反日はどこからくるの
反日を追っています。そして守るべき日本とは何か考えています。
アメリカ共産党に属した在米日本人グループ
(´・ω・`)今更な話なのだが自分は今日知って驚いている
そしてよりによってグレンデール
敵は内部から渡される弾薬で攻撃している
という記事を書いたことがあるが
よく考えたら日本の事情を伝えた協力者がいたのは当然のことだ・・・
引用したwikiはそれぞれ抜粋だが読むだけでカオス( ゚Д゚)
それで思い出すのが三宅博先生のこの文章
「換言すれば彼らは米国の意向や、利益のために動く別働隊といえよう。」
→週刊新潮・辻元清美に目を掛けるケネディ大使
日本になぜ日本共産党などという政党が存在しているのか
それはアメリカの戦争に協力したからなのですね
だからGHQは彼らを真っ先に釈放したのですね

左:徳田球一、右:志賀義雄
→ 日本共産党 幾多の粛清を経て、生き残る公明なる秘密結社
余談
ironnna
『「戦勝国」史観との対決』
より抜粋
陸軍博物館の特別展示にみるアメリカの「正戦」論
江崎 アメリカも独善という点では中国と変わらないと思います。最近ハワイのホノルルに行くことがあって、真珠湾のアリゾナ記念館やアメリカ陸軍博物館を見てき ました。自分たちがホノルルを征服し、ハワイ王朝を絶滅させことについてはほとんど触れず、アジアの平和を乱したのは日本のエクスパンション、拡張主義 で、アメリカはそれに立ち向かい、平和が訪れたという歴史観が語られていました。
ーーーーーーーーーーーーー
西尾幹二氏 昭和10(1935)年、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。文学博士。著書に『歴史を裁く愚かさ』(PHP研究所)、『国民の歴史』 (扶桑社)、『GHQ焚書図書開封1~9』(徳間書店)など多数。『西尾幹二全集』を国書刊行会より刊行中(第十回「人生論集」まで配本)。
宮崎正弘氏 昭和21(1946)年、金沢生まれ。早稲田大学英文科中退。日本学生新聞編集長などを経て、昭和57年、『もう一つの資源戦争』(講談社) で論壇へ。中国ウオッチャーとして活躍。著書に『中国・韓国を本気で見捨て始めた世界』(徳間書店)など多数。近著は『吉田松陰が復活する!』(並木書 房)。
江崎道朗氏 昭和37(1962)年、東京都生まれ。九州大学文学部卒業。日本会議専任研究員、国会議員政策スタッフなどを経て 現在、評論家。著書に『コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾――迫り来る反日包囲網の正体を暴く』(展転社)、共著に『世界がさばく東京裁判』(明成 社)など。
http://ironna.jp/article/882
『「戦勝国」史観との対決』
より抜粋
陸軍博物館の特別展示にみるアメリカの「正戦」論
江崎 アメリカも独善という点では中国と変わらないと思います。最近ハワイのホノルルに行くことがあって、真珠湾のアリゾナ記念館やアメリカ陸軍博物館を見てき ました。自分たちがホノルルを征服し、ハワイ王朝を絶滅させことについてはほとんど触れず、アジアの平和を乱したのは日本のエクスパンション、拡張主義 で、アメリカはそれに立ち向かい、平和が訪れたという歴史観が語られていました。
陸軍博物館ではちょうど戦後七十年にあわせ
た特別展示が行われていて、これもまた愉快ではありませんでした。戦時中の日系人によるインテリジェンス(情報収集・諜報)活動がテーマで、日系人たちが
アメリカ国民として第二次世界大戦で日本を打ち負かすためにインテリジェンス活動に従事していたというんですね。日系人も最終的にはアメリカの文明に心服
して、アメリカ国民として日本との戦いに加わった、彼らを称えようというストーリーです。米陸軍には当時、主に日系二世の将兵で編成された情報セクション
までありました。対日戦線で日本語能力を生かし、情報収集や分析、宣伝、捕虜の尋問などにあたり、在日占領軍でも活動しています。
宮崎 アメリカの日系人は戦前から戦中にかけて、日米の間で揺れ動きます。アメリカ組と日本組に分かれ、日本に忠誠を誓った人たちは船で日本に帰った。戦争が始 まるとアメリカ組は収容所に入れられますが、そこでもアメリカが勝つという組と負けるという組に分かれる。勝ち組は、「われわれはアメリカ人として戦う」 と誓って日系人部隊に入った。アメリカ史上最も多く勲章を受けた勇猛な部隊として有名な四四二部隊も彼らですよ。
西尾 戦 後我々は、アメリカ軍に加わって日本と戦った日系人の行動を武士道として理解してきました。彼らは「郷に入りては郷に従えで、アメリカという国家に忠誠を 尽くした」のだと。しかし、よく考えてみると祖国を裏切る卑劣な行動だったのではないか。そんな評価が近年出てきました。鈴木敏明さんという方が『逆境に 生きる日本人』(展転社)で打ち出しています。アメリカには協力しないと背中を向けた日本人たちもいて、彼らは牢にぶち込まれた。彼らこそが立派だという んですね。
宮崎 戦後、その問題を最初に書いたのが藤島泰輔の『忠誠登録』で、そのあと山崎豊子の『二つの祖国』がでた。日系人の心理の移ろいを描いています。
一九八〇年にレーガン政権ができたときに、強制収容した日系人に対する補償がなされました。実はあの運動をやったのは民主党左派です。穏健な在米日本人たちは嫌がっていました。日本人のモラルとして、恥だと考えたんですね。
西尾 あえて請求しなかったんだ。
宮崎 従来の日本人は、そういう感覚なんですよ。
江崎 帰属心とは別に、戦時中の在米日本人・日系人でアメリカ軍の諜報・情報活動に協力したのは、実はアメリカ共産党に属した在米日本人グループだったという側面に注目しておくべきです。有名なのはカール・ヨネダや木元伝一らですね。カール・ヨネダは筋金入りの活動家で、マルクスから名前を取っています。陸軍情報部で中国やビルマ戦線に従事し、『アメリカ――情報兵士の日記』『がんばって――日系米人革命家60年の軌跡』といった著作で知られます。木元は尾崎秀実・ゾルゲグループの宮城与徳を日本に送り込んだ人物とされ、日米戦争中はアメリカ戦時情報局(OWI)で対日心理作戦に従事しています。彼らにとっては日米戦争を煽ることこそ目的だったからです。アジア赤化のために日本をアメリカと戦わせて日本を弱体化させるのがソ連の戦略でしたから。宮崎 アメリカの日系人は戦前から戦中にかけて、日米の間で揺れ動きます。アメリカ組と日本組に分かれ、日本に忠誠を誓った人たちは船で日本に帰った。戦争が始 まるとアメリカ組は収容所に入れられますが、そこでもアメリカが勝つという組と負けるという組に分かれる。勝ち組は、「われわれはアメリカ人として戦う」 と誓って日系人部隊に入った。アメリカ史上最も多く勲章を受けた勇猛な部隊として有名な四四二部隊も彼らですよ。
西尾 戦 後我々は、アメリカ軍に加わって日本と戦った日系人の行動を武士道として理解してきました。彼らは「郷に入りては郷に従えで、アメリカという国家に忠誠を 尽くした」のだと。しかし、よく考えてみると祖国を裏切る卑劣な行動だったのではないか。そんな評価が近年出てきました。鈴木敏明さんという方が『逆境に 生きる日本人』(展転社)で打ち出しています。アメリカには協力しないと背中を向けた日本人たちもいて、彼らは牢にぶち込まれた。彼らこそが立派だという んですね。
宮崎 戦後、その問題を最初に書いたのが藤島泰輔の『忠誠登録』で、そのあと山崎豊子の『二つの祖国』がでた。日系人の心理の移ろいを描いています。
一九八〇年にレーガン政権ができたときに、強制収容した日系人に対する補償がなされました。実はあの運動をやったのは民主党左派です。穏健な在米日本人たちは嫌がっていました。日本人のモラルとして、恥だと考えたんですね。
西尾 あえて請求しなかったんだ。
宮崎 従来の日本人は、そういう感覚なんですよ。
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西尾幹二氏 昭和10(1935)年、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。文学博士。著書に『歴史を裁く愚かさ』(PHP研究所)、『国民の歴史』 (扶桑社)、『GHQ焚書図書開封1~9』(徳間書店)など多数。『西尾幹二全集』を国書刊行会より刊行中(第十回「人生論集」まで配本)。
宮崎正弘氏 昭和21(1946)年、金沢生まれ。早稲田大学英文科中退。日本学生新聞編集長などを経て、昭和57年、『もう一つの資源戦争』(講談社) で論壇へ。中国ウオッチャーとして活躍。著書に『中国・韓国を本気で見捨て始めた世界』(徳間書店)など多数。近著は『吉田松陰が復活する!』(並木書 房)。
江崎道朗氏 昭和37(1962)年、東京都生まれ。九州大学文学部卒業。日本会議専任研究員、国会議員政策スタッフなどを経て 現在、評論家。著書に『コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾――迫り来る反日包囲網の正体を暴く』(展転社)、共著に『世界がさばく東京裁判』(明成 社)など。
http://ironna.jp/article/882
【wiki】カール・ヨネダ

カール・ゴーゾー・ヨネダ(Karl Gozo Yoneda、日本名:米田 剛三(よねだ ごうぞう)、1906年7月15日 - 1999年)は、アメリカ合衆国の労働運動家、ジャーナリスト、軍人。国際港湾倉庫労働組合設立の際は、主導的な役割を果たした。
1913年に日本で教育を受けるために、家族全員で日本へ渡る。
1926年に、兵役を忌避するためにアメリカへ戻ることを決意したが、帰米後は、2か月間サンフランシスコ湾のエンジェル島にある移民勾留局に収容されることとなった。同年には、尊敬するカール・マルクスに肖って“Karl”という英語名を名乗るようになり、 ロサンゼルスで皿洗いと窓拭きの仕事をする傍ら、アメリカ共産党と羅府日本人労働者協会に入り、カリフォルニアの各地で労働運動に参加した。後に、共産党 では日本語機関紙である「労働新聞」の主筆を任されることとなった。因みに、ともに日本へ渡った母は、アメリカ国籍が保持していないことから、既に制定さ れていた「排日移民法」により、アメリカへ戻ることが出来ず、更に息子の兵役拒否によって、それまで住んでいた村を追われ、広島市へ移り住むも、後に広島 市への原子爆弾投下によって被曝することとなってしまった。
スターリンの名前がついた某議員みたいな
カール・ゴーゾー・ヨネダ(Karl Gozo Yoneda、日本名:米田 剛三(よねだ ごうぞう)、1906年7月15日 - 1999年)は、アメリカ合衆国の労働運動家、ジャーナリスト、軍人。国際港湾倉庫労働組合設立の際は、主導的な役割を果たした。
経歴
カリフォルニア州グレンデールで農業を営む広島県出身の両親のもと、日米両国籍を持つ日系二世として生まれる。父は、当初はハワイへ移住したが、ハワイがアメリカに併合されたことに伴い、アメリカ本土へ再移住したという。1913年に日本で教育を受けるために、家族全員で日本へ渡る。
1926年に、兵役を忌避するためにアメリカへ戻ることを決意したが、帰米後は、2か月間サンフランシスコ湾のエンジェル島にある移民勾留局に収容されることとなった。同年には、尊敬するカール・マルクスに肖って“Karl”という英語名を名乗るようになり、 ロサンゼルスで皿洗いと窓拭きの仕事をする傍ら、アメリカ共産党と羅府日本人労働者協会に入り、カリフォルニアの各地で労働運動に参加した。後に、共産党 では日本語機関紙である「労働新聞」の主筆を任されることとなった。因みに、ともに日本へ渡った母は、アメリカ国籍が保持していないことから、既に制定さ れていた「排日移民法」により、アメリカへ戻ることが出来ず、更に息子の兵役拒否によって、それまで住んでいた村を追われ、広島市へ移り住むも、後に広島 市への原子爆弾投下によって被曝することとなってしまった。
そしてよりによってグレンデール
【wiki】木元 伝一
木 元 伝一(きもと でんいち、1906年3月 - 1995年1月11日)は、アメリカ共産党に所属し、太平洋戦争前後の時期に左翼活動に携わった日系アメリカ人。「ロイ・レーン」「サブロウ・ナカノ」な どと名乗る。ハワイ共産党を創設し、日米戦争中はアメリカの戦時情報局(OWI)で働き、対日心理作戦に従事。戦後ハワイ共産党のトップに就任。マッカー シー旋風の際、「ハワイの七人」の一人として起訴されたが、控訴して勝利した。宮城与徳を日本に送り込んだ。
生涯
1906 年3月、ハワイ・オアフ島に生まれた。8才のとき(1914年)日本の教育を受けるため帰国し、10才のとき(1916年)ハワイに戻った。1920年に ホノルルに移住。1925年、西本願寺が経営するハワイ中学を卒業してハワイ報知新聞に就職。1931年、ハワイからロサンゼルスに行き、アメリカ共産党 に入党。1933年9月、宮城与徳に日本行きを指示し、 11月7日、国際レーニン学校に留学のためモスクワ到着した。アメリカ共産党との連絡は「ニシ」(ジョー・小出、本名鵜飼宣道)を通じて行った。1935 年5月、プロフィンテルンから、アメリカに戻って岡野進(野坂参三)の手助けをするように指示され、加藤勘十の通訳と案内を務めた。プロフィンテルンの日 本人向けに『太平洋労働者』の発行に従事した。1937年1月、在米日系共産主義者の機関紙『同胞』の創刊に関わり、4月、ハワイ共産党を創設した。太平 洋戦争が始まると、アメリカの戦時情報局(OWI)で働き、対日心理作戦に従事し た。1946年、ハワイ共産党のトップに就任。ホノルル・レコード紙で働いた。1948年、ハワイ・スター紙を創刊し、編集長となった。1951年、マッ カーシー旋風がアメリカ全土を襲うと、共産主義の陰謀に関与したとして、「ハワイの七人」の一人として起訴されたが、控訴して勝利した。1958年、テレ ビ修理工になり、後にトップ・テレビ・サービスの経営者になった。1975年、日本を訪問し、野坂参三と会談した。1995年1月11日、死去。
木 元 伝一(きもと でんいち、1906年3月 - 1995年1月11日)は、アメリカ共産党に所属し、太平洋戦争前後の時期に左翼活動に携わった日系アメリカ人。「ロイ・レーン」「サブロウ・ナカノ」な どと名乗る。ハワイ共産党を創設し、日米戦争中はアメリカの戦時情報局(OWI)で働き、対日心理作戦に従事。戦後ハワイ共産党のトップに就任。マッカー シー旋風の際、「ハワイの七人」の一人として起訴されたが、控訴して勝利した。宮城与徳を日本に送り込んだ。
生涯
1906 年3月、ハワイ・オアフ島に生まれた。8才のとき(1914年)日本の教育を受けるため帰国し、10才のとき(1916年)ハワイに戻った。1920年に ホノルルに移住。1925年、西本願寺が経営するハワイ中学を卒業してハワイ報知新聞に就職。1931年、ハワイからロサンゼルスに行き、アメリカ共産党 に入党。1933年9月、宮城与徳に日本行きを指示し、 11月7日、国際レーニン学校に留学のためモスクワ到着した。アメリカ共産党との連絡は「ニシ」(ジョー・小出、本名鵜飼宣道)を通じて行った。1935 年5月、プロフィンテルンから、アメリカに戻って岡野進(野坂参三)の手助けをするように指示され、加藤勘十の通訳と案内を務めた。プロフィンテルンの日 本人向けに『太平洋労働者』の発行に従事した。1937年1月、在米日系共産主義者の機関紙『同胞』の創刊に関わり、4月、ハワイ共産党を創設した。太平 洋戦争が始まると、アメリカの戦時情報局(OWI)で働き、対日心理作戦に従事し た。1946年、ハワイ共産党のトップに就任。ホノルル・レコード紙で働いた。1948年、ハワイ・スター紙を創刊し、編集長となった。1951年、マッ カーシー旋風がアメリカ全土を襲うと、共産主義の陰謀に関与したとして、「ハワイの七人」の一人として起訴されたが、控訴して勝利した。1958年、テレ ビ修理工になり、後にトップ・テレビ・サービスの経営者になった。1975年、日本を訪問し、野坂参三と会談した。1995年1月11日、死去。
【wiki】宮崎与徳
宮城 与徳(正字:宮城 與徳、みやぎ よとく、1903年2月10日 - 1943年8月2日)は、日本の洋画家、左翼運動家、社会運動家。「南龍一」と名乗り、ゾルゲ諜報団に参加した。ソ連のスパイとしてゾルゲ事件に関与して逮捕され、拘留先で病死した。
宮城 与徳(正字:宮城 與徳、みやぎ よとく、1903年2月10日 - 1943年8月2日)は、日本の洋画家、左翼運動家、社会運動家。「南龍一」と名乗り、ゾルゲ諜報団に参加した。ソ連のスパイとしてゾルゲ事件に関与して逮捕され、拘留先で病死した。
敵は内部から渡される弾薬で攻撃している
という記事を書いたことがあるが
よく考えたら日本の事情を伝えた協力者がいたのは当然のことだ・・・
引用したwikiはそれぞれ抜粋だが読むだけでカオス( ゚Д゚)
それで思い出すのが三宅博先生のこの文章
「換言すれば彼らは米国の意向や、利益のために動く別働隊といえよう。」
→週刊新潮・辻元清美に目を掛けるケネディ大使
日本になぜ日本共産党などという政党が存在しているのか
それはアメリカの戦争に協力したからなのですね
だからGHQは彼らを真っ先に釈放したのですね

左:徳田球一、右:志賀義雄
→ 日本共産党 幾多の粛清を経て、生き残る公明なる秘密結社
余談
【wiki】 慰安婦
各国の軍用売春
第二次世界大戦の時代にはイギリス軍は公認の慰安所は設置せずに、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した。1944年3月の米軍の日系2世のカール・ヨネダ軍曹の カルカッタでの目撃証言では、6尺の英兵が10歳のインド人少女に乗っている姿が丸見えで、「強姦」のようだったとして、またそうしたことが至るところで 見られたという。性病感染率の記録からは、ビルマ戦戦では6人に1人が性病に罹っていた。また、日本軍の慰安所を居抜きで使用したともいわれる。
イギリス軍の捕虜になった会田雄次は、英軍中尉がビルマ人慰安婦を何人も部屋に集めて、「全裸にしてながめたり、さすったり、ちょっとここでは書きにくいいろいろの動作をさせて」楽しんでいたという。
各国の軍用売春
インド駐留イギリス軍
1893
年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査では、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14〜18歳だった。当時インドのイギリス軍は、バ
ザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在した。主に売春婦カーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいた。売春婦登
録簿は1888年まで記録されている。
第二次世界大戦の時代にはイギリス軍は公認の慰安所は設置せずに、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した。1944年3月の米軍の日系2世のカール・ヨネダ軍曹の カルカッタでの目撃証言では、6尺の英兵が10歳のインド人少女に乗っている姿が丸見えで、「強姦」のようだったとして、またそうしたことが至るところで 見られたという。性病感染率の記録からは、ビルマ戦戦では6人に1人が性病に罹っていた。また、日本軍の慰安所を居抜きで使用したともいわれる。
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1. マスコミ 42
- [邪馬台国 下関]
- 2015年04月21日 03:40
- 新聞論 朝日新聞の偽装部数は200万部 (28%)、実売は10年で3割減って510万部に http://www.mynewsjapan.com/reports/2141 朝日新聞より 当ブログ時期に関し FC2にも著作権侵害の通知 http://junskyblog.blog.fc2.com/blog-entry-3768.html 朝日新聞出

コメント
日本でもそうですが、コミュニストの勢力が影響でかいのでしょうね。
今の反日の元も共産圏が影響してそう。
それに戦勝国でもやましいところがあるところがのっかってしまって
まだひきずっている
マイクホンダって正直この系統じゃないかと疑ってる。
吉田が出てる貴重な映像としてネットで話題になった
昔の豚局呆道特集の動画にヨネダも出てます
16:50~
http://www.dailymotion.com/video/xmzizy
何と!ミッチナのあの写真ってカール・ヨネダ氏だったのか~~
びっくりしました。
単なるプロフェッショナル・キャンプフォロワーに
謝罪しなきゃいけない理由がよく分かんないですね・・・
教えてくれてありがとうございます~(ー人ー)