田中上奏文という偽書があるのだがたまたま読んでいた本にとんでもないことが書いてあったので紹介したい
(とんでもないというか今更というか)

まず田中上奏文の概要から

【wiki】田中上奏文
田 中上奏文(たなかじょうそうぶん)は、昭和初期にアメリカ合衆国で発表され、中国を中心として流布した文書で、第26代内閣総理大臣田中義一が1927年 (昭和2年)に昭和天皇へ極秘に行った上奏文とされ、内容は中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服する手順が説明されている。日本 では偽書とされ、当時中国で流布していることに対して中国政府に抗議したところ、中国政府は機関紙で真実の文書ではないと報じたが、その後の日中関係悪化 にともない1930年代に中国は反日プロパガンダにこの文書を利用し、日本は国連などでも答弁を求められるが各国は中国を支持し、日本は国際社会で孤立し外交的に敗北することになった。日本の歴史家のほとんどは上奏文としては怪文書・偽書としているが、作者については諸説あり不明である。また、田中上奏文を本物と考える人は現在でも特に日本国外に存在している。
田中メモリアル・田中メモランダム・田中覚書とも呼ばれ、中国では田中奏摺、田中奏折と呼ばれる。英語表記はTanaka Memorial。

英語版、コミンテルンによる流布
田 中上奏文は10種類もの中国語版が出版され、組織的に中国で流布され、また1931年には上海の英語雑誌『チャイナ・クリティク』に英語版「タナカ・メモ リアル」が掲載され、同内容の小冊子が欧米や東南アジアに配布された。ソ連のコミンテルン本部も同1931年『コミュニスト・インターナショナル』に全文 掲載し、ロシア語、ドイツ語、フランス語で発行し「日本による世界征服構想」のイメージを宣伝した。フランス国会では、1931年11月26日にジャッ ク・ドリオが文章を引用しながら演説をおこなった。


別冊正論15号
『アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア赤化戦略』 日本会議専任研究員 江崎道朗
http://hassin.org/01/wp-content/uploads/War-responsibility.pdf

この文章はソ連・コミンテルンの対米工作を七段階に分けて説明している

ソ連・コミンテルンの対米工作
第一段階 アメリカ共産党の創立
第二段階 人民統一戦線の構築
第三段階 シンクタンクIPR(太平洋問題調査会)の乗っ取り
第四段階 中国共産党を支持する雑誌「アメラジア」を創刊
第五段階 「ルーズベルト大統領一族を取り込む」
第六段階 スティムソン元国務長官を利用したロビー活動
第七段階 政権内部のスパイたちが対日圧迫政策を強行

このうち
第三段階のシンクタンクIPR(太平洋問題調査会)はYMCAロックフェラー財団の資金援助を受けて設立していることがずっと気になっているのだが田中上奏文流布にも関与していた
反日ネットワークの正体 

p85
  IPRは1939年になると、冀朝鼎、陳翰笙ら共産党員の手で、ハーバート・ノーマン著『日本における近代国家の成立』など日本の中国「侵略」を批判する 「調査シリーズ」というブックレット集を次々と刊行し、欧米諸国の外交政策に多大な影響を発揮したばかりか、アメリカの対日占領政策の骨格を決定すること になった。
 なぜならIPRは戦時中、太平洋方面に派遣される陸海軍の将校向けの教育プログラム作成に関与するとともに、『汝の敵、日本を知れ』といった啓蒙用反日パンフレットを軍や政府に大量に供給したからである。
 特にIPRが製作に協力したフランク・キャプラ監督の宣伝映画『汝の敵を知れ』は、日本が世界征服を目論んでいたとする田中メモランダムや「国家神道による洗脳」、「南京大虐殺」などが毒々しく紹介され、神道指令や東京裁判における「南京大虐殺」追及へとつながることになった。


長くなったけどここから本題



p138~139
コミンテルンと中国共産党
  「田中上奏文」の流布にコミンテルンが果たした役割も大きい。コミンテルンとは第三インターナショナルの別称であり、各国の共産党を指導した国際組織のこ とである。その雑誌『コミュニスト・インターナショナル』は、1931年12月に「田中メモランダム」の全文を紹介し、「ソ連を擁護する全世界の労働者は この文書を知るべきである」と論じた。『コミュニスト・インターナショナル』は、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語、中国語で刊行されていた。
 『コミュニスト・インターナショナル』の記事を和訳したのが、日本共産党であった。日本共産党中央委員会は1932年6月、この記事を小冊子『赤旗パンフレット 第二五号 一切の暴慢をさらけ出した赤裸の日本帝国主義』に訳して配布した。
  コミンテルンは、アメリカ共産党を通じて日本語の機関紙『労働新聞』をサンフランシスコで発行してもいた。1935年3月1日の『労働新聞』は、日本の対 中政策を田中大将覚書の中にかかれている『プラン』と一致するものである」と断じた。そのことは富井周サンフランシスコ総領事から広田外相に伝えられた。
  他方で中国共産党は、1931年11月に中華ソビエト共和国臨時中央政府を瑞金に樹立していた。江西省南部の瑞金が、革命の根拠地と位置づけられたのであ る。1934年10月になると中国共産党は、国民党軍によって瑞金を追われた長征を開始した。毛沢東が率いる紅軍第一方面軍は、1935年10月に陝西省 北部に到着して長征を終えた。この間にコミンテルン駐在の中国共産党代表団は、同年8月1日に「抗日救国のため全国同胞に告げる書」を発した。いわゆる八 一宣言である。
 八一宣言を起草したのは、コミンテルン駐在員としてモスクワに滞在していた王明らであった。八一宣言の冒頭では、「わが国に対す る日本帝国主義の侵攻は急テンポとなり、南京の売国政府は一歩一歩と投降し、わが北方の各省も東北四省に次いで、事実上滅亡してしまった」と論じられた。 この下りは、日本陸軍による華北分離工作を批判したものであろう。日本陸軍は、梅津、何応欽協定や土肥原・秦徳純協定を中国に押し付け、河北省や察哈爾 (チャハル)省などの華北で国民政府の影響を排除しようとしたからである。
 さらに八一宣言は、「田中メモランダムによって予定された、完全にわが国を滅亡しようという悪辣な計画は、まさに着々と実行されつつある」と危機感を煽った。つまり中国共産党は、日本の中国滅亡計画として「田中上奏文」を引用したのである。
  1936年11月には張学良が、中国共産党に対する討伐を進めていた蒋介石を西安で軟禁した。西安事件である。解放された蒋介石は、共産党との内戦を停止 して抗日に転じた。このため中国には、抗日民族統一戦線が築かれようとしていた。日本と中国が盧溝橋で衝突し、そこから全面戦争に拡大していくのは、まさ にそのような時期であった。


反戦平和を唱える九条教徒日本共産党は
本当に反戦平和を望んでいるのか甚だ疑問と言わざるを得ない
「過去の侵略戦争の反省」とことあるごとに言うその歴史観が当時のコミンテルンそのままのプロパガンダというね

そして今も
竹島の漁師と引き換えに多額の賠償金を払って締結した日韓基本条約を覆そうと画策しているのである
共産党笠井亮朝鮮王室儀軌返還オークラお似合いの夫婦 共産党・笠井亮 


再び『アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア赤化戦略』から
p82
第一段階 アメリカ共産党の創設
 ソ連の指導者レーニンは1919年、世界共産化を目指してコミンテルンを創設した。
  世界共産化とは、全世界の資本主義国家すべてを転覆・崩壊させ、共産党一党独裁政権を樹立することである。ではどうやって世界共産化を成功させるのか。 レーニンは、「敗戦革命論」を唱えた。敗戦革命論とは、資本主義国家間の矛盾対立を煽って複数の資本主義国家が戦争をするよう仕向けると共に、その戦争に おいて自分の国を敗戦に追い込み、その混乱に乗じて共産党が権力を掌握するという革命戦略だ。
 要するに、共産主義革命のため、国家間の対立を煽って戦争を引き起こし、自国を敗戦に追い込もうというのだ。なんとひどい発想だろうか。 日本にとって不幸だったのは、この謀略の重点対象国が、日露戦争を戦ったわが日本と、世界最大の資本主義国家アメリカだったということだ。日米二つの資本 主義国の対立を煽って日米戦争へと誘導することは、コミンテルンにとって最重要課題であった。現にレーニンは1920年、世界共産化を進めるためアメリカ を利用して日本に対抗し、日米両国の対立を煽るべきだと主張している。


戦争に突き進んでいったのはいったい誰のせいなのか
嘘をついてきたツケが自らに向かう時がじわじわ迫っていますね