2013年7月24日水曜日

まともな為政者なら最低限こう答える。

併合は正しい(手続きとして)慰安婦は商売(って事で)


東国原知事・外国特派員協会会見(その2の5分15秒~)
http://www.janjan.jp/government/0703/0703141675/1.php
(JANJAN)

記者
「安倍首相の発言についてどう思うか?」

東国原知事

河野談話についてのことになると思いますが

私はそのコメントに対しては県を代表するという立場よりも個人的な見解でよろしいでしょうか?

私は韓国の中の慰安婦が実際存在したかどうかというのは歴史認識としては、 歴史確証は非常に難しいものがあると思います。

これは、戦争はいつでもそうなんですけど勝った側と負けた側の議論が違ってくる。
それは仕様がないことだと思いますね。
それが客観的にあった場合、ない場合という事は両面から検証されなければいけないと思います。

ただ、日本側の議論としては、あそこの時には韓国は日本に併合されていた。
これは、どういう理由でどういう経緯で併合されていたかどうかは別にしてあそこはあの当時日本国であった

日本国の中の娼妓といいますかね。こういう言葉は良くないんでしょうかね。
女性の方が性を仕事とされる。ということは一つのルールであった。
たとえば赤線というのがございました。一つのルールであった枠内だということを 日本側は恐らくそう解釈してるんだと思うんです。

それが正当なルールであった。もっと言うと、その頃にその女性の方は日給にして500円か600円。 その当時兵隊さんが3円とか5円の時代だったと思うんですけど、そのときに数百円の高いお金を貰っていた、 ということもあって商売としては、非常になり手が多かった。というような事を 日本国側からの解釈でやっていると思うんですよね。

私の立場としては、韓国側は「韓国併合は、併合からもう日本は侵略戦争であった」という主張されています。
この侵略戦争であるというのとそうではなかった、非侵略戦争・・・ これは歴史認証が必要だと考えてます。
この歴史認証が、まずなされることが前提としてないとこの議論は発展しないと思います。
つまり、正しい歴史認証が前提となりうる上の議論だと考えております


で私は、日本側の議論を正とするあれば、それが正義だとするのであれば、
例えばですよ、私はあれは(併合)正しかったのではないかと


もしその歴史認識が違うと、日本軍に娼婦として行ったんだと、娼婦として無理やり連行されたんだ というような歴史認識が事実があれば、これは糾弾されるべき問題だと考えています。

きっちりとした答えになってないと思いますけれど歴史認識あるいは実証が検分されない限り このようにはコメントは難しいという立場です。

以上です。


で経済効果のために韓国人観光客誘致などはやめましょう。

でマスコミは何故スルーなんでしょう。
ホットな話題なのに。


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2007-03-09 22:17:50

東京大空襲・・・イデオロギー訴訟

テーマ:歴史観
■今更・・訴訟の裏に怪しい面々



少し前から提訴の動きは注目されていましたが・・・

48

東京大空襲で国を提訴=遺族ら112人、賠償求める
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2007030900886
(時事)


1945年の東京大空襲など都内の米軍空爆の被害者、遺族ら112人が9日、国が被災者の救済や補償をしないのは違法として、国を相手に1人当たり1100万円、計12億3200万円の損害賠償と謝罪を求める訴訟を東京地裁に起こした。
~~
 訴状によると、原告側は旧日本軍による中国・重慶爆撃などの都市無差別爆撃が、米軍に東京を空襲する口実を与え、歴史上に類を見ない非戦闘員に対する虐殺行為を招いたとしている
 国には社会通念上の作為義務があり、特別法を制定して原告らを支援しなければならないのに、何らの援護、補償をせずに放置しており、賠償責任を負うと主張している。


唐突に重慶爆撃が出てくるあたり、この訴訟の性質が良くわかります。
弁護団団長は中山武敏弁護士


中山弁

中山弁護士はその重慶爆撃訴訟運動の弁護団に参加。

重慶大爆撃:対日民間賠償請求訴訟
http://www.anti-bombing.net/

例の民主党・近藤昭一議員や
辻元清美議員が協力しています。

旧日本軍による中国・重慶爆撃などの都市無差別爆撃が、米軍に東京を空襲する口実を与え、
歴史上に類を見ない非戦闘員に対する虐殺行為を招いたとしている


どうりでコジツケに余念がない。


また弁護団事務局長は
黒岩哲彦弁護士
氏は日弁連子どもの権利委員会委員長
(この子どもの権利委員会も問題)


教育基本法改悪反対!
一二・二三全国集会に賛同をお願いします
http://www.jlaf.jp/tsushin/2003/1111.html#1111-17
黒岩哲彦

というより「自由法曹団」の人なんで明確ですが。

ところで中山弁護団長は
狭山事件で社民党・福島瑞穂議員とともに弁護団を率いています。

狭山事件に関し、私は四の五の言う気はありませんが
部落解放同盟が入り込んで
狭山「差別」事件と変えてしまったことから
狭山訴訟は「運動訴訟」となってしまいました。

その狭山訴訟も元々は共産党が弁護・支援母体であったのですが
解放同盟の介入により運動訴訟となったもんで
共産党は狭山訴訟から離脱します。

しかし看過できないのは弁護団がこのようなことを述べていることです。

http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20070309&j=0022&k=200703091303
(北海道)


また国による補償は軍人・軍属とその遺族に手厚い一方、民間人の犠牲者にはほとんどないため「不平等で違憲」とも主張している。


軍務保障と一般人補償は比べるものではありません。

そもそも原告団の主張する
「国は米国に対し責任追及せよ」
は平和条約を無視せよと述べているのと同義となります。

ではこの東京大空襲訴訟に蠢く面々はなぜこんな60年以上経ってから?

それは原告団を説得するのに時間がかかったからです。
一部のプロ市民原告は別として、原告団の規模をある程度大きくし、
政治的インパクトを与えるためには、どうしても原告人数が必要です。

しかし、今頃になって国家責任を追及することに同意する被害者が
そんなにいるでしょうか?

この訴訟は政治活動です。
そしてその扇動者たちが無垢の戦災被害者を巻き込んだのです。

この構図は中山弁護団長の推進する「重慶訴訟」と同じです。

重慶も南京と同じく、日本人が側面から扇動しています。

そして殊更に事件を拡大し、外交問題化しようと画策し、
我が国を貶めようとします。

重慶爆撃と呼ばれていたものが
いつの間にか重慶”大”爆撃と変わったのも
日本側弁護団の扇動によるものです。

人民日報


呼称は重慶爆撃
http://people.ne.jp/2000/07/13/newfiles/a1120.html
それが


市民1万1889人が死亡(日本側報告)
http://people.ne.jp/2001/06/06/jp20010606_6193.html
そして


「重慶爆撃」の被害者は5万人以上
http://j.people.com.cn/2004/07/14/jp20040714_41277.html

数が膨らむとともに
呼称が変わります。

これは日本のプロ活動家の扇動によるものです。
所謂南京大虐殺と同じ流れです。


まさに
扇動です。





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2007-01-13 20:14:25

朝鮮人による我が国の被害

テーマ:歴史観
http://ameblo.jp/disclo/entry-10023286325.html
の続きです。

どうもameblo編集が固まって修正できません。
というわけであらためて。

戦中戦後の犯罪被害で見れば、朝鮮人と日本人の関係でいうと
明らかに日本人の方が被害者なんだが・・・


第2次大戦後を扱った日本の小説、米の推せん図書採択に韓人が反発
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=83559&servcode=400&sectcode=400
(中央日報)



事実ではないといって反発しているのではなく
誤った歴史認識を持つ」といいたいらしい。
当時何があったのか・・・





正論 平成17年 11月号


引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐
~~
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。

 北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。   

       ~~

「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対するソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。

 夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。

 みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。

 部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
 靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。城津での惨状は言語に絶した。

~~

朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、あげくは婦人の“提供”を要求されたという」
     
博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた。

昭和21年の春、堕胎のための専門病院設立のきっかけになる出来事があった。医療救護に従事していた医師・田中正四は、港で引揚船から降りてきた教え子と再会した。

        ~~

京城女子師範を卒業して朝鮮北部の田舎の学校に赴任していた彼女は、進駐してきたソ連兵に暴行されたのだ。しかも一度では済まず、相手も変わった。兵隊同士が情報交換をしていて、部隊の移動のたびに新しい兵隊に襲われたのである。

救療部の関係者は悩んだあげく堕胎手術に踏み切った

医療設備や技術の不備、そして何よりも、当時は堕胎を禁ずる法律があったからである。しかし手術は失敗し、娘は命を落としたのである。

「二日市保養所」の産婦人科部長だった橋爪医師の証言が、「水子の譜」に収録されている。同医師が昭和21年6月10日付で救療部に提出した報告書によれば、強姦の加害者は朝鮮人が最も多く、次いでソ連人、中国人、アメリカ人、そして台湾人、フィリピン人も登場する。
        ~~
中絶された胎児は、黄色人種もあれば、白人の子もいた。 
    

この「水子の譜」は上坪隆氏の著書。

水子の譜

http://www.ebookjapan.jp/shop/book.asp?sku=60009096&genreid=14025

この引揚日本女性の悲劇の項を含めてドキュメンタリーの名著であるのに
近年五月蝿い「ジェンダー」とか「男女平等」とか
つまり人権屋さんとかがこの本を「人権本」と一緒に扱っていたりします。
その辺は口惜しいところ。

http://www.nwjc.ac.jp/~yamashiro/yamashiro/txt/book/bunken3.htm


「二日市保養所」については

引き揚げ女性の堕胎証言 元助産師ら、二日市保養所跡で水子供養
福岡・毎日新聞【福岡賢正】
2004-05-19



2004年5月15日 — 戦後、大陸から引き揚げ途中にソ連兵などに 暴行され妊娠した女性の堕胎をした筑紫野市武蔵の二日市保養所跡で14日、水子供養が行われた。堕胎に携わった元助産師らも参列し「処置した水子のことを 忘れたことは1日もなかった」と、重い口で語った。終戦から来年で60年。戦争の記憶が人々の脳裏から消え、まるで新たな戦前が始まったかのような昨今、 「忘れてはならないものがある」と訴えかけるように。

二日市保養所は1946年3月に開設され、引き揚げ途中で暴行された女性の中絶や性病治療を1年半、続けた。堕胎は当時非合法だったため、カルテには患者の名前も記さないなど、極秘裏に行われた。中絶者は400~500人に上ったと言われる。

証言したのは、大分県杵築市の青坂寿子さん(79)と、筑紫野市紫の村石正子さん(78)。いずれも朝鮮から引き揚げ後、保養所に勤務し、青坂さんは助産師として、村石さんは看護師として医師の処置を手伝った。2人の医師は既に鬼籍に入ったという。


これも毎日らしい抜き出しなんですが
ソ連兵などに暴行」としています。
もちろん当時のソ連兵の蛮行は酷かったことは言うまでもありません。

しかし二日市保養所における加害者調査では5割以上は朝鮮人です。

二日市保養所報告書 六月十日p183 "地域別と加害者"
(一部期間)

不法妊娠(強姦等による妊娠 救療部の用語)ヲ地区別ニ分類スルニ北朝2ニシテ最多、 南鮮14、満州4、北支3ノ順序ニシテ

鮮人ニ因ルモノ28、ソ連人ニ因ルモノハ8、支那人ニ因ルモノ6人、
米人ニ因ルモノ3、台湾人、比島人ニ因ルモノ各1ナリ

このあたり報道の意図的なものを感じます。


日本軍の評判を貶めた朝鮮人兵たち



「日本軍は香港で何をしたか」
謝永光 訳 森幹夫 社会評論社 平成5年
~~
最初の数日間は平穏無事で、日本軍の姿は全く無かった。
ところがある日、突然五、六人の動物のような兵隊が現れ、麻雀をしていた四
人の女優を強姦した。前述の女優は日本軍の馬を管理する男達に暴行されたが、この男達は朝鮮人であった
~~
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりも凶暴だった。

この時、民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、殆ど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時、香港住民は日本軍よりも朝鮮人を激しく憎んだ

月刊誌「DATUMS」平成7年
キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景 色平 哲郎 内科医
山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。
韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリ
アンと知らないフィリピン人の彼が言った「日本の占領下で最も残虐だったの
はコリアンだった
。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信
じている。」一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアン
ガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その日も各地でこの噂のような言
説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない

「古野直也著 朝鮮軍司令部 国書刊行会」
~~
昭和十七年の夏、マレー半島とシンガポールからイギリス人捕虜、将校以下千人が到着し、京城及び仁川に収容所を設置する。日本はジェネーブ条約の捕虜に関する事項については調印していないが、条約の精神は尊重する旨公表していた。

下士官兵は仁川で港の貨物荷上げ労働につき、将校は京城で労働はさせ
ない方針であった。マレー方面の将官級は台湾南部に収容されていた。
朝鮮人が李朝末期以後、神に近い特権を持った白人を見た歴史をもっていたがここに来て、心理的にも白人崇拝の観念は消えたらしい。消えたのはいいのだが、 困ったことも起きて戦後まで尾を引いている。東南アジアから朝鮮まで捕虜収容所の警備員として朝鮮人3500人が従事していた。弱者に残虐性を発揮する民族性ゆえか、軽蔑ついでに相当な白人苛めを隠れてやっていたらしい

敗戦後、個人的怨みで戦犯に問われ、死刑その他重刑を受けた例が少なくない。白人こそ報復と復讐の大家だったのだから。

*日本軍は出身地域ごとに連隊を組む。後から志願者で編成されたコリアは、所属すべき連隊がなく、主に、憲兵を務めた。
アジア各地では、今もなお日本軍の憲兵の残酷さが語り継がれている

~~

昔から日本人は語学が拙ない。地理・世情に不案内で朝鮮語がわからないから、どうしても朝鮮人の警官や憲兵補助員に頼ることになる。ところがこれらの連中に不良が多く、住民を脅して私腹を肥すやら、女に手を出すやらの悪徳ぶりで、日本側はその取締りに忙しかったという。
~~
日中戦争中でも中国語が堪能な日本軍人はいないから、中隊単位で朝鮮人の通訳を雇う事になるのだが、この通訳は中国人を生かすも殺すも自由自在に裁量できるから蓄財に励む悪者が多く、日本軍が中国民衆に怨まれる大きな原因となった

通訳の中には、日本人の名前の標札を持ち歩いて中国人の門に打ち付けて豪邸を占拠する者がいたし、スパイだといって逮捕し、釈放するといって身代金を取ったりして連隊の中の高額所得者は朝鮮人通訳だった例が多い。

中には雇いもしないのに軍隊の後方をのこのことついて歩く偽通訳もいた。便
利だからと使用してみると、いつの間にか日本軍の制服を貰って住み着いてし
まうのだった。

日本名を騙り蛮行を働く朝鮮人たち


「終戦60 年秘話」
後の「韓国大使」もいた沖縄「7人の脱走日本兵」
日高恒太朗 週刊新潮



そんな激戦のさ中、小船で密かに離島へ逃げ、島の女を愛人にして遊芸に興じていた「脱走兵」グループがいた

その隊長は、後に韓国の大使にまで出世したエリート将校であった。

~~

沖縄戦の早い時期に米軍の手に落ちた伊江島、そして6 月3 日に砲艦射撃を受け米軍が上陸した伊平屋島。両島に挟まれた伊是名島は、沖縄本島や各離島で起きた「玉砕」「集団自決」などの悲劇を免れた「イクサのなかった島」といわれていた。

その伊是名島にサバニを漕いで渡ってきた逃亡兵らが、この島にタブーを作っ
たという見方がある。

彼らは島民にスパイ容疑をかけ、虐殺をしていたというのだ。

この事実は、昭和49 年に発刊された『沖縄県史』(沖縄戦史録2)の調査団に
よって明るみに出た。

~~

北隣の伊平屋島が指呼の間に見える内花集落は、博労をしていた喜納政昭(42)=当時=殺害の場と言い伝えられている。彼はサバニを自在に操って島々を渡り歩いていたことからスパイの嫌疑をかけられたのだ。

犠牲者の弟である喜納政和(72)は眉毛を逆立てて、丸い目を剥いて言う。

「あんたネ、来るのが60年遅いサ。あの連中は脱走兵の癖に、しかも戦争が
終わっているのに兄を殺し、奄美から来た子供を殺し、アメリカ兵も2人か3
人殺している。60年間のうのうと軍人恩給を貰って、今はもう死んでしまっ
たかという時期だろうが、こんなロクでもない兵隊に国はオレたちの税金をず
っと払い続けてきたんだ。今更、何を喋っても仕方ないだろ」

~~

処刑の日、内花海岸には地元防衛隊、要人たちが集まっていた。喜納政昭はこの浜で、待ち受けていた逃亡兵の隊長である平山大尉に射殺されたのだという。脱走兵たちは島人になりすます為、偽名を使っていた。

~~

先の喜納政和は、「あいつらは虐殺しただけじゃない」と怨念を込めて言う。
事実、逃亡兵の中には、既婚者でありながら祝言を挙げたり、17歳の娘に子供を孕ませたまま、島から逃げた者もいたのである。

~~

平山隊の元戦砲隊第一分隊長(82)の意見は手厳しい。
平山さんは優しい人物ではありましたが、戦後になって、沖縄の小島に逃げ
て女を捨てたという話などを聞き、軍人としては最低だと思った。昭和20 年4
月20 日、平山隊の副長格だった2人の将校が八重岳で自決しています。一人は予備士官の中尉で、この人は負傷して動けなくなった。“足手まといになりたくないから自決させてくれ”と言って我々の目の前で自決されました。平山さんは私たち124 名の部隊の長だった人です。部下の自決を見ていた隊長が、米兵のいない島に逃げていたとは……卑怯だとしか言いようがない
昭和20年4月、米軍は遂に沖縄本島に上陸した。
約3 ヵ月後、守備部隊である陸軍第32 軍は壊滅状態となり、司令官の牛島満中将は自決、20 万人余りとされる犠牲者を出した。

この7人の逃亡者は共通点がありますが、さて・・・・

平山勝敏大尉
本名 申応均
沖縄戦に第24師団砲兵大隊長として参戦。
戦後、韓国軍に入隊、韓国軍砲兵育ての親と言われる。
退役後、駐トルコ、西ドイツ両大使、国防科学研究所長歴任。

----------
しかしながら当時日本人として散華された幾多の朝鮮人兵の御霊が
斯様な一部の人間の行為によってなんら貶められるものではありません。

国際派日本人養成講座より


韓民族が戦争中に見せた、日本と一体となって戦い抜く姿勢である。その筆頭は日本の陸軍士官学校を出て、めざましい働きをした軍人たちである。

まず陸軍中将まで栄進した洪思翊
日本人部隊を率いて抜群の勲功を立て、軍人として最高の名誉の金鵄勲章を授与された金錫源・陸軍大佐。
戦後、大統領となった朴正熙は、陸軍士官学校を出て、終戦時は満州国軍中尉だった。

こうした人々の活躍に刺激されて、昭和18年には6千3百人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑させた。大東亜戦争に軍人・軍属として出征した朝鮮青年は合計24万人にのぼり、そのうち2万1千余人が戦死して靖国神社に祀られている

一命を捧げた人々の中には朝鮮出身者でありながら特攻戦死した金尚弼ら1
4人、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独立軍に身を投じた梁七星、報復
裁判で戦争犯罪人として処刑された軍人、軍属147名などがいる。これらの
人々はまさに日本の軍人と同じ悲劇を共に歩んだのである。

悲しむべきは今の半島国家の反日喧伝です。
いつの間に彼らは「被害者」に、そして「戦勝国」になったのでしょう。




フットサル初心者の為のKELフットサル蘇我大会/スクール/個人参加www.futsalcafe.net/
2007-01-11 23:27:10

でも事実だからねぇ

テーマ:歴史観
勘違いしているひと、忘れている人が多いのですが


戦中戦後の犯罪被害で見れば、朝鮮人と日本人の関係でいうと
明らかに日本人の方が被害者なんだが・・・


第2次大戦後を扱った日本の小説、米の推せん図書採択に韓人が反発
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=83559&servcode=400&sectcode=400
(中央日報)



ある日本人が書いた小説で米国内韓人の保護者らが声を上げている。

問題の小説は20年前、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ氏が書いた『竹の森遠く(So far from the Bamboo Grove)』。

日帝敗亡直後、韓国内の日本人たちの受難を書いた本だ。
第2次大戦以前当時、韓国に住んでいた著者は、日本が戦争で負けて本国に帰るとき、自分が見たり経験したりした悲劇を土台に小説を書いたという。当 時11歳だった彼女は韓国人たちによって日本人たちが無惨に殺害、レイプされる場面を目撃したと、小説にはこうした内容が書かれている。

問題はこの小説が数年前から米国の中学校の推せん図書60冊に入っているという点だ。この事実を知ったボストンやニューヨークなどに住む韓人の保護者らが教育当局に強く抗議を始めた。子供たちがこの本しか読まなかった場合、残酷な日本の植民地統治は全く知らず、韓国人に迫害された日本人たちの話だけを知ることになるという論理だ。

誤った歴史認識を持ってしまう可能性のあるこの小説を、学校から退出させようという運動は昨年も起こった。ニューヨーク州にあるライカントリーデイスクールの場合は非常に成功的だった。昨年、この学校の6年生の韓人女子児童が問題の小説が英語の推せん図書に含まれた事実を知り、自ら授業をボイコットした。

娘の授業の拒否理由を知った親は学校側に説明し、一理あると判断した学校側はこの本を推せん図書から除外した。 ボストンでは韓人保護者たちの抗議が続くと地域教育委まで出た。マサチューセッツ州ドーバー・シェルボーン地域教育委員会は論議の末、2日、この本を推せん図書に含むかについて投票を実施した。

投票の結果、推せん図書から外そうということになった

しかしこうした結果について英語教師らは「戦争の惨酷さをよく表した作品」として反発した。ここに他の人種の保護者たちが加勢し、投票はなかったことになってしまった。

韓人たちが多く暮らすカリフォルニア州でもサンフランシスコ韓国教育院を中心に最近ボイコット運動が始まっている。教育院は現在、北部カリフォルニア州の学校を対象に実態の調査も並行して行っているということだ。

ニューヨーク=ナム・ジョンホ特派員


この話題は元々元旦に聯合ニュースが取り上げています。

美学校, 韓国歪曲本教材使用可否論難
http://www.yonhapnews.co.kr/international/2007/01/01/0601080100AKR20070101001100071.HTML


(ワシントン=聨合)
米国国内の中学校で推奨図書として使われている日本人作家の 小説が韓国を歪曲したという批判を受けて、教材使用の可否に対する表決が実施される予 定だ、とボストングローブ誌が31日報道した。

問題の本は日本人ヨウコ・カワシマ・ワトキンズ(Yoko Kawashima Watkins)さんが書い た「竹木をはるか離れて(So Far from the Bamboo Grove)」と言う自伝的小説で第二次大 戦以前、当時の韓国に住んでいた著者が家族と一緒に日本へ逃げるところから始まり、貧 乏の中で悲劇的に生きて行く内容を記している。

当時11歳だったワトキンズさんは満州で官吏をしていたお父さんのため、敗戦とともに韓 国人らに追い回されて日本へ逃げ、韓国を抜けだす過程で強姦と人々が死んで行くのを目撃したと書いている。 この本は戦争の残酷性を描いたという点が高く評価されて合計60冊に達する米国国内5~ 8年生の学生たちの推奨図書に含まれたが、韓国関連部分を歪曲したという学父兄たちの 抗議が相次いで教材としての適合性可否が俎上に上がったと新聞は指摘した。

マサチューセッツ州のドーバー・シェルボーン地域文教委員会(The Dover-SherbornRegional School Committee)は、6年生の学生たちの教材として使われているこの本をず っと使うか否かに対する表決を来る2日実施する予定だ、と同紙は伝えた

同委員会は教師 と官吏などから構成されたあるパネルから、この本を教材目録から除いてほしいという申 し入れを去年11月に受けて以後、これに対する議論を続けて来た。 教師らの申し入れを支持するペリー・デービス(Perry Davis)校長はこの本と関連して受 けとった50余通の抗議メールを文教委員会に提出すると明らかにした。

相当数の学父兄た ちは、この本が日本の残酷な植民統治に対しては言及しないまま、韓国人らを悪い人々と 描いていると批判しており、30余年間の日帝植民統治期間に数多くの韓国人らが死んだり 怪我をして、強制労働にあったと同紙は指摘した。しかし、一部の学父兄と学生たちはこ の本が全般的に戦争の残酷性をよく描いた良い教材と主張している、と同紙は付け加えた。

そのボストングローブといえば定期的に意味不明な反日キャンペーンを展開することで有名ですが
(しかしキャンペーン以外では何故か親日記事も多い)その該当記事は


School board to vote on Korea book
http://www.boston.com/news/local/articles/2006/12/31/school_board_to_vote_on_korea_book/

一部抜粋


The "fictionalized autobiography脚色されている自叙伝)" was written by Yoko Kawashima Watkins, whose family lived in Korea during the war while her father, a Japanese government official, worked(日本政府の役人) in Manchuria.

After the war, Japanese citizens were forced out of Korea, which they had occupied for more than three decades. Many thousands of Koreans had been killed or wounded or drafted into forced labor during the occupation.
何千人もの韓国人が、強制労働で殺傷され、または徴兵されていた。


適当訳ですがfictionalizedってのはやっぱり脚色ですよね?
で父親が満州の日本政府役人で・・・その前に何千人も韓国人が強制労働で殺傷されて?
(どこにそんな記録があるのでしょう)

こんなキャプション入ってまともな記事になると思っているのでしょうか?

その前に・・・

引揚時の邦人に対する蛮行は南北朝鮮人そしてソ連軍によって行われています。
「韓国人」ではなく「朝鮮人」と「ソ連人」です。

国・朝鮮と日本人 若槻泰雄氏 89年 原書房
より引用


惨憺たる北鮮引揚げ日本の連合国への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。

南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが、北鮮では約31~2万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた 27~8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいま まにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的に ら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。

「各地の凄惨な記録は読むにたえない」と、『朝鮮終戦の記録』の著者森田芳夫氏は書いている。それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれたことであり、 また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任はまぬかれない。

たとえば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を調査するため派遣された咸鏡南道人民委員会検察部、李相北情報課長自身、次のように報告している。

…かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、寝具等を剥奪され、零細なる金銭と着衣のみにて咸興市内に殺到したるも…

われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐待という、ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたことを告白せざるを得ない。

… 駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣を擬して、即時咸興市外脱出を強要し、市外に追放した。その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、極度の困憊(こんぱい)と栄養不良を激成し、… 富坪避難民の宿舎は実にのろわれたる存在である。

それは実に煤煙と、あまりの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり。襲いくる寒波を防ぐため戸窓はたらず、かますで封鎖され、白昼でも凄惨 の気に満ちた暗黒の病窟なり、それは避難民を救護する宿舎ではなく、のろいを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、老幼と男女を問わず、蒼白な 顔、幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり、足はきかず、立つときは全身を支えることもできず、ぶるぶるふるい、子供たちは伏して泣す。無数の病める 半死体はうめきながらかますのなかに仰臥しており、暗黒の中にむせびつつ、

……そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…
(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)

一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。こうして在留日 本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持 品を奪われ、歩哨の銃弾にたおれ、そして時には泣き叫ぶ子供の口をふさいで死にいたらしめるまでして、人々は南にたどりついたのである。38度線は朝鮮民 族にとっては何十万の血の流れた同胞争闘の境界線となったが、20万を超える日本人にとってもまた、血と恨みにいろどられた『天国と地獄の境』となったの である。

ようはソ連当局の威を借りて好き勝手やったわけですが
南鮮も同じ。
米軍当局も朝鮮人の狼藉を見てみぬフリ。

>南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが

とさらりと書かれていますが南鮮もまたしかり。

これは

われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐待という、
ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたことを告白せざるを得ない。

という「恨」がどうのこうのの次元ではありません。

『親日派のための弁明』の未翻訳部分・・・・
http://ameblo.jp/disclo/entry-10020482754.html



私は生粋の韓国人だ。 でも,韓国人というものがあまりにも情けなく,えいっと殺してしまいたいときがある。 なぜ日本の蛮行は暴くのに,自分たちの汚い利己心と低劣な鍋根性には目をつぶるのか?

  日帝時代,朝鮮に移り住んだ日本人の中には,明らかに立派な人々も多かった。 ところが, 和夫一家殺害事件の ように,韓国人は自分たちの間違いを, 日本がやったから俺たちもやったんだというふうに弁明し,事件を矮小化,隠蔽しようと躍起になっている。 和夫の亡骸は,釜山に大切に移葬され,毎年,日本人の墓参りが絶えない。 以下は,和夫夫婦が死んだ日,ふだん彼から深い恩を受けていた金ソンス君が見聞きしたことを 記録した証言だ。 事件当時,金ソンス君も加害者だったが,殺害行為には同調しなかったそうだ。

 和夫氏は,日帝時代によく見られた,慶尚道地方の日本人地主だった。地主とはいうものの, 和夫の家族は日本政府の朝鮮移住政策にしたがって, 乗り気ではなかった朝鮮生活を始めたものだ。 公務員だった和夫は,政府の命令にしたがって仕方なく朝鮮へ赴任したのだ。 そのころの日本は,一種の軍事独裁体制で,政府の命令に従わなければすぐに 売国奴として排斥されそうな雰囲気があったという。

当時,朝鮮にいた日本人地主のなかには, 朝鮮人の小作人たちから,法の規定以上の小作料を取り立てる, 怪しからぬ人々もいたが, ふだんから人情味の厚かった和夫は, 小作料を収穫全体の十分の一とし, 村人たちを家族のようにみなして喜びも悲しみもともにした。 自分たちの生活が困らなかったので,総督府の法令にしたがって, やむをえず受け取らなければならない最小限の小作料だけをとったのだった。

貧しい小作人が食料がないと泣きつけば,喜んで食べるものを分けてやったし, 村で誰かの葬礼があれば,家族総出で駆けつけ,食事の支度はもちろん,自ら慟哭して, 悲しみを分かちあうこともあった。 このように,和夫は人間への温かい愛情をもった,真の人間だった

 また,和夫は近くに行き場のない孤児がいると,連れ帰って面倒を見ていたが, その数は,一人,二人と増え,四,五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。 けれども,和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し, 自ら喜んで彼らの父,母を称した。和夫の家族は,ふだん,このように朝鮮人を愛し, 日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。

しかし,彼らは,日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日, 自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより,凄惨に殺害されたのだ。 その日,まさに万歳の声とともに,太極旗が波のように風になびきつつ,朝鮮人の世がやって来た。 育て,東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に,彼の家で教育を受け,育ち,成人した青神は, 自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと,和夫君に嫉妬したのか?  彼がわが子のように年たちが,斧と鍬,スコップを手に,和夫のもとに押しかけた。 そのとき現場にいた金ソンス君は,次のように証言している。 和夫:(穏やかな目で)なんでこんなことを,子どもたちよ。 A:チョッパリ! 日本へ失せろ,失せちまえ

和夫:(怒ったような声で)私が,お前たちにどんな間違いをしたというんだ。 お前たち,みなが私の息子だ。私はこの家の家長であり,お前たちの親だ。 お前たちの祖国が解放されたことは,私もふだんから待ち望んできたことだ。 踊りでも踊りたい気分の日に,なんだって凶器をもって私の所に詰めかけたりするんだ。 私は決してお前たちをそんなふうに教育したおぼえはない。 (涙を流しながら)ほんとうに悲しいことだ。朝鮮の息子たちよ。

私が愛を傾け,育ててきた結果は,つまるところ日本人と朝鮮人は融和できないということなのか。 お前たちが望むなら,帰ってやるわ。 A:意味深長な目配せをBに送る(財産をすっかり処分して帰ったら, おれたちはどうやって食っていくんだ?) B:死ね,チョッパリ,シッパルノマ。  間髪入れず鍬が,和夫の後頭部に振り下ろされたのと同時に,数多くのスコップと斧が 彼の体をずたずたに引き裂きはじめた。 このとき,和夫の妻が我慢できずに飛び出してきた。 それまで黙っていたCは,和夫の妻を見て,彼女の長い髪をつかみ, 庭の奥まったところに引きずっていった。 そしてなんと13人がかりで, ほんの一週間前までお母さんとして恭しく仕えていた彼女を,強姦しはじめた。 (金ソンス君は,この期に及んで自分が止めに入ったら,自分も殺されただろうと言った)。

強姦に耐えられなかった彼女は,行為の途中で死亡し, Dは,ふだんお母さんと呼んでいた彼 女の全身を滅多刺しにするだけでは足りず, 内臓をひきずり出して,まき散らした。  和夫には,一人の幼い娘がいた。ふだん模範的でいい子だったヒミコさんは, 放課後,家に帰ってきて,両親の身に起こった惨状を見,気が触れてしまった。 ヒミコが何日間も慟哭する声に,近隣住民たちは眠れなかったそうだ。 その後,孤児になったヒミコは,食べ物を乞おうと,その付近をさまよったが, 朝鮮人は誰一人彼女に目もくれず,知らないふりをした。

結局,彼女は9日後,村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。 当時,ヒミコは小学校6年生の幼子だった。 和夫の財産は,勇猛で愛国心に燃えたつ朝鮮の青年たちの手にそっくり渡り, この事件は村人たちの沈黙の中,しだいに忘れられて行った。


ようは・・・・
理由はなんだっていいのでしょう。

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amebloではtableタグが禁止タグだと思っていましたが・・違った・・
「見難い」とご指摘いただいた皆さん、すいませんでした。
こんどから引用は見やすくします^^
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2006-11-24 22:39:55

『親日派のための弁明』の未翻訳部分・・・・

テーマ:歴史観
中身のことは知らないし実は「親日派のための弁明」は手元にありますが読んでいない。
カテゴリーとすると失礼だが
呉善花さんとか台湾の黄文雄さんとか読んだり、お会いしてお話を聞いたり。
しかし恐ろしいのはこの手の話が尽きないことです。
思うに自分自身が憎悪に駆られ冷静にわが国を見ることが出来なくなりそうな
そんな情報にどっぷりと浸かるのも怖い。(人のフリ見てわがフリ直せが)

私は韓国も台湾も仕事の関係で頻繁に行き来していました。
どちらも技術供与・・テイクからの付き合いでした。が同じ条件でやはり結果が違う。
仕事面以外でも積み重ねた物の結果が違ってくる。
というより文化云々の前に倫理観がある部分では決定的に違っていたりする。

下記は何かのコピペかもしれませんが読んで感じたのは
自虐史観振り撒くわが国のサヨクというのも一つの国家の良心なのではと。
もちろん自虐史観のほとんどはWGIPに見られる占領政策や国家敵対勢力の喧伝手法
であって、恐ろしいほどに屈折したフィクションに彩られているわけですが
根底に反日プログラム以外の自省という感覚が民族になければ蔓延することは
なかったと思います。
反国家的史観というものが、虚実関係なしに蔓延する国というのは非常に珍しい。

下記の未翻訳部分が実話なのかどうかは知りませんが
事実として許容できるほどにわが国の倫理観と、かの国の「恨」と倫理観のバランスというものは
かなり乖離している部分もあると感じます。もちろんアノミーって事で民族性が出るという
単純なものではないとは思います。


弁明

2chの転載。

金完燮『親日派のための弁明』未翻訳部分

私は生粋の韓国人だ。
でも,韓国人というものがあまりにも情けなく,えいっと殺してしまいたいときがある。
なぜ日本の蛮行は暴くのに,自分たちの汚い利己心と低劣な鍋根性には目をつぶるのか? 
日帝時代,朝鮮に移り住んだ日本人の中には,明らかに立派な人々も多かった。

ところが, 和夫一家殺害事件のように,韓国人は自分たちの間違いを,
日本がやったから俺たちもやったんだというふうに弁明し,事件を矮小化,隠蔽しようと躍起になっている。

和夫の亡骸は,釜山に大切に移葬され,毎年,日本人の墓参りが絶えない。
以下は,和夫夫婦が死んだ日,ふだん彼から深い恩を受けていた金ソンス君が見聞きしたことを記録した証言だ。

事件当時,金ソンス君も加害者だったが,殺害行為には同調しなかったそうだ。
 和夫氏は,日帝時代によく見られた,慶尚道地方の日本人地主だった。地主とはいうものの, 和夫の家族は日本政府の朝鮮移住政策にしたがって, 乗り気ではなかった朝鮮生活を始めたものだ。

公務員だった和夫は,政府の命令にしたがって仕方なく朝鮮へ赴任したのだ。
そのころの日本は,一種の軍事独裁体制で,政府の命令に従わなければすぐに売国奴として排斥されそうな雰囲気があったという。 当時,朝鮮にいた日本人地主のなかには,朝鮮人の小作人たちから,法の規定以上の小作料を取り立てる, 怪しからぬ人々もいたが,ふだんから人情味の厚かった和夫は, 小作料を収穫全体の十分の一とし,村人たちを家族のようにみなして喜びも悲しみもともにした。

自分たちの生活が困らなかったので,総督府の法令にしたがって, やむをえず受け取らなければならない最小限の小作料だけをとったのだった。 貧しい小作人が食料がないと泣きつけば,喜んで食べるものを分けてやったし, 村で誰かの葬礼があれば,家族総出で駆けつけ,食事の支度はもちろん,自ら慟哭して,悲しみを分かちあうこともあった。
このように,和夫は人間への温かい愛情をもった,真の人間だった。

 また,和夫は近くに行き場のない孤児がいると,連れ帰って面倒を見ていたが, その数は,一人,二人と増え,四,五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。
けれども,和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し, 自ら喜んで彼らの父,母を称した。和夫の家族は,ふだん,このように朝鮮人を愛し, 日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。

しかし,彼らは,日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日,
自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより,凄惨に殺害されたのだ。
その日,まさに万歳の声とともに,太極旗が波のように風になびきつつ,朝鮮人の世がやって来た。
育て,東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に,彼の家で教育を受け,育ち,成人した青神は, 自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと,和夫君に嫉妬したのか? 

彼がわが子のように年たちが,斧と鍬,スコップを手に,和夫のもとに押しかけた。
そのとき現場にいた金ソンス君は,次のように証言している。

和夫:(穏やかな目で)なんでこんなことを,子どもたちよ。

A:チョッパリ! 日本へ失せろ,失せちまえ。

和夫:(怒ったような声で)私が,お前たちにどんな間違いをしたというんだ。
お前たち,みなが私の息子だ。私はこの家の家長であり,お前たちの親だ。
お前たちの祖国が解放されたことは,私もふだんから待ち望んできたことだ。
踊りでも踊りたい気分の日に,なんだって凶器をもって私の所に詰めかけたりするんだ。
私は決してお前たちをそんなふうに教育したおぼえはない。
(涙を流しながら)ほんとうに悲しいことだ。朝鮮の息子たちよ。
私が愛を傾け,育ててきた結果は,つまるところ日本人と朝鮮人は融和できないということなのか。
お前たちが望むなら,帰ってやるわ。


A:意味深長な目配せをBに送る(財産をすっかり処分して帰ったら,
おれたちはどうやって食っていくんだ?)

B:死ね,チョッパリ,シッパルノマ。

 間髪入れず鍬が,和夫の後頭部に振り下ろされたのと同時に,数多くのスコップと斧が彼の体をずたずたに引き裂きはじめた。
このとき,和夫の妻が我慢できずに飛び出してきた。
それまで黙っていたCは,和夫の妻を見て,彼女の長い髪をつかみ, 庭の奥まったところに引きずっていった。

そしてなんと13人がかりで, ほんの一週間前までお母さんとして恭しく仕えていた彼女を,強姦しはじめた。
(金ソンス君は,この期に及んで自分が止めに入ったら,自分も殺されただろうと言った)。
強姦に耐えられなかった彼女は,行為の途中で死亡し, Dは,ふだんお母さんと呼んでいた彼女の全身を滅多刺しにするだけでは足りず, 内臓をひきずり出して,まき散らした。

 和夫には,一人の幼い娘がいた。ふだん模範的でいい子だったヒミコさんは, 放課後,家に帰ってきて,両親の身に起こった惨状を見,気が触れてしまった。
ヒミコが何日間も慟哭する声に,近隣住民たちは眠れなかったそうだ。
その後,孤児になったヒミコは,食べ物を乞おうと,その付近をさまよったが,
朝鮮人は誰一人彼女に目もくれず,知らないふりをした。

結局,彼女は9日後,村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。
当時,ヒミコは小学校6年生の幼子だった。
和夫の財産は,勇猛で愛国心に燃えたつ朝鮮の青年たちの手にそっくり渡り, この事件は村人たちの沈黙の中,しだいに忘れられて行った。

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この文章は,ある読者からの手紙にあったものだが,
冒頭,韓国人が反省し作成したものと書かれているものの, 「和夫君」,「和夫さん」などの日本的な呼び方が混じっており, 最後の部分に朝鮮人に対する軽蔑に満ちた文章(削除した)が含まれていたことなどを勘案すれば, 韓国語ができる日本人が書いたものではないかと思う。

いずれにせよ,この事件について聞いたことがあるという韓国人も多いことを見れば, 実際に釜山地方で発生した事件のようであり,また韓国による植民地被害の主張に対する, 日本人の対抗論理をかいまみることのできる珍しい例として,決して重みが失われない文だといえよう。

振り返って考えてみれば,日本の敗戦後朝鮮半島では,このような殺害劇がたくさん発生しただろうと思われる。
日本の無条件降伏以後,北韓地域にはソ連軍がすばやく進駐し,軍政を敷いたが,南韓に米軍が上陸したのは9月中旬だった。
したがって,約1カ月程度,南韓地域には無政府状態が続いた期間があった。

韓半島には,さまざまな理由で日本人とそれに加担した者たちに恨みを抱く朝鮮人たちが多かったろうし, 彼らは日本人を殺し,財産を強奪し,日本女性を強姦しただろうと思われる。

 そして,朝鮮人たちが8月15日,日本の降伏を喜んだいちばん大きな理由は,おそらく,
日本の一部として敗戦国の暗澹たる未来をともにするのが嫌だったためではなかろうか。

日本統治の最後の期間,特に大東亜戦争が始まった,最後の4年間は,日本人はもちろん, 日本の統治を受けていた地域の住民たちも,大きな苦痛に見舞われた時期だ。
それゆえ, 朝鮮人たちにとって8月15日は,忌まわしい戦争の苦痛から脱することのできたという点で,また日本人たちを殺し, 財産を奪える機会が与えられたという点で,とても喜ばしいことだっただろう。

問題は,韓国社会において,朝鮮人によってほしいままにされたこのような虐殺と残酷な行為はまったく知られておらず, また調査されたこともなく,われわれが受けた被害だけは,繰り返し強調されているという点だ。

そして日帝統治の期間に受けたとされる被害なるものも,事実よりずっと膨らまされているだろうことは, 容易に想像がつく。

朝鮮は日本の統治を受け,未開な農業社会から短期間に資本主義工業国へ発展し, 高い生活水準を享受してきた。しかし,日本が戦争に負けるやいなや,素知らぬ顔で, まるで自分たちが戦勝国にでもなったかのごとく,日本を呪詛し,彼らの財産を奪い,虐殺した行為は, 明らかに人倫に悖る犯罪行為にほかならない。このようにして日本人をすべて追放したあと, 南韓国と北韓国の政府は,強奪した日本人の土地と工場を「敵産」と呼び,堂々と山分けした。

もし日本が戦争で勝利したり,少なくとも領土を保全され,休戦にでもなったなら, はたして朝鮮人たちはこのように振る舞えただろうか。
おそらく,前よりもっと自発的に日本人であることを主張しつつ,忠誠を尽くしただろう。
ところが,戦争に負け,くっついていても別にいいことがないと判断した瞬間,
彼らは態度を急変させ,日本に仇として接し始めたのだ。




戦後、在日韓国・朝鮮人は何をし、何と言ったか
http://www.kcn.ne.jp/~ca001/D35.htm
三国人 使い始めたのは日本人それとも在日朝鮮人?
http://kan-chan.stbbs.net/word/pc/sangokujin.html
闇市における「第三国人」神話      
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuusandai
何故「三国人」が差別用語になったのか(左翼系在日朝鮮人騒乱史)
http://isweb34.infoseek.co.jp/school/haniwa82/meigen/crime.html





親日作家が敗訴 9600万ウォン賠償命令
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/09/02/20050902000062.html
(朝鮮日報)
「親日人物名簿」3090人を発表
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=67117&servcode=200&sectcode=200
(中央日報)

2chも勉強になります。

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