【要拡散】在日朝鮮人が必死で隠す「君が代丸」の史実を広めよう!なぜ嫌がるのか?強制連行が真っ赤な嘘である動かぬ証拠だからだ!
【要拡散】在日朝鮮人が必死で隠す「君が代丸」の史実を広めよう!なぜ嫌がるのか?強制連行が真っ赤な嘘である動かぬ証拠だからだ!
●『在日・強制連行の神話』( 鄭大均著 文春新書)より
「在日の多くは海峡を自らの意志で越えたのだ。
在日は強制連行されてきた人々とその末裔だとする主張がある。
が、一世の証言に丹念にあたれば、それが虚構にすぎないことが分る」
●『これでは困る韓国』呉善花、崔吉城 1997 より
呉「在日の人たちにしても、植民地時代も自分の意志で
積極的にきた人のほうがずっと多いんじゃないですか。
強制連行で連れてこられた人たちはほとんど帰ってしまったわけですから。」
崔「そこはいいポイントです。事実はまさしくその通りなんです。」
朝鮮人によるマスコミへの卑劣な圧力が無かった頃は、
朝日新聞も大量の密入国者がいる事実を報道してました。
●『朝日新聞 1959年6月16日付』
(「世界」 2000年10月号
戦後日本「在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹)より
「密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られている」
●『歴史を捏造する韓国 韓国併合と搾取された日本』中川八洋著より
「GHQは「在日」の朝鮮人の”帰国”に過剰ほどの支援をなして、
すべての希望者に帰国のための無料の船便を提供しています。」
徴用を受けた朝鮮人の大半は戦後帰国しました。
現在日本にいる自称在日朝鮮人のほぼ全てが
密航・密入国犯罪者とその子孫です。
戦前、戦後に密航・密入国してきた凶悪犯罪者なのに、
徴用を受けた朝鮮人への特権を詐取するために、
徴用されたと偽る邪悪な朝鮮人密入国犯罪者とその子孫が大勢います。
【きみがよ丸】
強制連行がウソであるという動かぬ証拠がきみがよ丸。
在日一世や二世は自分たちのルーツを知っています。
済州島と大阪を結ぶ定期便の名前が、
【きみがよ丸】だったからです。
日韓併合時代の済州島民にとって
きみがよ丸の名前を知らない人はいなかったでしょう。
この船の名前がおおっぴらになると
在日朝鮮人達に何が起こるか。
強制連行がウソであるという動かぬ証拠がきみがよ丸。
(この出稼ぎ用の定期航路は大人気で、
のちに第二きみがよ丸も就航するほどだった)
・詳しく調べれば、きみがよ丸に乗ってきた
善良な人達はあらかた帰還事業で 帰国したことが解る。
・さらに調べれば、朝鮮戦争当時に日本へ
密入国してきた朝鮮人達がクローズアップされる。
・もっと調べれば、李 承晩ラインの時に釈放された
在日の凶悪犯達のことも 白日の下に晒される。
・つまり自分たちの先祖達が凶悪犯だらけってのが、
実に論理的に判明してしまう。
在日朝鮮人達がなんとしても隠し通したい上記のことを、
君が代を聴いたり目にしたりするたびに思い出してしまうから
君が代をあそこまで憎む理由。
在日は君が代のメロディでも歌詞でもなく、
【きみがよ】という4文字を見たり聞いたりするのが
何よりもイヤだったのです。
君が代の出だしを聞くだけで
自分たちの祖先が悪人であると思い知らされる。
それが日本人にばれるんじゃないかと気が気ではない。
君が代丸君が代丸(きみがよまる)は、1922年から1945年にかけて日本統治時代の朝鮮の済州島と大阪を結んで尼崎汽船が運航していた貨客船である。第一君が代丸と第二君が代丸の2代が存在した。当時、日本と朝鮮半島を結ぶ航路としては、関釜連絡船以外で数少ないものであった。
「第二君が代丸」の船影。
第一君が代丸
「第一君が代丸」は、1891年にオランダで建造された669トンの船「スワールデクールン」(Swaerdecroon)で、尼崎汽船はこの船を1922年(大正11年)に済州航路に投入した。しかし1925年(大正14年)9月、航行中に台風と遭遇して、人命を優先して済州島に座礁させられた。1943年(昭和18年)に関西汽船の所有となる。1945年(昭和20年)5月23日大分県姫島付近で、アメリカ軍の飢餓作戦により敷設された機雷に接触して沈没した[1]。
第二君が代丸「第二君が代丸」は尼崎汽船が座礁した「第一君が代丸」の代船として1925年に購入した、919総トン、全長62.7メートルの船である。今日「君が代丸」として語られるのはこの「第二君が代丸」である。
ロシア帝国軍艦として現役時代の写真。
前身はソビエト連邦政府から購入した軍艦「マンジュール」(ru)で、帝政ロシア時代の1886年に建造された排水量1224トンの砲艦であった。日露戦争期には太平洋艦隊所属艦として中立の中国にいて、武装解除されていた。日露戦争後には戦列復帰して、革命後にはソ連海軍でも使用されていた。なお、仁川沖海戦で沈んだ「コレーエツ」(en)は同型艦。
購入後に大阪で貨客船へと改装し、1926年(大正15年)に大阪-済州島間に就航した。元軍艦ということで、船首に衝角が突き出した商船としては特異な姿であった。「第二君が代丸」は既に船齢44年と老朽船の部類に属したが、その後20年間就航した。昭和20年(1945年)4月、安治川付近にあったところをアメリカ軍の空襲を受け沈没した。一方、アメリカ海軍の公式年表によると、6月1日の大阪大空襲の際にB-29爆撃機により撃沈となっている[1]。
航海大阪と済州島の間はおよそ2日の船旅で、大阪を朝出港すると済州島には翌日の夕方に到着するスケジュールであった。そのまま2日かけて済州島を周回して合計11か所に寄港した。しかし接岸できる岸壁はなかったため、艀による連絡に頼っていた。
船には甲板上の上等船室と甲板下の下等船室があった。乗船すると白米の食事が提供され、麦飯を食べるのが普通だった当時の済州島民は驚いたという。しかし下等船室には多くの旅客と荷物が詰め込まれており、大変不潔な環境であったという。
エピソード・定員は365人であったが、常に定員の2倍近い人数が乗船したという。
・多くの朝鮮半島からの出稼ぎ者を運んだ。盆・正月には大阪の港は帰省する朝鮮人出稼ぎ者や見送りの家族で溢れたという。
・昭和3年(1928年)4月、済州島住民と運営会社との間で運賃についてトラブルが発生したことがある。当時「君が代丸」の運賃は12円50銭であり、出稼ぎ女工の日給が1円である時代に「月給の2倍」とも言われた運賃は高額であるとして値下げと船客の待遇改善を要求された。運営会社側は当初取り合わなかったが[2]、昭和5年(1930年)11月に済州島住人が函館成田商会から「蛟竜丸」を借りて東亜通航組合を設立し、運賃を6円50銭に設定して運航を開始したことから、「君が代丸」もやむなく運賃を3円まで引き下げた。組合は「蛟竜丸」の賃貸契約終了後は北日本汽船会社から「伏木丸」を購入し運航を開始したが、運賃を低額に設定し過ぎたため赤字が累積し、また既存の定期船に対する営業妨害があまりにも激しかったため警察の取り締まりを受け、昭和8年(1933年)12月1日をもって運航は停止された。
・当時の済州島民にとっては巨大な船に見えたらしく、済州の言葉で大きいことを「君が代丸のようだ」と表現する慣習は第二次世界大戦後も長く残っていた。
脚注1.^ a b Cressman, Robert. “Chapter VII: 1945”, The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II, Annapolis MD: Naval Institute Press, 1999.
2.^ 「鳥でない以上飛んでいけないし 魚でない以上泳いでいけないだろう」との会社側の発言が残っているが、後日低運賃での運航を開始した東亜通航組合が累積赤字で破綻したことを考えると常識的な回答と言える。
参考文献
辛在卿「<君が代丸>についての歴史的考察」、『京都創成大学紀要』第7巻、成美大学、2007年1月、 15-28頁、 NAID 110006487152。
君が代丸
済州島出身の同郷コミュニティ
大阪・生野 1960年代
コリアタウンの路地裏(ポスターは朝鮮総連か?)
本当に強制連行だったのか
棒の先に磁石をつけて、川の中に有る鉄屑を取って生業とする
韓国と日本が国交を結び、在日の国籍が朝鮮から韓国に変更出来る事に関して反対する横断幕
新日本風土「大阪 生野コリアタウン」を見て…。 http://blog.goo.ne.jp/daejeong/e/b46608cc29e5bf7f39695fa88926605d
※戦時中の徴用労務者はたったの245人。残りは自由意志での来日である
※君が代丸の史実がある限り、強制連行が嘘でないと言い張るのは難しくなるだろう
0 件のコメント:
コメントを投稿