反日はどこからくるの
反日を追っています。そして守るべき日本とは何か考えています。
東郷茂徳=朴茂徳
「ルーズベルト親電」伝達遅れ、GHQ徹底調査

ルーズベルト元大統領
外務省は7日、昭和16年の真珠湾攻撃直前にルーズベルト大統領が昭和天皇に宛てた親電の伝達が遅れた経緯に関する連合国軍総司令部(GHQ)国際検察局 による調査実態の記録を含む外交文書ファイル72冊を公開した。国際検察局が終戦後、外務省担当者らに事情聴取を行い、詳細な経緯を調査していたことなど が明らかになった。
外務省が作成した昭和21年8月1日付の文書によると、国際検察局は親電が早期に届けられれば戦争回避が可能だったと認識しており、開戦当時の東郷茂徳外相が伝達を遅らせたとして開戦責任の証拠固めをしたと分析している。
ルーズベルト親電をめぐっては、平成16年に元ニュージーランド大使の井口武夫尚美学園大教授(当時)が、グルー駐日米大使に配達される前に東郷外相が解 読していた可能性を指摘。親電の内容を受けて日米開戦の最後通告を修正したため、開戦通告は真珠湾攻撃の約1時間後になったとしている。国際検察局側の認 識は井口氏の議論と重なっており、対米通告遅延の論争に一石を投じそうだ。
国際検察局の職員2人は昭和21年8月1日、外務省の電信官 2人を尋問した。国際検察局の2人は東郷外相の名前を出しながら、親電配達が遅れた経緯や、事前に外務省が解読した上で陸海軍に送付した事実の有無を質問 した。電信官2人は「本件親電には何等関係がなかった」「斯かる事実ありたるを知らざる」と回答した。
文書では聴取を受けた印象とし て、国際検察局側が「東郷外務大臣は親電を解読したものを事前に見ているに違いない。この電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることが出来た」と認 識していると指摘。さらに「検事(ママ)局側の同大臣の開戦責任に関する証拠固めを目的とするものの如く観取せられた」と分析している。
東郷外相は終戦後、極東軍事裁判でいわゆる「A級戦犯」として禁錮20年の刑を言い渡され、服役中の25年7月に死亡。53年10月、靖国神社に合祀(ごうし)された。
◇
ルー ズベルト親電 日米開戦直前に昭和天皇に宛てた親電で、日本に和平を呼びかける一方、日本軍の仏印からの全面撤退を要求する内容。日本時間12月7日正 午、東京電報局に到着。グルー駐日米大使に配達されたのは10時間以上遅れの同日午後10時半だった。親電は8日午前0時半にグルー大使から東郷茂徳外相 に手渡され、東條英機首相が同2時半に昭和天皇に親電全文を読み上げた。産経新聞2013.3.7
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130307/plc13030712510009-n1.htm

ルーズベルト元大統領
外務省は7日、昭和16年の真珠湾攻撃直前にルーズベルト大統領が昭和天皇に宛てた親電の伝達が遅れた経緯に関する連合国軍総司令部(GHQ)国際検察局 による調査実態の記録を含む外交文書ファイル72冊を公開した。国際検察局が終戦後、外務省担当者らに事情聴取を行い、詳細な経緯を調査していたことなど が明らかになった。
外務省が作成した昭和21年8月1日付の文書によると、国際検察局は親電が早期に届けられれば戦争回避が可能だったと認識しており、開戦当時の東郷茂徳外相が伝達を遅らせたとして開戦責任の証拠固めをしたと分析している。
ルーズベルト親電をめぐっては、平成16年に元ニュージーランド大使の井口武夫尚美学園大教授(当時)が、グルー駐日米大使に配達される前に東郷外相が解 読していた可能性を指摘。親電の内容を受けて日米開戦の最後通告を修正したため、開戦通告は真珠湾攻撃の約1時間後になったとしている。国際検察局側の認 識は井口氏の議論と重なっており、対米通告遅延の論争に一石を投じそうだ。
国際検察局の職員2人は昭和21年8月1日、外務省の電信官 2人を尋問した。国際検察局の2人は東郷外相の名前を出しながら、親電配達が遅れた経緯や、事前に外務省が解読した上で陸海軍に送付した事実の有無を質問 した。電信官2人は「本件親電には何等関係がなかった」「斯かる事実ありたるを知らざる」と回答した。
文書では聴取を受けた印象とし て、国際検察局側が「東郷外務大臣は親電を解読したものを事前に見ているに違いない。この電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることが出来た」と認 識していると指摘。さらに「検事(ママ)局側の同大臣の開戦責任に関する証拠固めを目的とするものの如く観取せられた」と分析している。
東郷外相は終戦後、極東軍事裁判でいわゆる「A級戦犯」として禁錮20年の刑を言い渡され、服役中の25年7月に死亡。53年10月、靖国神社に合祀(ごうし)された。
◇
ルー ズベルト親電 日米開戦直前に昭和天皇に宛てた親電で、日本に和平を呼びかける一方、日本軍の仏印からの全面撤退を要求する内容。日本時間12月7日正 午、東京電報局に到着。グルー駐日米大使に配達されたのは10時間以上遅れの同日午後10時半だった。親電は8日午前0時半にグルー大使から東郷茂徳外相 に手渡され、東條英機首相が同2時半に昭和天皇に親電全文を読み上げた。産経新聞2013.3.7
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130307/plc13030712510009-n1.htm
【wiki】東郷茂徳

東郷 茂徳(とうごう しげのり、旧字体:東鄕茂德、1882年(明治15年)12月10日 - 1950年(昭和25年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。朝鮮人陶工の子孫。
欧 亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。鈴木貫太郎内 閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍 事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没した。
生い立ち
東郷茂徳は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に島津義弘の帰国に同行した朝鮮人陶工の子孫である。陶工達が集められた「苗代川」(現在の日置市東市来町美山)と呼ばれる地域では幕末まで朝鮮語が使われていたという。薩摩藩は苗代川衆を保護、優遇し藩内の身分は士分とした。父・朴寿勝は優れた陶工で、横浜や神戸にも積極的に出かけ、外国人にも焼き物を売り込む実業家としての手腕にも長けていた。なお元帥海軍大将の東郷平八郎とは血縁関係はない。
開戦回避交渉
アメリカ側から提示されたハル・ノートによって、東郷は全文を読み終えた途端「目も暗むばかり失望に撃たれた」と述べ、開戦を避けることができなくなり、回答期限は付いておらず、単なる強い調子の交渉文であったハル・ノートを「最後通牒」であると偽りの上奏を行い、御前会議の決定によって太平洋戦争開戦となった。 吉田茂は東郷に辞職を迫ったが、今回の開戦は自分が外交の責任者として行った交渉の結果であり、他者に開戦詔書の副署をさせるのは無責任だと考えたこと、 自分が辞任しても親軍派の新外相が任命されてしまうだけだと考えてこれを拒み、早期の講和実現に全力を注ぐことになった。

日本との戦争宣言に調印を終えた フランクリン・ルーズベルト大統領と幕僚達
【wiki】佐藤尚武
1945年5月のドイツ敗戦後、日本国内ではソ連を通じた「無条件降伏ではない和平」の仲介を求める動きが起きる。佐藤は既に戦争の大勢は決まった以上、ソ連が仲介の役に立つ可能性は少ないと判断して早期終戦を促す機密電報を東京の本省に送っている。7月に昭和天皇の意向で近衛文麿を和平交渉の特使としてモスクワに派遣す ることが決まると、7月12日に東郷茂徳外務大臣は佐藤に対して、特使派遣をモロトフに申し入れるよう訓令した。だが、モロトフとはポツダム会議の準備と いう理由で会うことはできず、外務人民委員代理のロゾフスキーに依頼を伝えている。佐藤は東郷外相の指示に従って行動したが、ここでも本省に対して具体的 な条件を欠いた特使派遣の依頼ではソ連を動かすことはできないとして、無条件降伏に近い和平しかないという電報を送った。
佐藤は7月 18日にロゾフスキーから「天皇のメッセージに具体的提議がないこと、特使の使命が不明確であること」を理由に特使を拒絶する回答を受ける。佐藤は東郷の 指示で再度特使派遣をソ連側に申し入れる一方、ポツダム宣言直前の1945年7月20日に東郷に当てた長文の電報では、「すでに抗戦力を失ひたる将兵およ び我が国民が全部戦死を遂げたりとも、ために社稷は救はるべくもあらず。七千万民草枯れて上(引用者注:天皇)御一人安泰たるを得べきや。(中略)過去の 惰性にて抵抗を続けおる現状を速やかに終止し、以て国家滅亡の一歩手前にてこれをくい止め、七千万同胞の塗炭の苦しみを救い、民族の生存を保持せんことを のみ念願す」と早期に「皇室の維持」のみを条件とした無条件降伏に近い講和を結ぶように要求していた。
佐藤は日本からの和平交渉特使派遣の回答をモロトフに求めていたが、ようやく8月8日に実現したクレムリンでの会見の席で、モロトフから対日宣戦布告を通知されることになった。

鹿島平和賞受賞者
第四回 佐藤尚武氏 日本ユニセフ協会会長
→「友愛」を手繰ったら恐ろしい箱が出て来た
以下再び【wiki】東郷茂徳より引用
批判
東郷茂徳は平和主義者・和平派であると知られているが、東郷が採ったソ連を仲介者とする和平工作は愚策と の厳しい意見がある。東郷はソ連が同年2月のヤルタ会談で、対日参戦の密約を米英と結んでいた事は当然知らなかった。東郷は広田弘毅元首相によるマリク・ 駐日ソ連大使との交渉に賭けたが、会談は6月3日の開始からもたつき、7月14日に中断するまで成果はなかった。駐ソ日本大使だった佐藤尚武は戦後に「貴重な一カ月を空費した事は承服できない」と語っている。7月26日に発表されたポツダム宣言について、東郷がポツダム宣言は拒絶せず少なくともソ連から返事が来るまで回答を延ばすように待つという意見を述べ、それが採用された。その結果、ポツダム宣言の対応が遅れ、2発の原爆投下とソ連の対日参戦を招いた。
簡潔に言えば、東郷は小磯国昭内閣で重光葵外相が進めたスウェーデンを仲介者とする和平工作を打ち切り、スウェーデン政府の和平仲介中止を指令し、仮想敵国で対日参戦を伺っているソ連を和平仲介に選び、ポツダム宣言発表後もソ連仲介の和平に固執し続けた。 しかし8月9日のソ連の対日参戦により和平工作は水の泡となった。東郷は戦後に記した回想『時代の一面』の中で、アメリカからの仄聞として「ジョセフ・グ ルーらが作成した対日講和宣言案がポツダムに携行されたところに、ソ連側から日本に講和の意思ありと伝えられたため準備した案がポツダム宣言として出され た」とし、「それなら天皇の大御心はソ連首脳に通じただけではなく、連合国首脳に伝達されてポツダム宣言という”有条件の講和”に導き得たといえるのだか ら、あのときの(ソ連に対する)申し入れは結果として大体において効を奏したといって差し支えないだろう」と弁明している。しかし、実際にはアメリカ側は ソ連から知らされるよりも先に、東郷と佐藤駐ソ大使の間で交わされた外交電報の傍受解読によって、日本がソ連を仲介とした和平交渉に乗り出したことを察知 していた。
ただし、ソ連の仲介によって「無条件降伏」ではないよりよい条件の講和を得られるのではないかという期待は、東郷個人にとどま らず、木戸幸一や昭和天皇自身も含めた政府の「和平派」に共通したものであったという見解も存在する。長谷川毅は「まさにモスクワの斡旋は日本の為政者に とって、苛酷な現実から逃避する阿片であった」「天皇制の維持についてより有利な条件を引き出そうとする欲張った期待がモスクワへの道という誘惑に彼ら (引用者注・和平派)を誘ったのである」と記している。

【youtube】ユダヤとコミンテルン_日本が戦争に至った背景
誰かの高笑いが聞こえますね
そして....
【wiki】東郷茂彦
東郷 茂彦(とうごう しげひこ、1945年1月10日 - )は長野県軽井沢出身の新聞記者。
疎開先の別荘にて、双子で生まれた。祖父東郷茂徳は太平洋戦争開戦時及び終戦時の外務大臣。父東郷文彦は、戦後外務省事務次官、駐米大使を務めた。双子の弟東郷和彦は、元駐オランダ大使・外務省欧亜局長であった(2002年に辞任退職)。
経歴東京都立日比谷高等学校、早稲田大学政治経済学部卒業。朝日新聞社に入社、ワシントン・ポスト紙の記者に転じ活動した。1988年に絵本『ちびくろサンボ』の絶版のきっかけとなる日本での黒人の取り扱いの記事を書いたり、1993年には小和田雅子が皇太子妃に決定したことをいち早く報道したスクープ記事で知られる。
一方で、1976年に国会内で見学に来ていた少女に対する痴漢行為、1998年と2001年にも痴漢行為で逮捕されるなどの不祥事により、朝日新聞、ワシントン・ポストを相次いで退社。2002年2月、東京地裁で懲役8カ月(求刑懲役1年)の実刑判決を受けた。
人物
双子の兄の東郷和彦、父の東郷文彦、祖父の東郷茂徳も職業外交官であり、東郷家は戦前から外務省と繋がりが深い。こうした血縁関係が1993年の皇太子妃決定のスクープ記事を発表するに当たり有利に働いた。
父方の祖母エディ・ド・ラランド(東郷エヂ=東郷茂徳夫人)はユダヤ系ドイツ人であった。
【まとめ】
▼真珠湾攻撃が”sneak attack(卑怯な攻撃)”と呼ばれる汚点を作った東郷茂徳=朴茂徳は朝鮮人陶工の子孫
▼和平交渉仲介役をソ連にこだわり貴重な時間を空費
▼孫の東郷茂彦氏は皇太子妃決定のスクープ記事を出す一方痴漢行為で実刑判決
追記2014.11.21
NPO法人 国際留学生協会

http://ifsa.jp/index.php?togoshigenori
また差別ニダという話になってますね
後から必ずそういう話になるので関わると負けなんですね
参考
ひたすらひれ伏せby東郷和彦

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