大韓救国宣教団→救国女性奉仕団→セマウム奉仕団・・・→
槿花奉仕団
 セマウム奉仕団を中心に盛り上がっていますw

・セマウム奉仕団
 総裁:朴槿恵
 大学総連合会 会長:崔順実(チェ・スンシル)
 操っていた人:崔太敏(チェ・テミン)

 金載圭(キム ジェギュ)大韓民国中央情報部(KCIA)部長:チェ・テミンとパク・クネの関係はパク・チョンヒ大統領暗殺理由の一つ!
■<崔氏韓国国政壟断>彼女のコンピューター、どんなファイルが入っていた? 2016年10月28日15時05分 中央日報/中央日報日本語版
http://japanese.joins.com/article/135/222135.html

20161028150515-1
JTBCが入手したタブレットPCの使用者は「greatpark1819@naver.com」というメールアカウントを使用した。ID「greatpark1819」をめぐり「朴槿恵テバク」または「大公園1819」などいくつかの解釈がある。   テレビ局JTBCが入手したタブレットPCには使用者が使った「greatpark1819@naver.com」のメールアカウントが残っていた。27日のJTBCによると、このアカウントは現在閉鎖されている。 


  与党セヌリ党の関係者は「崔順実(チェ・スンシル)氏が選挙運動中に流行した『朴槿恵(パク・クネ)テバク(bonanza、大もうけ/大当たり)』スローガンをメールのIDとして使ったようだ」と話した。greatの意味にparkを付け加えるとハングルでテバクになるということだ。偶然にも育英財団の事務室があるオリニ大公園の住所がソウル広津区陵洞18-19番地であるため「大公園1819」という解釈もある。1980年代後半、父・崔太敏(チェ・テミン)氏は育英財団の顧問、娘の崔順実氏は財団付設幼稚園の園長だった。 

  タブレットPCには朴槿恵大統領が2013年7月、慶尚南道巨済市(コジェシ)猪島(チョド)にある別荘の青海台(チョンヘデ)で過ごした夏の休暇の写真13枚も保存されていた。このうち朴大統領が巨済市で船に搭乗する姿と船内で関係者と対話する姿の写真はデジタル原本写真撮影時間がそれぞれ7月28日午後2時47分と2時52分だった。 

  当時、青瓦台は「朴大統領が7月29日から4泊5日間の日程で夏の休暇に行く」と発表した。しかし写真の時間は発表とは違って一日早かった。原本写真の撮影時間に基づくと、朴大統領はメディアの発表とは違い28日から猪島に行っていたということだ。ただ、デジタル写真はカメラのセッティングを変えて日付調整も可能だ。 

  タブレットPCのファイルに入っている青瓦台内部報告書には「猪島休暇ミステリー」のほか、朴大統領の過去の活動と関連があったり朴大統領の独特のスタイルが反映された特徴があちこちに表れている。 

  保存文書の中には1970年代に朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領が使った「静かに、落ち着いて」という表現を朴大統領がそのまま受け継いだと見られる点があり、目を引いた。朴正熙元大統領は79年5月25日、「セマウム(=新しい心)奉仕団総裁諮問委員委嘱状授与式」で、「セマウム運動という正しいことを派手にするよりも、静かに落ち着いて一つずつ実践していかなければいけないだろう」と述べた。 

  セマウム奉仕団は崔順実氏の父・崔太敏氏が率いた団体だ。75年に大韓救国宣教団として設立され、76年にセマウム奉仕団に名称を変えた。 

  朴大統領は次期大統領だった2012年12月28日、李明博(イ・ミョンバク)大統領との対話で、「私は業務引継ぎ委員会をできるだけ静かに運用しながら、国民の生活に実質的に役立てるようにすることに主眼点を置く考え」と述べた。この部分はファイルの資料である「青瓦台会合参考資料」にもそのまま書かれている。 

  文書のもう一つの特徴はドラマ脚本のように詳細である点だ。2012年12月24日に訪問したソウル蘭香洞(ナンヒャンドン)飲食店と題した文書の場合、関係者にするあいさつの言葉はもちろん、状況別の「発言ポイント」を一つ一つ取り上げている。 

  「ボランティアメンバーと弁当を包みながら話す言葉」では「ボランティアの方々は何人ですか」「不足した部分はどう充当しますか」などを、「弁当を配達しながら話す言葉」では「○○さんは大人になれば何になりたいですか」「困ったことがあればメールや手紙で知らせてほしい」などの文章をそれぞれ6-8件ずつ提案した。 

  特に「メニューを見ると価格が安いので多くの方が助かりそうだ」と話す部分では、「安い」という単語に脚注を付けて下に「定食4500ウォン、ククス(麺)3500ウォン」という説明も書かれていた。 

  ◆流出文書のIDはほとんど作成者のもの 

  またタブレットPCに保存された文書からは多数のIDも発見された。「niet24」「iccho」「aseembly」「mr.チェ」「kimayun」などだ。これらのIDはほとんど文書草案作成者として記録されていた。チョン・ホソン青瓦台付属秘書官のID(narelo)と「ユヨン(崔順実氏娘チョン・ユラの改名前の名前)というIDの場合、文書を最終修正した人として登場した。このため文書に保存されたこうした情報だけでは誰がファイルを送ったのかは分からない。

■国政介入:「話し相手」「随行秘書」崔順実氏、朴大統領と40年以上前からのつきあい 記事入力 : 2016/10/26 11:15 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/10/26/2016102601299.html
    
2016102601214_0

 韓国の朴槿恵(パク・クンヘ)大統領と、「陰の実力者」といわれる崔順実(チェ・スンシル)氏の縁の始まりは、40年以上前にまでさかのぼる。崔氏は20代初めのころから、4歳年上の朴大統領の「話し相手」にして「随行秘書」という役割を果たしてきた。その後、朴大統領の威を借りて自分の活動範囲や事業を拡張してきた。朴大統領と二人の妹との関係は疎遠という点を考慮すると、現在朴大統領の周囲で生きている人物のうち、最も関係が深い側近は崔氏になるとみられる。

 朴大統領は、ファーストレディー時代に精神的メンターだった故・崔太敏(チェ・テミン)牧師の紹介で、1970年代半ばに崔牧師の娘の順実氏と会った。崔牧師は、自身がつくった「大韓救国宣教団」の名誉総裁に朴大統領を据え、その後「救国女性奉仕団」「セマウム奉仕団」と名前を変えつつ急速に組織を大きくした。崔牧師はセマウム奉仕団に、中学生・高校生・大学生はもちろん宗教界・財界などにも及ぶ各種の傘下機構をつくり、79年には当時壇国大学在学中だった娘の順実氏に「大学生総連合会」の会長を任せた。セマウム奉仕団は、国民の精神教育やボランティア活動も行ったが、水産物市場の運営権に食い込むなど各種の利権にも手を出した。その際、大企業の総帥・役員を呼んで巨額の運営基金を拠出させたという。当時、太平洋を手始めに現代・東亜・大農・双竜などの財閥が次々と「セマウム職場奉仕隊」に参加した。現在のミル財団・Kスポーツ財団の企業募金方式とも似ている。

 朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領が死去した後、朴大統領は蟄居(ちっきょ)に入り、二人は急速に親しくなった。85年の再会後、崔氏が朴大統領を「お姉さん」と呼んだ-という目撃談もある。2006年に朴大統領が地方選挙の遊説で「カッターテロ」に遭った時も「崔氏が病室や三成洞の自宅に通い、必要なことを処理した」という話がある。崔氏が最近まで朴大統領の服やアクセサリー、女性用品などをそろえて大統領府(青瓦台)に送っていたのは、数十年にわたってやってきたことの延長線上にあるというわけだ。

 しかし、崔氏の役割は単なる「話し相手」や「女性随行員」程度ではなかったらしい。80年代になると、崔氏は朴大統領関連の組織・事業へ本格的に身を投じた。まず86年、朴大統領が理事長を務める育英財団の付設幼稚園を江南に開設した。朴大統領が三養食品から理事長職を譲り受けた「韓国文化財団」付設研究院の副院長も務め、出版・奨学事業などの実務を担当した。ソウル・新沙洞にある韓国文化財団は、2000年に朴大統領が一時ハンナラ党を離脱した際に「脱党宣言文」を作成するなど、裏仕事をやった場所といわれる。12年の大統領選挙の局面で解体されるまで朴大統領はここに出入りし、「新沙洞チーム」とも呼ばれており、その実務には崔氏が深く関与していたという。

 朴大統領の韓国政界入り前後に崔氏が密着随行していたことは、韓国政界でもごくわずかな人物しか記憶していない。ある人物は、本紙の取材に対し「1994年、当時まだ政界入りしていなかった朴大統領がテレビ局からインタビューを受けた際に、崔氏が付いてきた。インタビュー後、テレビ局の社長や局長など幹部との食事の席が設けられたが、崔氏が陪席して非常に驚いた。ただの随行秘書なら、そういう場に同席できるだろうか」と語った。また、別の政界関係者は「朴大統領が国会議員になった後、議員外交活動のため英国に渡る際、正式補佐官でもない崔氏が一緒にやって来た。崔氏は英語がかなりうまく、通訳もできて、朴大統領の代わりに大なり小なり重要なことを決めた。非常に自信にあふれ、有能に見えた」と語った。さらに、与党大物クラスのある人物は「朴大統領がハンナラ党の代表を務めていたころ、崔氏の家族と一緒に海外で休暇を過ごす場面を実際に見た」と語った。

 朴大統領が政治家として急速に成長する中、崔氏は表に姿を現さない方向を選んだとみられる。崔氏の元夫の鄭允会(チョン・ユンフェ)氏は、96年から朴大統領の秘書室長を務めたが、夫婦関係が疎遠になったのに伴い、鄭氏も自然と朴大統領のそばを離れることになったという。朴大統領が国会議員だったころに崔氏・鄭氏夫婦が推薦した李在万(イ・ジェマン)、アン・ボングン、チョン・ホソン補佐官らは、今も青瓦台で「権力の3人組」と呼ばれている。ミル財団・Kスポーツ財団において崔氏は、「会長様」と呼ばれながらも公式な職責は一切担当せず、側近の男性を表に出す形で人事や事業、資金運用などを総括していた疑惑が持たれている。

鄭始幸(チョン・シヘン)記者
■<朴大統領秘線>崔氏と42年の縁…どういう関係?(1)2016年10月26日14時33分 中央日報/中央日報日本語版
http://japanese.joins.com/article/052/222052.html

20161026143322-1
朴大統領が1979年にセマウム奉仕団総裁として祝辞を述べた「第1回セマウム祭典」。この日の行事で開会宣言をした当時の崔順実(チェ・スンシル)セマウム大学生総連合会長(檀国大大学院1年)が漢陽大の運動場で朴大統領と親しそうに話している。当時、朴大統領は27歳、崔順実氏は23歳だった。(写真=JTBC画面キャプチャー)   朴槿恵(パク・クネ)大統領は25日、国民向けの謝罪で崔順実(チェ・スンシル)氏(60)との関係を「困難な時に助けを受けた縁」と述べた。どういう意味だろうか。 


  朴大統領は1979年10・26事件(朴正煕大統領暗殺事件)から97年末に政界に出てくるまでの18年間、長い隠遁生活をした。朴大統領はこの時期に書いた日記で「いま優しくて親切な人が後にあきれるほど利に聡い人でないと誰が断言できるだろうか。はかない人間関係だ」と書いた。ソウルのあるホテルのエレベーターの中で朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領時代に長官を務めた人が朴大統領と会っても知らないふりをした日に書いたものだった。結局、朴大統領の言及は18年間の隠遁期に崔氏と特別で緊密な関係を維持したことを示唆している。 

  「夢が多い大学時代、ファーストレディの役割をしていたその方に初めて会った」(87年の雑誌に載せられた崔氏の寄稿)。 

  朴大統領と崔氏の縁は母・陸英修(ユク・ヨンス)氏の逝去(74年)後2、3年の間に結ばれたとみられる。40年近くなったということだ。 

  いくつかの記録によると、朴大統領は崔氏より崔氏の父・崔太敏(チェ・テミン)氏に先に出会った。『キム・ヒョンウク回顧録』には、陸氏が殺害された後、崔太敏氏が令嬢の朴大統領に慰めの手紙を送ったという内容が出てくる。手紙をきっかけに朴大統領に初めて会った席で、崔太敏氏は夢に出てきた陸氏のメッセージだといって次のように話したという。「お母さんは亡くなったのではなく、あなたの時代を開くために道を譲ったということをなぜ分からないのか」。 

  1912年に黄海道(ファンヘド)で生まれ、植民地時代に警察業務を遂行したという崔太敏氏は、解放後、僧侶になったという。70年代初めに仏教・キリスト教・天道教を総合しながら「永生教」を創始して教主になった。永生教の看板を下ろした後、75年4月に「大韓救国宣教団」を設立し、翌月に開催した「救国祈祷会」、6月の「大韓救国十字軍」創軍式などに朴大統領が出席した。76年に朴大統領は崔太敏氏がいくつかの団体を統合して設立した「セマウム奉仕団」の総裁となった。しかし崔太敏氏は77年9月当時、金載圭(キム・ジェギュ)中央情報部長の報告で朴正熙大統領から不正容疑などで直接尋問を受けたが、司法処理は免れた。金載圭中央情報部長は10・26事件後に裁判所に提出した控訴理由補充書の「救国女性奉仕団と関連した令嬢の問題」という文書で、「この問題が10・26革命の動機のうち間接的だが重要なもの」と明らかにしたりもした。 

  崔太敏氏の五女の崔順実氏はセマウム奉仕団大学生会長として朴大統領に初めて会ったという。最近あるインターネットメディアはセマウム奉仕団が主催した79年の「第1回セマウム祭典」行事で崔氏が朴大統領に密着随行する姿が入った映像を公開した。 

  1979年にドイツに留学し、85年に帰国して教育事業をしながら、育英財団理事長だった朴大統領と再会した。当時、崔氏は4歳年上の朴大統領の話し相手となり、「オンニ(姉さん)」と呼んだという。イ・ソンハン前ミル財団事務総長も最近、あるメディアのインタビューで「9月に車の中で崔氏が朴大統領と電話をしながら気兼ねなく『姉さん』と呼んでいた」と主張した。


■<朴大統領秘線>崔氏と42年の縁…どういう関係?(2)2016年10月26日14時34分 中央日報/中央日報日本語版
http://japanese.joins.com/article/053/222053.html
 
20161026143357-1
チョン・ユンフェ氏(中央フォト)
  崔太敏氏がまたメディアの注目を集めたのは、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権当時の86年以降、育英財団の運営をめぐり朴大統領と妹の朴槿令(パク・クンリョン)氏の間に摩擦が生じながらだ。槿令氏を支持する人たちは崔太敏氏・崔順実氏の専横を問題視し、槿令氏は「詐欺師の崔太敏を厳罰し、崔太敏に包囲された姉の朴槿恵を元国家元首遺族保護レベルで救出してほしい」という内容の嘆願書を青瓦台に提出した。崔太敏氏は94年に慢性腎不全で死去した。 

  朴大統領は97年末に政界に入門し、翌年、国会議員再・補欠選で当選した。この時、崔順実氏の夫チョン・ユンフェ氏が朴大統領の側近として登場した。しかし「秘書室長」とまで呼ばれたチョン氏は、朴大統領が2004年にハンナラ党代表になってから2年後に退いた。2006年に朴大統領が遊説中にカッターで顔を切られる事件が発生すると、崔氏の姉が看護をしたという。朴大統領は崔氏の母の80歳の誕生日パーティーに出席して歌を歌ったりもし、家族旅行にも一緒に行ったと伝えられている。また、朴大統領の当選後「側近3人組」と呼ばれた李在万(イ・ジェマン)、チョン・ホソン、アン・ボングン補佐官も崔氏の夫婦が推薦したという。朴大統領の就任後は青瓦台を出入りしながら朴大統領に会い、朴大統領の服とアクセサリー、歴訪日程などを管理したと知られている。 

  朴大統領の側近の与党関係者は「大統領が女性であるだけに他の人に話しにくい衣装・健康・美容などの相談や要請をする過程で崔氏にますます密着することになったようだ」と話した。



 ↓これキモいw

朴正煕(パク・チョンヒ)も降参した、朴槿恵(パク・クネ)の猟奇的な私生活 かつての日本は美しかった:【気持ち悪い!!】

朴正煕(パク・チョンヒ)も降参した、朴槿恵(パク・クネ)の猟奇的な私生活

 70年代、朴槿恵(パク・クネ)と崔太敏(チェ・テミン)の不適切な関係は、すでに知られていた。当時、20代だった朴槿恵(パク・クネ)を、父より5歳年上の崔太敏(チェ・テミン)が弄んだ事は、朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領の女遊びと同じ位、猟奇的だ。

 ウィキリークスが暴露した通り、元駐韓米大使バーシュボウは「チェ・テミンが、人格形成期に朴槿恵(パク・クネ)の肉体と魂を完全に支配した」とし、崔太敏(チェ・テミン)を『韓国のラスプーチン』と評した。ラスプーチンは、帝政ロシア末期の修道士で、巨大な性器と、天性の精力で、ニコライ2世の皇后アレクサンドラを誘惑、国政を壟断し、帝政ロシアを没落に導いた世紀の原因である。 

 当時、大統領府に勤務していた、とある女性の回顧によると、朴槿恵(パク・クネ)と崔太敏(チェ・テミン)が性交渉を持った(絡み合った)翌日の朝、寝室には各種避妊器具、変態的性玩具が散らばり、吐き気がする程だったと言う。老人が、若い女性、それも『ファーストレディー』の肉体と魂を完全に支配するには、恐らく極めて特別な能力が必要だったのだ。朴槿恵(パク・クネ)が、『7人の会』の高齢者に執着するのは、政治的理由の為で無く、崔太敏(チェ・テミン)への懐かしさや高齢者だけに興奮する変態的な性的指向のせいかも知れない。

 朴槿恵(パク・クネ)が、崔太敏(チェ・テミン)に溺れたのは、彼女の不幸な過去とも関係している。2007年、ハンナラ党の大統領選候補予備選挙で議論になった様に、朴槿恵(パク・クネ)は、陸英修(ユク・ヨンス)の娘では無い。朴正熙(パク・チョンヒ)の最初の妻は、キム・ホナムだ。朴正熙(パク・チョンヒ)は、キム・ホナムを馬鹿だと、とても嫌がり、離婚する前に、梨花女子大学出身のイ・ヒョンランと同居を始めた。朴議員は、イ・ヒョンランとの間に生まれた婚外子だ。婚外子問題で、チェ・ドンウクを排除した朴槿恵(パク・クネ)の基準を、1970年代に遡り適用すれば、朴正煕(パク・チョンヒ)も弾劾の対象になるのだ。2007年の党内選挙当時、朴槿恵(パク・クネ)は、DNA検査を要求する李明博(イ・ミョンバク)の圧力は倫理に反するとし、玉虫色で済ませたのは、事実だったからだ。

 こんな出生の秘密の為に、朴議員は、大統領府に、情を寄せる所は無かった。夜ごと若い女と寝ている朴正熙(パク・チョンヒ)を憎んだ陸英修(ユク・ヨンス)が、朴槿恵(パク・クネ)を可愛いがるはずも無かった。だから、朴槿恵(パク・クネ)は崔太敏(チェ・テミン)に、益々溺れていった。

 朴正熙(パク・チョンヒ)は、朴槿恵(パク・クネ)と崔太敏(チェ・テミン)の関係に頭を悩ませたと言う。10.26当時、大統領秘書室長だった金桂元(キム・ゲウォン)は「あいつ、崔太敏(チェ・テミン)が、クニャン(朴槿恵)を魅了した。」「崔太敏(チェ・テミン)と朴槿恵(パク・クネ)に関する報告書が上がって来ると思うと、胸が張り裂けそうだ」と朴正熙(パク・チョンヒ)の心情を述懐した。金載圭(キム・ジェギュ)は、控訴理由書で、崔太敏(チェ・テミン)問題を、朴正煕(パク・ジョンヒ)殺害の理由の1つに挙げた。朴槿恵(パク・クネ)の猟奇的な私生活が、結局、自らの父親を殺した事になる。

 結局、朴正熙(パク・チョンヒ)は、ソン・ウヨン公報秘書官に、崔太敏(チェ・テミン)の性器を切り落とし、救国奉仕団関連団体を全て解体した後、崔太敏(チェ・テミン)が、朴槿恵(パク・クネ)の近くに、現れる事の無い様に指示した。すると、朴議員は、落ち込んだ表情で涙を流したと言う。

(中略)

 正常な生活が不可能な変態一族の偏屈なオールドミスが、大統領府を横取りし、席に付いた事で、今後国がどうなるのか考えると嘆かわしい。ラスプーチンに溺れたアレクサンドラが帝政ロシアを崩壊させた様に、崔太敏(チェ・テミン)の様な老人に溺れた朴槿恵(パク・クネ)が、最終的に大韓民国を肥溜めに落とす事になるかも知れないからである。もはや国が破綻するのは時間の問題かも知れない。


△ 2016年10月28日【チェ・スンシルゲート】ある女性の回顧によると、朴槿恵とチェ・スンシル父親が絡み合った翌日の朝、寝室には各種避妊器具、変態的性玩具が散らばり吐き気がする程だったという
 http://birthofblues.livedoor.biz/archives/51641231.html

 中国語:クーニャン(姑娘)、韓国語(朝鮮語):クニャン
 でいいのかな?

崔順実氏は、新興宗教団体「大韓救国宣教会」の総裁だった崔太敏(チェ・テミン)牧師の5番目の娘だ。

崔太敏氏は1974年、妻を銃撃事件で失った朴正熙大統領に接近し、娘の朴槿恵氏を名誉総裁に担いだ。ここから、朴槿恵氏と、崔順実氏の娘同士の関係が始まったとみられる。

1977年以降、崔太敏氏は、忠孝や礼儀の重要さを説く国民啓蒙運動「新しい心(セマウム)を持つ運動」を韓国全土で展開(農村近代化運動の「セマウル」とは違う)、全国各地の自治体や学校に支部ができ、数万人が参加する大規模な運動だった。ファーストレディー役を務めていた朴槿恵氏は「セマウム奉仕団」総裁として、運動の「顔」の役割を果たした。

崔太敏氏の人物像は謎に包まれており、権力と癒着して不正蓄財を重ねた疑惑が指摘されてきたが、朴正熙氏は顧みなかったとされる。1979年10月26日、朴正熙氏は中央情報室長の金載圭に暗殺されたが、金載圭の弁護人は控訴審で「崔太敏氏の疑惑について朴正熙大統領に進言したが、聞き入れなかった」ことが暗殺の動機の一因だったと主張した。

朴正熙大統領の暗殺後、朴槿恵氏は事実上の隠遁生活を余儀なくされたが、崔太敏氏と崔順実氏は朴槿恵氏の財団「陸英財団」をともに運営するなど、朴槿恵氏を支え続けた。朴槿恵氏は「崔順実氏は、昔、私が苦しいときに助けてくれた縁」と表現しており、信頼の深さを物語る。

長らく隠遁していた朴槿恵氏は1998年、国会議員に初当選し、政治の表舞台に復帰する。このとき、個人秘書室長に据えたのが、崔順実氏の夫だったチョン・ユンフェ氏だった。朴槿恵氏の政界の側近も、このときに形作られた。


△ 「韓国のラスプーチン」朴槿恵大統領を陰で操る謎の女性・崔順実氏とは? The Huffington Post | 執筆者:吉野太一郎 投稿日: 2016年10月26日 06時25分 JST 更新: 2016年10月27日 11時23分 JST
http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/25/who-is-choi-sun-shil_n_12644096.html




 玉木雄一郎献金の讃岐うどんいかがっすかー。

■【緯度経度】韓国セマウル運動の源流は「日本」 ソウル・黒田勝弘 2013.2.16 08:11 産経ニュース
 http://www.sankei.com/world/news/130216/wor1302160011-n1.html

 朴槿恵(パク・クネ)・次期大統領が選挙キャンペーンで使った呼びかけに「チャルサラボセ!」というのがあり、これが結構、中高年層に受けて当選の一助になった。「豊かになろう」という意味で、彼女の父・朴正煕(チョンヒ)大統領時代の1970年代に挙国的に進められた「セマウル(新しい村)運動」をはじめ、経済開発と近代化の国造りで合言葉になった。同じタイトルの歌もあり当時、国中でその歌が流れていた。

 とくに農村振興運動だった“セマウル運動の歌”ともいわれ、このかけ声で韓国の農村は見違えるほど明るく豊かになった。

 セマウル運動は、それまで疲弊していた農村を、農業外収入や農閑期作業などで所得を増やし、農民にヤル気を出させることで一変させた。生活環境改善事業で住宅、道路、上下水道も一気によくなった。この運動でコメの自給も実現した。のちに「都市セマウル」や「工場セマウル」にも拡大した。

 セマウル運動は「自助・自立・協同」の標語でスタートし後に「勤勉」も加わった。朴政権の最大功績といわれ、後年、東南アジアをはじめ各国でも関心を持たれ“輸出”された。中国でも関心が高く研究対象になった。

 ところが、このセマウル運動の源流は日本だったということはあまり知られていない。日本統治時代の30年代、朝鮮総督府が進めた農村振興運動がそれだった。

 そして朴正煕が大邱師範学校を卒業し、軍人を目指す前にしばらく先生をしていた慶尚北道の聞慶国民学校は、その農村振興運動の人材育成のための指定校だった。「朴正煕先生」はその人材教育にあたり地域の農場でも指導にあたった。

 農業振興運動の標語はセマウル運動のそれと全く同じで、当時の時代背景から「儀礼簡素化」や「忠孝愛国」もあった。朴正煕は後年、大統領になった際、これを思い出したというわけだ。

 「セマウル運動は日本がモデル」という話は日本の研究者からも聞いていたが最近、日本在住の文化人類学者、崔吉城(チェ・キルソン)・広島大名誉教授(下関の東亜大学・東アジア文化研究所所長)がその詳細を韓国情報紙「東洋経済日報」(2月8日号)に書いている。

 崔教授は筆者の知人なので“無断紹介”を許していただけると思うが、彼はこの“朴正煕伝説”(?)を当時の聞慶国民学校の教え子たちにインタビューして確認したという。

 崔教授は日本に渡る前、韓国の陸軍士官学校の教官をしたことがあり、そのときに耳にしたエピソードも紹介している。士官学校の食堂で働いていたおばあさんは朴正煕が師団長時代によく通ったうどん屋の人で、朴正煕が後に士官学校に招いたのだという。

 父・朴正煕は日本風のうどんが好きだったとそのおばあさんは語っていたというが、娘の朴槿恵・次期大統領の好みはどうなんだろう、と気になる。

 彼女は先ごろ手にしていた大型のハンドバッグが海外ブランド物じゃないか、との疑惑説に発展した。国産の中小メーカーの物ということで落ち着いたが、父のように「日本風うどん」が好みなどと言おうものならたちまち大騒ぎだろう。

 パクチョンヒ大統領が暗殺された場所はウワサの大統領専用慰安所「安家」の「ナ棟」。現・ムクゲの丘。

【噴水台】安家 2010年10月12日13時59分 中央日報/中央日報日本語版]
 http://japanese.joins.com/article/798/133798.html
 
  青瓦台の正門から西の方に小さな道を間にはさんだ優雅で落ち着いた公園がある。1993年7月にオープンした「ムクゲの丘」だ。散歩路、憩いの場が造成され、通常の公園と特に違うところはない。「安全家屋を壊し…困難だった民主化の道を振り返る歴史の学習の場」という石碑だけが存在の意を想像させる。ここは79年10月26日、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が金載圭(キム・ジェギュ)中央情報部長の銃弾に当たって最期を迎えた「宮井洞(クンジョンドン)の安家」(安全家屋)があったところだ。 

  安家の公園化当時、金泳三(キム・ヨンサム)政権は「権威主義時代、密室政治の清算」という名分を掲げた。しかし朴大統領が逝去した安家の宴会場の処理が問題として浮上した。独裁者という批判はあるが、血を流しながら世を去った「あの時あの事件」の現場を、人々がいい加減に踏み付けて歩いてはいけないという主張があがった。後世に、敷地だけでも残そうという意見が多くあがった。結局、公園にはあまり似合わない大きな石を積んで人の往来を阻むことにした。朴大統領の痕跡は長さ30メートル、高さ3メートルの石垣の下にようやく残っている。 

  大統領安家の正式名称は「青瓦台別館」だ。70年代以後、青瓦台周辺の宮井洞、清雲(チョンウン)洞、三清(サムチョン)洞などに10棟あった。最高権力者の隠密な遊興場所で、政治資金をもらう政経癒着の場として使われた暗い過去がある。元々、安家は捜査機関が犯罪被害者や証人を保護するために確保する隠れ処を指称する。文字どおり警護と保安上の安全という意味だ。米国は70年代マフィアと戦争をしながら証人たちが相次いで報復殺害されると、証人保護プログラムを導入後、隠れ処、すなわち安家(safe house)をあてている。韓国にも捜査機関の安家は別にある。検察は殺人、強盗、家庭暴力など犯罪の申告者や被害者が「報復される恐れがある場合」安全家屋を提供する。 

  他界した黄長ヨプ(ファン・ジャンヨプ)元朝鮮労働党書記は97年の亡命後、安家でずっと過ごした。重武装した20人の要員が守り、監視カメラ、防弾ガラスなど保安装備が設置されたソウル論硯洞の2階建て洋館で北朝鮮の暗殺の脅威に震えながら13年を過ごした彼の心情は想像がつく。宮井洞の安家については、朴正熙政権の功績を見せる歴史の現場として保存しなければならないという論難が今もある。外国はささいなものでも歴史の一部と見る。老いた亡命客の安家は南北分断の冷厳な現実を象徴する。保存を検討してみるのはどうか。 

  コ・デフン論説委員




mk8820be76
1995年公開:映画「ムクゲの花が咲きました」
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-3162.html?sp

 ヘイトスピーチが何だってぇ?(≧∇≦)ブハハハ!



霊世界のメッセンジャー
 天一国、統一教会ですw
マインドコントロールの恐怖!



五方嚢(オバンナン)
 ソウル光化門広場の世宗大王の前で。


オバンナン - NTX Wiki via kwout (機械翻訳)

2016102709342496489_1
2013年2月、朴槿恵大統領就任式のイベントに登場したオバンナン(写真=聯合ニュース)

2016102709342496489_2

20130225135008550
20130225132807127
http://blog.daum.net/hsun-100hsun-100/7984255

 これは呪いをかけたのではないか?
 パククネ大統領は呪術政治を施してたのではないかと物議をかもすw



現在の学生運動w



PYH2016102719080088200_P2
全国に広がる朴大統領非難声明
朴槿恵(パク・クネ)大統領の親友の民間人女性、崔順実(チェ・スンシル)氏に機密情報が渡り、崔氏が政府の人事など国政全般に介入していたとの疑惑を受け、朴大統領の辞任を求める市民団体や大学生の「時局宣言」が相次いでいる。宣言を発表する淑明女子大の学生=27日、ソウル(聯合ニュース) (END)
 http://app.yonhapnews.co.kr/YNA/Basic/ArticleJapan/new_ArticlePhoto/YIBW_new_showArticlePhotoView.aspx?contents_id=PYH20161027190800882&origin_id=AJP20161028000700882


 進歩。半島統一、北朝鮮シンパw

 SEALDsや沖縄高江ヘリパッド建設反対派の事務局長の朴さん達は参加しなくていいのかい?



人気ブログランキングへ