2015年7月17日金曜日

「嘘つきで評判の早大教授が東ティモールで日本軍が島民5万人を殺したとやった。船橋は裏も取らずに「日本政府は賠償義務がある」とまでやった。」
移民推進の理由
この部分がちょっと気になっているので
また引用させて頂きますm(_ _)m



p29~32
朝日はどこの国の新聞か

 オランダは国家としても性根が悪い。
 ナチスに敗れて国を失ったウィルヘルミナ女王はロンドンに亡命後も植民地インドネシアの搾取は続けた。色つき人種は人間ではないと彼女は思っていた。
 だから日本が南部仏印に進駐すると、白人の財産である植民地に色つき人種が勝手に上がり込むとは何ごとかと怒って報復に蘭印(インドネシア)にある日本資産の凍結を宣言した。
 その四か月後、日本は英米に宣戦布告する。
 彼女は無視されたことを怒って日本に宣戦布告してきた。兵力は蘭印駐屯の植民地軍と軍艦が少々。
 向こうから戦争をふっかけてきたのだから少しは骨があるのかと日本人は思った。
 スラバヤには要塞がある。日本軍は満州から要塞砲を運んでいい戦争をしようとしたが、彼らは砲が着く前に降参した。
 バンドンの要塞も一週間攻めただけで八万人が手をあげた。ちなみに日本軍はたったの二千人。オランダ人はほんとに臆病者揃いだった。

 彼らは卑怯でもあった。まだ日本軍の影も見えないとき、彼らは日本が定期航空便を飛ばしていた東ティモールに攻撃をしかけた。
 ここは中立国ポルトガル領だから明らかな国際法違反行為になる。ポルトガルの総督が抗議したが、彼らは相手が丸腰なときは滅法強く、抗議を無視して大日本航空職員ら三十一人の日本人を拘束した。
 日本はポルトガル政府の許可を得て大三八師団が法人救出のため上陸した。
 臆病なオランダ人は算を乱して逃げて行った。
 この史実を朝日新聞の主筆船橋洋一は「日本軍が東ティモールに侵攻した」と書く。この人の性格は日本人蔑視という点も含めオランダ人に似ている。

 この島の守備はその後、四八師団が引き継ぐ。
 彼らの見た島民の生活はひどいものだった。
 宗主国ポルトガルは、原住民の反乱を恐れて道らしい道も作らず、まして島民のための病院も学校も何も作らなかった。
 首都ディリにさえ商店はなかった。島民はニッパヤシで葺いた、家具もない粗末な家に住み、階下に豚を飼っていた。中国の便所と同じに餌は人糞だった。
 彼らの財産はその豚と土器と火打石だった。
 島民は日本軍がきて白人を追いたてるのを見て、自分たちを日ごろ残忍に扱ってきたポルトガル人を襲い始めた。
 日本軍は総督らを保護し、その代わり島民を縛ってきた人頭税を廃し、成人に課してきた使役もやめさせた。
 これを後藤乾一早大教授倉沢愛子慶大教授は「日本軍が島民冬眠を虐待死、略奪し、殺した」と書く。
 島民の褌を略奪して何の意味があるのか。こんな人たちに学生を教える資格があるのだろうか。
 戦後、日本軍が去ると島民は再びポルトガルの過酷な支配にひしがれた。
 男には再び使役が課され、女はきれいだと白人の慰みものにされた。それで生まれたのが現大統領のラモス・ホルタや先代のシャナナ・グスマンらだ。
 ポルトガルは彼らに白人の血とともに宗主国の国籍と白人の名と教育と武器を与えた。
 しかし島民にはそのどれも与えなかった。

 二十世紀後半、ポルトガルはこの島を捨てた。特産品があるでなし、維持経費が出なくなったためだ。
 捨てられた島をインドネシアが面倒見た。
 毎年二千万ドル以上の国費がここにつぎ込まれ、西ティモールと同じにインドネシア語が教えられ、病院と学校が建てられ、道路も整備された。豚と一緒の家もまともな住宅に建て替えられていった。
 四百年、ポルトガルが放置した島はやっと人の住む世界に生まれ変わった。
 しかし白人の国籍をもつラモス・ホルタたちは色つき人種インドネシア人の支配を嫌い、オーストラリアと組んで無理やり独立してしまった。
 朝日新聞の矢野英基記者が最近のこの島の表情をコラムに書いていた。
 警官が商店主にたかってみかじめ料を取っている。この悪習は「インドネシア併合時代に根付いた慣行だろう」。こういう「負の遺産」は早く処理しろと。
 併合したからこそ商店ができた。過去も調べず、悪いことは色付き人種のせいにして喜ぶ。
 こういう嘘を書けば大学教授になれると思っているのだろうか。
(2008年10月23日号)


(´・ω・`)調べてみたら東ティモールが色々香ばしい

ジョゼ・ラモス=ホルタ東ティモール
【wiki】ジョゼ・ラモス=ホルタ  
来歴
1949 年、ポルトガル人デポルタード(追放者)の父親と、ティモール人の母親の間に生まれた。ソイバダのコレジオ(キリスト教の高等教育機関)から、ディリのリ セウ(高等教育課程)に進学し、同校卒業後の1970年に20歳でディリの観光情報センターに就職した。しかし同年、ホテル・レゼンデのバーでアメリカ人 観光客と話した際に、「ポルトガルが開発できないのならアメリカ人にやらせたほうがましだ、 もしポルトガル人が開発できないのならギニアビサウのようにやってやる(独立運動をする)」と言っていたことが警察に伝わり、2年間、モザンビークに追放 された。1972年に帰国後、ジャーナリストとして活動を始める。1974年1月14日付けのオーストラリアのノーザンテリトリー・ニューズ紙のインタ ビューで、モザンビーク解放戦線初代党首のエドゥアルド・モンドラーネの言葉を引用して、ポルトガルの植民地政策を批判した。これがポルトガル植民地省を 激怒させ、ホルタはオーストラリア留学という名目で2度目の追放処分を受けた。

 ホルタは4月27日に出国が決まっていたが、4月25日にポルトガルで軍事クーデタ(カーネーション革命)が起きたため中止となった。
 
 1996年、「東ティモールにおける紛争の正当で平和的な解決への尽力」を評価され、カルロス・フィリペ・シメネス・ベロ司教とともにノーベル平和賞を受賞した。

シャナナ・グスマン東ティモール
【wiki】シャナナ・グスマン  
概要
1970年代より東ティモールの独立運動に関わり、インドネシアにより逮捕され服役中であった独立時には東ティモール独立のシンボル的存在であった。独立に先立って行われた大統領選挙では国民の圧倒的な支持を集め、初代大統領に就任した。

経歴
シャ ナナ・グスマンは当時のポルトガル領ティモール、マナトゥト (Manatuto) で、(祖先をポルトガルとティモールに持つ)共に教師であった両親の元に生まれた。 ディリ郊外のイエズス会の高校に学んだが、経済的理由によって 16 歳のときに退学を余儀なくされた。 その後、 様々な職業を経たのち公務員となり、同時に夜間学校で学業を継続した。 ポルトガル陸軍での3年間の兵役を終えた1971年に、ジョゼ・ラモス=ホルタをリーダーとする東ティモールの独立を目指した団体に参加し、その後 3 年の間、植民地支配に対する平和的な抗議活動に関わった。
 1974年、カーネーション革命に よってポルトガル本国の長い独裁体制が終わると、東ティモールでも非植民地化の機運が強まり、ポルトガルは4年後の総選挙の実施と独立とを約束した。 しかし翌1975年にはフレティリン (FRETILIN, 東ティモール独立革命戦線) とティモール民主同盟 (UDT) との間で独立に向けた激しい主導権争いが発生するとともに、混乱に乗じたインドネシア軍によって東ティモールは度重なる侵入を受けることとなった。 グスマンは1974年以降フレティリンの活動に積極的に関わり、一時ティモール民主同盟によって捕らえられるなどしたが、やがてフレティリンが実権を掌握 するとフレティリンの報道担当官に就任した。

グスマンは、1999年に欧州議会より「サハロフ賞」を、2000年にシドニー平和基金より「シドニー平和賞」を受賞した。 さらに2002年には欧州評議会より「南北賞」 (North-South Prize) を受賞した。
2006年には和解と許しをテーマとしたドキュメンタリー映画『ここに陽はのぼる — 東ティモール独立への道』 (A Hero's Journey) に自ら出演し、ナレーションを担当している。

【wiki】東ティモール
通貨 アメリカ合衆国ドル(USD)

経済
南方のティモール海には海底油田があり、 将来の経済発展の核として期待されている。隣国で、東ティモールへの影響力を獲得しようとしているオーストラリアとの境界線確定が課題だが、東ティモール 側はインドネシア政府が結んだ境界線の見直しを求め、交渉は難航している。しかし、確定とは別に両国共同石油開発エリア(JPDA:Joint Petroleum Development Area)を定め(Timor Gap Treaty, Sunrise International Unitization Agreement, Timor Sea Treaty)、収入の90%を東ティモールに、10%をオーストラリアに渡すこ ととなった。2007年からは原油採掘に伴う税収やロイヤルティー収入が計上され(Treaty on Certain Maritime Arrangements in the Timor Sea)、その収入を集約するために東ティモール政府が設立した「石油基金」(2010年末時点で約69億ドル)を利用した国家予算が計上できるように なっている。最初の事業はグレーターサンライズ・ガス田開発である。


( ゚∀゚) アハハハハノヽノヽノ \ / \ / \
カーネーション革命とやらが胡散臭い
東欧カラー革命の時どこが資金出してたんでしたっけ?
 →陰謀論じゃない。ウクライナで起こったこと。
日本を悪者にしとかないと色々都合が悪いのだろう

朝(鮮)日(報)はどこの国の新聞かって?知ってるくせにぃ~ 




p41~44
 新聞に蔓延る教条主義的お馬鹿

 六法全書で「日本国憲法」の項を引いたら扉に米国の独立宣言が載っていた。
 日本はまだ米国占領下にあるという意味なのか。あるいは日本の憲法はマッカーサーが編纂したから、彼への敬意を表したのか。よく分からない。
 ただ独立宣言文とマッカーサー憲法を読み比べると面白い発見がある。
 独立宣言はトーマス・ジェファーソンが起草した。
 ほとんどが宗主国、つまり米国を植民地支配する英国に対する愚痴で、重税を課し、用もない役人を送り込んで高い俸給を負担させる。酷いじゃないか。
 ひとしきりの愚痴を踏まえて、あの「そもそも創造主は人間を平等にお造りになった」というフレーズが出てくる。
 そして「自明のこと」として「人間には生存と自由と幸福tの追求という侵すべからざる権利」がある。
 そのために「人々の同意で政府という機関をもつ」ことになる。ホッブスの言う『リバイアサン』と同じだ。
 政府は国民の側にあってその権利を守る。
 だから政府が国民の利益を放り出し、自国を傷つけ他国のために働くようになったら「それを改めるのは国民の権利だ」とする。

 その扉の次にマッカーサー憲法の前文がくる。
 日本語になってないのは我慢するとして、そこに出てくる「政府」は前のページの独立宣言と違って「国民の権利を守る機関」ではなくて「再び戦争の惨禍をもたらす」存在として描かれている。
 国民の役割も「政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起きないよう」政府を厳重監視せよと続く。
「再び」とマッカーサーが入れたのは「政府」に東京裁判史観の「国民を洗浄に送った戦前の政府」をダブらせるためだろう。
 こうして世界でたった一つ、政府と国民を敵対させる憲法が誕生した。

 白人は他国を支配するとき、その国の中に敵をつくる。インドではヒンズーとイスラムを敵対させた。内部で争っている限り独立運動など起きない。
「宗教対立こそ植民地インド最大の防衛策だ」とチャーチルは語っている。
 単一民族のビルマではわざわざインド人や華僑を入れ多民族多宗教国家に作り直して国内紛争を煽った。
 日本も単一民族だ。ビルマみたいに中国人、朝鮮人を入れることも考えたが、日本人のレベルが高すぎて効果は期待できない。
 それで思いついたのがこの「政府と国民を敵対させる」アイデアだったわけだ。

 幸いというか、日本の新聞界や学界には教条主義的お馬鹿さんが多い。
 彼らをおだてりゃどんなに高い木にも上る。
 朝日新聞の主筆の船橋洋一はその意味で一番の高みに登った一人になるだろうか。
 例えば嘘つきで評判の早大教授が東ティモールで日本軍が島民5万人を殺したとやった。船橋は裏も取らずに「日本政府は賠償義務がある」とまでやった。
 政府を罵るためならいかがわしい国際的振り込め詐欺にだって加担する。
 ジャーナリズム精神とは「暴力装置を持つ権力が国民の権利を守るのか侵すのか、人々の心の奥や財布の中にまで手を突っ込んでこないか。外交防衛政策が日本の平和と安全を損なってないか」。それを監視し報道することだ、と。
 これは新聞の公平性、中立性をかなぐり捨てるという禁じ手まで使って安倍元総理を誹謗中傷し続けたことへの言い訳として書かれたものだが、要は政府はヒンズー教徒にとってのイスラム教徒みたいなものだから、どんな汚い手も許されると言っている。

 先日、船橋が「暴力装置」と名付けた権力の一角から田母神論文が出てきた。
「日本はアジア諸国を侵略し、植民地化して苦痛を与えた」とは村山政権が勝手に言い出した大嘘だ。それで国民はいらざる国際非難を受け、出さなくていい賠償も取られた、と。
「国家が国民の財布に手を突っ込んで」中国にばらまき、「日本の安全」も脅かしているのだとも。
 船橋が危惧した悪い政府のまさに典型だ。それを内部告発するものだった。
 当然共感するのかと思ったら違った。「こんなゆがんだ考えの持ち主が」(社説)と内部告発者を罵る。
 こういうのを教条主義的ご都合主義というのか。

(2008年11月210日号)

参考
憲法前文はパクリ!その目的は日本精神の破壊  
吉松育美さん騒動7 移民・亡国への道 
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