イギリス植民地のインド独立
インド独立の闘士はガンディーでありネールだった。ネールは戦後インドの首相になって日本にもやってきて親日家だと思っている人が多いが、戦争中は二人とも反ファシズムを宣言して、イギリスとともに連合国側にあった。このことに間違いはない。
だがもう一人、インド独立史に名を遺した志士がいた。スバス・チャンドラ・ボース。この名前を記憶にとどめている人は相当のインド通である。
●宗主国と戦わなかった植民地インド
植民地支配にあったインドのガンジーやネールが宗主国と戦わず、宗主国の戦争を支援していたのだから不思議だが、チャンドラ・ボースは戦争中にシンガポールでインド国民軍の総帥となり、イギリスに宣戦布告した。いわば枢軸側に立った人物である。
戦後、イギリスは宗主国に牙を剥いたこのインド国民軍を戦争裁判にかけ、植民地支配の威信を取り戻そうとした。だがことは単純に終わらなかった。 チャンドラ・ボースはインド国民会議派とたもとを分かち、日本軍とともにインパールで敗退。終戦の3日後、台北の松山空港で乗っていた飛行機が墜落して非 業の死を遂げる。戦争が終わってみると彼が育てたインド国民軍が一夜にしてインド解放の象徴的存在に変わっていた。
イギリスによる報復は裏目に出た。インド国民会議派は裁判に弁護士団を送り込み、労働組合はゼネストに入った。大英帝国の番犬と揶揄された英印軍 までもがイギリスに砲弾を向けた。この結果、裁判の進展とともにインド全土が騒乱状態となり、イギリスがインド支配を諦める引き金になったというのが歴史 の真相である。
しかし歴史はまた予想外の展開となる。1947年、インドが独立を達成すると、ボースは日本に協力したとして戦後のインド独立史から名前が抹殺されかけるのである。
37年前、チャンドラ・ボースの肖像画がニューデリーにあるインド国会に掲げられ、市内には「チェロ・デリー」の掛け声も勇ましい軍服姿の銅像まで建てられた。ガンディー、ネールに次いで3人目の国父としてボースはようやくインド正史にその名をとどめることになる。
●一時期、東京はアジア革命の拠点だった
ボースといえば日本では「中村屋のボース」(ラス・ベハリ・ボース)が有名だが、チャンドラ・ボースはこのボースとは別人である。ラス・ベハリ・ボースもまたインド有数の革命家だったが、第一次大戦の時、イギリス人のインド総督暗殺に失敗して日本に亡命した。
明治後期から大正時代にかけて実に多くのアジアの革命家が日本を頼り、日本を訪れている。西欧による世界分割が最終段階に入り、その歯牙から唯一まぬがれたのが日本だった。このことは国民として誇りに思っていい。日本は最初からアジアを侵略したのではない。
日本は西欧列強との対峙の中でアジアの利権の分け前にあずかり、結果としてアジアに覇権を求めるようになるのも事実だが、孫文の中国革命の一大拠点は東京だったし、1925年、北京で客死するまで孫文は日本と中国との連携を模索し続けた。これも歴史的事実である。
●ネタジーとマハトマ
スバス・チャンドラ・ボースはベンガル生まれの熱血漢である。すでに述べたが、第二次大戦中にインド国民軍を率いて日本軍とともにインパールに軍 を進めたが、終戦直後に台北の空港で飛行機事故に遭い、非業の死を遂げた。日本では信じ難いことだが、カルカッタではボースに対してほとんど信仰に近いも のがある。
インドではボースの名は多くあるため、スバス・チャンドラ。ボースは「ネタジ」(総帥)の名で呼ばれる。
インド独立の志士たちを明治維新の日本にたとえると、ガンディーは精神的柱としての西郷隆盛、ネールは維新後のの基礎をつくった実務派の大久保利通に似せられるかもしれない。そうなるとボースはさしずめ坂本竜馬のような存在といっていいかもしれない。
ガンディーがマハトマ(魂)と呼ばれ、ボースがネタジと称されるわけはそんなところにあるのかもしれない。
登山家の川喜多二郎氏がかつてヒマラヤ遠征をした折、ネパールで大歓迎を受けたことがある。その地を治めていた知事がインド国民軍の将校だったことを知るが、インドと日本がともに大英帝国と戦った国同士だったことを強調され、困惑したことを自著に書き記してある。
中国や韓国と違って、インド人の国民感情が日本に対して概して好意的なのは第二次大戦の最中に起きたインド人と日本との間の数々のドラマのおかげだということを知らずにいると恥をかくことになる。
インド、オールドデリー市街のチャンドラ・ボース公園に立つインド独立義勇軍(INA)と日本軍人の像。左上の旗は日の丸である。
●杉並区に眠り続けるボースの遺骨
ボースの遺骨は杉並区和田の蓮光寺というところにある。仮安置だったはずなのに、なぜか60年をすぎてもそのままである。生前にボースと関係の あった人々たちでつくる「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」が毎年、8月18日の命日に慰霊祭を続けてきた。蓮光寺の住職も代替わりし、アカデ ミーの人たちもみな高齢ですでに他界した人も少なくない。
アカデミーの最大の目的はボースの遺骨を無事、インドに返還することである。50年以上にわたり、外務省やインド政府に働きかけ続けている。
蓮光寺にはネール首相、ガンディー首相らを含め多くの閣僚が参拝している。インド大使が着任したときはまっさきにボースの遺骨を慰めるのが恒例となっている。にもかかわらずボースの遺骨返還はいまだに実現していない。
インド国民軍の参謀長だったシャヌワーズ・カーン氏(故人)が「ボースの遺骨は軍艦を派遣して必ず迎えに来る」と約束した時期から50年を経た。事務局長の林正夫さんは「自分たちの世代にできなければどうなるのか」と将来を危惧している。
http://www.yorozubp.com/0008/000808.htm
「インドが日本のお陰を蒙っている事は、
言語に尽くせない大きなものがあります。
偉大な貴国はインドを解放するにあたって、
可能な限りの軍事援助を提供しました。
何10万人にものぼる日本軍将兵が、
インド国民軍の戦友として、
共に血と汗と涙を流してくれました。
インド国民軍は日本帝国陸軍が、
インドの大義の為に払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。
インドの独立は日本陸軍によってもたらされました。
ここに日印両国の絆がいっそう強められる事を祈念します」
[ヤダフ ・ インド国民軍全国委員会事務局長、インド国民軍大尉]
http://www.youtube.com/watch?v=RntUs2gjM3g
オランダ植民地インドネシアの独立
2006年に米メリーランド大学と英BBCが共同で行なった調査で、「世界に最も良い影響を与えている国は日本」という結果が出た。その中でも、日本肯定派が一番多かったのはインドネシア。「日本が好影響を与えている」とする回答が85%にも上っている。
東南アジアの親日国、インドネシア。台湾が親日である理由と同じく、戦後の反日主義にどっぷり染まった人にとっては「アジア=日本侵略の被害者」と いう図式が刷り込まれているので、この結果が理解できないかも知れない。せいぜい「戦後の経済力で援助をしたからかな?」くらいの理由しか想像できないだ ろう。
第一次大戦後、1930年前後からインドネシアにも独立を希求する民族運動が発生したが、オランダはこれを厳しく弾圧した。
オランダは、徹底した愚民政策で狡猾にインドネシア全土を支配した。100以上ある部族を互いに敵対させておくようにし向け、一部のオランダ人に従 順な部族を警官として雇い、経済は華僑を利用し、現地人の反感がオランダ人に直接向かわないようにしたのである。統一言語ができると抵抗運動がおきるの で、部族間の言葉はバラバラのままにさせ、道ばたで3人以上のインドネシア人が話していると処罰するほど徹底した支配であった。
これこそ、予言に謳われた黄色い人々ではないか! インドネシア人は驚き歓迎した。彼らの協力も得て、落下傘部隊、銀輪部隊はすさまじい勢いでインドネシアを進撃し、オランダ軍はわずか9日間で完敗することになった。
インドネシアには、古くから伝わる『ジョヨボヨ王の予言』という伝承があった。
「我らが王国は、白い人びとに支配される。彼らは離れたところから攻撃する魔法の杖を持っている。
この白い人の支配は長く続くが、空から黄色い人びとがやってきて白い人を駆逐する。
この黄色い人びとも我らが王国を支配するが、それはトウモロコシの寿命と同じくらいの期間だ。」
これは12世紀前半、東ジャワのクディリ王国のジョヨボヨ王が書き記した『バラタユダ』 という民族叙事詩(いわばジャワ版『マハーバーラタ』)の一説である。
自分たちが350年間抵抗し続け、そのたびに全滅させられてきたオランダを、9日間で駆逐してしまった黄色い人びと。これはまさに予言の実現であ ることを知ると共に、インドネシア人は、白人が決して全能の神ではなく、アジア人が彼らの奴隷ではないことに気付き始めたのだった。
日本軍政時代
以後、インドネシアは日本軍政の支配下に置かれた。このとき、国名は蘭印からインドネシアに、オランダ名だった首都バタヴィアは、古インドネシア王国のジャヤカルタに倣ってジャカルタに改称される。
さらにオランダ語は廃止され、新たな国語としてインドネシア語が作られた。(当時、ジャワ語の分かる日本人がおらず、特務機関で学習されていたマレー語が採用された)また公的機関にもインドネシア人が雇用されるようになりインドネシア人の組織化、社会参加が進んだ。
さらには、日本は将来のインドネシア独立を見越して、インドネシア人の若者からなる祖国独立義勇軍(PETA)を組織し、日本軍式の軍事教練を施 した。このPETAが、独立戦争の中心戦力となり、後のインドネシア国軍の母体となったのである。今でもPETA出身の軍高官は「日本精神のおかげでオラ ンダに立ち向かうことができた」と語っている。
インドネシア独立戦争
1945年8月17日に、後の初代大統領スカルノによって、独立宣言文が読まれた。その宣言文の日付は170805(05年8月17日)、05年とは西暦ではなく皇紀である。
ともあれインドネシア人達は、これで独立かと喜んだ。ところがやって来たのは同じ連合軍でも、東南アジアを今まで植民地支配してきたオランダとイギリス軍である。植民地を奪われたオランダがイギリスの応援をえてただ「取り返しに来た」だけである。
しかし、インドネシア共和国軍は、一部独立に同情的な旧日本軍から独立に必要な武器を「廃棄されたもの」として、入手していた。1945年10月イギリス軍とオランダ軍が進駐、11月イギリス軍の将軍が暗殺されたことにより、イギリス、オランダ軍とインドネシア共和国軍の全面衝突となる。
日本の統治によって、「インドネシア人は猫から虎に変わっていた」のである。日本軍は、ポツダム宣言受諾以降、連合軍が来るまでの現地の治安維持と 武器の管理を命じられていたが、秘密裏に武器を流すなどして、自らが育てた義勇軍を支援した。武器庫の番をしていたある日本兵は、暴徒と化したインドネシ ア人に殺されるが、彼は自らの血で「インドネシアの独立に栄光あれ」と壁に書いて息絶え、こうした日本人の姿勢もインドネシア人に衝撃を与えた。
さらには、「俺達はアジアを欧米の植民地から解放するために戦ってきた。ここでインドネシアを元の植民地にするようなことがあっては、死んでいった英霊たちに顔向けができない。」
2000人以上の日本軍将兵が、現地に残ってPETAと運命を共にし、4年にも及ぶ独立戦争を戦い抜いたのである。PETAは厳しい訓練を乗り越え たとは言え、実戦の経験はなかった。彼ら歴戦の日本軍将兵は、インドネシア人を指揮して常に最前線で戦ったので、死亡率も非常に高かったと言う。
残った将兵達の動機は個別に見れば様々であろうが、彼らは玉音放送における
「朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス」(私は日本と共に、終始東アジアの解放に協力してくれた諸盟邦に対してすまなく思う)
との昭和天皇の御心を代わりに果たし、インドネシアの独立の礎となったのである。
日本の敗戦後にも世界のあちこちでアジア独立のために遂行されていた戦い。これもまさに大東亜戦争だったのではないだろうか。
そんな英霊達の御霊は、ちゃんとジャカルタにある国立英雄墓地に祀られている。
「祖国防衛義勇軍(PETA)マーチ」 (斉藤守氏訳)
1、
アジア すでに敵に向かい 蜂起せり
己を捨てて 全力を尽くす 連合国を粉砕せんと
玉散ることもいとわず 進め進め 義勇軍
アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
2、
古きアジア 不幸に苦しむ列しき圧制に
幾世紀も忍ぶ 大日本 雄々しく立てり
アジアを救い 我らを守る 進め進め 義勇軍
アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
毎年パレードのクライマックスでは、インドネシア人の男女二名と、日本陸軍の紛争をした男性による三名で、インドネシアの国旗を掲揚する。
台湾や朝鮮の統治と違い、3年半しか統治できなかったインドネシアには、日本が建設した建物は何も残っていない。独立戦争に身を投じた日本人将兵たちも、多くは帰らぬ人となった。しかし、日本への敬愛の情と、国家の誇りと独立にかける情熱は残った。
戦後の日本人が忘れてしまった物語が、インドネシアには建国の神話として残っている。戦前の日本人が持っていた理想が結晶した国、それがインドネシアなのである。
『現代において、オランダが事あるごとに反日的な言動や行動をすることがある。それは偏に戦勝国でありながら、植民地を取り返せなかった日本義勇軍に対する恨みと無関係ではない。』
パラオの大和魂
実はパラオという国は世界一親日的な国かも知れない程の国なのである。
何しろ国旗は日の丸を元にして決めた程の国だ。
そして、パラオのペリリュー島という小さな島で12000人の日本守備隊は大東亜戦争において兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍の敵に対し、持久戦に持ち込み、全く補給なしに73日間守りとおして死闘の末に玉砕した。
その戦闘は戦後 ニミッツ提督はその著『太平洋海戦史』の中で、ペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいる。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約四〇パーセント〉 を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑 問である」
というほどの激しい戦闘にかかわらず現地住民はひとりも死んではいないのである。
ペリリュー島には、それまで現地に当然住民が住んでいた。日本軍としては、住民を戦火に巻き込んではならないという配慮から、船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をパラオ本島に退避させた。
だから最大激戦地であるペリリュー島において島民の方は一人も死んでいないのである。
そして昭和57年5月には、「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」によるペリリュー神社を創建した。御祭神は天照大神と戦死者一万余名の「護国の英 霊」である。現在、神社前の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長(そんちょう)によってこの趣旨が書かれている。そして右の掲示板には、戦 闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれている。
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」
原文は
Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.
ペリュリュ-島にある慰霊碑には
「諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守る為に日本軍人が
いかに勇敢な愛国心を持って戦い
玉砕したかをつたえられよ。」
米大平洋艦隊司令長官
C.ニミッツ
と記されている。
この詩を作ったのは何と敵であった米大平洋艦隊司令長官のニミッツ提督である。
この詩は、戦終ればかつて敵であった日本軍の忠勇武烈ぶりを、このように讃えている。そしてこの島を訪れる旅人に、その勇戦ぶりを伝えてくれ、と戦死者に代って願っているのである。
ましてや、パラオの国定教科書には462ページのうち36ページも「日の丸の旗のもとに」と題されて日本統治時代の事にさかれているそうである。 日本がパラオを支配するようになった経緯だけでなく、日本の行った学校教育、産業・経済活動等についても詳しく述べられている。
そして、クニオ・ナカムラ前大統領は、「新しい歴史教科書をつくる会」に賛同する署名もしていて、大統領専用の便箋に記された署名文書には、心に迫るコメントが添えられている。
パラオの国旗は、日の丸を元に、太陽のかわりに満月を、白地には大平洋の青い海の色をデザインされてつくられるほどパラオという国は、日本人を敬い、日本統治時代を懐かしむこそすれ、朝鮮人のように日本人を逆恨みなどしていないと我々はもっと知っていてもいいと思う。
パラオはドイツの植民地だったが、第一次大戦下、この地域の戦争でドイツに勝った日本は、戦後、国際連盟からパラオを含むミクロネシア地域を委任統治することを求められた。日本はたくさんの移民をこの地に送り、産業、教育、文化の発展に大きな功績を残した。
第二次世界大戦後、この地域を占領したアメリカは、日本文化の影響を徹底的に破壊した。南洋神社は取りつぶされた。校庭の二宮金次郎の銅像は引きずり降ろされた。
しかし、パラオ人は、心の中では勤勉の精神を教えてくれた日本人を敬い、日本統治時代を懐かしんでいる。その証拠にパラオ人の8割は、その姓名のどちらかに、日本式の名前を付けているといわれる。
れっきとしたパラオ人の上院議員のなかに、ウメタロウさんという方がいた。この名前を,姓名の「名」のほう、つまりファースト・ネームだろうと思っ ていた。実際は,この方はスティーブ・ウメタロウさんという。ウメタロウは、この方の「姓」だったのである。おそらく、身近にウメタロウという名前の尊敬 すべき日本人がいたに違いない。
1994年、パラオはアメリカから独立した。独立にあたり国旗を制定することになり、国民の間から一般公募した結果、日の丸をもじった今のデザイ ンに決まったというわけである。ただし、パラオの国旗の満月は、日の丸の旗の太陽とは違って、中心から少しズレている。日本に失礼だからと、わざと中心を はずしたのだそうだ。これはパラオの人たちの慎み深い態度をよく表している。
パラオの国旗は、日の丸は侵略のシンボルなどではないこと、かつて日本の統治下にあった国で、日本の日の丸を模した国旗がつくられるほど、戦前の日本と日本人はアジアの人たちから尊敬されていたことを教える実物教材である。
そういえば、当時首相だったあの村山富市はパラオ独立一周年の時に祝電の一つも打たなかったそうで、ナカムラ大統領はひどく悲しそうにしていたそうだ。
イギリス植民地のビルマ独立
ビルマもイギリスの侵攻に敗れて、明治19年以来イギリスの植民地になっていた。印度と同じよう に何とか独立したいと願っていた。
大東亜戦争の始まる一年程前に、ビルマには「ビルマ独立三十人の志士」と呼ばれる青年達が居た。リー ダーはアウンサン。軍事政権に反対して軟禁されていたスーチーさんのお父さんである。
これらの青年連は 何とか祖国を独立させたいと思って、英国官憲の目を盗んでビルマを脱出し、日本の庇護を求めて来た。
そこで日本では鈴木敬司大佐を長とする「南機関」 というのを作って、海南島という所で徹底した軍事訓 練を施した。
そして日本軍がビルマに進攻した時には、 彼らはビルマ独立義勇軍というのを結成して一緒にビ ルマに入った。ビルマ人達は歓呼を以て日本軍とビル マ独立義勇軍を迎えた。
大体ビルマも日本も佛教国で、ビルマ人も日本人も 皮膚の色は似ているし、日本人に対して非常に親近感 がある。
イギリスは、インドや中国からの移民を大量に受け入れて主要産業に従事させたのに対しビルマ族を小作人にさせた。
そのうえ、イギリス人をトップとし、インド人に行政を任せるとともに、キリスト教を布教したカレン族などの少数民族を警察・軍人として採用して大多数を占めるビルマ族を弾圧させた。
イギリスは、スリランカなど他の植民地でも少数民族を重用し、大多数を占める民族を弾圧させた。これは、国民の怒りの矛先をイギリスではなく、少数民族に向けさせるのが狙いであった。
イギリスのこうした政策が、今も根深く残る民族紛争の原因となっている。
イギリス軍はビルマに居た時も、部落 から離れた所に自家発電付きのキャンプを作って、ビ ルマ人とは無関係の生活をしていたが、日本軍 はビルマ人の部落の中に民宿したりして、ビルマの人達と親戚のようにつき合った。
だからビルマ人 で英語を話す者は、英人に使われていた極く一部のビ ルマ人に限られていたが、日本語は大抵のビル マ人が覚えてしまったし、日本兵の中にもビルマ語の片言を話す者が沢山に居た。
今でも慰霊巡拝のために ビルマを訪ねると、"見よ東海の空明けて"とか"真 白き富士の"とか、大抵の日本人が忘れてしまった昔 の歌を歌ってくれて、感激したり赤面したりするという。
開戦直後に、日本軍はマレー半島を破竹の勢いで制圧した。
その後、日本軍はマレー半島の北方拠点として、またビルマのラングーンから中国に繋がる中国支援ルートを切断し、一方で諜報活動をする南機関の働きなどにより、ビルマに対する英離反工作をうながすという、政略的な意義を持ったビルマ作戦を本格的に開始した。
1942年3月、日本帝国陸軍第15軍は南部ビルマにある首都ラングーンを占領。その後、ラシオ、マンダレーと占領していき、ビルマ攻略を完了し た。このときインド領内に退却するイギリス軍は、フーコン渓谷とチンドウィン川を越えなければならなかったため部隊の多くを失った。
ビルマ制圧後、日本軍部内ではビルマ国境を越えてインドのインパールへ侵入する計画を持っていたが、これを実現するには川幅600mのチンドウィ ン川を越えた上で2000mを越える山脈と密林、さらには雨季には世界一降水量が多い地域を越えなければならなかった。このことから第15軍内でも反対意 見が出ていた。
日本軍はインド北東部を攻略するインパール作戦を実施したが、歴史的な大敗を喫し、日本軍は衰退した。
そこで、1945年、アウンサン将軍は、今度はイギリス軍と組んで日本軍を排除した。
だが、イギリスは、ビルマの独立を認めるという約束を反故にして、ビルマを再びイギリス領としてしまった。
1948年、第二次世界大戦後イギリスの国力が低下したこともあり、ようやくビルマは独立を果たす。
初代首相にはアウンサン将軍が就任する予定であったが、独立の直前に暗殺されてしまった。そこで、アウンサン将軍を引き継ぐ形で反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の総裁に就任したウー・ヌー氏がビルマの初代首相に就任したのである。
最後は日本軍の撤退作戦で、ビルマ全土が戦場にな り、ビルマ人にも沢山の犠牲者が出たが、結局 はこの戦争がキッカケとなって、ビルマは英国から独 立した。ビルマ人も沢山死んだろうが、日本兵はその 何十倍、何百倍と死んだ。
戦後、ビルマ政府は、南機関の鈴木敬司大佐以下七 名の日本人に、独立の勲功をたたえる最高勲章である 「アウンサン徽章」を贈った。ビルマは、日本 を怨むどころか、独立は日本のお陰だと感謝している。
最後まで日本を見捨てなかったチベット
チベットの伝承にこんな話がある。
「大昔、チベットの賢くて美しい500人の少年少女が薬草を求めて東方へ行き、海を渡って島に上陸し、そこにリビン(日本)という国を築いた。」
チベットでは良く知られている話で、チベットの人たちの日本への親近感のルーツとなっている。
歴史上、日本とチベットはあまり接点がなく、関連が少ないように思われているが、風俗や文化などに意外な共通点(数の数え方、おんぶの仕方など)があり、太古の時代何らかの強いつながりがあったことをうかがわせる。
この伝承もそのあたりから生まれ、伝えられてきたのかもしれない。
現在のチベットからは想像しにくいが、8世紀から9世紀のチベットは軍事大国であった。
当時チベットは「吐蕃王朝」の時代。
吐蕃の軍事的圧迫を感じていた唐王朝は懐柔のため、2度、公主(皇帝の娘)を吐蕃王の后として送り出しているくらいだ。
その頃の話としてこんな逸話がある。
753年正月、唐の玄宗に朝貢した諸国の席次に、日本の大伴古麻呂が異議を唱えた。
吐蕃が西の一番、新羅が東の一番で日本は西の二番だったためである。
本来西側には中国から見て西方の国が、東側には東方の国が並ぶはずなのだが、一応日本に気を使って新羅の下にはおかなかったのだろう。
大伴古麻呂曰く「新羅は古来から日本に朝貢しているのだから、新羅より下座であることは納得できない」
この抗議を唐側は入れて、東の一番に日本、西の二番に新羅をおくこととしたそうである。(続日本記)
いずれにしても西の一番は揺るぎもなく吐蕃(チベット)で、誰も異議がない。
東アジアの大国として吐蕃王朝の地位は唐以外に比肩するものがなかった。
この十年後には唐の都「長安」を軍事占領するほどの力を持っていたのである。
その後幾度かの戦いのあと、吐蕃と唐は盟約を結び(822年)、碑が建てられた。(唐蕃会盟碑)
その碑は両国の国号や君主の称号を列挙する際の表現など、両国に上下をつけぬよう配慮された表現となっている。
古来からこれほど確固たる地位を有していた国が中国の一部だろうか?否である。
唐との和平がなった後、仏教を国教に据えそれが現在まで続いている。
現在では仏教のもっとも純粋な姿を残しているのがチベットであるといわれる。
仏教は人々の生活に深く根ざし、価値観の基盤となってる。
チベットの人々は、日本を仏教国と考え親近感を持っているようだ。
また、中国の敵は味方と考えてもいるのだろうか?親日的である。
東アジアの外交関係は中国を中心とした冊封体制である。
冊封体制では時々の中国王朝は国際関係上、盟主として立てられるが、各々の内政にまで干渉することはまれである。
清朝の時代になると、ムガール帝国と日本を除く東アジアのすべての国が冊封体制に組み込まれていたが、それらの国々も中国の属国とは必ずしもいえない。
朝鮮やベトナムのように中国の強い影響下におかれていた国もあるが、チベットは有史以来完全に独立国である。
近代のチベットは、清朝、インドに進出したイギリス、南下するロシアの狭間で外交的に難しい舵取りを強いられた。
そんな中で日中戦争、第二次世界大戦では中立を守り通したのである。
日本軍がビルマに進駐し、米英の蒋援ルート(重慶にいた中国蒋介石への物資補給ルート)が遮断されると、米英中はチベット経由での物資輸送を打診 したが、チベット政府はこれを断固拒否した。しかも世界中が日本に経済封鎖する中、チベットだけが変わらず日本との交易を継続してくれた。
親日的というだけでなく、中国へ力を貸すことへの拒否感や、一方に肩入れし、賭けに負けたときを心配などが理由かもしれないが、日本としてはビルマ進駐の戦略的意義を失わずに済んだのである。
しかし、この判断が後にチベットを非常に苦しめることになる。
第二次世界大戦終結後、中立を守ったチベットは、戦勝国はもちろん、準戦勝国にもなれず、戦後の枠組みを決める場面から取り残された。
それらの席でチベットの独立を国際的に認知させられたかもしれなかったのに、である。
第二次世界大戦後、民族自決の名の下にアジア、アフリカの多くの民族が主に西欧諸国から独立した。
しかし、時代に逆行するかのように、1950年9月、「解放」の名の下に中国共産党がチベットに軍事侵攻し、チベットの独立は失われた。
戦後、独立を失った国はチベットのみである。
その後現在まで、中国共産党によるチベット人に対する人権侵害と抑圧・拷問・虐殺の繰り返しだ。
中国が都合よく持ち出した、かつての冊封関係の鎖にチベットの人々だけが未だに繋がれている。
このくびきを解き放つ手助けを、今こそ日本はしなければならない。
日本は借りを返すときではないのか?
1951年4月19日 アメリカ議会にて ダグラス・マッカーサー
『日本国民は戦後、現代史上最大の変革を行ってきた。
日本国民は見事な意志力と学ぼうとする熱意、
優れた理解力を発揮して、
戦いの跡に残された灰の中から個人の自由を
尊厳を至高とする高い精神を築き上げた。
ダグラス・マッカーサー
日本が今後のアジアの動向に
きわめて有益な影響を及ぼす事は十分に期待できる。
その証拠に日本国民は最近、
国外からの戦火と不安と混乱の試練を
見事乗り切っただけでなく
国内でも共産主義の膨張を押さえながら
急速な進歩を成し遂げたのである。
私は日本ほど安定し、秩序を保ち、
勤勉である国、日本ほど人類の前進の為に
将来建設的な役割を果たしてくれるという
希望の持てる国を他に知らない。』
(ダグラス・マッカーサー)
この遣唐使たちも、皆自分の人生をかけて、国のために尽くした人々です。こうした先人の血のにじむような苦労の上に築かれた部分が確かにあるということを考えたら、その国をどうして愛さずにいられるでしょうか。
1995年にフィリピン、マニラ市内に張られたフィリピン共和国独立記念日のポスター
半島と支那、欧米以外では日本は有色人種を解放したヒーローと学校で教育している。
インド独立の闘士はガンディーでありネールだった。ネールは戦後インドの首相になって日本にもやってきて親日家だと思っている人が多いが、戦争中は二人とも反ファシズムを宣言して、イギリスとともに連合国側にあった。このことに間違いはない。
だがもう一人、インド独立史に名を遺した志士がいた。スバス・チャンドラ・ボース。この名前を記憶にとどめている人は相当のインド通である。
●宗主国と戦わなかった植民地インド
植民地支配にあったインドのガンジーやネールが宗主国と戦わず、宗主国の戦争を支援していたのだから不思議だが、チャンドラ・ボースは戦争中にシンガポールでインド国民軍の総帥となり、イギリスに宣戦布告した。いわば枢軸側に立った人物である。
戦後、イギリスは宗主国に牙を剥いたこのインド国民軍を戦争裁判にかけ、植民地支配の威信を取り戻そうとした。だがことは単純に終わらなかった。 チャンドラ・ボースはインド国民会議派とたもとを分かち、日本軍とともにインパールで敗退。終戦の3日後、台北の松山空港で乗っていた飛行機が墜落して非 業の死を遂げる。戦争が終わってみると彼が育てたインド国民軍が一夜にしてインド解放の象徴的存在に変わっていた。
イギリスによる報復は裏目に出た。インド国民会議派は裁判に弁護士団を送り込み、労働組合はゼネストに入った。大英帝国の番犬と揶揄された英印軍 までもがイギリスに砲弾を向けた。この結果、裁判の進展とともにインド全土が騒乱状態となり、イギリスがインド支配を諦める引き金になったというのが歴史 の真相である。
しかし歴史はまた予想外の展開となる。1947年、インドが独立を達成すると、ボースは日本に協力したとして戦後のインド独立史から名前が抹殺されかけるのである。
37年前、チャンドラ・ボースの肖像画がニューデリーにあるインド国会に掲げられ、市内には「チェロ・デリー」の掛け声も勇ましい軍服姿の銅像まで建てられた。ガンディー、ネールに次いで3人目の国父としてボースはようやくインド正史にその名をとどめることになる。
●一時期、東京はアジア革命の拠点だった
ボースといえば日本では「中村屋のボース」(ラス・ベハリ・ボース)が有名だが、チャンドラ・ボースはこのボースとは別人である。ラス・ベハリ・ボースもまたインド有数の革命家だったが、第一次大戦の時、イギリス人のインド総督暗殺に失敗して日本に亡命した。
明治後期から大正時代にかけて実に多くのアジアの革命家が日本を頼り、日本を訪れている。西欧による世界分割が最終段階に入り、その歯牙から唯一まぬがれたのが日本だった。このことは国民として誇りに思っていい。日本は最初からアジアを侵略したのではない。
日本は西欧列強との対峙の中でアジアの利権の分け前にあずかり、結果としてアジアに覇権を求めるようになるのも事実だが、孫文の中国革命の一大拠点は東京だったし、1925年、北京で客死するまで孫文は日本と中国との連携を模索し続けた。これも歴史的事実である。
●ネタジーとマハトマ
スバス・チャンドラ・ボースはベンガル生まれの熱血漢である。すでに述べたが、第二次大戦中にインド国民軍を率いて日本軍とともにインパールに軍 を進めたが、終戦直後に台北の空港で飛行機事故に遭い、非業の死を遂げた。日本では信じ難いことだが、カルカッタではボースに対してほとんど信仰に近いも のがある。
インドではボースの名は多くあるため、スバス・チャンドラ。ボースは「ネタジ」(総帥)の名で呼ばれる。
インド独立の志士たちを明治維新の日本にたとえると、ガンディーは精神的柱としての西郷隆盛、ネールは維新後のの基礎をつくった実務派の大久保利通に似せられるかもしれない。そうなるとボースはさしずめ坂本竜馬のような存在といっていいかもしれない。
ガンディーがマハトマ(魂)と呼ばれ、ボースがネタジと称されるわけはそんなところにあるのかもしれない。
登山家の川喜多二郎氏がかつてヒマラヤ遠征をした折、ネパールで大歓迎を受けたことがある。その地を治めていた知事がインド国民軍の将校だったことを知るが、インドと日本がともに大英帝国と戦った国同士だったことを強調され、困惑したことを自著に書き記してある。
中国や韓国と違って、インド人の国民感情が日本に対して概して好意的なのは第二次大戦の最中に起きたインド人と日本との間の数々のドラマのおかげだということを知らずにいると恥をかくことになる。
インド、オールドデリー市街のチャンドラ・ボース公園に立つインド独立義勇軍(INA)と日本軍人の像。左上の旗は日の丸である。
●杉並区に眠り続けるボースの遺骨
ボースの遺骨は杉並区和田の蓮光寺というところにある。仮安置だったはずなのに、なぜか60年をすぎてもそのままである。生前にボースと関係の あった人々たちでつくる「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」が毎年、8月18日の命日に慰霊祭を続けてきた。蓮光寺の住職も代替わりし、アカデ ミーの人たちもみな高齢ですでに他界した人も少なくない。
アカデミーの最大の目的はボースの遺骨を無事、インドに返還することである。50年以上にわたり、外務省やインド政府に働きかけ続けている。
蓮光寺にはネール首相、ガンディー首相らを含め多くの閣僚が参拝している。インド大使が着任したときはまっさきにボースの遺骨を慰めるのが恒例となっている。にもかかわらずボースの遺骨返還はいまだに実現していない。
インド国民軍の参謀長だったシャヌワーズ・カーン氏(故人)が「ボースの遺骨は軍艦を派遣して必ず迎えに来る」と約束した時期から50年を経た。事務局長の林正夫さんは「自分たちの世代にできなければどうなるのか」と将来を危惧している。
http://www.yorozubp.com/0008/000808.htm
「インドが日本のお陰を蒙っている事は、
言語に尽くせない大きなものがあります。
偉大な貴国はインドを解放するにあたって、
可能な限りの軍事援助を提供しました。
何10万人にものぼる日本軍将兵が、
インド国民軍の戦友として、
共に血と汗と涙を流してくれました。
インド国民軍は日本帝国陸軍が、
インドの大義の為に払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。
インドの独立は日本陸軍によってもたらされました。
ここに日印両国の絆がいっそう強められる事を祈念します」
[ヤダフ ・ インド国民軍全国委員会事務局長、インド国民軍大尉]
http://www.youtube.com/watch?v=RntUs2gjM3g
オランダ植民地インドネシアの独立
2006年に米メリーランド大学と英BBCが共同で行なった調査で、「世界に最も良い影響を与えている国は日本」という結果が出た。その中でも、日本肯定派が一番多かったのはインドネシア。「日本が好影響を与えている」とする回答が85%にも上っている。
東南アジアの親日国、インドネシア。台湾が親日である理由と同じく、戦後の反日主義にどっぷり染まった人にとっては「アジア=日本侵略の被害者」と いう図式が刷り込まれているので、この結果が理解できないかも知れない。せいぜい「戦後の経済力で援助をしたからかな?」くらいの理由しか想像できないだ ろう。
オランダによる350年の圧政
1602年、オランダはジャワ島に東インド会社を設立し、植民地経営を始めた。首都のジャヤカルタはバタヴィアに改称され、以降350年間に渡って、オランダは東ティモール以外の領土を支配する。第一次大戦後、1930年前後からインドネシアにも独立を希求する民族運動が発生したが、オランダはこれを厳しく弾圧した。
オランダは、徹底した愚民政策で狡猾にインドネシア全土を支配した。100以上ある部族を互いに敵対させておくようにし向け、一部のオランダ人に従 順な部族を警官として雇い、経済は華僑を利用し、現地人の反感がオランダ人に直接向かわないようにしたのである。統一言語ができると抵抗運動がおきるの で、部族間の言葉はバラバラのままにさせ、道ばたで3人以上のインドネシア人が話していると処罰するほど徹底した支配であった。
日本軍の快進撃、予言の神兵
ところが、大東亜戦争が勃発、世界情勢は風雲急を告げる。蘭印にも日本軍がやってくるらしいという噂が流れ始めたある日、インドネシア人が爆音に空を見上げると、空にいくつもの白い花が咲き、戦士達が降下してきた。我らが空の神兵、日本軍の落下傘兵である。これこそ、予言に謳われた黄色い人々ではないか! インドネシア人は驚き歓迎した。彼らの協力も得て、落下傘部隊、銀輪部隊はすさまじい勢いでインドネシアを進撃し、オランダ軍はわずか9日間で完敗することになった。
インドネシアには、古くから伝わる『ジョヨボヨ王の予言』という伝承があった。
「我らが王国は、白い人びとに支配される。彼らは離れたところから攻撃する魔法の杖を持っている。
この白い人の支配は長く続くが、空から黄色い人びとがやってきて白い人を駆逐する。
この黄色い人びとも我らが王国を支配するが、それはトウモロコシの寿命と同じくらいの期間だ。」
これは12世紀前半、東ジャワのクディリ王国のジョヨボヨ王が書き記した『バラタユダ』 という民族叙事詩(いわばジャワ版『マハーバーラタ』)の一説である。
自分たちが350年間抵抗し続け、そのたびに全滅させられてきたオランダを、9日間で駆逐してしまった黄色い人びと。これはまさに予言の実現であ ることを知ると共に、インドネシア人は、白人が決して全能の神ではなく、アジア人が彼らの奴隷ではないことに気付き始めたのだった。
日本軍政時代
以後、インドネシアは日本軍政の支配下に置かれた。このとき、国名は蘭印からインドネシアに、オランダ名だった首都バタヴィアは、古インドネシア王国のジャヤカルタに倣ってジャカルタに改称される。
さらにオランダ語は廃止され、新たな国語としてインドネシア語が作られた。(当時、ジャワ語の分かる日本人がおらず、特務機関で学習されていたマレー語が採用された)また公的機関にもインドネシア人が雇用されるようになりインドネシア人の組織化、社会参加が進んだ。
さらには、日本は将来のインドネシア独立を見越して、インドネシア人の若者からなる祖国独立義勇軍(PETA)を組織し、日本軍式の軍事教練を施 した。このPETAが、独立戦争の中心戦力となり、後のインドネシア国軍の母体となったのである。今でもPETA出身の軍高官は「日本精神のおかげでオラ ンダに立ち向かうことができた」と語っている。
インドネシア独立戦争
1945年8月17日に、後の初代大統領スカルノによって、独立宣言文が読まれた。その宣言文の日付は170805(05年8月17日)、05年とは西暦ではなく皇紀である。
日本は、1945年の9月にインドネシアの独立承認を約束していた。ところが8月15日、日本は敗戦を迎えることとなった。日本の軍政は3年半。これは奇しくもトウモロコシが育つまでの期間と同じである。
日本の敗戦後、連合軍が進駐できるまで、旧日本軍に治安の維持と武器の保持を命じる。ともあれインドネシア人達は、これで独立かと喜んだ。ところがやって来たのは同じ連合軍でも、東南アジアを今まで植民地支配してきたオランダとイギリス軍である。植民地を奪われたオランダがイギリスの応援をえてただ「取り返しに来た」だけである。
しかし、インドネシア共和国軍は、一部独立に同情的な旧日本軍から独立に必要な武器を「廃棄されたもの」として、入手していた。1945年10月イギリス軍とオランダ軍が進駐、11月イギリス軍の将軍が暗殺されたことにより、イギリス、オランダ軍とインドネシア共和国軍の全面衝突となる。
日本の統治によって、「インドネシア人は猫から虎に変わっていた」のである。日本軍は、ポツダム宣言受諾以降、連合軍が来るまでの現地の治安維持と 武器の管理を命じられていたが、秘密裏に武器を流すなどして、自らが育てた義勇軍を支援した。武器庫の番をしていたある日本兵は、暴徒と化したインドネシ ア人に殺されるが、彼は自らの血で「インドネシアの独立に栄光あれ」と壁に書いて息絶え、こうした日本人の姿勢もインドネシア人に衝撃を与えた。
さらには、「俺達はアジアを欧米の植民地から解放するために戦ってきた。ここでインドネシアを元の植民地にするようなことがあっては、死んでいった英霊たちに顔向けができない。」
2000人以上の日本軍将兵が、現地に残ってPETAと運命を共にし、4年にも及ぶ独立戦争を戦い抜いたのである。PETAは厳しい訓練を乗り越え たとは言え、実戦の経験はなかった。彼ら歴戦の日本軍将兵は、インドネシア人を指揮して常に最前線で戦ったので、死亡率も非常に高かったと言う。
残った将兵達の動機は個別に見れば様々であろうが、彼らは玉音放送における
「朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス」(私は日本と共に、終始東アジアの解放に協力してくれた諸盟邦に対してすまなく思う)
との昭和天皇の御心を代わりに果たし、インドネシアの独立の礎となったのである。
日本の敗戦後にも世界のあちこちでアジア独立のために遂行されていた戦い。これもまさに大東亜戦争だったのではないだろうか。
そんな英霊達の御霊は、ちゃんとジャカルタにある国立英雄墓地に祀られている。
インドネシアに残ったもの
8月17日。この日には、毎年盛大な独立記念祭が行なわれる。そこで華々しく行進するインドネシア国軍のパレードで使われているのは、PETAマーチである。「祖国防衛義勇軍(PETA)マーチ」 (斉藤守氏訳)
1、
アジア すでに敵に向かい 蜂起せり
己を捨てて 全力を尽くす 連合国を粉砕せんと
玉散ることもいとわず 進め進め 義勇軍
アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
2、
古きアジア 不幸に苦しむ列しき圧制に
幾世紀も忍ぶ 大日本 雄々しく立てり
アジアを救い 我らを守る 進め進め 義勇軍
アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
毎年パレードのクライマックスでは、インドネシア人の男女二名と、日本陸軍の紛争をした男性による三名で、インドネシアの国旗を掲揚する。
台湾や朝鮮の統治と違い、3年半しか統治できなかったインドネシアには、日本が建設した建物は何も残っていない。独立戦争に身を投じた日本人将兵たちも、多くは帰らぬ人となった。しかし、日本への敬愛の情と、国家の誇りと独立にかける情熱は残った。
戦後の日本人が忘れてしまった物語が、インドネシアには建国の神話として残っている。戦前の日本人が持っていた理想が結晶した国、それがインドネシアなのである。
『現代において、オランダが事あるごとに反日的な言動や行動をすることがある。それは偏に戦勝国でありながら、植民地を取り返せなかった日本義勇軍に対する恨みと無関係ではない。』
パラオの大和魂
実はパラオという国は世界一親日的な国かも知れない程の国なのである。
何しろ国旗は日の丸を元にして決めた程の国だ。
そして、パラオのペリリュー島という小さな島で12000人の日本守備隊は大東亜戦争において兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍の敵に対し、持久戦に持ち込み、全く補給なしに73日間守りとおして死闘の末に玉砕した。
その戦闘は戦後 ニミッツ提督はその著『太平洋海戦史』の中で、ペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいる。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約四〇パーセント〉 を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑 問である」
というほどの激しい戦闘にかかわらず現地住民はひとりも死んではいないのである。
ペリリュー島には、それまで現地に当然住民が住んでいた。日本軍としては、住民を戦火に巻き込んではならないという配慮から、船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をパラオ本島に退避させた。
だから最大激戦地であるペリリュー島において島民の方は一人も死んでいないのである。
そして昭和57年5月には、「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」によるペリリュー神社を創建した。御祭神は天照大神と戦死者一万余名の「護国の英 霊」である。現在、神社前の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長(そんちょう)によってこの趣旨が書かれている。そして右の掲示板には、戦 闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれている。
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」
原文は
Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.
ペリュリュ-島にある慰霊碑には
「諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守る為に日本軍人が
いかに勇敢な愛国心を持って戦い
玉砕したかをつたえられよ。」
米大平洋艦隊司令長官
C.ニミッツ
と記されている。
この詩を作ったのは何と敵であった米大平洋艦隊司令長官のニミッツ提督である。
この詩は、戦終ればかつて敵であった日本軍の忠勇武烈ぶりを、このように讃えている。そしてこの島を訪れる旅人に、その勇戦ぶりを伝えてくれ、と戦死者に代って願っているのである。
ましてや、パラオの国定教科書には462ページのうち36ページも「日の丸の旗のもとに」と題されて日本統治時代の事にさかれているそうである。 日本がパラオを支配するようになった経緯だけでなく、日本の行った学校教育、産業・経済活動等についても詳しく述べられている。
そして、クニオ・ナカムラ前大統領は、「新しい歴史教科書をつくる会」に賛同する署名もしていて、大統領専用の便箋に記された署名文書には、心に迫るコメントが添えられている。
パラオの国旗は、日の丸を元に、太陽のかわりに満月を、白地には大平洋の青い海の色をデザインされてつくられるほどパラオという国は、日本人を敬い、日本統治時代を懐かしむこそすれ、朝鮮人のように日本人を逆恨みなどしていないと我々はもっと知っていてもいいと思う。
パラオはドイツの植民地だったが、第一次大戦下、この地域の戦争でドイツに勝った日本は、戦後、国際連盟からパラオを含むミクロネシア地域を委任統治することを求められた。日本はたくさんの移民をこの地に送り、産業、教育、文化の発展に大きな功績を残した。
第二次世界大戦後、この地域を占領したアメリカは、日本文化の影響を徹底的に破壊した。南洋神社は取りつぶされた。校庭の二宮金次郎の銅像は引きずり降ろされた。
しかし、パラオ人は、心の中では勤勉の精神を教えてくれた日本人を敬い、日本統治時代を懐かしんでいる。その証拠にパラオ人の8割は、その姓名のどちらかに、日本式の名前を付けているといわれる。
れっきとしたパラオ人の上院議員のなかに、ウメタロウさんという方がいた。この名前を,姓名の「名」のほう、つまりファースト・ネームだろうと思っ ていた。実際は,この方はスティーブ・ウメタロウさんという。ウメタロウは、この方の「姓」だったのである。おそらく、身近にウメタロウという名前の尊敬 すべき日本人がいたに違いない。
1994年、パラオはアメリカから独立した。独立にあたり国旗を制定することになり、国民の間から一般公募した結果、日の丸をもじった今のデザイ ンに決まったというわけである。ただし、パラオの国旗の満月は、日の丸の旗の太陽とは違って、中心から少しズレている。日本に失礼だからと、わざと中心を はずしたのだそうだ。これはパラオの人たちの慎み深い態度をよく表している。
パラオの国旗は、日の丸は侵略のシンボルなどではないこと、かつて日本の統治下にあった国で、日本の日の丸を模した国旗がつくられるほど、戦前の日本と日本人はアジアの人たちから尊敬されていたことを教える実物教材である。
そういえば、当時首相だったあの村山富市はパラオ独立一周年の時に祝電の一つも打たなかったそうで、ナカムラ大統領はひどく悲しそうにしていたそうだ。
イギリス植民地のビルマ独立
ビルマもイギリスの侵攻に敗れて、明治19年以来イギリスの植民地になっていた。印度と同じよう に何とか独立したいと願っていた。
大東亜戦争の始まる一年程前に、ビルマには「ビルマ独立三十人の志士」と呼ばれる青年達が居た。リー ダーはアウンサン。軍事政権に反対して軟禁されていたスーチーさんのお父さんである。
これらの青年連は 何とか祖国を独立させたいと思って、英国官憲の目を盗んでビルマを脱出し、日本の庇護を求めて来た。
そこで日本では鈴木敬司大佐を長とする「南機関」 というのを作って、海南島という所で徹底した軍事訓 練を施した。
そして日本軍がビルマに進攻した時には、 彼らはビルマ独立義勇軍というのを結成して一緒にビ ルマに入った。ビルマ人達は歓呼を以て日本軍とビル マ独立義勇軍を迎えた。
大体ビルマも日本も佛教国で、ビルマ人も日本人も 皮膚の色は似ているし、日本人に対して非常に親近感 がある。
イギリスは、インドや中国からの移民を大量に受け入れて主要産業に従事させたのに対しビルマ族を小作人にさせた。
そのうえ、イギリス人をトップとし、インド人に行政を任せるとともに、キリスト教を布教したカレン族などの少数民族を警察・軍人として採用して大多数を占めるビルマ族を弾圧させた。
イギリスは、スリランカなど他の植民地でも少数民族を重用し、大多数を占める民族を弾圧させた。これは、国民の怒りの矛先をイギリスではなく、少数民族に向けさせるのが狙いであった。
イギリスのこうした政策が、今も根深く残る民族紛争の原因となっている。
イギリス軍はビルマに居た時も、部落 から離れた所に自家発電付きのキャンプを作って、ビ ルマ人とは無関係の生活をしていたが、日本軍 はビルマ人の部落の中に民宿したりして、ビルマの人達と親戚のようにつき合った。
だからビルマ人 で英語を話す者は、英人に使われていた極く一部のビ ルマ人に限られていたが、日本語は大抵のビル マ人が覚えてしまったし、日本兵の中にもビルマ語の片言を話す者が沢山に居た。
今でも慰霊巡拝のために ビルマを訪ねると、"見よ東海の空明けて"とか"真 白き富士の"とか、大抵の日本人が忘れてしまった昔 の歌を歌ってくれて、感激したり赤面したりするという。
開戦直後に、日本軍はマレー半島を破竹の勢いで制圧した。
その後、日本軍はマレー半島の北方拠点として、またビルマのラングーンから中国に繋がる中国支援ルートを切断し、一方で諜報活動をする南機関の働きなどにより、ビルマに対する英離反工作をうながすという、政略的な意義を持ったビルマ作戦を本格的に開始した。
1942年3月、日本帝国陸軍第15軍は南部ビルマにある首都ラングーンを占領。その後、ラシオ、マンダレーと占領していき、ビルマ攻略を完了し た。このときインド領内に退却するイギリス軍は、フーコン渓谷とチンドウィン川を越えなければならなかったため部隊の多くを失った。
ビルマ制圧後、日本軍部内ではビルマ国境を越えてインドのインパールへ侵入する計画を持っていたが、これを実現するには川幅600mのチンドウィ ン川を越えた上で2000mを越える山脈と密林、さらには雨季には世界一降水量が多い地域を越えなければならなかった。このことから第15軍内でも反対意 見が出ていた。
日本軍はインド北東部を攻略するインパール作戦を実施したが、歴史的な大敗を喫し、日本軍は衰退した。
そこで、1945年、アウンサン将軍は、今度はイギリス軍と組んで日本軍を排除した。
だが、イギリスは、ビルマの独立を認めるという約束を反故にして、ビルマを再びイギリス領としてしまった。
1948年、第二次世界大戦後イギリスの国力が低下したこともあり、ようやくビルマは独立を果たす。
初代首相にはアウンサン将軍が就任する予定であったが、独立の直前に暗殺されてしまった。そこで、アウンサン将軍を引き継ぐ形で反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の総裁に就任したウー・ヌー氏がビルマの初代首相に就任したのである。
最後は日本軍の撤退作戦で、ビルマ全土が戦場にな り、ビルマ人にも沢山の犠牲者が出たが、結局 はこの戦争がキッカケとなって、ビルマは英国から独 立した。ビルマ人も沢山死んだろうが、日本兵はその 何十倍、何百倍と死んだ。
戦後、ビルマ政府は、南機関の鈴木敬司大佐以下七 名の日本人に、独立の勲功をたたえる最高勲章である 「アウンサン徽章」を贈った。ビルマは、日本 を怨むどころか、独立は日本のお陰だと感謝している。
最後まで日本を見捨てなかったチベット
チベットの伝承にこんな話がある。
「大昔、チベットの賢くて美しい500人の少年少女が薬草を求めて東方へ行き、海を渡って島に上陸し、そこにリビン(日本)という国を築いた。」
チベットでは良く知られている話で、チベットの人たちの日本への親近感のルーツとなっている。
歴史上、日本とチベットはあまり接点がなく、関連が少ないように思われているが、風俗や文化などに意外な共通点(数の数え方、おんぶの仕方など)があり、太古の時代何らかの強いつながりがあったことをうかがわせる。
この伝承もそのあたりから生まれ、伝えられてきたのかもしれない。
現在のチベットからは想像しにくいが、8世紀から9世紀のチベットは軍事大国であった。
当時チベットは「吐蕃王朝」の時代。
吐蕃の軍事的圧迫を感じていた唐王朝は懐柔のため、2度、公主(皇帝の娘)を吐蕃王の后として送り出しているくらいだ。
その頃の話としてこんな逸話がある。
753年正月、唐の玄宗に朝貢した諸国の席次に、日本の大伴古麻呂が異議を唱えた。
吐蕃が西の一番、新羅が東の一番で日本は西の二番だったためである。
本来西側には中国から見て西方の国が、東側には東方の国が並ぶはずなのだが、一応日本に気を使って新羅の下にはおかなかったのだろう。
大伴古麻呂曰く「新羅は古来から日本に朝貢しているのだから、新羅より下座であることは納得できない」
この抗議を唐側は入れて、東の一番に日本、西の二番に新羅をおくこととしたそうである。(続日本記)
いずれにしても西の一番は揺るぎもなく吐蕃(チベット)で、誰も異議がない。
東アジアの大国として吐蕃王朝の地位は唐以外に比肩するものがなかった。
この十年後には唐の都「長安」を軍事占領するほどの力を持っていたのである。
その後幾度かの戦いのあと、吐蕃と唐は盟約を結び(822年)、碑が建てられた。(唐蕃会盟碑)
その碑は両国の国号や君主の称号を列挙する際の表現など、両国に上下をつけぬよう配慮された表現となっている。
古来からこれほど確固たる地位を有していた国が中国の一部だろうか?否である。
唐との和平がなった後、仏教を国教に据えそれが現在まで続いている。
現在では仏教のもっとも純粋な姿を残しているのがチベットであるといわれる。
仏教は人々の生活に深く根ざし、価値観の基盤となってる。
チベットの人々は、日本を仏教国と考え親近感を持っているようだ。
また、中国の敵は味方と考えてもいるのだろうか?親日的である。
東アジアの外交関係は中国を中心とした冊封体制である。
冊封体制では時々の中国王朝は国際関係上、盟主として立てられるが、各々の内政にまで干渉することはまれである。
清朝の時代になると、ムガール帝国と日本を除く東アジアのすべての国が冊封体制に組み込まれていたが、それらの国々も中国の属国とは必ずしもいえない。
朝鮮やベトナムのように中国の強い影響下におかれていた国もあるが、チベットは有史以来完全に独立国である。
近代のチベットは、清朝、インドに進出したイギリス、南下するロシアの狭間で外交的に難しい舵取りを強いられた。
そんな中で日中戦争、第二次世界大戦では中立を守り通したのである。
日本軍がビルマに進駐し、米英の蒋援ルート(重慶にいた中国蒋介石への物資補給ルート)が遮断されると、米英中はチベット経由での物資輸送を打診 したが、チベット政府はこれを断固拒否した。しかも世界中が日本に経済封鎖する中、チベットだけが変わらず日本との交易を継続してくれた。
親日的というだけでなく、中国へ力を貸すことへの拒否感や、一方に肩入れし、賭けに負けたときを心配などが理由かもしれないが、日本としてはビルマ進駐の戦略的意義を失わずに済んだのである。
しかし、この判断が後にチベットを非常に苦しめることになる。
第二次世界大戦終結後、中立を守ったチベットは、戦勝国はもちろん、準戦勝国にもなれず、戦後の枠組みを決める場面から取り残された。
それらの席でチベットの独立を国際的に認知させられたかもしれなかったのに、である。
第二次世界大戦後、民族自決の名の下にアジア、アフリカの多くの民族が主に西欧諸国から独立した。
しかし、時代に逆行するかのように、1950年9月、「解放」の名の下に中国共産党がチベットに軍事侵攻し、チベットの独立は失われた。
戦後、独立を失った国はチベットのみである。
その後現在まで、中国共産党によるチベット人に対する人権侵害と抑圧・拷問・虐殺の繰り返しだ。
中国が都合よく持ち出した、かつての冊封関係の鎖にチベットの人々だけが未だに繋がれている。
このくびきを解き放つ手助けを、今こそ日本はしなければならない。
日本は借りを返すときではないのか?
1951年4月19日 アメリカ議会にて ダグラス・マッカーサー
『日本国民は戦後、現代史上最大の変革を行ってきた。
日本国民は見事な意志力と学ぼうとする熱意、
優れた理解力を発揮して、
戦いの跡に残された灰の中から個人の自由を
尊厳を至高とする高い精神を築き上げた。
ダグラス・マッカーサー
日本が今後のアジアの動向に
きわめて有益な影響を及ぼす事は十分に期待できる。
その証拠に日本国民は最近、
国外からの戦火と不安と混乱の試練を
見事乗り切っただけでなく
国内でも共産主義の膨張を押さえながら
急速な進歩を成し遂げたのである。
私は日本ほど安定し、秩序を保ち、
勤勉である国、日本ほど人類の前進の為に
将来建設的な役割を果たしてくれるという
希望の持てる国を他に知らない。』
(ダグラス・マッカーサー)
今回の東日本大震災で、どれだけ多くの方が殉職されたでしょうか。自分一人が逃げれば、助かるとわかっていても、逃げずに職務を遂行された方が
多かったのです。しかもギリギリまで我慢して、いよいよというときには逃げるというのでもすごいのに、その最後のギリギリでも逃げなかった人が多いので
す。中には非番の警察官がわざわざ職務に出かけて亡くなっているのです。
大東亜戦争での特攻隊員も、このような人々と同じで、自分が力をつくすことで、自分の国の未来が変わると思えば、やらずにはおれなかったので
しょう。それくらい国を愛していたということだと思います。それを騙されたからとかいう人は、あまりに馬鹿にしすぎています。騙されなければ、人は命を捨
てることはないというのでしょうか、そんなことはありません。また命を捨てるには国などのためには馬鹿らしいとでも言うのでしょうか。
私は昔、「天平の甍」という井上靖の書いた遣唐使を描いた小説の映画を見たことがあります。その時代、日本に仏教を持ち帰って、仏教によって
人々の心を救おうと志す僧たちが、長い年月の苦労に耐えて何とか鑑真和尚を連れ帰ろうとする話ですが、その僧たちとは別に、お経を持ち帰ることで仏教を広
めようと、経典を自分が大量に写経して、それに命をかけていた僧がいました。ところがその僧の乗った船は沈みそうになって、船員たちに少しでも荷物を軽く
するために、その僧が長い年月をかけて写経した大量の経典を海に投げ込まれてしまいます。僧は何とか止めようとしても甲斐なく、絶望した僧は海に身を投げ
てしまいました。映画のなかで、この場面が一番印象に残りました。
この遣唐使の時代、日本人が少しでも自分の国を良くしようと、船旅の遭難率の多さにもかかわらず、海外の文化や教えを求めていく勇気と、その一
生懸命な一筋の志にひどく感動したものです。古代の交通の不便な時代に、何かを伝え持ち帰ろうとすることの難しさ、その努力の上に、歴史が築かれていった
のだと、強烈な印象をあたえた映画でした。
1995年にフィリピン、マニラ市内に張られたフィリピン共和国独立記念日のポスター
半島と支那、欧米以外では日本は有色人種を解放したヒーローと学校で教育している。
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