  
左翼はなぜ嘘をつくのか 
中指立てて仲良くしようゼと言う187人の歴史学者
吉松育美さん騒動12 ベトナム反戦運動とピースボート 

【経済インサイド】
あのソフトバンクが動画配信最大手ネットフリックスと“独占契約” 
iPhoneに次ぐ「2匹目のドジョウ」となるか?
ネットフリックス会見

  インターネットを使った有料動画配信で世界最大手のネットフリックス。日本参入に当たり、ソフトバンクとタッグを組んだ。携帯電話販売店や家電量販店で手 軽に申し込めるようにして、効率的に市場開拓を図る。一方のソフトバンクがもくろむのは、店頭販売の独占により、携帯や光回線の利用者を自社サービスに囲 い込むことだ。かつて国内独占販売によって新規契約増の強い武器となった米アップル製スマートフォン「アイフォーン」のように、NTTドコモやKDDIと の差別化につながる“2匹目のドジョウ”へと育てられるかが注目される。
      
    ◇
 「革新的で、不確実性をいとわないパートナーが必要だ。ソフトバンクは、まさにそうした存在だ」

  8月24日の発表会見で、ネットフリックス日本法人のグレッグ・ピーターズ社長は提携するソフトバンクをそう持ち上げた。有料放送の利用者が9割に上る米 国などと異なり、「テレビは無料で視聴するもの」という意識が日本では根強い。その市場攻略を目指すには、米国のようなネットでの直接契約だけでなく、店 頭を通じた営業力が欠かせない。スマホや光回線を申し込みに来た来店者たちに動画配信サービスも売り込んでもらえば、加入者を早期に伸ばせる-というの が、携帯大手をパートナーに選んだ理由だ。

 ソフトバンクの宮内謙社長は「両社の関係がウィン-ウィンになることを目指した。たくさん売 れば当然、僕らがウィンになる」と強調。全国数千カ所の携帯販売網をネットフリックスの加入促進に活用する。ネット手続きの場合は誰でも申し込めるが、対 面で手続きができるのはソフトバンクのユーザーだけだ。さらに利便性を高めるため、毎月の視聴料を携帯の料金と合わせて支払えるようにした。

 ソフトバンクは契約者の獲得数に応じてマージンを得るが、狙いは当然そこではない。
  KDDIに続き、昨秋からドコモも「アイフォーン」の取り扱いを始めた結果、携帯電話サービスは大手3社横並びとなり、ソフトバンクの今年度第1四半期の 契約純増数は微増にとどまり苦戦に陥っている。販売面でネットフリックスとの独占提携を結び、2社との違いを打ち出すことで横並び状況の打破を目指す。
さらにうまみが大きいのは、加入者がソフトバンク回線でネットフリックスを視聴することによるデータ通信料の増収だ。

  動画のデータ量は標準画質(SD)で1時間当たり0.7ギガ、高画質(HD)で最大30ギガ。同社のスマホ料金は現在、月間通信量2ギガバイトのプランが 3500円、5ギガバイトで5000円だが、大容量の動画を楽しむために100万人が2ギガプランから5ギガプランへ移行すれば、増収効果は年間180億 円、200万人なら360億円に上る。携帯の増収だけにとどまらず「『ソフトバンク光』の契約数も向上するだろう」(宮内社長)とそろばんを弾く。

   ◇
  従来型携帯からスマホへの買い替えが一段落し、機種変更のペースも鈍った結果、端末市場は低迷が続いている。IT専門調査会社MM総研によると、昨年度の 国内出荷台数は前年比3.9%減の3788万台と3年連続で減少した。動画や音楽などのコンテンツ配信を新しい収益の柱に育てることは、携帯3社にとって の共通課題となっている。
動画配信では、ドコモの「dTV」が3社で最多の465万会員を獲得しているのに対し、KDDIの「ビデオパス」とソフトバンクの「UULA」はそれぞれ100万会員余りと、ドコモの後塵を拝している状況だ。

  その挽回に向けKDDIは、8月20日にテレビ朝日との業務提携を発表した。「AKB48」が出演するドラマの別バージョンといったオリジナル番組の提供 や、地上波放送でのPRによって、ビデオパス会員の拡大と携帯加入者の囲い込みを図る。利用者の視聴履歴などをビッグデータとして分析し、番組の企画・制 作に活用するという新機軸の取り組みも始める。

 ソフトバンクも、ビッグデータなどを活用しながらネットフリックスの独自コンテンツ制作に参画する方針だ。ネットフリックスはフジテレビや吉本興業とも共同制作に取り組み、洋画や海外ドラマが多い作品ラインアップを日本市場向けに強化していく。
先行するドコモは、2011年11月のサービス開始後1年4カ月で400万会員を突破したが、その後は伸び悩んでいる。そのため今年に入って大量のテレビCMを打ち、「進撃の巨人」といったキラーコンテンツを導入するなど、もう一段のテコ入れを図り出している。

  携帯大手以外では、日本テレビが昨年買収した子会社Huluを通じ、地上波と連動した専用番組の配信を開始。ネット通販の米アマゾン・ドット・コムや、 「TSUTAYA」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブもサービスを拡大するなど、ネットフリックスの参入を引き金に、加入者獲得合戦が激しく なってきた。

 動画配信世界最大手と組んだソフトバンクが狙い通りに通信事業の業績アップへとつなげられるか。国内の動画配信の普及をも左右する可能性がありそうだ。(山沢義徳)
産経ニュース2015.9.8
http://www.sankei.com/premium/news/150908/prm1509080002-n1.html

最近よくCM見るなと思っていたらソフトバンクでしたか

ソフトバンクは映画『アンブロークン』製作会社 レジェンダリーに出資したわけですが
ソフトバンクレジェンダリ出資
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NCTYWF6JTSEZ01.html

監督アンジェリーナ・ジョリーの現在
アンジェリーナジョリーnational enquire
http://www.nationalenquireruk.com/ 

【経済裏読み】
“暴落相場”ちゃっかり売り抜け 中国富裕層、“政府宣伝”に躍らず “頭脳流出”で市場当局も素人?
人民元を数える銀行職員

 暴落した中国株式市場から、富裕層の一部はうまく抜け出していたらしい。中国の決済機関によると、株式口座残高が1000万元(約2億円)を超える大口トレーダーの数が7月には3割近く減っていた一方、10万元未満のトレーダー数は8%増えていた。ブルームバーグが報じた。中国政府は強気の相場観を変えていないが、“情報通”の富裕層はちゃっかり売り抜け、政府を信じる投資家が過酷な市場を耐えている構図だ。中国政府の思いのままにならぬ市場の裏では、エリート層の静かな中国離れも進んでいる。

相場を動かす富裕層
 6月12日に上海総合指数が年初来最高値の5178・2を付けて以降、相場は下落基調に入った。実体経済から乖離した高値を恐怖した投資家が売りを加速させたためだ。

 中国当局は7月1日から信用取引に関する証券会社への規制を緩和するなどの刺激策で投資家を引き留めようとしたが、その思惑に反するように取引の手じまいに入った富裕層は多かったようだ。

  ブルームバーグによると、株式の保有残高が「100万~1000万元」の投資家数は7月に前月比で22%減少。世界的な投資会社CLSAキャピタルパート ナーズの香港戦略担当責任者のコメントとして、「相場を動かしたのは富裕層の顧客。彼らは情報通だ」との分析を紹介した。

 中国政府の宣伝に躍らず、海外情報を活用できる投資家がうまく混乱の中で立ち回っている様子が浮かぶ。

事態を収束できない当局
 中国人民銀行(中央銀行)が2年4カ月ぶりに利下げに踏み切った昨年11月22日から、利下げは計5回に及ぶ。当初は不動産市況の悪化に歯止めをかける狙いとみられたが、いまや中国経済の屋台骨を支えるための価格操作の色合いが濃くなっている。

 巨額資金の逃避に加えて、政府がそれをくい止める力を欠き、混乱を世界に広げている。なぜ事態を収束できないのか。

 ロイター通信はその原因の一端として、中国証券監督管理委員会(CSRC)の頭脳流出を挙げた。2008年のリーマン・ショックに伴う金融危機の中、政府は中国系の専門家の引き抜きを積極化していたが、今年夏の株の急落局面において、人材を生かすことはできなかった。海外から中国に戻った「海亀族」と呼ばれるこうしたエリートは、すでに当局の仕事に失望して民間企業に移ってしまっていたからだという。

出世できない「海亀組」
  同通信は、「CSRCでは国際経験が最も豊富な人が追いやられた」との銀行エコノミストのコメントを紹介。内部関係者の話として「(採用後の帰国組は)誰 1人として昇進しなかった」という。CSRCからコメントは得られなかったとしている。また上海総合取引所からも離職者が相次いでおり、金融市場が「素人 の手に委ねられている」との中国ファンドマネジャーらの嘆きも掲載した。

 ニューズウィーク日本版が昨年報じた中国の資産家393人を対象にした調査リポート。それによれば、中国の富裕層(資産1000万元以上)の64%がすでに国外に移住したか、計画を持っている。子供の留学は富裕層の8割が考えており、希望国の1位が米国という。

 深刻な大気汚染が覆い、景気の悪化が襲う中国。富裕層が国にとどまり、資産を持ち続けるメリットは小さくなっている
産経WEST2015.9.8
http://www.sankei.com/west/news/150908/wst1509080006-n1.html

中国やばいーーーヽ( ・∀・)ノ┌┛ガッΣ( `ハ´ )アイヤー
人民元売る時手数料20%(しかもドルで納める)というトンデモ通達
コネある人は役人買収とかですり抜けするんだろうなぁと思っていたし
目端きく人は既に逃げておったとw(想定内

中国の外貨準備高大幅減 当局介入の結果か
中国外貨準備高

中 国の先月末の外貨準備高は3兆5573億ドルと、前の月から930億ドル余り(日本円でおよそ11兆円)の大幅な減少となり、中国経済の先行きへの不透明 感が強まるなかで、人民元の行き過ぎた値下がりを防ぐために金融当局が介入に動いた結果ではないかと指摘されています。

中国の中央銀行「中国人民銀行」は7日、先月末の外貨準備高が3兆5573億ドル(日本円でおよそ424兆円)になったと発表しました。これは、前の月と比べ930億ドル余り(日本円でおよそ11兆円)の大幅な減少で、中国政府が月ごとの数字を公表している1999年以降、ひと月の減少幅としては最も大きくなりました。

市 場ではこのところ、中国経済の減速傾向が強まるなかで通貨・人民元を売ってドルなどの外貨を買う動きが広がっています。このため、今回の大幅な減少は、中 国の金融当局が市中銀行のドル需要に対応しようと外貨準備のドルを供給するとともに、人民元の行き過ぎた値下がりを防ぐために、市場で外貨準備のドルを 売って人民元を買う介入に動いた結果ではないかと指摘されています。

また、中国では去年後半以降、外貨準備高の減少傾向が続いていますが、今回、大幅な落ち込みが明らかになったことで、海外の投資家や企業などが保有する人民元を売って中国から海外へ資金が流出する動きが加速しているという見方も広がっています。
NHKNewsWeb2015.9.8
https://www.nhk.or.jp/news/html/20150908/k10010220281000.html
(数字は大本営発表)

( `ハ´ )入れても入れても溶ける金 じっと手を見るアル・・・・

 習近平軍事パレード
http://www.iza.ne.jp/kiji/world/photos/150903/wor15090322270046-p1.html
(近平<あーあ、左手で敬礼しちゃった・・・・)

参考
習近平主席が左手で敬礼? 全世界に向けて「演技」の可能性も<如月の見方>
http://news.searchina.net/id/1587677?page=1 

「韓日外交の怪物」崔書勉氏に聞く
張徳秀暗殺事件、日本亡命、朴正煕の片腕

崔書勉
画像:http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=78895&thread=01r04

 自宅の居室には「竭(けつ)忠報国(忠誠を尽くして国に報いる)」の額が掛かっていた。始林山人(韓国の初代副大統領、李始栄〈イ・シヨン〉の号)が崔書勉(チェ・ソミョン)少年に書き与えたものだという。

 今では体が不自由になり、電動の車いすに頼る高齢者になったとはいえ、87歳の崔書勉氏にも「少年」と呼ばれた時代があったのだ。

 「私が延禧専門学校(現在の延世大学)に通っていた19歳のときのことだった。『張徳秀(チャン・ドクス)暗殺事件』で投獄されると、当時の李始栄・副大統領がこの一文を送ってくれた。『熱心に勉強せよ(書勉)』という意味の『崔書勉』という名前も新たに付けてくれた。その名前のとおり、生涯かけて韓日関係史を勉強してきたわけだ」

-張徳秀暗殺(1947年)の首謀者というのは本当か。解放後、張徳秀が南側の単独政府樹立に同意したという理由で、銃撃されたと理解しているが。

 「当時私は、金九(キム・グ)に従う韓国独立党(韓独党)傘下の、大韓学生連盟の委員長を務めており、2人の暗殺犯がその組織に加入していた。そういう関係しかなかった。もし私が介入していたら、事件が起きた日に逃げたはずで、そのまま家にいて捕まったりするだろうか。無期懲役を言い渡され、1年半後に刑の執行停止で釈放された」

 その後は、張勉(チャン・ミョン)博士の秘書を務め、米軍の軍用機に乗って亡命し、東京で韓国研究院を 設立、さらには韓日関係史の貴重な史料・書籍など約20万点の収集、金大中(キム・デジュン)元大統領への後援、朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の片 腕、日本政財界の人物を動かす「韓日外交の怪物」……。崔書勉氏自身が「現代史」なのかもしれない。風雲児のように時代を生き、ミステリアスな部分も多 い。

-金九から始めよう。金九はどういう人物なのか。
 「行政家的な政治家ではなく、独立運動家として金九を見るべきだ。インドのガンジーは、行政的な意味ではネール(インドの初代首相)に劣る。しかし民族史的な意味で、ネールがガンジーに追い付くことはできない」

-金九は、南側の単独政府に反対した。南北交渉を推進して失敗し、北朝鮮に利用されたという評価を受けている。言わば、今の大韓民国政府の樹立に反対した人物になるわけだが。
 「単独政府に反対したのではない。単独政府を立てるにしても、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)とひとまず交渉してみてこそ、名分と代表性を手にすることができるという考えだった。実際、金九は今の韓国政府の樹立に決定な寄与を行った」

-どういう点を言っているのか。
  「戦後処理構想を話し合うカイロ会談(1943年)に出席する前、蒋介石が金九を呼んだ。『この先、朝鮮問題が出るはずだが、私はどう言うべきか』。当時 は、植民地朝鮮を信託統治しようという雰囲気だった。金九は『信託統治をしたら、私はまたどこかに亡命しなければならない。朝鮮が直ちに独立することを願 うのみ』と答えた。カイロでは、蒋介石の提案で『朝鮮を適当な時期に』独立させると決定した。そのように動かしたのは、金九の寄与だった」

-李承晩(イ・スンマン)元大統領についての評価は。
 「反対する側にいたが、尊敬されるべきだ。卓越した政治家だった。南側の単独政府は完成品ではなく、理想的なものでもなかったが、当時の現実において、それなりに評価されるべきだ。功罪は7対3だと思う」

-先生は、李承晩政権時代に張勉博士の秘書を務め、1957年に日本へ亡命したと理解しているが。
 「監獄でカトリックに帰依し、盧基南(ノ・ギナム)大司教(韓国人初の司教)張勉博士と会うようになった。そうした縁で、張勉博士の秘書として働いた。李承晩政権末期に、張勉勢力を除去しようとする工作があった。その情報を知って、この方々が私に『避けているように』と言った。米軍の軍用機で日本に密航した

 崔書勉氏が一人暮らしをしているマンションには、韓日関係の資料や書籍がぎっしりと詰まっている。韓国政府の研究機関や大学にも、崔書勉氏は少なからず貴重資料を渡した。とりわけ、安重根(アン・ジュングン)に関する資料を発掘した功績は大きい。崔書勉氏が日本の古書店で「安応七歴史」という本を入手したことにより、韓国で初めて「安重根伝」を出版することができた。

-日本で韓日関係史の資料収集をやるようになったきっかけは。
  「当初、韓国を離れたとき、イタリアに行くことにしていた。日本でイタリア行きの手はずを整える間、国会図書館に通った。そこで、日本がこれまで蓄積した 韓国研究の資料を目にしたのだ。韓国人として恥ずかしかった。イタリア行きをやめて、5年間国会図書館で勉強した。そのうちに、韓国研究院を設立して、自 分でも資料を探し集めるようになった。東京・神田の古本屋通いで忙しかった」

-20万点の資料収集の財源はどこから出たのか。
 「私が日本に行くときは、11号車だけだった」

-11号車?
 「2本の足で行ったということ。しかし、神は日々の糧をお与えになった。食べるだけの人間には食べ物だけを与え、本をぜひとも必要とする人間には本まで与えた」

-中央情報部のエージェント役をすることで金を受け取っていたのか。
 「日本でそのころはやった話だ。中央情報部の金だといわれそうなので、文教部(現在の教育部、「部」は省に相当)に申請して、国会審議を経て補助金をもらった」

-4・19(1960年4月19日。不正選挙に端を発したデモにより、当時の李承晩大統領が下野した事件)の後、張勉政権ができたとき、なぜ戻らなかったのか。
 「張勉政権は長続きしなさそうだといううわさを聞いた。韓国からは『仕事をする人間がいないので、早く戻ってこい』と催促されたが、『1年だけ待ってみて戻ろう』と思った。あの方は、太平の世にあっては立派な宰相たる人物だったが、難局にはふさわしくなかった」

-いくらもたたないうちに5・16クーデター(1961年5月16日。朴正熙陸軍少将〈当時〉らによる軍事クーデター)で張勉政権が倒れた。
 「私は日本で、反・朴正煕政権の講演をよくやって回った。70年代初め、当時日本に亡命していた金大中元大統領は、私のオフィスで暮らしていたようなものだった。朴正煕政権としては、日本との経済協力が必要な時期だったので、頭を痛めたことだろう。当時、金山政英・駐韓日本大使が朴正煕大統領に『崔書勉と一度会ってみるべき』と勧めたので、私が青瓦台(韓国大統領府)に呼ばれた」

-日本大使がそんな役割を果たせるのか。
  「金山大使は在任中(68-72年)、韓国のために多くの役割を果たした。韓日関係がおかしくなったら日本外交は全て役に立たない、という哲学を持ってい た人物だ。ある日、朴正煕大統領が『一杯やろう』と青瓦台に金山大使を呼び、『日本大使も韓国を助けるべきだ。浦項製鉄の建設に関して返事がもらえなけれ ば、戻ってくる必要はない』といって、佐藤栄作首相宛ての親書を託したこともあった。金山大使は『韓国に葬ってほしい』という遺言を残していたので、97 年に韓国のカトリックの墓地に埋葬された」

-ともあれ、金山大使のあっせんで会った朴正煕大統領の第一印象はどうだったか。
  「青瓦台に入ると、ちょうど国務会議(閣議に相当)が終わったところらしかった。会議のため応接室に持っていったソファを、運んでいる最中だった。朴正煕 大統領もソファを運ぶ手伝いをしていた。その後、いすに座って『日照りだったが、きょう雨が何ミリか降り、大田まで田植えをやった。もう少し降りさえすれ ば、水原までできるだろう。崔院長が来て、雨も降ってくれたので、感謝している』と言った。妙な気分だった」

-どういう対話を交わしたのか。
 「朴正煕大統領に『共産主義者というのは本当か』と尋ねた」

-なぜそんな質問を?
  「当時、日本の右翼は朴正煕大統領をそのように見ていたからだ(朴正煕大統領は、かつて南労党加入などの容疑で無期懲役を言い渡され、その後、再審で刑の 執行停止により釈放された。兄の朴相煕〈パク・サンヒ〉は、46年の大邱暴動で死亡)。私が日本に戻ったら、ここに答えを出してやらねばならないので。朴 正煕大統領はこの質問に刺激を受けた。軍隊時代に調査を受けたが、金鍾泌(キム・ジョンピル)がうまく処理したので誤解を受けずに済み、兄は共産主義者か もしれないが尊敬している、というように答えた」

-最初の出会いの後、朴正煕側に付いたと理解しているが。
 「朴 正煕大統領が右足を組んで座ったとき、靴底に穴が見えた。それは感動的だった。別れ際、大統領に、つけている時計を見せてくれないかと言った。当時、日本 にやって来てロレックスの時計を買い、『ハイト(白金)』と自慢していた高級官僚や政治家のことを思い出したからだ。大統領は『日本から部品を持ってき て、われわれが初めて組み立てたシチズンの時計だ。2年たっても時間がずれない』と言った。日本に戻って講演をするとき、大統領の靴と時計の話をした」

-現在、日本の政財界の雰囲気は、先生が交遊していた時期とかなり違っているのではないか。
  「あの時代、日本の人々は、かつて自分たちがやったことを知っていて『韓国にこれはしてやらないと』『日本が我慢しないと』と言っていた。韓国がうまく いってこそ日本もうまくいく、という考えがあった。今はそうではない。戦後体制からの『脱却』、戦後体制を乗り越えようとしている。そういう中で、韓国人 がかつて日本人に言っていたように『お前の方が間違っていたのであって』という対応ばかりしていては駄目だ」

-安倍首相に関心が集まっているが、安倍首相の母方の祖父、岸信介元首相はどうだったか。
 「狡猾(こうかつ)な、腹の内が読めない…政治家らしい政治家だった。太平洋戦争終盤の東条英機内閣で、岸信介は軍需省の次官を務めた。ところが岸は、戦犯として起訴されなかった。普段はぺこぺこしていた岸が、戦争予算に印を押すのを拒否して東条内閣を倒したからだ」
(え、これホント?)

-岸信介は「親韓派」に分類されているが。
  「別の下心を隠していたのかもしれないが、岸は首相をやめた後も『韓日協力委員会』をつくって役割を果たした。私が水面下の作業をやって、延世大学から岸 に名誉博士号を贈った。授与式の会場で、牧師がこう祈りをささげた。『神よ、こんなことがありましょうか。ある時は戦えと言っておいて、今は恩恵を与えよ とおっしゃるのですか。しかし、許せとおっしゃるのなら、許しましょう』。岸は『本当に感動的な日』と言った。朴正煕政権時代、韓国から名誉学位をもらっ た日本人は『翰林(かんりん)会』、勲章を授与された日本人は『光化会』を自ら結成した。親韓派グループだったわけだ」

-安倍政権に対する展望は。
 「大国は、過去の誤りを理解して反省することで1段階発展してきた。日本が反省しないなら、それは日本の損害であり、恥ずかしい国になるだけだ。そんな日本に、韓国がひれ伏してうまく合わせようとしてはならない」

-先生は何をしてきた人間なのか。
 「韓日問題の専門家、学者、教授と呼ばれもしたが、自分自身を振り返ってみると、立派な学生だった。学びて然(しか)る後に無知を知る…」

崔普植(チェ・ボシク)先任記者
朝鮮日報日本語版2015.9.6
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/09/05/2015090500577.html
話自体は「毎度の韓国人」以上の何もないんだけども
個人的に気になるところ 

 吉田氏によれば、40年に朝鮮の民族主義者で日本の民間人を殺害した金九(キム・グ)を輸送した罪で逮捕され懲役2年の刑を受けたという。ただ、吉田氏は、現代史家の秦郁彦氏に対し、罪名はアヘン密輸にからむ「軍事物資横領罪」であることを告白している。
吉田清治の正体は?

米軍の軍用機で日本に密航
金大中は私のオフィスで暮らしていた

(´・ω・`)闇が深いなぁ

参考
『国際韓国研究院の崔書勉院長 「安倍首相を見るとヒットラーが想起される」』
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/wildplus/1369179264/
(´・ω・`)だめだコリア 

5日、桜本で
ハルモニも怒 安保反対デモ企画
「戦争は差別を生む」
戦争反対トラジの会青丘社

 在日コリアンの高齢者クラブ「トラヂの会」のハルモニ(おばあちゃん)たちが、安倍政権が成立を目指す安全保障関連法案に反対する抗議のデモ行進を5日、桜本で企画する。「戦争は差別を生んでいる」と訴える。

  関連法案反対のデモが国会議事堂前をはじめ、全国各地で開かれている。そんな様子がテレビや新聞で報じられるたびに「いてもたってもいられなくなった」と 会員の一人は語った。本来なら、市民団体が開くデモや集会に駆けつけたいというが、体力的にきつい。ならば、地元桜本で声を上げようと、デモ行進を企画し た。

 別の会員は「朝鮮人は戦前、徴用で渡日し鉄道やダム建設、炭鉱現場で働かされた。創氏改名までしたが、戦争が終わってしまった。今 度は日本で暮らすようになるとひどい差別を受けた」と語り、「二度とこんな思いはしたくない」と力を込めた。入管法が厳しくなるなど外国人が居づらくなる ような昨今の状況にも恐ろしさを感じるという。

 デモはトラヂの会の約40人とその支援者計100人規模で企画。午後2時30分から桜本 保育園でリレートークを行い、3時30分から桜本商店街をデモ行進する。「せんそうをとめよう」「こどもをまもろう」「せんそうはんたい」と書いたうちわ を手にして練り歩く。同会では賛同者も広く募っており、参加希望者は、当日現地集合。
タウンニュース神奈川区版2015.9.4
http://www.townnews.co.jp/0206/2015/09/04/298060.html
(戦争が差別を生んだっていう理屈がよく分からんのだが)

ハルモニも「戦争反対」 在日1世、安保法案撤回求めデモ参加
トラジの会青丘社デモ

 在日コリアンも戦争反対-。安全保障関連法案の撤回を求めるデモ行進が5日、川崎市川崎区で行われた。先頭に立ったのは、この地域に住む在日1世のハルモニ(おばあさん)たち。日本による植民地支配、戦争、差別に苦しんだ人生が、その背を押した。

 民族衣装のチマ・チョゴリに身を包んだり、車いすに乗ったりした40人のハルモニがデモの先頭を歩いた。近隣住民をはじめ、在日への差別に抗議する活動に取り組む人や安保法案に反対する学生団体「SEALDs」のメンバーなど、世代を超えた人々が列に続き、計200人が民族楽器チャンゴのリズムに合わせ「平和が一番、平和を守れ」「戦争反対、絶対反対」とコールを響かせた。

 日本の植民地支配に始まる苦難の日々を送ってきたハルモニたちは、平和の尊さを身をもって知る。「日本が戦争する国になろうとしているのを知り、痛い脚、曲がった腰を忘れて立ち上がった。若者を戦争に送ってはならない」と沿道に呼び掛けた。

 デモを企画したのは、在日高齢者の交流グループ「トラヂの会」。国会前で抗議集会を展開する学生に触発され、「国会前にはいけないので、地元から発信しよう」と一念発起した。

 デモに先立ち戦争体験を語るリレートークも行われ、川崎で在日への差別をあおるヘイトスピーチに反対する活動を行っている女性(47)は「1世の人たちが苦労してきた話を聞き、差別と戦争がつながっていることがよく分かった。これからも平和のために差別反対の声を上げていきたい」と思いを新たにしていた。
カナロコby神奈川新聞2015.9.6
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150906-00003604-kana-l14


神奈川だからきっとそうだろうと思って検索したらやっぱりそうだった
トラジの会青丘社
http://www.seikyu-sha.com/fureai/?cat=18
社会福祉法人 青丘社

つい最近書いたばかりの李仁夏氏(故人)のところですね
坂中英徳と多文化強制センター


 青丘社李仁夏
(一部抜粋)
 地域に根ざした活動をする一方で、李さんたちは法律上での民族差別撤廃に向けての運動も進めていく。1974年、在日外国人には支給されていなかった児童手当を要求することから始まり、就学案内の要求、要保護世帯の奨学金制度問題などに取り組んだ。

 これに対して川崎市は国に先駆けて国民健康保険制度の国籍要件を外し、1975年には外国籍をもつ人の市営住宅入居を認め市の財源から児童手当の支給に踏み切るなど、数々の先進的な施策を打ち出し、全国の自治体に大きな影響を与えたのである。

 こうした一連の動きのなかで、外国人の地方参政権を要求す る声が高まってきたのは自然な流れだったといえるだろう。李さんたちは「要求から参加へ」を合言葉に働きかけを続け、その結果1994年に国に向けた定住 外国人の地方参政権の意見書が川崎市議会で採択され、さらに1996年、全国に先駆けて「川崎市外国人市民代表者会議」が発足した。外国籍をもつ住民が市長任命の諮問機関のメンバーとしてさまざまな提言をし、市条例によって独自性・独立性(調査権)を保障されるという、それまで事実上は一市民でありながら行政にはまったく関わることができなかった在日外国人にとって、そして行政側にとっても画期的なことである。
http://www.jinken.ne.jp/kyousei/lee/index_b.html

どうですか
これが坂中英徳氏の言うところの
「国籍、民族を問わず、すべての人に機会均等を保障し、「外国人が将来に希望を持てる社会」」の中身ですよ
しかもまだ足りないと言ってるわけで

ところがですね

カナロコトラジの会

幼いころに父を亡くし、14歳のころ、先に日本で働いていた兄を頼って母とともに海を渡った。

終戦の年の秋、家族と朝鮮半島に戻ったが、母と夫を相次いで亡くした。そして1950年、朝鮮戦争が勃発。幼い長女をおんぶし、砲火の下を逃げ回った。

仕事を求めて再び日本へ渡った。
画像→http://hosyusokuhou.jp/archives/45327906.html
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015090602000119.html 

(´・ω・`)この人達に日本が公的に配慮しなきゃいけない理由が一つでもあるんですかね?
そりゃご苦労はなさったんでしょうけどさ

主張は嘘ばっかり
多文化といいつつ自文化だけ
こんなの共生って言わねぇよ

日本人の「外国人」観は悪くなる一方だ。そうなると、外国人の受け入れで人口減少問題を解決しようとする道を閉ざすことになりかねない。

と坂中氏は書いてるが、坂中氏らのやらかしたことが原因ですでに外国人観は最悪です
移民反対!怒りで #ふるえる

中国やばいーーーヽ( ・∀・)ノ┌┛ガッΣ( `ハ´ )アイヤー 続報
記事書いた後ツイッターなど見ててもあまり騒いでる様子がなかったので拍子抜けしたが
やっとじわじわ来たか

G20開幕、中国「バブルはじけるような動きあった」
麻生「他に何がはじけると」【youtube】G20開幕、中国「バブルはじけるような動きあった」

世界同時株安”を受けて経済の先行きに対する警戒感が強まる中、G20=財務相・中央銀行総裁会議が開幕し、中国側から「バブルがはじけるような動きがあった」との説明があったということです。

 トルコで開かれているG20(主要20か国)の財務相・中央銀行総裁会議では、“世界同時株安”のきっかけとなった中国側から冒頭説明がありました。

 「中国の人民銀行総裁の方から『はじけた』という言葉を3回くらい使っていた

Q.バブルがはじけたと?
 「他に何がはじけるんですか」(麻生太郎財務大臣)

  麻生財務大臣はこう述べたうえで、「中国は、過剰設備の解消や不良債権の処理など、構造的な課題に取り組むことが重要だ」と会議で主張したことを明らかに しました。中国に対しては、日本以外からも構造改革を求める意見が相次いだということで、5日に採択される共同声明にどこまで盛り込まれるか注目されま す。(05日05:20)
TBSNewsi 2015.9.5
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2579964.html


( `ハ´)はじけた
( `ハ´)はじけた
( `ハ´)はじけたアル  
青山繁晴氏が大連鎖倒産状態になると言ったそうだが

大連鎖チャンスぷよぷよ
http://www.gameapps.jp/archives/2288
(違

ついにチャイナボカンシリーズもバブルに及びましたか

次は何を埋めるの?
中国高速鉄道事故埋める
 http://www.epochtimes.jp/jp/2011/08/html/d25849.html

 心のすき間もぐろふくぞう
http://www.7netshopping.jp/dvd/detail/-/accd/1400576520/
心のスキ間!(ドーン

(´・ω・`)月曜日えらいことになりそうでつね

上海のおっさん
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1440414982/

(´・ω・`)ノ達者でなぁ~~~

(あーバスに乗らんでよかったのぅ)

こちらのスレを参考にしました
『中国「なんかねバブルがはじけたような感じなんだけど」』
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1441425304/ 

『昭和天皇実録』に記載されなかった真実 
「英国情報工作員」とも引見した「昭和天皇」復興のインテリジェンス
――徳本栄一郎(ジャーナリスト)〈週刊新潮〉

『昭和天皇実録』は、約24年の歳月をかけて昨秋ようやく公表された。しかし、そこには世界各国のVIPとの詳しいやりとりは記載されていない。ジャーナリストの徳本栄一郎氏が、各国の機密文書を基に昭和天皇“復興のインテリジェンス”を浮かび上がらせる。

 ***

 第2次大戦終結から70年の今年は、国内外で戦後史の検証が行われている。中でも、今なお圧倒的に強い関心を呼ぶのが昭和天皇である。87年の生涯は敗戦から占領、そして復興と、まさに激動の時代だった。

 その生涯の動静を記録したのが、昨年9月に宮内庁が公表した『昭和天皇実録』(以下、『実録』)である。膨大な公文書や側近の日誌を基に年月日順に記述され、分量は全61巻、約1万2000ページに及んだ。私も大きな興奮を覚えながら読んだが、同時にある種の物足りなさも感じた。

 生前、天皇の下には世界の数多くの大物政治家、実業家、宗教指導者らが訪れた。彼らとの会見は現代史そのもので、国際政治の内幕を照らすはずだ。そのやり取りが『実録』からほとんど抜けているのだ。

 これまで私は世界中の様々なアーカイブで日本関連ファイルを収集してきた。各国の外務省、軍部、情報機関などが作成した文書で、膨大な皇室ファイルも含まれる。そして、そこからは『実録』に書かれなかった昭和天皇の素顔、現代史の実像が浮かび上がってきた。

  天皇がその生涯で直面した最大の危機、それは敗戦から6年以上続いた占領である。45年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリで降伏文書に調印して連合国の日 本占領が始まった。翌年1月の「人間宣言」に続き、極東国際軍事裁判、日本国憲法の制定と激動の日々が続いた。ポツダム宣言の受諾で天皇制護持の了解は 取ったものの、その保証は心もとないものだった。国内では連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが絶対権力者に君臨し、日本政府は混乱の極にあった。 ソ連や豪州は天皇を戦犯として裁くよう求め、米国の世論も厳しかった。

 そうした中で危機突破のため天皇が取った手段、それは欧米で隠然たる力を持つ人物への接近だった。彼ならマッカーサーと対等に渡り合い、必要なら圧力をかけられるかもしれない。全世界のキリスト教徒の聖地バチカンのローマ教皇であった。

 実際、『実録』の占領期の記述を見ると、キリスト教会幹部との相次ぐ会見が目を引く。一例を挙げる。

 46年7月19日に「午前十時、表拝謁ノ間において、今般日本のカトリック教徒への使節として来日の米国人司教ジョン・F・オハラ、同ミカエル・J・レーディに謁見を仰せ付けられる」とある。

  ジョン・オハラとミカエル・レディは米政界に太いパイプを持つ司教で、その約2週間前から来日し各界指導者と会見していた。帰国後、2人が作成した訪日報 告書をワシントンの米カトリック大学が保管している。その7月19日の記述を読むと『実録』とはかなりニュアンスが違う。

「天皇は教皇ピ ウス12世のたゆまぬ平和への努力を称賛し、(中略)司祭や信者が日本で行う教育・社会活動に感謝を表明した。東京の修道会は壁に皇室の写真がかけられ、 毎日シスターが天皇のために祈っていると伝えると喜び、その修道会の名を訊ねてきた。25年前、皇太子時代に天皇は教皇ベネディクト15世と謁見し、これ 以上の名誉はなく今でも鮮明に覚えているという。彼はバチカンを訪問した唯一の皇族らしい」

 ここで重要なのは天皇がわざわざ皇太子時代のローマ訪問を持ち出し、バチカンとの結びつきを強調した事だ。天皇がかねてローマ教皇庁に接近を図っていた事はよく知られる。

「私 は嘗て『ローマ』訪問以来、法皇庁とは、どうしても、連絡をとらねばならぬと思つてゐた、(中略)開戦后、私は『ローマ』法皇庁と連絡のある事が、戦の終 結時期に於て好都合なるべき事、又世界の情報蒐集の上にも便宜あること竝(ならび)に『ローマ』法皇庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考 へて、東条に公使派遣方を要望した次第である」(『昭和天皇独白録』)

 確かにローマ教皇庁のインテリジェンス収集はずば抜けている。 全世界に数十万人の司祭を配置し、彼らは常時現地の情勢を報告してくる。その情報網は英米の諜報機関を凌駕するとされる程だ。占領下でマッカーサーに対抗 するため、天皇がローマ教皇を利用しようとしてもおかしくなかった。それを示唆するのが『実録』の48年1月23日の記述だ。

「午前、表拝謁の間において、財団法人慈生会理事長フランシス・ヨゼフ・フロジャック(フランス国人神父)を皇后と共に御引見になる。この度の御引見は、フロジャックが、ローマ法王庁等に日本のカトリック教会の現状を報告することを機に、四十年ぶりに帰国することによる」

■強い親英感情
  このフロジャックとは明治末期に来日し、結核患者の療養施設建設など社会福祉に携わったフランス人神父だ。敗戦直後に天皇に数回拝謁した彼は48年3月に 40年ぶりに欧州を訪れるが、ある重要な使命を帯びていた。バチカンに天皇のメッセージを伝え、ローマ教皇の署名入り写真を持ち帰る事だった。

 その夏にフロジャックは再び天皇に拝謁して教皇の写真を献上したが、この直後、バチカンの英国公使館がロンドンの英外務省に報告を送っている。フロジャックの動きを察知した公使館は教皇庁幹部を通じて彼の目的を調べたらしい。

「ロー マを訪れたフロジャックは教皇に謁見し、天皇からのメッセージを渡した。彼は返礼として教皇の写真を渡す事を希望し、それに教皇も同意したという」「ロー マ教皇は、われわれの旧敵国への支持でしばしば非難されてきた。(親書交換は)些細な出来事だが、報告に値すると判断する」(48年7月6日、英外務省文 書)

 戦争が終結したとはいえ、全世界のカトリック教徒の頂点と天皇の接触に英国は神経を尖らせたようだ。そしてこの時期、天皇はもう一 人、欧米で大きな影響力を持つ人物に接近していた。英国王ジョージ6世である。『実録』によると、フロジャックに教皇へのメッセージを託した翌日の48年 1月24日、天皇はある英国人外交官を引見した。マイルス・キラーン卿、シンガポール駐在の東南アジア特別弁務官で駐エジプト大使などを歴任した人物だ。

 明治末期に駐日大使館に勤務し、皇太子時代の天皇が訪英した際はスコットランドに同行している。『実録』では単に引見の事実しか書いていないが、英外務省の記録を読むと天皇の真の狙いが分かる。

「明 らかに天皇は戦後初めて英国の旧友を迎えた事を歓迎していた」「天皇は先の戦争を遺憾に思っている事、自分は常に反対だったが周囲の環境や状況に逆らえな かったと断定的に語った」「言葉には発しなかったが天皇は強い親英感情を抱き、再び英国とのコンタクトを得て心から喜んでいた」(48年1月25日、英外 務省文書)

 そして引見の最後に天皇はキラーン卿にある依頼をした。自分からぜひ英国王夫妻に挨拶の書簡を送りたいという。この思わぬ申し出に英国政府は少なからず慌てた。

  当時、天皇と外部の接触はGHQが厳重に監視し、外国元首への書簡も検閲していた。もし国王との接触がマッカーサーの不興を買えば英米関係に影響する。ま た英国にとって日本はまだ講和条約も調印していない敵国だった。日本軍による捕虜虐待で対日感情は悪く、天皇と親密な印象は世論を刺激しかねない。結局、 英外務省はバッキンガム宮殿と協議し、天皇の弟の秩父宮を通じて口頭でジョージ6世のメッセージが届けられたのだった。

 このように占領期の天皇はフロジャック神父、キラーン卿など信頼できる人間を通じ、あらゆるルートで外部と接触を図った。GHQに対抗するにはローマ教皇や英国王は強力な援軍に映ったはずだ。宮中で天皇は必死に孤独な戦いを続けていたのだった。

■国際情勢に非常な関心
 やがてサンフランシスコ講和条約の調印で日本占領は終了した。GHQも去って日本は象徴天皇制に歩み出すが、この頃、皇室は新たな問題に直面していた。

 講和条約発効から2カ月後の52年6月11日、天皇は来日中のアレキサンダー英国防大臣を引見した。これも『実録』はただ引見としか書いていないが、英国政府の記録からは天皇の苦悩が垣間見える。

「天 皇は(英国の)王室の近況を尋ねた後、国際情勢について質問してきた。中国、ソ連、マレー半島、ペルシア、エジプトなどに関する天皇の問いに、われわれは 然るべき回答を行った。式部官長によると、天皇は国際情勢に非常な関心を抱いているが、現在の憲法下では政府から情報が入らず、自分の意見を言う事もでき ないという」(52年6月12日、英外務省文書)

 満州事変以降、日本の政府や軍部が天皇に情報を上げず、その権威を利用したのは事実 だ。それが日中戦争、太平洋戦争の一因となった。しかもこの年は朝鮮戦争が3年目を迎え、世界中で東西冷戦が激化していた。そうした中、天皇は自ら海外の インテリジェンス収集に動き始めていた。

 例えば『実録』の59年11月25日の記述に、英国の前シンガポール駐在総弁務官ロバート・ス コットを引見とある。任期を終えて帰国する前に来日したが、彼にはもう一つの顔があった。SIS(英国情報局秘密情報部、別称MI6)と連携して東南アジ アの情報収集を行うことだった。当時、SISはシンガポールを拠点に、CIA(米中央情報局)と共に対共産主義工作を進めていた。

 この 引見で通訳を務めたのが、外務省出身で宮内庁侍従職御用掛の真崎秀樹である。真崎は25年に亘り側近通訳を務めたが、その間、天皇と各国要人の会話を詳細 にノートに記録していた。生前、彼はある米国人ジャーナリストの求めに応じ、英語でそのノートの内容をテープに吹き込んだ。私は30時間以上に及ぶ「真崎 テープ」を入手して聞いてみたが、その中に天皇とスコットのやり取りがあった。話題はインドネシア情勢だった。

 天皇「(現地での)共産党の状況はどうですか」

 スコット「共産党は最大政党で、スカルノ大統領は他党と同様、彼らを管理できるかもしれません。しかし、これは彼の政権維持の策略に過ぎないとの見方もあります」

 天皇「インドネシアでの中国共産党の影響力は強いのですか」

 スコット「その通りです。ただ矛盾するのは、インドネシアが東欧共産圏の支援も受けている事です」

『実録』と「真崎テープ」の中身を更に比較する。62年1月11日に天皇はディーン・アチソン元米国務長官を引見した。ケネディ政権の外交顧問のアチソンは、カンボジアなどアジア諸国を歴訪中だった。

 アチソン「カンボジアのシアヌーク殿下は感情的な男で、(国境紛争を抱える)タイに激しい言葉を使っています。彼は関係改善のために私を招待してきました」

 天皇「あなたの努力でカンボジア、タイ、ベトナムの関係が改善すれば、アジアの平和にとって良い事でしょう(中略)」
アチソン「タイと南ベトナムは共に米国の同盟国ですが、シアヌーク殿下は米国がカンボジアに敵対していると疑っています。私は、それが事実でないと彼に言うつもりです」

■大変な苦痛
 アチソンは天皇に直(じか)に米国のアジア戦略を伝えたのだった。その2カ月後の3月9日、天皇は米チェース・マンハッタン銀行のデイビッド・ロックフェラー頭取を引見している。世界有数のロックフェラー財閥創業者の孫で、米政界に大きな影響力を持つ人物だ。

 ロックフェラー「フィリピンでは共産主義の危険が収まり、徐々に経済も改善しています」

 天皇「それを聞いて嬉しく思います。日米の協力は両国だけでなく、世界平和に極めて重要だと思います」

 ロックフェラー「私はソ連と中国を訪れた事はなく、彼らの態度が変わらない限り、足を踏み入れるつもりはありません。(中略)米国、欧州、日本が緊密に協力すればソ連と中国の前進を阻止できるでしょう」

 天皇「私もそう思います」

 このように50年代から60年代にかけて天皇は共産主義を警戒し、極めて政治的な会話をしていた。引見した各国要人から直にインテリジェンスを入手し、国際情勢で意見を交換した。そこには東西冷戦の最中、冷静な現実主義者としての天皇の姿が浮かぶ。

  そして、これらのやり取りは宮内庁も把握しているはずだ。なぜなら『実録』の典拠資料には「真崎テープ」の基になったノート、真崎秀樹英文日記が含まれる からだ。もしこれが情報公開されれば、激動の昭和の時代に天皇が何を考え、どう行動したかを知る第一級の資料になるだろう。

 だが、一人の人間としての天皇を鮮やかに照らすエピソード、それはサンフランシスコ講和条約の調印直後、吉田茂首相とのやり取りではないだろうか。

『実録』では51年9月15日、帰国した吉田首相が講和会議の経過、条約の内容について説明したとある。例によって記述はこれだけだが、その5日後、駐日英国代表部がロンドンの英外務省にある報告を送っている。代表部幹部が吉田首相と交わした会話についてだった。

「昨 日、吉田首相と会った際、講和条約に対する天皇の態度が話題に上がった。(中略)天皇は条約内容が彼自身にとって予想以上に寛大だった事に同意した。一方 で天皇は明治大帝の孫(である自分)の時代に、海外の領土を全て失った事は大変な苦痛だと語った。吉田首相は天皇に、今更そんな事をこぼす時期ではないと 述べたという」(51年9月20日、英外務省文書)

 天皇は講和条約を歓迎しつつ、明治以来の海外領土を失った事に大きな葛藤を覚えていた。また祖父である明治天皇への敬愛が伝わってくる。占領という未曾有の時代が終わり、つい本心を明かしてしまったのだろう。

 約24年の歳月をかけて完成した『昭和天皇実録』は一大歴史絵巻と言える。激動の時代を鮮やかに照らし出したが、それは巨大なジグソーパズルでもあった。欠けた部分にピースを埋め込む事で昭和の真相が浮かび上がる。あの時代の検証はまさにこれから始まると言ってよい。
※「週刊新潮」2015年8月13・20日夏季特大号
BOOKS&NEWS 矢来町ぐるり2015.8.16
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150816-00010001-shincho-soci&p=1

【wiki】ヨゼフ・フロジャック 
フロジャック神父
1947年(昭和22年)9月8日 行幸啓の様子

ガセかとも思ったが他ソースもあるから事実なんだろう
短い記事だけどカオス

中国 人民元の為替予約で新たな通達

中国の中央銀行「中国人民銀行」は、国内で営業している銀行が通貨・人民元を売る為替の予約の注文を受けた場合、元本の20%を中央銀行に納めさせるとした通達を出したことが分かり、政府として人民元のこれ以上の値下がりを食い止めたいねらいがあるとみられます。

複数の外資系銀行の関係者によりますと、中国人民銀行は1日までに、通貨・人民元の為替予約の取り引きに関する新たな通達を中国で営業している各銀行に出しました。

通達では、銀行が客から人民元を売って外貨を買う為替の予約の注文を受けた場合、元本の20%を準備金として中央銀行の口座にドル建てで納めさせるとしています。預けた金は1年間、引き出すことができず利息はつかないということです。

銀行側では、人民元を売りたい客に対し追加の費用を負担してもらう必要があり、手数料が高くなることから、今後はこれまでより元売りの注文が減るとみています。
(減るかも知らんけど二度と入って来んやろ)

上海の外国為替市場では、先月11日に中国政府が1日の取り引きの目安となる基準値の決め方を変更し、ドルに対して2%近くレートを切り下げたあと、投資家の間に中国経済のさらなる減速に対する懸念などが広がり、人民元が売られやすい相場となっていました。

人民元の下落は、資金の海外への流出を加速させ、政府が目指す人民元の国際化にも影響を及ぼしかねないことから、中国政府としては今回の通達により人民元の値下がりを食い止めたいねらいがあるとみられます。
NHKNEWSWeb2015.9.1
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150901/k10010212851000.html

(´・ω・`)外貨がなくてお困りのご様子ですね
持ってるだけで20%減ってしまう不思議なお金
そ~んな不思議な人民元はいらない♪そ~んな不思議な人民元はい・ら・ない♪

【抗日70年行事】
朴槿恵大統領、満面の笑みで登場 中韓関係の強化印象づけ
抗日戦争記念習近平朴槿恵プーチン

 【北京=川越一】午前9時(日本時間同10時)、習近平国家主席と彭麗媛夫人が天安門に続く端門外の広場で、来賓を出迎えた。

 最初に習氏と握手を交わしたのは国連の潘基文事務総長だった。潘氏は笑顔を浮かべ、習夫妻と記念写真に収まった。
 赤十字などの国際機関の代表、各国首脳らが次々と習氏の前に進み、握手を交わしていった。
 同9時20分ごろ、韓国の朴槿恵大統領が黄色いジャケットを着て現れた。習氏のもとに続くレッドカーペットを歩いているときから、満面の笑みを浮かべていた。
 前日2日、朴氏は習氏と中韓首脳会談を行い、日中韓首脳会談の早期再開で合意。その後の昼食会を、韓国側は「格別の配慮、歓待」と受け止めていた。
 “特別扱い”を自認しているのか、朴氏は握手の際も、他の首脳よりも長く習夫妻と言葉を交わし、中韓の関係強化を印象づけようとしていた。
 中国中央テレビ(CCTV)のアナウンサーが、各国の第二次大戦との関わりを紹介していった。旧日本軍が戦場としたアジア諸国については、「日本に侵略された」と強調。北朝鮮の崔竜海・朝鮮労働党書記を紹介する際には、「ともに日本に抵抗した」と伝えた。
(えぇ~そんな覚えはないんでございますが)
 出迎えの最後を飾ったのはロシアのプーチン大統領だった。習氏とプーチン氏は並んで、集合写真の撮影場所に向かった。その後、習氏や各国首脳は、天安門の楼上に上がった。
抗日戦争記念習近平朴槿恵プーチン江沢民

産経ニュース2015.9.3
http://www.sankei.com/world/news/150903/wor1509030042-n1.html

ついにあちらにおいでなすったのねクネさん(想定内
きっとあちらの方々とは価値感を共有してらっしゃるのね

さて。上記を踏まえまして。
この後に及んで安保法制反対してる人はバカ(かスパイ
AIIB不参加をバスに乗り遅れた言ってた人は二度と表にでる資格ナシ!

ってことで。

例えばこんな方
共産党志位アジアインフラ投資銀行AIIB
https://twitter.com/shiikazuo/status/583461789385400321

参考
NewsUSさん
『【 緊 急 速 報 】中国でついに【 預金封鎖・ハイパーインフレ 】クル━━━━━━━━━(°∀°)(°∀°)(°∀°)━━━━━━━━━!!! 中国政府が 本 気 で ヤ バ イ ことをやらかしたぞ !!!』
http://www.news-us.jp/article/425263980.html

【アジアインフラ投資銀行】中国主導銀:参加見送りに野党批判 「外交の完全敗北」
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1427978323/
江田憲司「中国外交の勝利、日本外交の完全敗北」
蓮舫「貧困解消や格差是正などのために日本はアジアで努力すべきだったが、結果は成功していない」
岡田克也(G7では日米が孤立した状況で、)「結束の乱れは大きな失態」 

移民1000万政策「移民に成功した国はない」の坂中英徳氏の著書から
移民1000万人政策 坂中英徳  

坂中英徳氏の主張は大まかに言うと
①人口減少に対応するために移民を受け入れるべし
②移民省を設け文化統合を目指すべく多文化共生に努めるべし

②については
【wiki】ニコラ・サルコジ 
フランスのアイデンティティの確立2009 年、サルコジは、フランス国民の定義とフランスの価値観を移民に共有させる方法について問題提起し、この2点を議論するよう国民に呼びかけた。そのうえ で、移民省に命じてフランス全土450ヶ所で討論会を開催するなど、議論への積極的な参加を国民に要請している。この議論について、サルコジは「フランス とは何かを知る崇高な運動」と位置づけているが、ドミニク・ド・ビルパンが「こんな重大なテーマを経済危機で団結すべき時に持ち出すべきではない」と指摘 するなど、サルコジを支える与党勢力からも懐疑的な意見が出された。同じく与党のアラン・ジュペは、この論議は「国内の対立、特にイスラム教徒への反感を あおった」と指摘している。

収集つかなくなる以前にこういうことをやろうとしてるんかなと思うが
基本が「友好のかけはし」とか・・・弊害をあまりに過小評価している
大体サルコジ元大統領自身が移民出身だがアイデンティティ確立に成功したとはいえず
さほど移民問題は難しい



緑文字は筆者)
p51~54
「多民族共生センター」設立構想の提唱

 人口減少時代の日本の外交人政策の立案に当たっては、欧米の失敗を教訓として生かし、社会への適応能力のある外国人を優先的に受け入れる視点が不可欠である。

 例えば、日本語能力や教育水準などの社会適応能力を入国許可の要件とし、かつ入国後の一定期間の日本語学習を義務づける(税金)ことが必要だ。このような外国人受け入れ制度を確立することで初めて、外国人の社会統合がはかどり、日本人と在日外国人の「共生社会」への道が開かれる。

  現在、日本に居住する約208万人の外国人の現実を見ると、日本社会にうまく適応できないで困っている外国人の姿が目立つ。一方で、外国人嫌いの日本人が 増えている。つまり、在日外国人が関係する犯罪事件を始め様々な外国人問題が発生し、国民の間に反外国人感情が高まっている。日本でも外国人の問題は深刻 な段階に立ち至っているのだ。

 どうしてこういう状況になったのか。その主たる原因として、外国人の入国を認めた後の、日本語教育などの定住支援(税金)が ほとんど行われていないことが挙げられる。外国人政策研究所における専門家との議論、私の35年間の外国人行政の現場での経験から、我が国の外国人政策に おいて最も立ち遅れているのは、在日外国人の日本社会への適応を助けること、すなわち「社会統合政策」だと断言できる。

 外国人問題の解 決を図り、受け入れた以上は社会の一員として処遇するためにも、定住外国人への支援体制の確立は待ったなしである。また、人口減少社会への対応としての外 国人受け入れ政策を検討するためにも、定住外国人の社会への融合を促す施策を一刻も早く打ち出すべきだ。問題を放置すれば、日本人の「外国人」観は悪くな る一方だ。そうなると、外国人の受け入れで人口減少問題を解決しようとする道を閉ざすことになりかねない。
(人権屋のせいで道は既に閉ざされた)

  日本が多様な民族から構成される「多民族国家」になっても、国の基本的な枠組みは、日本語に代表される日本文化と、日本の社会・経済・法律制度が中心であ ることに変わりはない。日本国の基本秩序のもとで、外国出身者が「日本が好きだ。早く日本国民になりたい」という気持ちになってもらえる社会環境を整える こと、それが社会統合政策の目的である。

 その目的を遂げるために我々は何を行うべきか。第一に入国した外国人に日本語や社会の基本ルールを教える外国人教育制度を確立する。次に、国籍、民族を問わず、すべての人に機会均等を保障(税金)し、「外国人が将来に希望を持てる社会」を作る。

 社会統合政策の中核となるのは、ニューカマーの外国人に対する日本語学習支援である。特に大事なのは、日本生まれの外国人二世向けの日本語教育プログラム(税金)の充実を図ることだ。定住外国人が日本語を習得すれば、日本語には日本人の考え方も日本文化も風俗習慣も全部含まれているから、日本社会への適応が順調に進むであろう。

  行政官として在日コリアンを始め多くの外国人と接してきた経験から、日本社会の持つ同化力は強いと感じている。在日外国人の多くが、四季のある変化にとん だ自然環境と穏やかな社会風土、安全な日本社会を気に入っている。日本料理も日本文化も魅力的だと異口同音に言う。在日外国人の二世以降の世代が日本の学 校で勉強し、国籍や民族による差別のない社会で成長していけば、おのずと日本に愛着を感じるようになり、日本社会と一体化するだろうと見ている(神社仏閣へ油まくやつがいるんで幻想ですね)

 2006年4月7日に開催された第8回経済財政諮問会議において、外国人の日本社会への統合の重要性について活発な議論が展開された。同会議で当時の小泉純一郎首相か ら「好むと好まざるとにかかわらず、日本に期待という外国人はたくさんいる。それを日本人として、日本人社会で働きたい、定住したいという外国人をどう やって摩擦なく、気持ちよく受け入れられるかという対応を今から考えないといけない」と、まさに 正鵠を得る指摘があった。

 こうした政府首脳レベルでの在日外国人問題に関する正確な認識と的確な対応策の表明は、外国人処遇の歴史において画期的な意義を有するものだと評価できる。外国人政策研究に携わる者にとっても願ってもないことだ。

 政府の動きと足並みをそろえ、民間の立場から、在日外国人の日本社会への適応を支援し、多民族共生社会の形成に貢献する人材を育成(税金)し、人口減少社会の外国人政策に関する提言を行うため、外国人政策研究所のプロジェクトとして、「多民族共生センター」構想を提唱したい。

 このセンターは、次の6つの機能を果たすことを目的とする。

1.日本人と在日外国人の交流の場
2.多民族共生社会の形成に貢献する人材育成の場
3.ボランティア諸団体の情報交換の場
4.外国人が日本社会に適応するための日本語学習の場
5.外国人の定住を支援している諸団体の活動の場
6.人口減少社会の外国人政策に関する調査・研究の場

 多民族共生センターが21世紀における日本の新しい外国人受け入れモデルを提供し、未来の日本人と外国人への「最高の贈り物」になると確信する。
安い労働力導入に対する税負担で言うとこの文章だけでも割にあってないと思われ
そして「これに合致しない外国人を摘発して排除するシステム」には触れず

(´・ω・`)多民族共生センターがどうなってるかと言いますと

NPO法人 多民族共生人権教育センター
 NPONPO法人 多民族共生人権教育センター
 http://www.taminzoku.com/lecture/lecture.index.html

2001 多民族共生人権研究集会 特別報告
今を生きるとは ―歴史・人権・平和をキーワードに―
李 仁夏さん(多民族共生人権教育センター理事)

この李仁夏さん(故人)が誰かというと
異教徒との戦い7 ちょっと待てその牧師って・・・ 
在日大韓基督教川崎教会元老牧師 にして 朝鮮総連関係者 ( ̄д ̄)アカンやつやで
(この人に限らず香ばしいメンツばかり)

共生と言いつつ日本人の権利をガリガリと削り取ろうとする侵略者が中心にいるんで
お話になりません
それを言うと差別ニダーって言論封殺にあうので、問題は山積するばかり

中共の「国防動員法」に言及しただけで「自民党すげぇな」と言われ
国防動員法
海外に向けて「日本は差別国家」とディスカウントジャパンする輩は野放し
侵略者の手先 宮本エリアナ その目的は民族浄化 

(´・ω・`)移民推進していいことってホント何もないね

コメントで教えてもらいましたm(__)mありがとうございます

もう既視感でいっぱいおなかいっぱい
侵略者の手先 宮本エリアナ その目的は民族浄化
 宮本エリアナ 差別訴えは「日本叩き」だったのがバレる 
宮本エリアナ実家育児放棄
何でこんなに話が似てるんだ?

注目のハーフモデル、マリーさんがNPO団体立ち上げ 「肌の色でいじめ」乗り越え子供たちを支援
ハーフモデルマリー

 人気ファッションショー「東京ガールズコレクション」にも出演する注目のハーフモデル、マリーさん(26)。肌の色の違いからいじめられた経験をバネにモデル業界で挑戦を続ける傍ら、いじめや貧困などで苦しむ子供を支援するNPO団体を立ち上げた。子供たちに「夢を持って、挑戦することが大事」とエールを送る。

 「肌の色が原因で、小学校から中学までいじめに遭っていました
  マリーさんは、雑誌やテレビ、イベントなどで活躍。昨年はモデル業界で一つの“登竜門”ともされるファッションショー「東京ガールズコレクション」 (TGC)への出演を果たすなど、いまモデル界で注目されている一人だ。すっと通った鼻筋に、切れ長の目。笑ったときの、太陽のように明るい表情が周囲を ひき付ける。
 マリーさんは、日本人の母と、セネガル人の父との間に生まれた。周囲と肌の色が異なったことから、小中学校でいじめの対象に。家庭でも両親ともに不在にしていることが多く、「子供時代は辛かった」と振り返る。進学した国際高校は多様性のある環境で、ようやく「自分らしく過ごすことができた」という。

  モデルになることを意識し始めたのは、10代の終わりころ。ただ、当時は「ハーフブラックのモデルは出ていなくて、(モデルになるという)概念がなかっ た」という。その後、マリーさんの将来性を見込んだ現在の所属事務所の代表と知り合ったことで、「ハーフブラックのポジションに挑戦しようと決めた」。

  予想していた通り、最初はなかなか仕事を得ることができなかった。オーディションに応募しても、書類の段階で落とされてしまう。「ハーフブラックのマー ケットはなく、新しいことを受け入れるのはやはり人間、結構難しい」と落ち込むことも。それでも地道に挑戦を重ね、少しずつ実績を積み上げていった。そし て2014年、「モデルとして一つの目標としていた」という、若い女性を中心に絶大な人気を誇るTGCに出演。存在感を一気に高めた。
一つの目標を達成したマリーさんは直後、もう一つの目標を実現させた。福祉施設などで暮らす子供を支援するNPO団体「ランド・オブ・ドリーム」を設立した。

  いじめや貧困が原因で学校に行けない子供や、児童養護施設などで暮らす子供を、マリーさんに共感するさまざまな職種の人がボランティアで訪問し、職業体験 などを提供している。「夢を持てば突き進めることを自分が経験している。同じ痛みを持つ子供をサポートしたい」と話す。

 モデ ルとしての夢は、「ハーフブラックがこれまでいなかったフィールドに出ていくこと」。NPOの活動では「活動範囲を広げて、社会への啓発活動にも力を入れ ていきたい」と、今後も二足のわらじで挑戦を続けていく。子供たちに向けて、「自分の可能性を信じて、あまり他人の目を気にせずに、不得意なことにも挑戦 してみてほしい」と話している。
×  ×  ×
 マリーさんは現在、JICA(国際協力機構)が中高生を対象に実施している「エッセイコンテスト」で、過去の受賞者として作品の応募を呼びかけている。
マリーさんが応募したのは、高校2年生のとき。過去のいじめの体験から抱いた「違いを認識するということ」をテーマに書き、最優秀賞作品に選ばれた。

 マレーシアへ研修渡航し、「さまざまな民族が暮らす国をみて価値観も広がり、一方で日本の良さにも気がつくなど人生の転機になった」と振り返る。その経験から、「どんな出会いが自分の人生を変えるか分からない。挑戦することが大事」と話している。

  今回のコンテストのテーマは「世界を知ろう!考えよう! よりよい世界のため私たちにできること」。中学生の部は400字詰め原稿用紙3枚以内、高校生の 部は同4枚以内。応募用紙は「JICA地球ひろば」のホームページからダウンロードできる。締め切りは9月11日(当日消印有効)。問い合わせは、電話 03・3556・5926。
産経ニュース2015.7.25 
http://www.sankei.com/premium/news/150725/prm1507250016-n1.html


NPO法人ランド・オブ・ドリーム
代表あいさつ
(抜粋)
2014年7月4日に社会人ボランティア団体ランド・オブ・ドリームを立ち上げ、同団体の代表を務めさせて頂いております、中川マリーと申します。

日本人の母を持ち、アフリカ人の父を 持ってここ東京で生まれ幼少期を東京都と神奈川県で過ごしました。保育園・小学校・中学校と続いたイジメと母と父が常に居ない家庭の中で暮らしてきたこと や家庭内でのさまざまな問題等、今思えば壮絶だった幼少期の苦しかった思いがこの団体設立の原点となっていると思います。

昨今における子どもの育つ環境は、イジメ・虐待・貧困等あらゆる外的要因によってとても厳しいものとなっています。

そしてまた、私が幼いながらも苦しんでいた当時と状況は変わらず、学校・家庭・社会に居場所がなくて、生きる事に消極的でいる子ども達がたくさん居ると感じています。

私自身、当時は学校に行けば『肌が黒いから汚い!ガイジン!』といじめられてみんなが敵の状況の中、助けを求めた家庭には父も母も常に居ない状態で、最後の望みの社会(コミュニティ)の中にも、幼い私は居場所を見つける事ができませんでした。

もしもあの当時、生きる希望も夢もない私の目の前に、何か新しい世界を見せてくれるものや人との出逢いがあったのならば、こうして力強く、何かに夢中になって生きる自分にもっと早く出会えたのかなと思っております。

ただそこに後悔はなく、むしろそうした苦しい経験を幼少期たっぷり味わったからこそ、今こうして深く、強い思いで、同じように苦しんでいる子ども達を笑顔にしたい!と思うようになったのだと思っています。
http://landofdreamjapan.jimdo.com/%E5%9B%A3%E4%BD%93%E7%90%86%E5%BF%B5/%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E6%8C%A8%E6%8B%B6/


 ジャパンギビングマリーランドオブドリーム
http://japangiving.jp/npo/1304
例によって佐藤大吾氏のところのジャパンギビング(旧ジャストギビング)ですね
→ 塩村文夏都議やじ騒動9 アイスバケツと犬仁藤夢乃氏もここで寄付集めてますが
仁藤夢乃「日本は児童買春の国」←やっぱり西早稲田 

ハーフの人のバックには人権団体がついてるかもしれないというリスクを考慮すべき時代になった
日本人の権利を削り取りにくる侵略者は警戒しなければ

参考
【週刊文春】「東京ガールズコレクション」を朝鮮総連系企業が買収!
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1346250096/
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