パールハーバーの誤算(1)米も欲した満鉄利権、確執は満州での“すれ違い”から 続き


【歴史事件簿】
パールハーバーの誤算(2) 
職を賭した山本五十六の「奇襲」決断…開戦は宣戦布告30分後 綱渡りの全軍突撃命令

山本五十六

 昭和16年12月、ハワイに向かう空母6隻を中心とする機動部隊に8日の開戦を命じた連合艦隊司令長官の山本五十六(いそろく)大将だ が、宣戦布告から30分後の攻撃という綱渡り的なスケジュールには一抹の不安をもっていた。「ここで手順を間違えば…」。何度も外交手順に念を押したの は、赴任の経験を通してアメリカの力を十分にわきまえていたからにほかならなかった。そんな中、当初の予定の8日未明、広島・柱島沖に停泊中の戦艦「長 門」の作戦室にハワイ攻撃機から全軍突撃命令の電波が届いた。

航空機で真珠湾を
 山本が航空機による真珠湾攻撃を初めて口にしたのは昭和15年3月の合同訓練のとき。航空機隊による対艦魚雷攻撃の見事な成果に上機嫌の山本は「あれでハワイはやれないか」と、連合艦隊参謀長の福留繁少将に話しかけると、福留少将は不思議そうな表情を見せたという。
 日本が描いていた対米戦は日露戦争の日本海海戦のように、真珠湾から出てきた艦隊を度重なる潜水艦と航空機による攻撃で疲弊させた後、日本近海で迎え撃つというものだった。
 だが、留学や海軍武官としてアメリカに赴任した経験を持つ山本は底知れないアメリカの力を見ていただけに、思いも寄らない攻撃でハワイの太平洋艦隊を一気にたたくしか勝機はないとみていた。
そこで目をつけたのが、昭和5年以来開発に携わっていた航空機による攻撃だった。

大西瀧二治郎

 山本は16年1月、第11航空艦隊参謀長の大西瀧治郎(たきじろう)少将に作戦研究を命じる。大西はこの後、特攻隊の創設者として知られることになるが、当時から山本同様、海軍きっての飛行機通だった。

 山本に作戦立案の可能性を聞かれた大西と、大西が声を掛けた第1航空戦隊航空参謀の源田実(げんだみのる)中佐らが問題にしたのは、真珠湾の水深だった。
  通常、魚雷を抱く雷撃機(らいげきき)が高度100メートルから落とした魚雷はいったん水深60メートルまで沈むのだが、真珠湾の水深は12メートルしか ない。このままでは海底に突き刺さってしまうので、航空機が海面スレスレから魚雷を落とすことで差を詰めるしか方法がなかった。
桜島雷撃訓練
 そこで真珠湾と地形がよく似る鹿児島・錦江湾での訓練では、民家の屋根近くまで高度を落として飛んだことから、周辺の住民から「近ごろの海軍さんはたるんどる」といった声が出るほどだった。

アメリカの絶縁状
 当初、「投機的だ」と航空機による対艦攻撃の効果に疑問を持っていた海軍軍令部は山本の作戦に難色を見せていたが、「作戦を認めなければ連合艦隊司令長官を辞める」という山本の固い決意に驚き、渋々ながら認めたのが16年10月19日だった。

 一部にしか知らせず実施した猛訓練の結果、魚雷の深度を10メートルまで引き下げるまでに上達すると、出撃間近に考えた魚雷の両側に付けたベニヤ板のヒレが予想以上に浮上効果を上げ、問題を解決する。

 作戦は重大機密事項だけに、鹿児島で訓練を終えた艦隊は大分県・佐伯湾に集結後、北方四島の択捉(えとろふ)島・単冠(ひとかっぷ)湾に向かうが、ここまでは一部の艦隊首脳部にしか作戦のことは知らせていなかった。

 11月22日、機動部隊の20隻以上にも及ぶ艦船が単冠湾に入港。最後に空母「加賀」が着いた後の23日、搭乗員、乗組員全員に作戦が告げられる。
 一方、日米交渉も最終局面を迎えていた。
 日本軍の中国撤退▽満州国承認▽通商関係の正常化-などが主に話し合われたが、日本が16年7月、フランス領インドシナに進駐したのを機に、イギリスや中国、オランダも経済封鎖に加わる。
 そして11月27日、コーデル・ハル国務長官が突きつけたハル・ノートは、日本軍の中国からの完全撤退のほか、アメリカの支援(日本は敵対)する蒋介石政権の承認や日独伊三国同盟の廃棄を求めるなど、絶縁状ともとれる内容になっていた。

宣戦布告と開戦
 これを受けて、日本は12月1日、天皇が出席のもと米英蘭への開戦を決定すると、宣戦布告の時間をワシントン時間で12月7日午後1時(日本時間8日午前3時)としたうえで、開戦は宣戦布告の30分後と申しあわせた。

 現地時間で6日午前6時半(日本時間6日午後8時半)、東郷茂徳外相は駐米日本大使館にハル・ノートに対する覚書を14部に分けて送ることを伝えた電文を送信。昼過ぎまでに13部を送るが、長大な暗号電文だけに解読だけでも時間がかかった。

 ところが、この日は南米に転勤する一等書記官の送別会が予定されていたため夕方までに8通を翻訳したものの、全員がオフィスをあとにする。そして14部を受け取ったのは翌7日午前7時、攻撃予定時間の6時間前だった。

 宣戦布告にあたる14部は短文だが、文書作成にはタイピストを使わず、キャリア外交官が行うとした政府の指示通りにしたため作業は困難を極め、昨日届いた13部も作成途上だった。
 その4時間半後の日本時間8日午前1時半(ワシントンは午前11時半)、真珠湾北方約460キロに迫った機動部隊は攻撃機183機を、その1時間15分後に171機を発艦させている。
 山本大将はそのとき、広島・柱島沖に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」の作戦室にいた。山本は対米覚書をアメリカ政府に渡す時間について幕僚に再確認後、目を伏せて微動だにしなかったという。
 攻撃機発艦の報告を受けたあとしばらく動きは停滞するが、8日午前3時19分、突然に静けさを破るように作戦室のドアが開くと、「全軍突撃命令であります」と息を切らせた声が室内に響いた。
 ハワイ攻撃隊の指揮をとる淵田美津雄中佐機から発信された電文だった。(園田和洋)
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真珠湾攻撃が初めて映画化されたのは、開戦1周年記念として、昭和17年12月3日に公開された「ハワイ・マレー沖海戦」(東宝配給)。監督は山本嘉次郎(かじろう)。特撮技術は円谷英二(つぶらやえいじ)が担当している。

 映画の前半は予科練の訓練シーンが占め、成長した少年が雷撃機の搭乗員として、真珠湾攻撃に参加するといった内容になっている。

 製作スタッフはミニチュアを製作するにあたり、空母の見学や撮影写真の提供を申し出るも軍部からの協力が得られない。このため新聞の掲載写真を頼りに真珠湾のセットやアメリカ艦船のミニチュアを作る。
 また攻撃機の発艦シーンでは雑誌に掲載された空母を参考に実物大のセットを作り、本物の雷撃機など搭載させるなどで戦後、映画をみたアメリカ軍が本物と見間違い、東宝にフィルム提供を迫ったというほどに完成度は高い。
戦後、円谷がこの映画をカラーでリメークしたのが「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」(東宝、昭和35年公開)。
産経WEST2015.4.17
http://www.sankei.com/west/news/150417/wst1504170005-n1.html

参考
東郷茂徳=朴茂徳 
アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア戦略① 
アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア戦略②
アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア戦略③ 
ソ連のスパイ GHQ幹部ハーバート・ノーマン