2016年2月9日火曜日

反日はどこからくるの

反日を追っています。そして守るべき日本とは何か考えています。

中国、ロシア、韓国で、【反日統一共同戦線】を作ろうと画策しているという記事
日中和解はホンモノか?~豪で進む驚愕の反日プロジェクト 
なんだけど、既に2005年にこんな記事が

【噴水台】国共合作

「私は誰とでも手を組む」。

   中国の国父・孫文が1924年、第1次国共合作に取り組みながら述べた言葉だ。 国民党と共産党の合作スローガンは「打倒帝国主義、討伐軍閥」だった。 第1次合作は3年で終わった。 共産党の勢力拡張を憂慮した蒋介石が、27年、共産党に白色テロを加えたのだ。 しかし9年後、蒋介石は寝巻姿で捕まえられ、第2次国共合作を強要された。 西安へ共産党討伐を督励しに行ったが、部下の張学良に逮捕されたのだ。 「西安事件」である。 張学良は共産党よりも日帝と戦うのが先だと考えた。 第2次合作は、45年の日帝の敗亡とともに、翌年に国共内乱が起こり、幕を閉じた。

 今日は第3次国共合作の門を開く日だ。 国民党主席の連戦が、共産党総書記の胡錦濤と会談す るのだ。両党の指導者が向い合って座るのは、1945年、毛沢東と蒋介石の重慶会談以来60年ぶりとなる。 もちろん第1・2次合作時とは状況が大きく変わった。 衰落した国民党の立場が最も大きな変化だ。 一時は大陸の覇権を争った国民党が、いまや追われた台湾ですら押されている。 民進党に政権を奪われてから5年が経った。 しかし共産党は、26日から始まった連戦の大陸行きを輝かせようと必死だ。 孫文の墓である中山陵を参拝、西安事件が起きた年に西安で生まれた連戦の故郷訪問周旋など。 胡錦濤との今日の会談はそのハイライトだ。

 第1・2・3次国共合作の闘争対象に指される外勢がある。 日本だ。 第1・2次合作当時、「打倒」と「戦争」の相手だった。 第3次合作の背景にも日本がある。 日本と米国はさる2月、外務・国防閣僚の「2+2会談」を行い、「台湾問題を平和的に解決する」という内容の声明を発表した。 台湾問題への介入を示唆したのだ。 統一を至上課題と考える共産党は大きな衝撃を受けた。 怒った。 そして友軍を増やそうという伝統的な統戦術の一つに、国共合作というカードをまた取り出した。 第3次合作の本当の理由だ。 このように国共合作による克日はいまだ進行形である。 「革命はまだ成功していない。続けて努力しなければならない」という孫文の遺言は、今でも有効であるようだ。
中央日報2005.4.28
http://japanese.joins.com/article/016/63016.html?servcode=100&sectcode=100

あちらは「克日」と言っててそれが韓国メディアの目にも明らかだというのに
日中友好一辺倒な日本のメディアにあらためて多大な疑問が

胡錦濤総書記と連戦主席の会談、世界で報道相次ぐ
胡錦濤・中国共産党中央委員会総書記は29日、中国国民党の連戦主席と北京の人民大会堂で会見した。両氏は、両党党首60年振りの歴史的な握手を交わした。

世界3大通信社(ロイター通信、AFP通信、AP通信)は30日、胡総書記と連主席の会談について報道し、「台湾海峡両岸の歴史的会談だ」と伝えた。米紙「ニューヨークタイムズ」などマスコミは、3大通信社の情報を引用して次々に報道を行った。

▽AP通信

現場から中継された会見では、大陸部と台湾の両党首の握手が、数十年にわたる対峙の終了への希望を表していた。これはかつて大陸部を統治した国民党が数十年ぶりに中国共産党と行う最高レベルの会談だ。

▽ロイター通信

胡総書記と連主席の会談は、双方の敵対状態の正式な終結をもたらす可能性がある。

▽AFP通信

台湾の野党である国民党の指導者と、大陸部で執政する中国共産党が60年間で初の会談を行った。海峡両岸(中国大陸部と台湾)の緊張緩和のために努力している。

(編集SN)

「人民網日本語版」2005年4月30日
http://j.people.com.cn/2005/04/30/jp20050430_49738.html


共産党と国民党、「92年の共通の認識」と「台湾独立」反対で一致
胡錦濤・連戦会談1

 中国共産党の胡錦涛総書記と中国国民党の連戦主席は29日北京で、60年来初めての両党のトップ会談を行い、双方は、一つの中国の原則を表す「92年の共通の認識」【wiki】九二共識)を堅持し、「台湾独立」に反対することで一致に達した。

  両党のトップ会談後発表発表された『共同コミュニケ』は、「『92年の共通の認識』を堅持し、『台湾独立』に反対し、台湾海峡情勢の平和と安定を求め、海 峡両岸関係の発展を促し、両岸同胞の利益を維持することは両党の主張である。両党は、両岸が『92年の共通の認識」を踏まえ、平等な協商をいち早く回復 し、双方が共に関心を寄せる問題とそれぞれが関心を持つ問題について討議を行うこと、両岸はこれまでの敵対状態を正式に終わらせ、平和協議に達すること、 両岸の経済分野の全面的交流を促し、両岸の経済協力メカニズムを構築すること、台湾民衆が関心を持つ台湾のWHO・世界保健機関活動への参加問題を含む国 際活動への参与問題についての協議を促していく。また両党は双方の定期的疎通に必要なメカニズム確立を決めた」としている。
「CRI」より2005年4月30日
http://japanese.china.org.cn/japanese/213850.htm

(´・ω・`)つい最近連戦の名前を聞いたなぁ


【youtube】【河添恵子】 翁長雄志の中国人的 エ◯さ 2016年1月29日 【マット安川のずばり勝負】 

4:31~
(台湾総統選の結果について)
河 添恵子氏「中国共産党はそんなにバカではないですからこの結果予測してシミュレーションしてると思うんです。馬英九さんは去年の11月かな、習会談をした わけですけど、彼はこれから前総統の肩書になるわけです。前総統になって俺に中台関係をもっと密接にすることをもっとやらせてくれっていうプレゼンをした んであろうって言われてるんですね。今までそれを誰がやっていたかというと、連戦という方です。連戦のファミリーがやってたんですが、連戦はもうおじいちゃんです。連戦の息子は台北の市長選に出たけどもうダメでした。 で、もうやはりそいつは無理だということで馬英九さんが手足をするんではないかと。早速南シナ海の島に行ったりとか、はじめてるわけですよ。あと日本の戦 前はホロコーストみたいなことやったと。南京のこと言ったり。要するに中国共産党の手足をやってるわけですね。ある意味去年の会談は就職活動です(笑)

(賢明にもNOと言う台湾)

【youtube】3/3【討論!】台湾W選挙の結果とアジアの未来[桜H28/1/23]

17:22~
謝 恵芝氏「70年前に台湾は日本だったんですね。私の父親も日本人として生まれて、死ぬまで日本人でいました。その後に国民党が乗り込んできて、台湾という 表札を無理やり中華民国に替えさせられて、私達も無理やり、自分の言葉あったのにそれもしゃべっちゃいけない、として中国語を国の言葉として使っていきま した。

この長い70年間、台湾人が台湾に対する思い、それはきっと日本人は分からないと思うんですね。私の父が私を日本に留学に送り出し た時に、日本が世界で一番血統が優秀な民族で素晴らしい国で、是非行って、いい人がいたら結婚して帰って来なくていいからとまで言ってくれました。

それ位ね、父の一生見ると中国人は嫌、中華民国人ではなく日本人として一生を全うしましたね。その父の思いを背負って今の日本を見るとちょっと悲しいっていうか、悔しいっていうか、残念に思っています。

中 国っていう国は、中国人も、中華民国人もそうですが、一歩私達が引くと、向こうは遠慮するんじゃなくて一歩踏み込んで来るんですね。だから日本が弱く見え ると、これは攻めていいんだと思って無理やり押してくるんですね。私達の家を盗るように来るんですね。沖縄の問題もそうですが。

だから日 本がこれから台湾とどういう関係築いていくか、台湾人が一番信頼している国は近くにあって、日本ですよ。50年間も歴史共有して台湾人気質の中にも日本精 神も混ざり合っているので、日本が台湾に力を下さったら台湾も立ち直っていけると思っています。特に今の時期はベストの時期だと思います。

中 国も韓国も日本が一生懸命支援していても向こうは足で蹴ってくるだけ。だけど、台湾は、変な言い方ですが、日本に片思いしてきたんですよ。是非ここで少し でも応えてくれると台湾人は満足すると思います。うちの父の片思いも、もういないですが、是非叶えてあげたいと思います。」

黄文雄さんは戦前の中国情勢を「日中共同防共戦略vs東アジア赤化戦略」と分析したけども
近代中国の争乱の元凶は孫文 黄文雄
結局今もそれが続いているのね

このまま東アジアが赤化、というか華夷秩序に組み込まれるのが平和に繋がる わけがないよね?

日本は何かとんでもない目くらましをされて敵が何かすらも分からない錯乱状態じゃないかって思う

【コラム】米国に押し寄せるジャパン・マネー、「実は味方」という親韓派の育成を急げ

  旧日本軍の慰安婦問題の解決に向け、韓日両国政府が合意したが、米国では相変わらず、日本によるロビー活動が行われている。日本側は最近、カリフォルニア 州で「慰安婦は給与のいい売春婦だった」という内容を教科書に記載するよう求める署名運動を始めた。元慰安婦たちの名誉を傷つけたことが認められ、損害賠 償を命じる判決を受けた『帝国の慰安婦』の著者は最近、米国の代表的なシンクタンクに招かれ、見解を表明した。連邦議会は2007年、日本が責任を認め謝 罪するよう求める決議を行ったが、「ジャパン・マネー」の力は強大だ。普遍的な女性の人権問題という点で韓国に分があるにもかかわらず、いつの間にか日本 の刃(やいば)が韓国に向けられるようになった。

 最近、ワシントンで活動するシンクタンクのアジア専門家は、著述作業を支援するという韓国のある財団からの提案を断った。外国からのカネを受け取れば、専門家として認められ得る議会の聴聞会の証人などの任務を十分に遂行できなくなるからだ。連邦議会下院は最近、議会で証言する場合、外国からの支援金をどれだけ受け取ったのかを1週間以内に報告するよう義務付ける法律を成立させた。時刻に好意的な専門家を精一杯支援するのも難しくなった。最もハイレベルなシンクタンクとして知られるブルッキングス研究所は、ニューヨーク・タイムズが外国政府からの支援金の明細を公開した後、慎重な姿勢を見せるようになった。支援金の額と、シンクタンクの研究成果に相関関係がないかを調べ上げるメディアを意識せざるを得ないのだ。

 カネがあるからといって、支援の対象者を意のままに操るのは難しい上、資金や人脈を見ると、日本と韓国は雲泥の差だ。対米外交を担当する組織からして比べ物にならない。国際交流基金(JF)は、社会科学分野の人的交流のための資金だけで500億円も保有している。民間団体の笹川平和財団USAは、 自己資金が300万ドル(約3億5600万円)に達する。日本からの支援金はまた別だ。一方、韓国では、韓国国際交流財団(KF)の予算15億ウォン(約 1億4800万円)しかない。担当者の数も、JFは18人、笹川平和財団USAは13人なのに対し、KFは2人しかいない。

  このような状況で、安倍晋三首相は米国を訪問した際、270億ウォン(約26億5700万円)を投じて、米国の主なシンクタンクに勤務する若手研究員を毎 年250人ずる招待する方針を打ち出した。外務省はこれとは別に、約2億ウォン(約2000万円)を投じて、米国の学部生まで日本に招くという。このよう な中でも、KFが韓国の専門家でない人たちを韓国に招くプログラムを50-60人規模に拡大しているのは幸いだ。日本を訪れた米国の「次世代の安全保障 リーダー」たちの韓国訪問も実現させた。一たび韓国に来た人は、多くが「親韓派」になる。中途半端なセミナーを大々的にやるよりも、このような形で外国人 を迎える方が、友好的な韓国専門家を育成する上でプラスになる。マーク・リッパート駐韓米国大使も、米国議会で活動していたときに韓国を訪問し、すっかり 韓国好きになったとされる。

 問題は、いわば一部を切り取って全体を眺める「1件主義」的アプローチだ。一部の国会議員は「韓国からカネ を受け取れば、韓国に有利な発言だけしなければならいのになぜそうしないのか」と、日本の数百分の一にも満たない予算すら削減しようとしている。露骨な肩 入れは最悪の手だ。韓国にとっても、米国にとってもプラスになる論理で武装した親韓派の専門家を密かに育成するのが切実な課題だ。敵だと思っていたが、実 は味方だったという、いわゆる「ミスターX」の育成プロジェクトが必要な時期だ。

ワシントン=ユン・ジョンホ特派員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版2016.2.7
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/02/05/2016020501660.html


日本が金使って慰安婦問題でロビーやってるとは思えないんだが
国際交流基金(JF=ジャパンファウンデーション)といえばこんなとこだし
国際交流基金・徳留絹枝 産経新聞の記事から

「連邦議会下院は最近、議会で証言する場合、外国からの支援金をどれだけ受け取ったのかを1週間以内に報告するよう義務付ける法律を成立させた」
うーん
これはどの国であっても露骨に金つかませるのが難しくなったという話だから
それで何で「ジャパンマネーがー <ヽ`д´>」っていう記事になるのか全然分からんね

外国勢力の金は日本でももっと問題視して欲しいですわね
例えば
旧ポラリスプロジェクト・現ライトハウスが米商工会議所から金を受け取って
とんでもないレポートを上げてそれが米国務省報告書に反映されて外圧になるとか
ポラリスプロジェクトを立ち上げたのは韓国系女性
こんなあからさまなマッチポンプがまかり通る現状っておかしいと思うわ

参考
NYT "Foreign Powers Buy Influence at Think Tanks" 2014.9.6
http://www.nytimes.com/2014/09/07/us/politics/foreign-powers-buy-influence-at-think-tanks.html?_r=0
一応これ読んだ
日本が多額の献金をしていると書かれているのがTPPとか経済に関することで
歴史認識問題は関係なさそうなんだけど・・ 

動画を見て本を読んでどうにも釈然としなかったところから孫文を軸に手繰っているところであるが
騙され続ける日本人 お先真っ暗

ironna(産経のサイト)に何か書いてあるかなと思ったところ孫文がクソミソに書かれていて
一体誰がここまで書いたんかと思ったら黄文雄氏だった

台湾の人にはクソミソに書く権利があるだろう

国共合作・内戦の背後で蠢いた「赤色謀略」 
『月刊正論』 2006年8月号

日中共同防共戦略vs東アジア赤化戦略
(前段省略)

  もともと開国維新以前から、日本にとっての最大の脅威の一つは、東アジアへ南下しようとするロシアだった。だから維新後の大日本帝国の歴史は恐露から出発 し、日露戦争で一度はクライマックスを迎えた。その後ロシア革命が起こり、再びロシア(ソ連)は南下の勢いを見せた。これが東アジア赤化の脅威である。か くして日本では軍事とイデオロギーが一体となった脅威論が醸成され、「防共」と言うソ連との軍事的対立が国防上の至上の課題となった。

  日露戦争以降の日本の国家戦略は、主に対ソ戦を想定しており、陸軍は主力を関東軍に投入してソ連軍の侵攻に備えた。そして日独防共協定、日独伊三国同盟も 締結したものの、そのために米英との対立が深まり、日本は突如、北守から南進へと戦略転換し、支那事変から大東亜戦争へと戦火は拡大した。アメリカが対日 戦争を決意した背景には、スターリン指導のコミンテルンによる策謀があった。また日本の側でも共産主義者の開戦誘導の謀略があったことは、三田村武氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』に詳しい。

 さてその間、日本が立てた目標は中国との「共同防共」だった。満州事変、支那事変が始まっても、日本によるこの日中連帯の呼びかけは続けられた。つまり「共同防共」の実現が日本の最も望むところであって、ソ連の脅威を前に、中国などと戦っている余裕などなかったと言うのが実情だった。

 つまり「日中戦争」なるものの実態は、日本が中国の挑発に振り回され続けていたと言うものだ。だからこそ日本の政府も軍部もあれほど、いかに戦争を回避するか、いかに戦争を終結させるか(和平を結ぶか)で悩み続けていたのである。

  もちろん日本だけでなく、それと近いような悩みは蒋介石も汪兆銘も抱いていた。ことに汪兆銘は日中全面戦争の最中、最も憂慮したのは戦争に乗じて共産党が 勢力を拡大することだった。だから彼は重慶政府と袂を分かち、南京政府を樹立して日本と和平を結び、「共同防共」に乗り出したのだった。実際汪兆銘の憂慮 は的中し、蒋介石は日本には勝利したものの、それですっかり戦力を消耗し、他方「全力の七分を党の発展に、二分を国民党との対抗に、一部を抗日に」との毛 沢東戦略でやってきた共産党は、それとは逆に勢力を広げたのだった。もちろんこの共産党とは、東アジア赤化のためのソ連の傀儡である。

コミンテルンの陰謀に対処できなかった日本
 中国人は偽書「田中上奏文」を日本の中国侵略の証拠とし、日本の「野心」「陰謀」だけに日中戦争の原因を求めようとする。こうした日本侵略史観は日本でも横行したが、いまでは教科書に名残をとどめている以外には、ほとんど退潮しているようだ。

  支那事変にまで至る民国以降の日中間の齟齬の背景に、日中を離間させようとした米英の国家戦略、世界戦略があり、日本がそれに乗せられたとする説は、とく に保守派学者の間でよく見られるが、日中戦争の原因については、少なくとも次の三つを挙げなければ何も語れないだろう。

 時間的順序に従って言えば、(1)民国の内戦、(2)コミンテルンの陰謀、(3)日本の対応の不得手だ。

  (1)については、辛亥革命(1911から12年)で中華民国が樹立されて清帝国は崩壊したものの、孫文の南京臨時政府も、それに次ぐ袁世凱の北京政府も 国家統治に失敗し、そのため南北対立、各省、各地の対立が深まって多政府状態となり、中国史上空前のカオス状態に陥った。それらの対立は北京政権を巡る北 洋軍閥の内戦、南方の広州政権を巡る革命派、軍閥の内戦、湖南・湖北間での連省自治派と統一派との内戦、広西・広東間での内戦、北方軍閥と南方革命派との 間の北伐と南征、さらには国民党内での軍の実力者同士の抗争、戦争があり、そして西安事件まで続いた熾烈きわまりない第一次国共内戦もあった。

  各派武装集団の抗争は、省レベル、県レベル、村レベルにまで及び、たとえば辛亥革命以降の約20年間で、四川の一省だけで軍閥内戦は五百回も発生した。そ のほか匪賊が跋扈し、その数は2000万人にも達していたと推定されている。国民党の内部諸勢力間の内戦である中原大戦では、百五十万人もの兵力が動員さ れ、30万人もの死者を出している。

 たしかに蒋介石は1928年、北京政府を打倒して北伐を完了し、国家権力を掌握しつつあったが、なお蒋介石系以外の各武装勢力に号令するまでの力はなかった。

 このような中華民国内の混乱こそ、日中戦争を醸成した温床と言うことができるだろう。

  (2)のコミンテルンの工作については、戦後の日本ではあまり語られていない部分だが、1921年のコミンテルン指導下における中国共産党の創立から、国 共合作、国共内戦、そしてコミンテルンの解散に至るまで、中国の排日、侮日の運動、事件の背後には、コミンテルン=スターリンの謀略が見え隠れしていた。 もちろんコミンテルンは中国だけに限らず、日本、アメリカ等各国の政界で暗躍をしていた。

 (3)については、たとえば盧溝橋事件から終戦に至るまで、日本はあらゆる手を使って和平交渉を試みたものの、すべてに失敗している。

近代中国の争乱の元凶は孫文
 近代中国の争乱と悲劇の元凶のすべては「中華民国建国の父」「中国近代革命の父」などと讃えられている孫文だと指摘する人は実に少ない。しかしこうした認識がない限り、近代の中国史、日中関係史は正しく語れない。

 もともと日本人の支持、支援、援助、指導あってこその孫文の革命運動だったが、辛亥革命後は自分中心の政権を樹立するまではと、延々と革命闘争を続け、そのおかげでこの国の争乱は拡大し、挙句の果てには日本を裏切ってコミンテルン幕下に入り、その指導の下で国共合作を行い、やがてそれが元で国共内戦が発生したと同時に、排日、侮日の嵐が巻き起こったのだ。
(→「コミンテルン」という厄災を招き入れた孫文の誤謬

 孫文が革命を指導して中華民国を樹立したと言うのは国民党のデッチ上げである。孫文が指導したと言う華興会、光復会、興中会三派の連合体である革命同盟会は、宮崎滔天、内田良平ら日本のアジア主義者の斡旋、支援の下、東京で発足したものだったが、発足後は孫文の革命路線、革命資金濫用の問題で空中分解した。(資金濫用ってなんだろう!?)

 そして辛亥革命は反孫文系の人々により偶発的に始まった。当時孫文は追放の身としてアメリカで隠居生活を送っており、まったく関与していなかった。 ただ革命後の臨時政府の発足にあたり、臨時大総統には国際的に知られていた孫文以外に適任者がいなかったため、帰国した彼が一時的にその地位には就いた。 だが財政資金は集まらず、各省の革命基地も維持できず、そして列強からの政府承認もえられないので、それから3ケ月未満で孫文は、周囲からの反対を押し切 り、革命の敵である北京政府最大実力者、袁世凱を「中国のワシントン」と讃え、政権を譲渡し、自らは袁世凱初代大総統の下の鉄道部長となり、美女を連れて西太后の特別列車に乗り、全国周遊の旅に出ている。

  やがて袁世凱による国民党党首の宋教仁の暗殺や帝制復活を受けての反袁気運が高まると、孫文はそれに乗じて第二革命(1913年)に参加したものの、敗れ て東京へ亡命。第三革命(1915年)の雲南蜂起ではまったく蚊帳の外。第三革命は袁世凱の死去で終焉したが、孫文はまったく自分の出番がないため、南方 の地方軍閥を誘っては内戦を引き起こし、三度にもわたって広州軍政府を作り、北京政府に対抗した。かくして中国は五代十国以上に混乱した多政府状態となっ た。

 孫文は軍事力もなければ政治資金もない一介の「革命浪人」だから、日本など外国以外には、いつも軍閥頼みだった。たとえば広東で3 度目の軍政府を作るにあたっては、「客軍」と言われた全国各地の軍閥、匪賊などの武装集団を誘い込んでいる。そのため現地の政府各機関は軍閥に占領され、 住民は略奪を受け、理不尽な重税を課せられた。孫文は抵抗した広州の商団の武装組織との抗争で、住民大虐殺も行っている。

 私は魯迅の『阿Q正伝』の愚かな主人公阿Qは、孫文がモデルではないかと考えている。それについては拙著『中国が葬った歴史の新・真実』(青春出版社)で詳述している。

国共合作が行われた裏の理由
  中華帝国建国の父である始皇帝と、中華人民共和国の父である毛沢東は、いずれも実力で天下を統一し、国造りに成功した。しかし孫文はそれらとまったく逆 だ。彼が中華民国の「国父」と呼ばれるのはなぜか。それは日中戦争中に汪兆銘が、もう一つの中華民国政府を南京に作る政略に危機感を抱いた蒋介石が、自ら の正統性を裏付けるため、勝手にそのような祭り上げをしたからだ。

 孫文は辛亥革命以前、十回蜂起を行ってすべてに失敗し、その後の第二革命も三度の革命軍政府もみな失敗している。そのため「失敗の英雄」と呼ばれ、彼自身も遺言の中で「革命未だ成功せず」と言い残して死んでいる。彼が参加しなかった辛亥革命や第三革命だけが成功したことから見ても、結局は疫病神のような存在だったのだ。

  この孫文が晩年、いかにしてソ連に接近したのだろうか。孫文は北京政府を不満として広東政府を作り、「こちらが正統な中華民国政府だ」と主張したものの、 辛亥革命前のように日本の官民や欧米からの支援も受けられず、孤立無援の状態に陥った。レーニンに抱きついたのはそのためだ。

 当時孫文は、「仏、米の共和国は旧式であり、ただロシアだけが新しい。吾人は本日より最新の共和国を作る」とまで表明している。

 もちろんこのソ連への接近には、ロシア革命からの影響もあった。1917年にその革命が成功すると、「新しい共和国は中国のよき隣人となった」「ロシアは専制から共和国に代わったのは、中国の影響だ」と勝手に思い込んでいる。

 中国に反帝国主義の親ソ政府を築きたかったソ連にとっても、北方の最大実力者である呉佩孚、あるいは軍の実力者である馮玉祥よりも、孫文が一番手懐けやすかった。かくして工作対象は孫文に絞られた。

 1921年、レーニンの秘書マリーンの 指導の下、上海で中国共産党が発足した。同党の当時の二大指導者は陳独秀と李大ショウだった。この年12月、マリーンは広西省桂林で孫文と会って工作を 行った。これを受け孫文は「中国革命はソ連を鏡にするべきだ」と主張し始めた。22年8月にはマリーンから国共合作を提案され、孫文はソ連からの武器援助 を交換条件に、それを受け入れた。12月、孫文とソ連の代表ヨッフェとの間で、ソ連と国民党の提携が決まり、その結果出されたのが23年1月の「孫文・ヨッフェ宣言」である。

 中国共産党が強調する孫文の「連ソ・容共・扶助工農」への路線転換が行われたのはこのときだ。

 23年12月、国民党政治顧問として派遣されたボロディンから孫文は、「国民党は組織と規律が不完全で、大衆組織を持たず、官僚、投機主義者だらけだ」と指摘された上で、「全革命勢力を国民党に参加させよ」と勧告された。そこで孫文は国民党を改組し、反帝国主義、反軍閥の主張をより明確化させた。

 もともと国民党の組織はきわめて杜撰で、党首の孫文ですら党員数を把握していなかった。党費もなく、架空に近いマフィア組織だったが、このようにして革命政党として再生したのである。

国民党に寄生して拡大した共産党

 1923年1月、孫文とヨッフェの間で取り決められた「連ソ・容共」という国共合作の党策に対し、国民党内では大勢の幹部が反対し、党首の独断が非難された。しかし孫文は「党を解散しても、一人でも共産党に入る」と怪気炎を上げ、恫喝した。

  発足したばかりだった共産党にしても、国共合作には反対だった。総書記の陳独秀などは、「共産党を創設したのは、孫文の旧式革命を否定するためだ」とし、 「コミンテルンの指導は受けない」とまで言って激怒した。反対意見はその後の党全国代表大会でも続出、孫文が北方軍閥の張作霖、段祺瑞らと軍事同盟を結 び、日本帝国主義の援助を求めたことに激しい非難が集まった。だが最終的には国共合作を受忍した。党の経費はすべてコミンテルンから提供されていたから、 その指示には従わざるを得なかったのだ。

 国民党が国共合作によって得たものは少くない。その一つは従来の伝統的チャイナ・マフィア組織から、ソ連式の近代的革命政党にのし上がることができたこと。もう一つは武力と言えば地方軍閥、匪賊、マフィアを頼みにするばかりだったのが、ソ連の赤軍制度が導入されて黄埔軍官学校が作られ、自前の軍隊が持てるようになったことだ。

 蒋介石は軍官学校校長を経て武装集団のボスとなり、孫文死後は党内の群雄との抗争を勝ち抜き、実力者として擡頭している。

  一方、共産党も大きな利益を得た。なぜなら国民党に寄生しながら革命勢力として発展することができたからだ。共産党は国民党に寄生しながらも国民党と抗争 し、国民党が二つに分裂すれば、それらと三つ巴の戦いを演じた。混迷した情勢の中で、国民党左派の廖仲凱の暗殺、汪兆銘を首班とする武漢政府と蒋介石を主 席とする南京政府の対立など、さまざまな事件が起こっている。

(この先孫文は出てこないので略)

黄文雄
昭和 13年(1938年)、台湾高雄県生まれ。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。同61年に台湾で地下出版された『中国之没落』(新台政論 社)は大反響を呼び、反体制運動家の必読書に。中国を批判し日本を激励する言論を展開。著書は『中国・韓国が死んでも教えない近現代史』(徳間書店)『大 日本帝国の真実』(扶桑社)『満州国は日本の植民地ではなかった』(ワック)『日本人なら知っておきたい中国の侵略の歴史』(宝島社)『終韓論』(ベスト セラーズ)など多数。
ironna
http://ironna.jp/article/1064 

(´・ω・`)あぁもう何て言っていいか
悪いところはぜーんぶ見えなかったことにした本と動画にものすごい疑問が出て来てしまう

余談
個人的に気になってしょうがない黄埔軍官学校であるが
関東大震災で日本人10万人を虐殺した朝鮮人の黒幕

【wiki】黄埔軍官学校

(一部抜粋)
広 州が1928年に軍閥の攻撃を受けたため、南京に移り、1938年日本軍の南京占領後は成都に移転した。第二次世界大戦後、国共内戦により、共産党が勝利 し、国民党は台湾に逃れた。1950年黄埔軍官学校は台湾高雄県鳳山市で陸軍軍官学校として再建された。黄埔軍官学校の跡地 (zh:黄埔军校旧址) は1988年に中華人民共和国の全国重点文物保護単位に指定された。 

何と台湾に再建されたんですね(´・ω・`)

それでこんな記事が
台湾「黄埔軍官学校」で90周年式典

  【高雄=田中靖人】中国の革命家・孫文が1924年に設立した士官学校「黄埔軍官学校」の開校式から90周年となる16日、同校に由来する台湾の「陸軍軍 官学校」で記念式典が行われた。馬英九総統は「国軍は死を恐れず国家と民衆を愛する(設立当時の)黄埔精神を発揮することによってこそ平和と安定を築くこ とができる」と訓示した。

 黄埔軍官学校は中国広東省広州市郊外に設立され、蒋介石が初代校長、周恩来が校長を補佐する政治部主任に就任。抗日戦争や国共内戦の影響で四川省成都市への移転を経て50年、台湾の高雄市で再建された。
 この日は馬総統や退役軍人らが見守る中、航空機の展示飛行や陸海空軍の士官候補生の観閲行進などが行われた。
一方、広州にある同校の旧跡でも12日、記念式典が行われ、蒋介石のひ孫らが出席。台湾の電子メディアは「両岸(中台)が歴史の正当性を奪い合っている」と報じている。
産経ニュース2014.6.16
http://www.sankei.com/world/news/140616/wor1406160010-n1.html
 

歴史通 2015.3 を見ていて、ふと写真が目に留まる

歴史通宮脇淳子北京オリンピック民族衣装308年の北京オリンピック開会式で、漢族の子供たちに各民族の衣装を着せ、中国国旗を持たせて”民族の融和”をアピーする破廉恥ぶり。世界中が呆れ返った

 あら、これって

北京抗日記念館2
台湾人冷ややか中国「抗日共闘の誘い」

この画像にそっくり(´・ω・`)

それであらためて読んでみるとモンゴル史が専門の宮脇淳子氏がなぜ孫文に厳しいことを言うかも分かった
日本にとって良い人じゃない、だけではなかったのだ
満洲国とは何だったのか? 宮脇淳子


少数民族「絶滅」を企む中国の漢化政策 東洋史家 宮脇淳子

(一部抜粋)

p27・28
「五十五の少数民族」の罠

  中国には「五十五の少数民族がいる」ことになっていますが、これは中国に住む非漢人民族を、共産党の識別政策によって「五十五に分類した」という意味で す。そもそも1949年の中華人民共和国成立時には、少数民族は九つということになっていました。それが三十八民族になり、五十四民族になり、そして80 年代には五十五民族にした。

 なぜこのように増やしたのかといえば、ウイグルとモンゴルとチベットをそれぞれ「五十五分の一」にするため です。ウイグル・モンゴル・チベットのような、独自の歴史を持ち、かつて大帝国を建国し、一つの政治的・文化的共同体を築いた民族を、「民族に昇格した」 ばかりの一万人に満たないエスニック・グループとともに「少数民族」と一括りにして、ウイグル人、モンゴル人、チベット人の問題を五十五分の一に矮小化する意図的な企みなのです。少数民族五十五人の代表を集めて投票させたら、ウイグル人、モンゴル人、チベット人の意見は通らないでしょう。そのために歴史的な背景もない少数民族を認知して、反抗しているのはその五十五分の一にすぎないと見せかけているのです。

 2008年の北京オリンピックの開会式で、民族衣装を着た五十五の少数民族の子供たちと、漢族の子供が仲良く歩いてみせたのをご記憶でしょう。あの子供たちは、実は全員漢族でした。この厚顔ぶりが、中国の少数民族政策の実態をよく表しています。

 そもそも漢族はさまざまな出自を持つ人たちの集まりで、共通点は漢字を使うということだけですから、異民族・異文化に対して非常に鈍感です。少数民族はまだ漢族になっていないだけで、遅かれ早かれ漢族に統合されると本気で考えているその根は深く、孫文は1920年代の講演で、次のように言っています。

「中 華民族について言えば合計四億人いる。入り混じっているのは数百万人のモンゴル人、百万人余りの満州人、数百十万の回教(イスラム教)を信じるトルコ人だ けで、外来の者は一千万人にもならない。大多数、四億人の中国人はすべて漢人だといってよい。同じ血統、同じ言語文字、同じ宗教、完全に一つの民族であ る」「漢民族を中心に、満(満州人)、蔵(チベット)、回(イスラム教徒)などを同化せしめて、漢民族を改めて中華民族とする」

 中華民国総統を継いだ蒋介石は、これをさらに進めてこう言いました。
「中 国五千年の歴史は、各宗族共通の運命の記録にほかならない。この共通の記録は各宗族が融合して中華民族となり、中華民族が共同防衛してその生存をはかり、 中国悠久の歴史を作り上げている。・・・・要するにわれらの各宗族は実は同じ一個の民族であり、かつ一体系の、一種族でもあるのである。・・・・五族の名 称があるのは、決して人種・血統の違いによるのではなく、宗教及び地理的環境の違いから来ている。簡単に言えば、わが中国の五族の区分は地域的・宗教的なもので、種族的・血統的関係によるものではない

  この演説が、漢族の王朝ではなかった清朝の同盟種族をすべて「中華民族」と規定した始まりです。また、中国人は口を開けば「中国五千年」と言いますが、そ れもこのとき初めて言い出したことでした。「日本人はすべて天照大神の子孫の大和民族である。紀元前660年に即位した神武天皇以来、万世一系の天皇を戴 く歴史を持つ」という日本に対抗したのです。

(´・ω・`)民族自決の「民族」の定義を変えちゃえ!みたいな?
あーあり得んホントあり得ん

【wiki】辛亥革命
(一部抜粋)

反清思潮
清を構成する満洲人への反発は存在していたが、清中期には表面化することはほとんどなくなった。しかし、清末の政治的閉塞感から漢族の間に反満意識が形成されるようになった。太平天国では満洲人排除が政治主張に含まれ、1890年代になると明末の著作に刺激を受けて満洲人排除の潮流が発生してきた。清朝打倒を目指す革命運動家は反清復明思想を利用し、鄒容による『革命軍』などの著作が生まれ、知識人の間に広がった。孫文などの革命勢力は、満洲族を満洲に追い出して漢民族の明王朝が支配していた黄河・長江流域とその周辺地域に漢族の国家建設を目指そうとした。しかし、辛亥革命後は革命スローガンも「打倒韃虜」から独立の動きを見せたチベット、モンゴルなどの少数民族を漢族の支配下に置こうとするために「五族共和」を唱え始めた。

もう一度この地図
宮脇淳子中華民国1912
「満洲族を満洲に追い出して漢民族の明王朝が支配していた黄河・長江流域とその周辺地域に漢族の国家建設を目指そうとした」
うんうん
黄色いところですら統一されてないけども大体正しいとして

勢力圏でもない満州の日本権益を「侵略アルー!」っておかしな話
いわんやチベット、モンゴル、ウイグルをや。侵略はどっちだよ。

こんなカラクリだったんですな

中共プロパガンダの「対華21カ条=日本の侵略」にそのまま乗っかるのは少数民族弾圧の正当化にもつながるわけだね

五輪=開会式でまた問題、民族衣装の子供も「やらせ」
北京オリンピック開会式民族衣装3Early in the elaborate opening ceremony of the Beijing Games came a procession of children wearing costumes representing the nation's ethnic minorities. But each of the supposed minorities was actually a member of the Han Chinese majority.
http://www.wsj.com/articles/SB121863442122936737

 [北京 15日 ロイター] 北京五輪組織委員会(BOCOG)は15日、8日の開会式で中国各地のさまざまな民族衣装を着た子どもたちが行ったパフォーマンスについて、実際には民族衣装と子どもの出身地に関係がなかったことを認めた。

 同開会式ではこれまで、花火などの映像の一部が事前に制作された合成だったほか、歌の場面に登場した少女が本当の歌い手でなく「口パク」だったことも明らかになっている。
 BOCOGの王偉副会長は「中国の演者が異なる民族の異なる衣装を着るのはよくあること。特別なことではない」とコメント。「彼らは人々が友好的で共に幸せであることを象徴するために違う衣装を着るだろう」と釈明した。
 民族衣装を着ていた子どもたちは、子役の少年少女などが所属する銀河少年電視芸術団の団員と伝えられている。しかし、開会式に関するメディア向け資料では「中国の56の民族グループから56人の子どもが中国国旗を取り囲み、56の民族を表す」と説明されていた。
ロイター2008.8.15
http://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-33281420080815

【まとめ】
清(満州人王朝)
  
( `ハ´ )清王朝倒して満州人追っ払って漢民族の国を作るアル!
      (日本人も支援)
辛亥革命
手のひらクルー
  
( `ハ´ )満州人も漢民族
だから満州も我々のものアル!チベットモンゴルウイグルもな!

追記2016.2.8

【youtube】【河添恵子】 翁長雄志の中国人的 エ◯さ 2016年1月29日 【マット安川のずばり勝負】
37:12~
河 添恵子氏「中国が相当強く沖縄に力を入れていたっていうのは、習近平さんが1985年から2002年まで福建省にいたわけです。その時代あたりって厦門か ら始まって福州市に行って福建省の省長になるんですが、相当福建省と沖縄と交流してるんですね。ルーツを訪ねる旅っていうので久米三十六姓(【wiki】久米三十六姓)の方達が中国の福建省に行ってるんですよ。そこらへんで中国の工作が、要するに沖縄人は元々中国人だったみたいな、そういうことを90年代にやっていたんだってこの頃になって分かりました。それを考えると、東京側は沖縄はいいリゾート地だと思ってもそれ以上のこと考えない時期が長かったのかなという感じはします。」

既に沖縄も中国の少数民族にされる布石が打たれているわけです
全然他人事ではない

参考
天啓のようにコメントに降ってきたこのリンク
おかげで理解できた

酒井信彦の日本ナショナリズム 
辛亥革命における孫文の変節 
http://sakainobuhiko.com/2011/10/post-178.html 
産経新聞の優れた辛亥革命論 
http://sakainobuhiko.com/2011/10/post-179.html 

【月刊正論】
「世界征服」者たちと苦闘した記憶の覚醒こそ

(p3/5~後半抜粋)

「コミンテルン」という厄災を招き入れた孫文の誤謬
 3タイプの「世界征服」勢力に近代日本が攻撃を受けるきっかけは、いずれも中国だった。

 そして、それらの始まりは孫文の誤謬であり、その誤謬を拡大して孫文の政治革命の方法を継承した蒋介石であった。孫文が創始した中国国民党の革命方法の最大の特色は、徹頭徹尾、外国に依存することである。この「依存」が、近代日本に大いなる災難をもたらしたのだ。
孫文夫人の宋慶齢が回想しているように、孫文が世界中を駆けずりまわったのは、革命への観念的理解を求めるというような爽やかなものではない。経済的、軍 事的に全面支援してくれる国家を探すこと、つまり都合よく自分たちに内政干渉をしてくれる国を探すためだった。どこの国にも最後には相手にされなくなった孫文は結局最後には、ソビエトに全面依存した。

  K・カール・カワカミも「中国国民党はその便宜主義の性格の故に国際共産主義者とソ連政府の暗躍を許し、その結果ひどい報いを受けるはめになってしまった のである」と正しく指摘している(『シナ大陸の真相』)。孫文にとって日本は「選択肢の一つ」に過ぎず、彼の人生前半での親日主義は、外国への病的な依存 の表れであった。

 もちろん日本で孫文を支援した民間人は多く、彼らによって創作された「孫文神話」は今なお語られ続けている。彼らの側にも孫文に付け込まれる重大な内面的原因があった。「孫文神話」を創作した宮崎滔天内田良平らナショナリスト的な志士たちは、明治維新のロマン主義をもう一度、孫文率いる国民党の辛亥革命の中に見出そうとし、日中提携という錯乱に陥っていたのである。熱烈な孫文支持者で知られた玄洋社社員の末永節は、孫文と辛亥革命を祝って、上海の船上で日の丸を振りはしゃぎまわっていたという(保阪正康『辛亥革命を助けた日本人』)。
今日、中国政府は過去の日本が中国に「内政干渉」したことを激しく非難する。中でも、日本政府の対華21カ条要求(1915年)は、今なお反日運動が崇める最大の神話で ある。中国側を一番怒らせたのは、五号要求(当初は希望条項であった)にある「日本人顧問団の受け入れ・軍事方面は日本の保護を受け入れること」であり、 中国が日本の保護国になるということを意味するとよくいわれる(『歴史の嘘を見破る』岡崎久彦)。孫文もこの対華21カ条要求によって生じた激しい反日主 義運動に乗っかり、反日とソ連提携に傾いていった。しかしこれほど的を外れた日本非難も他にない。

 対華21カ条要求から何年か過ぎ、国民党指導部にはソビエトの政治顧問であるボロディンがやってきた。ボロディンは近代中国ではじめての軍士官学校(黄埔士官学校)をソビエト軍方式でつくっただけでなく、コミンテルン中国代表として中国政府内のど真ん中で堂々と諜報活動していた。黄甫士官学校ではソビエト軍の最高幹部だったブリュヘル将軍が軍事顧問として教育指導した。これらは、どうとらえても対華21カ条要求・五号要求の「ソビエト」版の現実化に他ならない。

  孫文は、同じことを日本にしてほしかったのだ。政治顧問と軍事顧問を派遣して国民党を導き、ソ連のように「内政干渉」してほしかった。ゆえに中国国民党が 対華21カ条要求の五号要求に激怒したのは、日本側が顧問派遣を自分たちではなく、袁世凱政府に申し出たことへの嫉妬心からだった。「反日」は孫文の「疾 妬」に由来するのである。

続きは月刊正論2月号でお読みください
渡辺望氏 昭和 47(1972)年、群馬県高崎市出身。早稲田大学大学院法学研究科終了。ブログ「倶楽部ジパング・日本」 (http://nozochan.blog79.fc2.com/)を開設。著書に『国家論-石原慎太郎と江藤淳。「敗戦」がもたらしたもの』(総和 社)など。
産経ニュース214.1.15
http://www.sankei.com/life/news/140115/lif1401150033-n1.html

日本出てけって言ってソビエトに依存ってこれはひどいよね
日露戦争とは何だったのかって誰しも思っただろうよ

参考
『対日「十五年戦争」への前奏曲~かくして大陸は赤く染まった』
http://ironna.jp/article/1068

コミンテルンの拠点・黄埔軍官学校
関東大震災で日本人10万人を虐殺した朝鮮人の黒幕

辛亥革命を支援した日本人 梅谷庄吉
騙され続ける日本人 お先真っ暗
満洲国とは何だったのか? 宮脇淳子

騙され続ける日本人 お先真っ暗 
本を読んで非常に釈然としない気持ちになったのだが
丁度コメントもらってあらためて動画を見てスッキリ


【youtube】【宮脇淳子】未来への指標〜満洲国とは何だったのか? [桜H24/2/6]

0:52~
 100年前の1月1日に中華民国が出来たことになってまして、2月の12日に清朝が崩壊して、丁度百年前なんですね。王朝がなくなって、皇帝がなくなって、中国は近代化したと。それで孫文辛亥革命を日本が後押ししたと。だから偉い孫文は近代中国を作ったんだと。だから台湾でも国父だし、大陸でも尊敬されている。そんな中国人滅多にいないと。というのは実は非常に怪しい話だっていうことからいきます。

 孫文さんを応援したのは日本人で、英語が上手だったから恰好良かったんですね。それで中国を早く近代化したいと思っていた日本人が、孫文に、ホントにお金も人もみんな援助したんですよ。ところが彼は中国の内部に地盤がなくて、ハワイで教育受けて英語は上手だけど内部に何も地盤がないので、結局軍閥やら袁世凱やらを抑えることも出来ず乗っかってただけで、で、孫文は10回も革命に失敗してその都度日本に助けてくれって来て、で日本人はその都度人良く助けたけれども、とうとうあまりにもうまく行かないので日本人が愛想尽かして日本人からお金が来なくなった途端にソ連と組んで国共合作をして、今度はソ連になびいて、で、それが今の中国なんですね。だから日本にとってはね、全然いい人じゃないんですよ。

 だから革命同志からは評判悪いし、中国人はあまり評価してないけど、日本人が評価したので有名になって、日本のせい。しかもですよ、第二革命、袁世凱にも負けて日本に逃げ込んできたのに、日本人が宋財閥、宋三姉妹の慶齢さんと結婚させたんでまた生き延びたんですね。日本人て人がいいでしょ。昔からね。

 満州国は侵略だ侵略だ、日本人が中国にいたのはおかしいってみんな言うけれど、その地図どうぞ見せて下さい。

宮脇淳子中華民国1912


  結局ですね、中華民国が出来たのに日本が悪さしたみたいに言うけれど、実際には1912年に成立した中華民国は最初から14省、南の方の国家作りであっ て、チベットやモンゴルや新疆はこんなのとは一緒にやらないと言っていたし、中華民国は袁世凱がいる間はまだ良かったんですが、1916年袁世凱死ん じゃった後はもう四分五裂の軍閥闘争で、あの黄色いところが一応中華民国ですけども、でもそれでも中が一つじゃなくて政府がいっぱいあると。じゃ誰を応援 したらいいのか、誰を後押ししたらいいのか日本は全然分からなくて、それで満州はロシアが入って来る、ソ連が入って来るっていうことで、日本は日露戦争後 の投資をどうやって守るかっていう。だから、投資を守りたいから21カ条要求、で日露戦争後の日本の権益を中華民国にも保証してもらわないと、その前にし た投資が消えちゃうわけですよね。それで21カ条で日本が悪い、侵略したって言うんだけど、じゃ中国はちゃんとその受け皿があったのかと。邦人保護してくれたかと。 日本の商社マンとか家族とか企業とか、ちっとも保護してくれないわけですよ。それは日本だけじゃなくて、欧米の工場もみんな保護してくれないんで、みんな 邦人保護で、自分の国の国民を保護するために実は軍艦が並んでて、で蒋介石にお前が何とかしろと言って揉めるわけですね。

 だから蒋介石は実は日本と組んでる方が安全なので最初は一生懸命共産党を討伐していたわけですよ。だって日本が出て行ったら道は整備するし工場は建てるし人は雇うし、国作りを助けてもらってるようなもんで、投資してるわけでしょ。で共産党は行く先行く先で食べ物は奪うわ人は殺すわね。潰して歩いてるわ けです。言ってみればね。後先見ずに。日本の方が話がつきやすかったんですね。蒋介石は。実は。だけど今じゃ誰もそんなこと何も言わないでいかにも最初か らしっかりした日本のような国があって、人の国にわざわざ出て行って何て悪いやつだって言われるけどそれは歴史はちゃんと順番に見ていかないといけないの よ。だから実際には統一も何もされてないのよ。だからこれが今の少数民族問題の元な んです。チベットもモンゴルもイスラムも全然中国じゃない。言葉も違うし宗教も違う。モンゴルの下の軍閥、ここは今内モンゴル。内モンゴルの草原でモンゴ ル人がいるけども、軍閥が軍持ってどんどん入って行くのでなくなって行ってたわけですね。もちろん独立運動はするんですけどね。でチベットはイギリスが後 押しするっていうような。

宮脇淳子清朝


 清朝というのは中国ではなくって五つの種族の同君連合国家ですけども、中国人は白いところだけ、チベット、モンゴルそれからイスラムは別々に暮らしていて満州人という漢字使わない人達が(後の井上和彦氏との会話により部分修正:筆者)一 番上に乗っかっていてゆるい支配をして、連合体だったと。で、日本が行く前の満州は、満州人の故郷だけども人が少なくて、そこに目をつけたロシアがどんど ん入ってきたのが日露戦争の原因なんですね。チェチェン・ハーンというのはモンゴル人、チンギス・ハーンの子孫です、みんな。あれが今モンゴル国と内モン ゴルに分かれたわけ。だから北京はこの大きな連合体の首都で満州人の首都だったんですけれど、北の方はやっぱり清朝側なんですよ。要するに辛亥革命起こっ たけども私達清朝の方が好きだと。ずっと思ってるわけですよ。孫文達は南の人達なんで、北は危なくて乗り込めないので南京を首都にして南にいたわけ。だからナンジンじゃなくて南の方言でナンキンというのね。

  だから中国って一つじゃないんですよ。沢山の人達が住んでるから、大きく分けても南と北で文化が違うし、北のもっと北はモンゴル人だったり、草原だったり 森だったりしてまた違う文化で、万里の長城より北は元々中国じゃなかったところだし、色んな人達が沢山別々に住んでるわけですよ。だから日本と違うわけで 日本人が邦人保護に出て行ったことをそんなに文句言われてもね、っていうのがあるんですね。ついこの間、1912年までこれだったんですもん。だから要す るに中国は100年しかないわけ。生まれてから。だって中国っていう国が出来たのは1912年で丁度100年ですよ。だから本当はシナの方が正しいんです けどね。片仮名でね。チャイナだからシナでいいんですけどね。

10:56~
 何で日本が満州出て行くハメになったかというと結局 日露戦争で日本がロシアに勝っちゃった。そうすると賠償金のかわりに鉄道を渡す。そういうことで満鉄の元になる南満州鉄道を日本はロシアから譲られちゃっ たんですよ。しょうがないでしょ。日本は鉄道経営しなきゃいけないんで日本人は1906年から頑張って出て行くことになったんですね。

宮脇淳子満州


  その南にある広東州というのは元々日清戦争で清朝からもらったやつを三国干渉で無理やり返してたわけですよ。一番南の旅順大連ね。日本は実は日清戦争で獲 得してたのにロシアとフランスとドイツの三国干渉で返したらロシアが取ったと。返したらロシアが取って、鉄道を引いて完全にロシアが分離支配しちゃったの よ。それで日本は満州はロシアのものでもいいけど朝鮮までは来るなと言ったら、いや朝鮮も、ってズルズルと出て来たんで日露戦争したわけ。で勝っちゃった ら朝鮮はもちろん日本の勢力圏だけども満州もロシアは日本に譲らざるを得ないというんで、満州を譲ると同時にこの南満州鉄道は長春の南から日本のものに なったんだけどそうしたらロシアはその沿線からも手を引くと言って日露協約で縦線横線を日本とロシアは3回決めたの。秘密条約でね。なぜかと言うとね、清 朝は自分達の土地だったのにね私はロシアの味方もしません日本の味方もしません勝手にやってくれって手引いちゃったのね。それで日露戦争したらロシアは負 けたけど、あ、日本と話をつければいいんだと。当時は世界中が植民地支配してた時代ですからね。それで日本とロシアが鉄道の接続で沢山協約を結んだ時に、 南満州は日本の勢力圏、北満州はロシアの勢力圏、北京を通る東は日本、西はロシアと、お互いに入って来ない、それ以上はお互いにしないと決めてたんです ね。そしたら辛亥革命が起こって、それで日本は日露戦争以後投資しているところを何とか継続したいので21カ条要求を袁世凱に出したと。だから決して日本と清朝との関係だけで21カ条があるわけじゃなくて、ロシアが絡んでいるわけですね。そういう風に見なきゃいけないんで、世界史になっちゃうんで、難しいんですね。

  袁世凱は結局それを引き受けて、日本から沢山の支援金もらって、それで中華民国の政治を始めるわけですよ。孫文はその時に日本に亡命してて、袁世凱の悪口 散々言って、私にもし国を任せてくれたらあの時の希望条項、日本の軍隊、武器持ちますよ、顧問入れますよ、孫文が言ったんです。先に。日本の民間にね、袁 世凱じゃなくてもし私味方してくれたら私だったらもっと日本に譲歩しますって言ったの。それが外務省に伝わってそれを袁世凱に言ってみたらはねつけられた んですけどね、当たり前ですけど。孫文はだから日本にとって、全然いいことしてくれてないなと。だから中国人は言うこと信用しちゃいけないです。昔から。

  お互いのライバル関係のために、みんなが日本に来て、援助してくれって言っては相手の悪口言うとか私だったらこう言うとか、日本はやっぱり賢くないという か外交下手だったから、今も下手だけど、あの時は長い間鎖国してるので、外国に翻弄されちゃうんですよね。聞いてたらがっかりするのね。それだけの話です よ。でも日本人マジメなんで、張学良はもう日本に追い出されたって言って散々文句言って異国である中国に入って来てけしからん日本人出てけ全部置いて出てけって張学良が言ったでしょ。それが満州事変の原因でしょ。その張学良が建てたお屋敷ですよ。

宮脇淳子張学良のお屋敷

 取った税金は全部軍隊に回すし(先軍政治かw)、 国民のことなんかちっとも考えてないし、しかもこの人満州人じゃなくて万里の長城の南から後から行った人だから、それなのに中国人だからここは私が取る権 利があるみたいなね。それで日本は満州事変で保護しちゃった、おかげで、外国に馬鹿にされないように必死になって街づくりをしたわけですね。どんどん投資 をして、近代的に。

宮脇淳子満州街並み

 国力あげてじゃんじゃん投資をして整備をして、おかげで中国人も結構いい生活というか。

宮脇淳子奉天街並み

  日本統治時代の奉天も平和な感じしません?だって日本は商店も出してるし、普通に混じって住んでるんですけど、これは内モンゴル人の楊海英さんが言ってる んだけど、日本人はモンゴル人だ、というだけで殺さないよねって。つまり中国人はこの土地が欲しいって思ったらモンゴル人だろと言って殺すような人だと。 日本人は法匪って言われたの(法が法がってよほどうざかったんですかね日本人)。法律守る人なの。法律に則って全部やるから、その土地の人が日本の支配だから悪かったかというとそんなことないわけですよ。軍閥が支配してる方が税金は勝手に上げたり、あんな勝手な建物建てたり、南攻めに行っては物資をよこせと言ってみたりす るけど、日本人はみんなのこと考えるから、だから植民地って言いたくないですね。植民地にも二つの定義があって、ヨーロッパはアフリカやら東南アジアや ら、例えばオランダのインドネシアでも現地にちっとも教育制度置かないで奴隷扱いして見下して、働かせて吸い上げたでしょ。日本は投資してるんですから現 地に。学校は作るし。

宮脇淳子撫順炭鉱

 これが有名な撫順炭鉱。 炭鉱開発しないと満鉄走りませんからね。一生懸命こうやって近代的な炭鉱作って石炭を採る。これは満鉄が経営したんですね。満州事変は1931年ですけ ど、その前も25年間、四半世紀満鉄が満州に散々投資をしてすごくきれいに、港も作り鉄道も整備し、付属地を作り学校を作り病院を作り、炭鉱を作り、して いたらあの張学良が、ここは中国だから全部置いて出ていけ、補償もなしにね、出てけ出てけって打ち壊したりいじめたり、朝鮮人の土地を取り上げて、朝鮮人 は日本人として入って農民をしてましたからね。それまでに売った書類を全部没収して、法律守らないわけね。つまり外国との条約と考えてないと。 そこはやっぱり中国は政治が先なので、前の人が決めたことも、それは俺が決めたことじゃないからってご破算にして、、ということで昔は軍隊持ってたんでこ んなわけにはいかないって、じゃぁもう軍しかないねって言って満州事変なっちゃったわけですよ。で今は軍ないから、じゃどうすんでしょうね?

22:00~
 これまでのね補償もなく全部捨てて置いていけなぜならここは中国だからって。日本が投資をはじめた頃は中国じゃなかった。後で中国になった。中華民国はまだなかったし。でロシアとの話し合いで決めたことだったんですけど、それを遡って返せっていうのが満州事変の原因。自分達の援助で、ま、傀儡国家ですけど作ったんで、それを世界並のレベルにしようと大投資したんです。それが今の中国に繋がるわけですね。だって日本の教育のおかげで中国人のレベルが上がったんですよ。鉄道だって。

宮脇淳子アジア号

 あじあ号。有名な。あの何もなかった土地にこうして鉄道の路線をはりめぐらせて近代化した日本と。これが現代中国のはじまりになってるのに、それを悪い悪いと言われて。歴史というのはやっぱりその時の実情を虚心坦懐に見る。ということでないと本当のことは分からないと。今から遡って政治政治って言っちゃうと本当に分かんなくなる。本当のこと分かんないといけませんと。


聖徳太子一万円
(だから言ったのに・・・・)

福沢諭吉一万円(だから言ったのに・・・・)

シナとはやってかれんわ!!ブチギレ!!
これが日本の歴史なんでございますね

(´・ω・`)お札を見~れば思い出す~~♪ 

辛亥革命を支援した日本人 梅谷庄吉 続き

こちらの動画
 
【youtube】支持孙文的日本人,梅屋庄吉与辛亥革命(字幕)
貴重な資料を元に作られた動画なのは疑う余地はないし
埋もれた史実がこうして公開されて目にすることが出来たのは大変感謝するところなのだが
結局お決まりの「日本が悪い」に帰結するんでウンザリした
それで本を読んでみたらもとの本がそうなんで、動画製作者のせいじゃないんですね
悪名高きNHKエンタープライズだからてっきり。

革命をプロデュースした日本人
小坂 文乃
講談社
2009-11-17


p222~224

 実は、孫文は、上海から天津経由で北京へ向かう途中、日本に立ち寄っている。

 孫文が上海を出発したのは、1924年11月22日、日本へ向かう船の中で記者会見をし、こう述べている。
「今回の訪日の目的は旧友との再会、日本人の対中観の再確認、不平等条約廃止への援助要請が主眼である」

(略)

 4日後の11月28日、兵庫県神戸高等女学校行動で、結果的には、日本への遺言ともいえる名演説を孫文は行っている。演題は「大亜細亜主義」。

 ポイントを書きだせば次のようになる。

 いまでこそアジアの国々は欧米列強の植民地になっているが、数千年以前は、アジアは最も古い文化の発祥地であった。

 欧米の文化とアジアの文化の違いは何か。欧米は科学の文化、功利主義の文化であり、それを用いて物質文明を築き上げた。飛行機、爆弾、大砲、小銃といった物質文明によってつくりあげた武力によってアジアを圧迫している。こうしたやり方を中国の古語では「覇道」という。

 アジアはこうした覇道文化を軽蔑し、「仁義道徳」という優れた文化を有している。この文化は人を感化するものであり、人を圧迫しない。人に徳を抱かせるものであって人に畏れを抱かせるものではない。こうした文化を中国の古語では「王道」と言う。

 アジアを復興させるには、仁義、道徳の王道文化を基礎にして、アジア各地の民族が連合していかなくてはならない・・・・。

 こう演説したあと、孫文の講演はクライマックスにさしかかる。

 日本民族は、すでに一面欧米の覇道文化を取り入れると共に、多面、アジアの王道文化の本質を持っているのであります。

 今後日本が世界の文化に対し、西洋覇道の犬となるか、あるいは東洋王道の干城となるか、それは日本国民の慎重に考慮すべきことであります。

 孫文はこう言って長い演説を締めくくった。日露戦争に勝利し、アジア各国から期待を浴び、模範国となったはずなのに、日本は違う道に進み始めている。”世界の一等国”の仲間入りをしたと思い上がり、中国に二十一カ条の要求を突き付け、さらには韓国を併合する。帝国主義的な野望をむき出しにし、アジアの国々に対して侵略的なスタンスを見せ始めた日本に対し、孫文が行った、最後の忠告だったような気がする

最後の4行
「世界の一等国」という言葉は
一大訴訟にもなったNHKアジアの一等国・ジャパンデビューを思い出しますね
【wiki】NHKスペシャル シリーズ 「JAPANデビュー」

それにしてもねぇ
アジアの王道ってこれか!?
北京抗日記念館1
朝鮮戦争とか←敗戦で日本が半島から引き揚げた途端にこれだよ
チベット侵略とか
中国のチベット侵略
中華様の素敵な覇道政治は枚挙にいとまがないですけど

それは中共のやったことだから?
じゃ台湾の二・二八事件は?あれは王道?蒋介石は西洋覇道の犬そのものでしょ?
宋慶齢も妹の宋美齢も一体何をしてたって言うの?
ルイス・シェンノート蒋介石・宋美齢
海外抗日記念館とフライングタイガース

この本には孫文と対立していた袁世凱についてちょっとあるくらいで中国批判は一言もない
一方日本にはこんなことを書くわけで
ワタクシの勉強が足らないせいか理解できない・・

p259・260
  中国は戦後、文化大革命という時代(1966~76)を経るが、毛沢東を信奉する紅衛兵は「封建的文物」を徹底的に破壊し、「反革命分子」を摘発した。庄 吉が中国に贈った銅像も、いくら孫文のものとはいえ、攻撃の対象になってもおかしくない存在であるはずだった。実際、南京の孫中山記念館にある孫文像は、 日本から贈られたということで破壊される危険にさらされていた。しかし、時の首相・周恩来が、
「その銅像は日本の大切な友人である梅谷庄吉から贈られたもの。決して壊してはならない」
 という指示を出し、中山陵の事務所に隠され、難を逃れた。そのほかの3基の銅像も、広州市の中山大学、マカオの国父記念館、広東の黄埔軍官学校跡地に現在も残されている。

  庄吉が贈った1基目の銅像が、南京中央軍官学校に運ばれ、除幕式が行われたのが、1929年10月14日。今年でちょうど80年がたつ。その間、日中戦 争、中華人民共和国の誕生、日中国交回復、政治・経済の諸問題など、日中の間には紆余曲折があったが、孫文は銅像となり、中国と日本、そしてアジアに向け て、「みな平等に幸せにする政治を」というメッセージを訴え続けていたにちがいない。

 庄吉の思いは、残ったのである。庄吉はこの世を去ったが、「庄吉」の東洋の平和への思いは、ずっと生き続けたのである。
(黄埔軍官学校ってコミンテルンの拠点なんですが・・
「コミンテルン」という厄災を招き入れた孫文の誤謬


像を守ったと周恩来を持ち上げる一方
同じことをしたのに全く無視される松井石根大将

ところどころ冷たい笑いがこみあげてくるのを禁じえない一冊でございました

そして日本はどこまでも騙されて踏みつけにされ続けるのだろうなぁと暗澹たる気持ちになるのでした

参考
正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現 さん
中曽根「対アジア侵略だった。『対華21か条要求』以降、侵略的要素が強くなった」・生き恥晒すな
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5918.html
これ読んで驚いた&
当時から日本は相変わらずgdgd外交してたんだなぁと

長崎県
孫文・梅谷庄吉と長崎
http://tabinaga.jp/sonbunumeya/index.html

満洲国とは何だったのか? 宮脇淳子 

【歴史戦 第8部 南京「30万人」の虚妄(2)後半】
台湾人冷ややか中国「抗日共闘の誘い」…「日本より、中国の外省人支配の方がずっと厳しかった」

台湾引き込み 共闘アピール
 北京市の中心部から南西へ約20キロ離れた場所にある盧溝橋は、1937年に日中戦争が勃発した場所として知られる。すぐ近くには敷地面積2万6千平方メートルの巨大な「中国人民抗日戦争記念館」がある。中国政府による国家プロジェクトとして建設され、戦争勃発50周年記念日の87年7月7日に開館した「愛国主義教育基地」の一つである。

 北京では近年、朝の散歩で公園に入るのにも5元(約90円)ほどのチケットを買うのが一般的になっている。ところが、大金を投じて建設された記念館は、全国各地の抗日記念館と同様、無料で見学できる。
館内には「日本軍暴行ホール」「抗日烈士ホール」など複数の展示室があり、大きなパネルや復元された現場模型が飾られている。中には直視できないほどの悲惨な写真や、日本の歴史学者から「修整されたもの」と指摘された写真も「日本軍の蛮行の証拠」として飾られている。

 12月中旬、極寒の中、河北省から来たという小学生を乗せたバス数台が記念館にやってきた。入館する子供たちに女性教師は「中に入ったら笑ってはいけない。日本軍が中国で何をしたのかをしっかりとみるように」と指示した。

親日感情が強く
 記念館の東側では、昨年末から工事が急ピッチで進められている。関係者によれば、建設されているのは「台湾館」。中央政府から直接指示された計画で、来年9月3日の「抗日戦争勝利記念日」までに完成しなければならないという。
 同年9月3日には同館で大規模な記念行事が開催される予定。その際、台湾の指導者を招待し、中台の“対日共闘”の場面を国内外にアピールすることが中国政府の思惑とみられる。
 同館関係者は「国民党の副主席クラスには来てもらいたい。抗日戦争の勝利に台湾同胞も大きく貢献したことを国民に広く知ってもらいたい」と話す。
「中華民族の偉大なる復興」など民族主義をあおるスローガンを掲げる習近平政権は、国内に向けて、台湾が50年間(1895~1945年)も日本に植民地支配を受けた歴史を「民族的な屈辱」と喧伝(けんでん)している。

敷地確保できず
 中国の対台湾関係者によると、中国当局は当初、台湾の親中的な政治家や企業家に、台北などで抗日記念館の建設を呼びかけた。資金支援も示唆したが、敷地が確保できないなどの理由で、進展しなかったという。

 そこで、中国当局は台湾の人たちが日本の植民地支配に抵抗したとされる写真や記念品、当時の日本政府が台湾で発行した旅券なども「皇民化の証拠」として大量に買い集めた。抗日戦争記念館の副館長、李宗遠は中国メディアの取材に、これまでに同館のスタッフを計3回台湾に派遣し、約700点の展示物を集めたことを明らかにした。
 李は「台湾同胞が日本の植民地支配に抵抗した努力を反映しており、両岸の歴史交流に大いに役に立つ」と強調する。
中国当局のやり方に多くの台湾人は冷ややかな反応を示している。ある北京在住の台湾ビジネスマンは「日本の後に中国からやってきた外省人政権の支配のほう がずっと厳しかったと思っている。台湾人が抗日戦争の勝利に大きく貢献したというのは嘘だと思うし、台湾館ができても行く気にならない」と話す。(敬称 略)
産経ニュース2014.12.25
http://www.sankei.com/world/news/141225/wor1412250018-n1.html

かと言って日本が黙って見ていたんでは取り返しのつかないことになるんですがそれは・・

「中国人民抗日戦争記念館」
【歴史戦】
日本国旗“踏みつけ”「勝利の象徴だ」中国が抗日勝利70年展を公開、最後は習主席賛美

 【北京=川越一】日中戦争の発端となった1937年の盧溝橋事件が起きた、北京市郊外にある盧溝橋近くの中国人民抗日戦争記念館で15日、「抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利70年」を記念する展示が、各国の駐中国大使や外国メディアらに公開された。日中外交筋によると、在北京の日本大使館関係者は参加しなかった。

  館内には南京事件や慰安婦問題、「強制労働」に関する史料などが展示され、「日本軍の残虐行為」と「偉大な勝利」が強調されていた。ガラス張りの床の下に 日本国旗を並べ、その上を参観者が歩く仕掛けもあった。参観者からは「反ファシスト戦争勝利の象徴だ」との声が聞かれた。

北京抗日記念館1
昨年11月の日中首脳会談で握手する両首脳の写真の傍らには、村山富市元首相による「歴史を直視し日中友好 永久の平和を祈る」との書も飾られていた。

 1時間強の参観ルートは、子供たちに囲まれて笑顔を見せる習近平国家主席の写真で締めくくられていた。一連の展示からは、「戦勝国」の立場をアピールして日本を牽制(けんせい)すると同時に、習氏を賛美して国内の求心力を高める狙いがうかがえる。
北京抗日記念館3
(歴代ファシストの面々・・・)
北京抗日記念館2
(何だこりゃww怖いわwwww)
産経ニュース2015.7.15
http://www.sankei.com/world/news/150715/wor1507150035-n1.html

参考
変容する「抗日」 

コメントをもらって気になった梅谷庄吉
続き→騙され続ける日本人 お先真っ暗

【wiki】梅谷庄吉
 にあったリンク

日本館で「孫文と梅屋庄吉展」、辛亥革命を支援した日本人

 【上海=河崎真澄】上海万博「日本館」で24日、清朝を倒した1911年10月の辛亥革命を成功させた中国の革命家、孫文(1866~1925)と、彼を生涯にわたって支援し続けた日本人資産家、梅屋庄吉(1868~1934)の交流を紹介する「孫文と梅屋庄吉展」が始まった。

  梅屋は孫文と「君は兵を挙げよ、われは財をもって支援す」との盟約を結び、現在の貨幣価値で1兆円を超える革命資金を提供したという。また、梅屋とトク夫人は、孫文と宋慶齢(1893~1981)の縁を結び、1915年に東京・新宿の自宅で結婚披露宴を開いたことでも知られる。

 24日の開幕式に出席した福田康夫元首相は、「(1895年に)2人が香港で出会ったときはお互いに20代。2人の生涯にわたる交流は現在の若い人たちにとっても示唆、指針になりうる」と話し、近代の史実が良好な日中関係に結びつくことに期待感を示した。

 また、梅屋の曾孫(ひまご)で日比谷松本楼常務の小坂文乃さんは、「志を同じくした日本人と中国人が100年前にアジア平和のために行動した歴史を、中国の一般の方々にも広く知っていただきたい」と話している。

  日本館では29日まで、孫文が贈った揮毫(きごう)「同仁」(平等に愛する)や当時の写真など貴重な資料74点を展示し、写真館と映画で財をなした梅屋が 手がけた当時の映像も交え、2人の友情と歴史をドキュメンタリーとしてまとめた映像(約15分)を上映している。9月以降、北京、武漢、南京でも引き続き 展示を行う。
産経ニュース2010.8.24
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110125/chn11012515210029-n1.htm




孫文像は日本軍が守った梅谷庄吉松井石根

https://books.google.co.jp/books?id=NYHd80NLyMcC&pg=PA131#v=onepage&q&f=true

孫文と松井石根大将は親友
この像は梅谷庄吉が寄贈したもの

(´・ω・`)そうなんだ・・・

どう受け止めていいやら・・

毛沢東宋慶齢周恩来
【wiki】宋慶齢

追記2016.2.4

【youtube将来の戦争を回避するために歴史を学べ やまと新聞 水間政憲「国益最前線レポート」#43後編《12 27》

15:48~
水間政憲氏「松井大将は自分の希望で中国に赴任して16年間も駐在武官として居て、孫文なんか支援して、その繋がりで蒋介石日本に来た時に蒋介石の下宿の世話人ま でやってんですからね。下宿の世話人って親も同然でしょ。そういうような、本当の武将ですよ松井大将はね。松井大将だからこそ今現在も南京のことに関して ね、ここまで我々も力いっぱい、これは絶対おかしい、あの松井大将が、キレイだからって赤いハイヒール持ってただけで従営倉行きですよ。厳罰ですよそれだ けで。斎藤良衛って国際法の学者も帯同してたんですよ。敵の首都陥落させるには、世界から非難されないように何があっても国際法を遵守しなきゃいけない、それで、戦略的にはすごく不利になるにも関わらず、進軍経路から言って非常に有利になる、それは孫文の記念館が、博物館がある中山陵、そこを横切れば戦略上すごく有利だったにも関わらずそこは一切侵入して踏み込んじゃいけないっていう厳命が出て、中山陵は完全に守ってたんですよ。陥落の当日。

松井大将は孫文を支援して、孫文の大アジア主義、大アジア協会の会長なんかもなさってましたからね。田中正明先生なんか秘書として南京攻略戦の前に蒋介石に会ってんですからね。本当に、松井大将は中国人が大好きで、その中国人に最終的には騙されたんですね。

だから今歴史から学ぶってことはどういうことかって言いますとね、私はね、一年間通して確信持ったのがあんですね。やっぱり未来のこと考えてどうのこうのじゃなくて、今、歴史を学ぶってどういうことかって、ズバリ一言。戦争を回避することですよ。」

参考
A級戦犯ではなかった松井石根大将 


【youtube】支持孙文的日本人,梅屋庄吉与辛亥革命(字幕)

一方的に日本が悪者になっておりますね毎度のことながら。
今「東洋平和」と聞いてもうすら寒いだけ 

忘れない勇気 (潮ライブラリー)
徳留 絹枝
潮出版社
1997-11


ホロコースト否定者と戦い続けて
アブラハム・クーパー
(サイモン・ウィーゼンタール・センター副館長)

1950 年、ニューヨーク生まれ。サイモン・ウィーゼンタール・センター副館長。反ユダヤ主義、ホロコースト否定などの問題に取り組む。94年に東京都庁で「アン ネ・フランクとホロコースト展」を開催(*1)。同センター機関紙「Response」の編集長。「ロサンゼルス・タイムズ」「ジャパン・タイムズ」など にも寄稿。

p221~223
  クーパー師は、サイモン・ウィーゼンタール・センター創立者で館長のマーヴィン・ハイヤー師が77年、ロサンゼルスに活動的な新しいタイプのユダヤ人団体 を設立しようとしたとき、当初から参加した人物だ。二人ともニューヨーク出身で、ユダヤ教の教えを最も忠実に守る正統派のラバイ(ユダヤ教の導師)であ る。短期間の間に、会員40万人を擁する世界最大級の人権擁護団体に発展したウィーゼンタール・センターの成功は、ハイヤー師の理念とクーパー師の行動力 に負うところが大きかったといわれる(*2)。とくに、センターの海外での活動と広報活動を指揮してきたクーパー師は、センター顧問のアルフレッド・バリ ツァー教授(クレアモント大学)によれば、政界、マスコミ界の機微を知りつくしているという。

 クーパー師はこれまで、米国内、世界各地 を訪れ、大統領をはじめ国内の有力政治家、中東、ヨーロッパ、アフリカ、中国、ロシアなどの政治指導者、人権活動家、宗教指導者と会見し、センターがめざ す「異なる者への寛容」を訴えてきた。また彼が書く、反ユダヤ主義、人種差別、ホロコースト否定、そして最近ではインターネット上でのネオ・ナチグループ の活動に関する論評は、「ロサンゼルス・タイムズ」などの有力紙に頻繁に掲載されている。パリツァー教授は、有能な広報マンとしての彼の最終的な武器は” 老練さプラス信念に支えられた誠意”であるという(*3)。

 クーパー師とホロコースト否定者との戦いには長い歴史がある。彼が編集長を 務めるセンターの機関紙『Response』を見ると、センター設立当初からすでに否定者グループの活動を報告し始めていること、そして、クーパー師の姿 勢が最初から一貫していることがわかる。1982年、彼はロサンゼルスのある高校教師が「ナチスに虐殺されたユダヤ人が600万人というのは誇張である」 と教えていることに対して「われわれは、言論の自由はまもらなければならないが、歴史の真実を守る責任もある」と抗議している(*4)。

 その後クーパー師が摘発し抗議したホロコースト否定者たちは、シリアの国防大臣、フランスの大学教授、PLO指導者、そして地元カリフォルニアに本拠地をおくホロコースト否定団体「インスティチュート・フォア・ヒストリカル・レヴュー」と枚挙にいとまがない。

 これらの否定者が主張する”説”がほとんど同内容であることから、ウィーゼンタール・センターでは、それらの一つ一つに答えた『Holocaust Denial』(ホロコースト否定)という小冊子を発行している(*5)。

反ユダヤ出版物の蔓延と「マルコポーロ」事件
  クーパー師は、1980年代後半から日本で出版されるようになった反ユダヤ出版物の蔓延を憂慮し、その頃から頻繁に日本を訪れている。東京中の書店を何軒 も訪ね、「ユダヤコーナー」まで設けられている書店があることを知った。しかし同行したパリツァー教授によると、クーパー師が、日本における出版物が、必 ずしも彼が長年戦ってきた反ユダヤ主義に根差したものではないことに気づいたのも、これらの視察旅行を通してのことだったという。ある書店でその種の本が 『アンネの日記』の隣に並んでいたのを、クーパー師は、驚きの表情で見つめていたという。

 アメリカに帰った彼は、当時の中曽根総理大臣 に「ユダヤ人を不当に攻撃し、日本社会の恥となっているこれらの出版物を、公の立場から非難すること」を求める抗議状を、ハイヤー館長の名前で発送してい る(*6)。しかしこれらの抗議にもかかわらず、反ユダヤ出版物は日本の書店に並び続けた。クーパー師はその後、88年に「無責任な反ユダヤ出版物の万円 が国際社会における日本のイメージを傷つけている」と「ジャパン・タイムズ」に書いた(*7)。 また93年に、「日本経済新聞」が「ユダヤパワーが日本を滅ぼす」と主張する著書の広告を掲載したことに対しても、クーパー師は直ちに抗議したが、アメリ カの有力紙「ロサンゼルス・タイムズ」は、「人種や宗教や性別に基づいた偏見を捨てない限り、文明の進歩は望めない」として、彼の抗議を社説で支持した (*8)。


p230~232
(「マルコポーロ」騒動についてクーパー師へのインタビュー)

ーーこの事件の後、ある著名な日本人ジャーナリストが「結局この事件が、触れてならないタブーの再確認作業となったのであればその風潮は恐ろしい」と発言していますが、どのように感じますか。

  その優秀なジャーナリストは、重要なポイントをまったく見失ったようですね。もし、記者会見での説明が足らなかったなら、僕にも責任があるのかもしれませ ん。僕は、ホロコースト否定者も人種偏見主義者も、恐れてはいません。でも彼らと戦うためには、彼らをそれなりのふさわしいカテゴリーに入れたうえで、対 処しなければならないということをいっているのです。タブーとすべきことは、何一つありません。歴史的事件を、十年後そして五十年後に振り返り検証するこ とは、大切なことです。新しく発見された資料が、新たな視点を提供することもあるでしょう。それが”歴史修正主義”の正しい定義なのですが、最近この言葉 は、過激派によってすっかり誤用されているようです。

 また同時に、読者には、確立された歴史を書き換えたりそれを否定しようとするグ ループについて、知る権利もあります。ですから、彼らの主張や活動実態を伝えることは、タブーではありません。むしろ僕は、日本のジャーナリストやテレビ 局が、この事件を契機に、世界で怒っているホロコースト否定の現象を取り上げ、その動機、資金源などを特集するかと期待したほどですよ。ただここでも大切 なのは、彼らの主張に真実と同等の格を与えるべきではないということです。

 日本でのタブーというのであれば僕は、むしろ第二次世界大戦 中あるいはそれ以前の中国における旧日本軍の行為こそ、もっともっと議論されてほしいと思います。最近、南京虐殺や慰安婦の歴史などが議論されているよう で、よい傾向だと思います。でも、戦争中に実際にこれらの犯罪に加わった人々は、以前として沈黙しているようですね。第二次世界大戦終結から五十二年経 ち、加害者も被害者も、広島や長崎の生存者も、もうすぐ僕たちの前から消えていこうとしています。いまが、若い世代が、彼らの肉声から歴史を学べる最後の チャンスなんですよ。そして消えていく彼らにとっても、真実を語り、お互いに手を差しのべ合う機会と時間は、ほとんど残されていません。でも「南京虐殺は なかった」などという発言があるたびに、そのわずかな機会さえ損なわれてしまうのです。そして、そのことで一番大きな損失を被るのは、若い世代ではないで しょうか。僕にも3人の娘がいますが、大人が自らの問題に正面から立ち向かう姿を見せない限り、彼らに真の道徳的判断力を植えつけることはできないからで す。


*1 『勇気の証言』アンネ・フランクとホロコースト展、1944年5月10日~20日。東京都、外務省、アメリカ大使館、サイモン・ウィーゼンタール・センター、創価大学ほか後援

*2 Yaron Svoray and Nick Taylor,In Hitler's Shadow(New York:Nan A.Talese,1994)29.

*3 インタビュー、Alfred Bailitzer,1997年2月22日、ロングビーチ

*4 The Simon Wiesenthal Center,Response,July 1982.

*5 Sol Littman,Holocaust Denial:Bigotry in Guise of Scholarship(The Simon Wiesenthal Center Report 1994)

*6 The Simon Wiesenthal Center,Response,September,1987.

*7  Abraham Cooper.”Japanese Anti-Semitism:A Mystery,Absurdity and Thereat to Japan's Image.” Japan Times,June 28,1998

*8 "Blaming It All on Them." Los Angeles Times,August 2,1993.
このページのトップヘ

0 件のコメント:

コメントを投稿