21 ④日韓(朝)戦争(資料2)
第一章 ④日韓(朝)戦争(資料2)
このようなテーマのブログの中でなぜ半分コピペのような資料を掲載しているのか疑問に思われる方もおられるだろう。テーマの意図に沿っての掲載は当然のこととして、実は韓国、朝鮮人、主として在日朝鮮人の若者に対する情報提供の場をつくっているのだ。戦後第三世代の韓国、北朝鮮の若者たちは、嘘が嘘を呼び、嘘を隠すためにまた嘘をつくという捏造の情報連鎖の中で、何が真実がわからなくなってしまっている。韓国語を理解しない、書けない、話せない者も多い。彼らは韓国、朝鮮文化よりは日本人の文化の中で日本人の価値観で育っている。韓国国内ネットにおける情報は捏造操作された都合のよいものばかりで真実性は極端に低く信用できない。当然のように彼らに不都合、恥じ入るような情報、記事は閲覧の機会さえ封じられている。表向きはともかく日本国内でネットは自由だ。そこにあふれる情報は日本人だけが発信しているわけではない。全世界から発信されているものだ。正否、正誤、都合の悪い情報もあるだろうが、ここが重要なのだ。小生、個人的には、客観的に考えても、99%韓国、北朝鮮との友好改善、共存共栄はもはや不可能と思っているが、わずかに残る1%の実現可能なきっかけの場になればとこのようなスタイルをとっている。
イザベラ・バード
イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird, 結婚後はIsabella Bird Bishop夫人, 1831年10月15日 – 1904年10月7日)はイギリスの女性旅行家、紀行作家。明治時代の東北地方や北海道、関西などを旅行し、その旅行記”Unbeaten Tracks in Japan”(邦題『日本奥地紀行』『バード 日本紀行』)を書いた。
イギリス・ヨークシャーで牧師の長女として生まれる。妹の名はヘニー。幼少時に病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようになる。アメリカやカナダを旅し、1856年”The Englishwoman in America”を書いた。その後、ヴィクトリアン・レディ・トラヴェラー(当時としては珍しい女性旅行家)として、世界中を旅した。1893年英国地理学会特別会員となる。
1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した(連れは通訳として雇った伊藤鶴吉のみ。但し所々で現地ガイドなどを伴うこともあった)。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。これらの体験を1880年 “Unbeaten Tracks in Japan” 2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。この中で、英国公使ハリー・パークス、後に明治学院を設立するヘボン博士(ジェームス・カーティス・ヘボン)、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫妻(新島襄・新島八重)らを訪問、面会した記述も含まれている。その後、1885年に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される。本書は明治期の外来人の視点を通して日本を知る貴重な文献である。特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文献である。
また、清国、クルディスタン、ペルシャ、チベットを旅し、さらに1894年から1897年にかけ、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、旅行記”Korea and Her Neighbours”(『朝鮮紀行』)を書いている。
中国への再度の旅行を計画していたが、1904年に73歳の誕生日を前にして死去した。
『日本奥地紀行』
1878年(明治11)6月から9月にかけ『日本奥地紀行』は執筆され、1880年に “Unbeaten Tracks in Japan(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)” として刊行された。冒頭の「はしがき」では「(私の)全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいなかった」としるし、また「西洋人のよく出かけるところは、日光を例外として詳しくは述べなかった」と記し、この紀行が既存の日本旅行記とは性格を異にすることを明言している
栃木県壬生町から鹿沼市の日光杉並木に至る例幣使街道では、よく手入れされた大麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感したと書いている。また日光で滞在した金谷邸(カナヤ・カッテージ・イン)にはその内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、ここに丸々2週間滞在して日光東照宮をはじめ、日光の景勝地を家主金谷善一郎および通訳の伊藤とともに探訪する。日光滞在10日目には奥日光を訪れるが、梅雨時の豊かな水と日光に育まれた植生、コケ、シダ、木々の深緑と鮮やかに咲き誇る花々が中禅寺湖、男体山、華厳滝、竜頭滝、戦場ヶ原、湯滝、湯元湖を彩る様を闊達に描写し絶賛している。街道の終点である湯元温泉にもたいへんな関心を示し、湯治場を訪れている湯治客の様子を詳らかに記している。またその宿屋(やしま屋)のたいへん清潔である様を埃まみれの人間ではなく妖精が似合う宿であると形容し、1泊したうえで金谷邸への帰途に就く。
山形県南陽市の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方を「エデンの園」とし、その風景を「東洋のアルカディア」と評した。
『日本奥地紀行』では当時の日本をこう書いている。
私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている。他には新潟を「美しい繁華な町」としつつも、県庁、裁判所、学校、銀行などが「大胆でよく目立つ味気ない」としたり、湯沢を「特にいやな感じのする町である」と記したり、また黒石の上中野を美しいと絶賛したりしている。他方、「日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである」、また「日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、男たちのよろよろした歩きつき、女たちのよちよちした歩きぶりなど、一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である」と日本人の人種的外観について記している。
朝鮮旅行
最初の朝鮮訪問は1894年。以降3年のうちに、バードは4度にわたり朝鮮各地を旅した。時おりしも東学党の反乱、閔妃暗殺事件が起こるころ。『朝鮮紀行』は、国際情勢に翻弄される李氏朝鮮の不穏な政情、伝統的封建的伝統、文化など、バードがじかに見聞きした朝鮮の情勢を伝える。以下、『朝鮮紀行』より。
釜山に上陸したバードは、高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉日本軍による植林によるものと記し、また釜山の旧市街が同じく文禄・慶長の役の占領の際に、日本人によって手がけられたと記している。「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」
バードは韓国併合以前の当時のソウルに関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、北京を見るまで「ソウルこそこの世で一番不潔な町」だとし、「紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだ」「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい」と記している。また、人工の道や橋も少なく、「あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」と記している。
また、ソウルには芸術品や公園や劇場、旧跡や図書館も文献もなく、寺院すらないため、清や日本にある宗教建築物の与える迫力がソウルにはないとしている。他方、金剛山の長安寺では「天国にいるような心地の二日間」を過ごすことができたと賞賛している。
貨幣・通貨の流通については、銀行が町にないと記しており、また日本の円がソウルと条約港で通用したことを記している。
朝鮮とロシア国境部の沿海州では水路が整備され、衛生にも配慮され、家屋は朝鮮半島におけるものより立派だとし、「朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望み無しと考えてた」がその考えを正すべきかもしれないとしている。
身分制度に関して、「両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず住民を脅して鶏や卵を奪っている」としている。「両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには「盗む側」と「盗まれる側」の二つの身分しかない」と述べている。朝鮮の官僚については、「日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していた」とし、「堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかった」と述べている。
このようなテーマのブログの中でなぜ半分コピペのような資料を掲載しているのか疑問に思われる方もおられるだろう。テーマの意図に沿っての掲載は当然のこととして、実は韓国、朝鮮人、主として在日朝鮮人の若者に対する情報提供の場をつくっているのだ。戦後第三世代の韓国、北朝鮮の若者たちは、嘘が嘘を呼び、嘘を隠すためにまた嘘をつくという捏造の情報連鎖の中で、何が真実がわからなくなってしまっている。韓国語を理解しない、書けない、話せない者も多い。彼らは韓国、朝鮮文化よりは日本人の文化の中で日本人の価値観で育っている。韓国国内ネットにおける情報は捏造操作された都合のよいものばかりで真実性は極端に低く信用できない。当然のように彼らに不都合、恥じ入るような情報、記事は閲覧の機会さえ封じられている。表向きはともかく日本国内でネットは自由だ。そこにあふれる情報は日本人だけが発信しているわけではない。全世界から発信されているものだ。正否、正誤、都合の悪い情報もあるだろうが、ここが重要なのだ。小生、個人的には、客観的に考えても、99%韓国、北朝鮮との友好改善、共存共栄はもはや不可能と思っているが、わずかに残る1%の実現可能なきっかけの場になればとこのようなスタイルをとっている。
イザベラ・バード
イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird, 結婚後はIsabella Bird Bishop夫人, 1831年10月15日 – 1904年10月7日)はイギリスの女性旅行家、紀行作家。明治時代の東北地方や北海道、関西などを旅行し、その旅行記”Unbeaten Tracks in Japan”(邦題『日本奥地紀行』『バード 日本紀行』)を書いた。
イギリス・ヨークシャーで牧師の長女として生まれる。妹の名はヘニー。幼少時に病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようになる。アメリカやカナダを旅し、1856年”The Englishwoman in America”を書いた。その後、ヴィクトリアン・レディ・トラヴェラー(当時としては珍しい女性旅行家)として、世界中を旅した。1893年英国地理学会特別会員となる。
1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した(連れは通訳として雇った伊藤鶴吉のみ。但し所々で現地ガイドなどを伴うこともあった)。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。これらの体験を1880年 “Unbeaten Tracks in Japan” 2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。この中で、英国公使ハリー・パークス、後に明治学院を設立するヘボン博士(ジェームス・カーティス・ヘボン)、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫妻(新島襄・新島八重)らを訪問、面会した記述も含まれている。その後、1885年に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される。本書は明治期の外来人の視点を通して日本を知る貴重な文献である。特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文献である。
また、清国、クルディスタン、ペルシャ、チベットを旅し、さらに1894年から1897年にかけ、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、旅行記”Korea and Her Neighbours”(『朝鮮紀行』)を書いている。
中国への再度の旅行を計画していたが、1904年に73歳の誕生日を前にして死去した。
『日本奥地紀行』
1878年(明治11)6月から9月にかけ『日本奥地紀行』は執筆され、1880年に “Unbeaten Tracks in Japan(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)” として刊行された。冒頭の「はしがき」では「(私の)全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいなかった」としるし、また「西洋人のよく出かけるところは、日光を例外として詳しくは述べなかった」と記し、この紀行が既存の日本旅行記とは性格を異にすることを明言している
栃木県壬生町から鹿沼市の日光杉並木に至る例幣使街道では、よく手入れされた大麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感したと書いている。また日光で滞在した金谷邸(カナヤ・カッテージ・イン)にはその内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、ここに丸々2週間滞在して日光東照宮をはじめ、日光の景勝地を家主金谷善一郎および通訳の伊藤とともに探訪する。日光滞在10日目には奥日光を訪れるが、梅雨時の豊かな水と日光に育まれた植生、コケ、シダ、木々の深緑と鮮やかに咲き誇る花々が中禅寺湖、男体山、華厳滝、竜頭滝、戦場ヶ原、湯滝、湯元湖を彩る様を闊達に描写し絶賛している。街道の終点である湯元温泉にもたいへんな関心を示し、湯治場を訪れている湯治客の様子を詳らかに記している。またその宿屋(やしま屋)のたいへん清潔である様を埃まみれの人間ではなく妖精が似合う宿であると形容し、1泊したうえで金谷邸への帰途に就く。
山形県南陽市の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方を「エデンの園」とし、その風景を「東洋のアルカディア」と評した。
『日本奥地紀行』では当時の日本をこう書いている。
私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている。他には新潟を「美しい繁華な町」としつつも、県庁、裁判所、学校、銀行などが「大胆でよく目立つ味気ない」としたり、湯沢を「特にいやな感じのする町である」と記したり、また黒石の上中野を美しいと絶賛したりしている。他方、「日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである」、また「日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、男たちのよろよろした歩きつき、女たちのよちよちした歩きぶりなど、一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である」と日本人の人種的外観について記している。
朝鮮旅行
最初の朝鮮訪問は1894年。以降3年のうちに、バードは4度にわたり朝鮮各地を旅した。時おりしも東学党の反乱、閔妃暗殺事件が起こるころ。『朝鮮紀行』は、国際情勢に翻弄される李氏朝鮮の不穏な政情、伝統的封建的伝統、文化など、バードがじかに見聞きした朝鮮の情勢を伝える。以下、『朝鮮紀行』より。
釜山に上陸したバードは、高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉日本軍による植林によるものと記し、また釜山の旧市街が同じく文禄・慶長の役の占領の際に、日本人によって手がけられたと記している。「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」
バードは韓国併合以前の当時のソウルに関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、北京を見るまで「ソウルこそこの世で一番不潔な町」だとし、「紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだ」「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい」と記している。また、人工の道や橋も少なく、「あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」と記している。
また、ソウルには芸術品や公園や劇場、旧跡や図書館も文献もなく、寺院すらないため、清や日本にある宗教建築物の与える迫力がソウルにはないとしている。他方、金剛山の長安寺では「天国にいるような心地の二日間」を過ごすことができたと賞賛している。
貨幣・通貨の流通については、銀行が町にないと記しており、また日本の円がソウルと条約港で通用したことを記している。
朝鮮とロシア国境部の沿海州では水路が整備され、衛生にも配慮され、家屋は朝鮮半島におけるものより立派だとし、「朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望み無しと考えてた」がその考えを正すべきかもしれないとしている。
身分制度に関して、「両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず住民を脅して鶏や卵を奪っている」としている。「両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには「盗む側」と「盗まれる側」の二つの身分しかない」と述べている。朝鮮の官僚については、「日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していた」とし、「堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかった」と述べている。