2015年7月29日水曜日

日本永久占領1 マッカーサー
2012/02/19 05:32[下へ]

序章 第二の敗戦

バブル経済崩壊による長期の不況は「第二の敗戦」と呼ばれた。1987年10月ウォール街でブラック・マンデーと呼ばれる株の大暴落が起きたが、竹下内閣 は日本の資金がアメリカに還流するように、日銀の公定歩合を2.5%に据え置き、これがもとでバブルとなった。アメリカには安全保障の面で借りがあるた め、自衛隊派兵の代わりに金を払ったのだ。平和憲法が国家を興隆させたという神話があるが、真実はアメリカが日本統治の代行をしているだけだ。冷戦が終わ ると、日本はアメリカの競争相手になり、貿易戦争を仕掛けられた。第二の敗戦の原因は、日本国憲法の成り立ちにあった。

第一章 無条件降伏
第二次大戦後、日本は無条件降伏した。天皇制の存続については、日本が降伏した後で交渉が行われた。1945年7月のポツダム宣言では、天皇制の存否につ いては明言を避けていた。米国政府は、占領初期において暫定的に天皇を利用して、日本の非武装化が終了してから、天皇制を廃止しても遅くないと考えてい た。「天皇と日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属する」という文言に日本政府は戸惑ったが、最後は天皇陛下が8月14日の御前会議で、宣言 の受諾を確認した。

第二章 対日政策
8月30日に厚木に降り立ったマッカーサーは、9月23日に「降伏後初期対日政策(文書ナンバー SWNCC150/4)」を公表した。「この政策は、合 衆国の目的達成のための斬新的変化に反対する天皇や日本政府を支持するように最高司令官をコミットさせるものではない。われわれの政策は現存の政治形態を 利用することであり、支持することではない。」…日本政府が恭順な態度を示さなければ、天皇制・国体の放棄も辞さないという、ポツダム宣言よりも過酷な内 容だった。

第三章 一触即発
天皇陛下を救ったのはマッカーサーだった。9月27日に、天皇は米国大使館にマッカーサーを訪問して、「戦争行為においてわが国民によってなされたすべて の政治的、軍事的決定について私だけが責任をもつ」と言明した。これに感銘を受けたマッカーサーは、天皇無責任説の支持者になっていった。天皇制打倒を掲 げた共産党員は、ついに日の目を見ることはなかった。マッカーサーは名誉心が強く、マニフェスト・デスティニーの理念に動かされ、共和党系の保守主義者で あった。こうしたマッカーサーの個性も、天皇陛下を救うのに一役かった。

第四章 憲法改正
マッカーサーは、日本政府に憲法の改正を迫ったが、天皇を国民の象徴として残すもので、それは強硬派の国務省やソ連の手から天皇を守るためでもあった。 1946年2月3日に、マッカーサーは民政局に憲法草案の起草を命令し、天皇制維持、戦争放棄、華族制廃止、の三原則を骨子として示した。ニューディー ラーの集まりである民政局はわずか一週間で起草を終え、2月13日に吉田茂外相に草案を示した。新憲法は、天皇制と天皇陛下を救う手段だった。

第五章 ジョージ・ケナン
1946年4月の人民投票で新憲法は承認された。鳩山一郎率いる自由党が第一党になったが、共産党批判をして日共から嫌われていたため、鳩山はGHQに公 職追放された。その後、自由党からは吉田茂が党首に推され、第一次吉田内閣ができた。マッカーサーは新憲法を嫌う吉田を警戒していた。1947年4月の第 二回総選挙では、(マッカーサーが後押しする)社会党が第一党になり、片山内閣が発足した。

国務省では、マーシャル国務長官のもと、ジョージ・ケナンが初代政策企画部長に任命され、マッカーサーを批判した。ケナンのリアリズムに基づき、国務省は 日本に対する懲罰ではなく、冷戦時代の日本の防衛問題を考え始めていた。ケナンは、マッカーサーによる公職追放と財閥解体を全体主義的だと決め付け、長々 と続く東京裁判にもいらついていた。日本の再軍備を提言すると、GHQはこれまでの基本原則に反するとして、マッカーサーは怒りを露わにした。

第六章 逆コース
1948年2月の片山内閣総辞職の表向きの理由は、農相の平野を追放したことで、社会党左派が反乱を起こしたためと言われていたが、実はマッカーサーから 日本の再軍備を迫られたことで辞めたんだ、と片山は後に語っている。その後マッカーサーは吉田に政権を取らせたくないために、民主党、社会党、国民協同党 連立の芦田内閣をつくらせた。

1948年3月に「マッカーサー書簡」を送り、政府関係労働運動の限定、公務員の争議禁止、国鉄などの再編を求めたが、いわゆる「逆コース」(民主化・非 軍事化に逆行する)は限定的なものにとどまり、マッカーサーは本国からの命令をサボタージュし、芦田・社会党連立政権を左派共産勢力から守ろうとした。と ころがこうした努力もむなしく、政治献金事件で1948年10月に芦田内閣はあっけなく崩壊した。マッカーサーは吉田を阻止するために民自党幹事長の山崎 に内乱を画策したが失敗に終わり、結局、第二次吉田内閣が生まれた。

第七章 吉田いびり
マッカーサーの占領政策には一貫性が見えない。初期占領政策に反対し、天皇に寛大な処置をとる一方、公職追放は極端に推し進めて、ソーシャル・エンジニア リング(社会改造)を行った。逆コースはサボタージュし、早期講和を唱えながらも、財閥パージには熱を入れた。日本の非武装化を唱え、東洋のスイスにな れ、という檄もとばした。ワシントンも、マッカーサーの抵抗と命令違反には怒り心頭だったが、大統領候補に取り上げられるほどのマッカーサーの隠然たる政 治力を、無視することはできなかった。

マッカーサーに徹底的にいびられながらも、1949年1月に行われた総選挙で吉田の民自党は大勝利をおさめ、第三次吉田内閣が成立した。占領軍に対する抗議票が吉田に入り、吉田は「日本国民の自由な意志」を体現した存在となった。

第八章 吉田・マッカーサー・コンパクト
マッカーサーにとって、日本の平和憲法がすべての出発点だった。マッカーサーの占領行政はこの護憲の執念によってのみ理解できる。戦争放棄の憲法は、日本 が独立して、マッカーサーがいなくなれば、それでお終いになるはずだった。日本国憲法を永遠に維持するためには、講和条約の中にこれを盛り込まなければな らない。

片岡氏は、総選挙の後に、吉田とマッカーサーが憲法を守ることで極秘の合意に達した、と推測する。選挙の後、マッカーサーは吉田の安全に配慮し、急速に仲良くなり出した。「吉田・マッカーサー・コンパクト(密約)」があったはずだと。

ポツダム宣言に基づき、非武装化のために、日本はパージ(公職追放)を要求された。GHQは150万人に書類提出命令を出し、90万人を審査し、21万人 を追放した。封建的な社会構造が侵略戦争という政治的意志を生み出したという思想のもと、個人の罪ではなく、階級の罪として、「超国家主義者」「軍国主義 者」のラベルを貼って、既存の統治階級を追放した。軍閥、財閥、官閥が追放の対象とされたが、マッカーサーは官僚の追放を拒絶した。実務的な面と、(天皇 を救うための)「間接統治」という政治的な面があった。結果、職業政治家は追放され、官僚が温存された。ここに、官僚政治家(吉田茂が代表)、職業政治家 (鳩山一郎が代表)、社会党(マッカーサーが育てた)の三極分裂という、日本の戦後政治の大輪郭が出来上がったのだった。

参考図書:『日本永久占領』(片岡哲哉、1999年、講談社プラスアルファ文庫)

(続く)

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