在日米軍の米軍機は、日本の民間旅客機を撃墜する、民間旅客機をターゲットにしたミサイル発射訓練を行っている。
日本、韓国、ハワイ、グアムに駐留する米軍基地内で読まれている「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」という雑誌がある。
1985年8月12日 日航ジャンボ旅客機が御巣鷹山に墜落した事故、事故原因は今もって不明のまま日航は補償金を支払った。
1985年8月27日号には以下の記事がある。
事故当時、横田基地に配属されていた米空軍の輸送機U130のパイロット、マイケル・アントヌッチ中尉は以下のように証言する。
「事故当日、空中戦の演習を行っていた米軍練習用戦闘機から事故が起こったとの緊急無線が入り、一番近くを飛行していた私のU130輸送機がその戦闘機が報せてきた日航ジャンボ機の事故現場に向った。
いつものように練習用戦闘機が、日本の民間旅客機をターゲットにミサイル発射のシュミレーション演習を行っていたところ、安全装置が解除されていることに気づかず、実弾ミサイルを日航ジャンボ機に命中させてしまった、というのが無線の第一報の内容だった。」
この現役空軍中尉は後に日本政府から、「現場に行かなかった事、第一報の無線も聞かなかったように発言するよう要請された。」と証言している。
米軍人コミュニティ向けの新聞「スターズ・アンド・ストライプス」の一面に突然表れたアントヌッチ証言とは何か?この証言の全訳文を米田氏の著書「御巣鷹の謎を追う」から引用しよう。少し長いですが、ぜひ読んでみてください。
注
・一部を除き漢数字はアラビア数字に置き換えてます
・カギ括弧([])内の数字は、私が付け加えた段落番号です
------------------------------(ここから)------------------------------
「スターズ・アンド・ストライプス」の証言報道 1995年8月27日
(前文)
撤退命令が出ていなければ東京近郊の山中に墜落した日航123便事故の2時間後に、米海兵隊は生存者を救出できただろう。
(経歴)
1982年から90年まで米空軍に在籍したマイケル・アントヌッチ氏。現在はカリフォルニア州サクラメント市でインサイド・カリフォルニア誌の編集を行っているサクラメント・ビー紙とマイケル・アントヌッチ氏の許可を得て再録した。
[1]
10 年前の1985年8月12日に、日航123便は本州中部の山間に墜落し、520人が死亡した。単独の航空機事故としては航空史上、最悪の犠牲者を出す結果 となった。日本の救助隊の現場への到達が遅れたのではないかとの論議が起こった。最初の救助隊が日航機にたどり着いたのは墜落後12時間後だった。実際、 もし日本当局を困惑させまいとすることがなかったならば、最初の救助隊(米海兵隊チーム)は墜落後、2時間以内に墜落機の捜索ができていただろう。生存者 は4人だった。(しかし)それ以上の多くの人が助かったかもしれない。
[2]
123便墜落事故の余波(被害拡大)について、私は 独自の見方をしている。事故当時、私はそのことについて「他言無用」の命令を受けていた。しかし、大事故から10年経過した今、私があの晩 、東京から西に35マイル離れた横田基地に向かう米空軍C130のナビゲーターとして見たこと、聞いたことを、話さずにはいられない。
(図:米軍のC130輸送機)
[3]
当 時、私は横田基地の空軍中尉だった。当日8月12日の午後6時30分ころ、我々は沖縄から横田に向け飛行中、大島上空にさしかかった。われわれは最初、日 航123便の機長が管制塔に緊急事態を宣言したときには、さして気にもしていなかった。(なぜなら)軍では、緊急事態を宣言し、エンジンを止めて平穏無事 に着陸することはよくあることだから。しかし、6時40分ころ、再度、日航機長の声を聞いた。その声は非常に動揺しており、管制とのやりとりは、航空の標 準語である英語ではなく日本語だった。こんなことは、几帳面な東京管制官の通常の離陸管制では考えられないほど異常なことだった。
[4]
ずっ と後日になって知ったのだが、123便は(垂直)尾翼と下部方向舵の一部をなくしており、操縦不能であって、高濱雅巳機長はスロットルレバーの調整のみで 操縦し、高度を変えようとしていた。また123便は緊急降下が必要な緊急事態である急減圧が起きていた。同機は絶望的な状態だったのだ。
[5]
わ れわれは、周波数を横田基地に切り替え、オオクラでホールディングするよう指示された。旋回中に、横田管制が123便に横田基地への着陸を許可するのを聞 いた。このときから、われわれは事態を真剣に注視するようになった。123便の緊急事態は相当に深刻で、目的地に到着できそうになかった。だから、めった にないことだが、当該乗員は米軍基地への着陸を希望したのだった。
[6]
横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目だっ た。われわれにも(横田基地への)進入許可を出したが、ちょうど7時過ぎに123便がレーダーから消えた、と伝えてきた。そして123便を捜索できないか と聞いてきた。われわれは、あと2時間は飛べる燃料を持っていたので機首を北に向け、捜索に向かった。
[7]
管制では123便が レーダーから消えた場所をよく分かっていなかった。当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、 航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起 伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の 斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。
[8]
当機の指揮官、ジョン・グリフィ ンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経 度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地か ら、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。1時間で到着できただろう。
[9]
副操縦士のゲーリー・ブレイは管制に 「海兵隊に急ぐように伝えてくれ。もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね]といった。管制官からは「生存者はいない様子。了解」との返答があった。 「ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった」とゲーリーは無線を外して私にそういった。当機は8時30分まで先回 を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダー で地上から空中までを探してみた。8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。
[10]
午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。
[11]
将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので「司令部、海兵隊は救助続行をきぼうしている」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。私は「了解。基地に帰還する」と応答した。
[12]
ブ レイは渋々そのことを海兵隊に知らせた。海兵隊も了解しており、引き上げ始めていた。われわれの到着から2時間経過した午後9時20分に、最初の日本の飛 行機が現れた。管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。日本側が現場に到着したことで、安心してその場を引き上げた。もっとも、我々の燃料もほとんど 使い果たしていた。
[13]
横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。我々を待っていたのは、第 861戦術飛行隊副司令官、ジョエル・シルズ大佐であった。グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、大佐は「ご苦労だった。今回のことについてマスコミ には一切他言無用」といった。
[14]
われわれは、緊張を強いられた17時間にも及ぶ飛行を終え、休息をとるために飛行中退のビ ルに向かった。そのとき、日航123便が満席に近い500人以上もの乗客を乗せていたことを日本のテレビを見て知った。起こった事故の大きさに驚き、声も 出なかった。スケジューラーが翌日の午後、一週間の任務で沖縄へ出発するようにとの指令をわれわれに伝えたので、その静寂が終わった。乗務員はそのまま放 置されたが、そんなことは通常ないことであった。
[15]
翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。ニュースは、日本 の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。私はすぐに地図のとこ ろへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示した、という自信があった。私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだ し、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側 にあったのだろうか?
[16]
墜落から2週間たって、タイの首都、バンコクにいたとき、私は墜落の写真が表紙になった『タイム』 と『ニューズウィーク』を買った。これで4人の生存者がいたことを初めて知った。4人のうちの落合由美さんの記事を読んでゾッとさせられた。彼女は墜落 後、意識があったときのことを語っている。残骸の下で動けなかったが、彼女はヘリコプターを発見し、手を振って合図したが、すぐには返答がなかった。「次 第に私は眠くなった」「気がつくと男の人の話し声が聞こえ、もう朝だった」と彼女はいっている。
[17]
落合さんはまた、看護師 に、数人の子どもたちの声を聞いたが闇の中でその声は次第に途絶えていった、と話している。私は打ちのめされたような気がした。海兵隊が吊り上げによる救 助を許可されていたならば、さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが見つけられるところまで 接近していたのだ。
[18]
『ニューズウィーク』誌によると、日本の当局は、捜索開始命令が午後9時30分まで出されなかった、 と述べている。(しかし)その時刻はわれわれが墜落地点を確認した2時間後だった。最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時 40分だった。午前7時15分になって日本の捜索隊は、警察(自衛隊のこと)のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。海兵隊のヘリコ プターが同じことをやろうとして許可されなかったときから、11時間もたってのことだった。
[19]
こういう大惨事での米国の役 割については、『タイム』や『ニューズウィーク』誌でも、われわれのC130や海兵隊の行動を報道することはなく、記者たちは日本の当局が公表したことを 鵜呑みにしている。『ニューズウィーク』は、日本のF4戦闘機が午後7時21分に山の中の炎上地点を確認したと伝えていた。当時の日本はF4を持っていな かったし、在日米軍基地にもF4は配備されていなかったという事実を除けば、これはよくできた話である。
[20]
また『タイム』 は、日本の航空自衛隊が派遣した2機の航空機が、炎上地点を確認したと伝えている。このことは、午後9時30分まで捜索命令が出されなかった、という軍 (自衛隊)の前述の言明と矛盾している。夜から朝にかけて、いったい何が起こっていたのだろうか。日本の救助隊は、墜落現場から42マイル離れた上野村に 対策本部を設置しつつあった。後になって、日本の緊急事態対策問題に精通しているある人から、彼らが1機ではなく2機の米軍機が自分たちよりも2時間も早 く現場に到着していたことに、びっくりしていた、と聞かされた。この人物は「日本の乗員は、あなた方が行ったようにとっさに捜索を実行するなんてことは絶 対できないだろう」「彼らの救助活動のやり方といえば、マニュアルなど文字になっているものでしかできないのだ。しかし、あなたたち(空軍と海兵隊)はそ れを見事にやってのけた」と私に語った。
(管理者註:42マイル(約65km)は4.2マイルの誤りか?)
[21]
私が 日本に戻ってきたころには、この話は立ち消えになっていた。われわれ乗員たちは、ある連絡(承諾)を受け取ったが、われわれの期待とはずいぶん、かけ離れ ていた。われわれは、日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあった、ということにされた。しかし、この調査は、当然のことながら あっという間に終わった。なぜならフィルムを持っているものなどだれ一人いなかったし、写真を取れるような明かりも十分なかったのだから。そのうえ、マス コミは、われわれがそこを飛んでいたことなど、誰も知らないのだから、報道されるはずもなかった。
[22]
1987年3月、私は横田基地を離れ、サクラメントのマザー空軍基地で航法教育に携わる大尉として着任したが、そのとき、空軍表彰メダルを授与された。そこにはこう書いてある
「アントヌッチ大尉とその乗務員は、日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて、墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した」
私は空軍が私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は「まだ、生存していた人たちを救出できなかった」と付け加えたかった。
「23」
日 航123便事故は、実際二つの惨事がある。第一は墜落事故の衝撃で人々が死亡したことである。第二には、遺体収容を援助した医師たちの証言に表れている。 つまり、もっと早く救助隊が到着していれば、負傷者、または致命的でなかった乗客を発見できただろうということだ。ある医師の証言は私の体の心まで震え上 がらせた。彼は「もし、発見がもう10時間早ければ、われわれはもっと多くの生存者を発見できたであろう」といっている
------------------------------(ここまで)------------------------------
以上の証言に加え、米田氏が指摘する、アントヌッチ氏の3つの事実誤認を列記。
1.[19]航空自衛隊は主要基地にF4E戦闘機を配備していたというのが正しい
2.[8] 米軍厚木基地には海兵隊の救難部隊はない。米陸軍座間基地のUH1ヘリ
が救難に向かったのが正しい
3.[5]123便が横田基地への緊急着陸を求めていたような証言になっているが、
123便は操縦に追われ横田からの呼びかけに応じきれなかったのが正しい
→私は米田氏の3.の指摘は間違っていると思う。
それと、肝心な
「事故当日、空中戦の演習を行っていた米軍練習用戦闘機から事故が起こったとの緊急無線が入り、一番近くを飛行していた私のU130輸送機がその戦闘機が報せてきた日航ジャンボ機の事故現場に向った。
いつものように練習用戦闘機が、日本の民間旅客機をターゲットにミサイル発射のシュミレーション演習を行っていたところ、安全装置が解除されていることに気づかず、実弾ミサイルを日航ジャンボ機に命中させてしまった、というのが無線の第一報の内容だった。」
という部分が翻訳から抜け落ちている。
事故調ではレーダー記録とフライトレコーダ(CFR)を解析した結果として発表されたが、あらゆる民間での調査や分析とは違っており、事故調の発表は捏造だと言える証拠が多数見つかっている。
抜け落ちた部分からは、在日米軍戦闘機は我々日本人をターゲットに、日常的に「撃墜演習」を行っているという事実を示している。
ある民間の調査では、撃墜した戦闘機は、日本の自衛隊の訓練機だとされるものもある。
この空域は横田基地が完全に独占しており、自衛隊が日常的に使用出来るような空域ではない。
しかも重大事件が起こったにもかかわらず、抗議するどころか日本政府(自民党政権)がそれをもみ消した。
当時ロックフェラーが小佐野賢治と組み日航株の買い占めを行っていた。しかもロックフェラーが本拠地にしようと欲しがっていたのが不二家の銀座の土地であった。しかし不二家は頑強にこれを拒否していた。
当日飛行訓練の機の安全装置が何故解除されていたのかは依然謎のままであるが、墜落した日航機には、その不二家の社長が乗っていた。
その後、不二家は土地を小佐野に売り、当時株買い占めの邪魔をしていた山洋興産は持ち株15%を小佐野に売り渡している。
小佐野はロックフェラーの代理であり、ロックフェラーにはCIAが裏に居た。
諸説があり真実は闇の中だが、単なる事故とは思えない。
墜落したJAL123便の遺品の中から座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41 歳)は、尾翼が吹き飛ぶ6分前、飛行機の窓から123便を追尾するように飛行してくる物体に気がつき、それをカメラに収めている。
1990年10月14日付の朝日新聞朝刊一面に掲載されたこの写真は、JAL123便事件の謎を解く、唯一の貴重な物的証拠として後世に遺ることになる。
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/acea0c09dd04784b61172500fc4edc23
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/2ae393ac6bf8cc30807ba140c33183f8
自衛隊員の自殺率の嘘
1981年より自衛隊員の自殺数の調査が行われている、そして1982年から自殺数が急激に上がり1986年には年間90人以上と81年から73パーセントも増加している。
だ が実は1981年に調査を開始した記録はなく、1986年に急に以前から調査していたかのように自殺数を公表しはじめた、一省庁のなかで年間これだけの自 殺者が出るのは、不自然であり不審であるが報道すらされなかった、しかもなぜわざわざ81年から調査しているなどと嘘をつかなければならないのだろうか?
自殺率増加という一見マイナスイメージしか生まない情報操作はなにを意図したものであろうか?
最初に不審な自殺者が出たのが1986年7月、二人の航空自衛隊パイロットだった、そしてつづいて同年9月12日14日と航空自衛隊員が二人自殺する、(これを皮切りに謎の自殺数増加がはじまる)
そのうちの一人(12日死亡)が友人に預けていた二枚の写真があるのだが、
一枚は7月に自殺した同僚二人の写真(a)である。
(ぼかしをいれてある)この写真の二人だが、当時隊内では同性愛者の心中ではと茶化されておわったという、
この時の状況だが二人は自殺をはかった直後に発見され、自衛隊病院に運ばれ病院内で死亡ということで、司法解剖も、検視解剖もされなかった。
だがこの写真の異様さに気づくだろうか、身長ほどの高さで吊られているが、踏み台もなにもない、しかもパラシュートコードを使ったというが、このコードは6mmほどで300kg近い耐力があり、首への食い込みは太いロープなどと違い血管も神経も切断する。
それを偶然自殺直後に発見し撮影までした後、病院に搬送するまで生きているとは考えづらくはないだろうか?(4人とも遺書は残していない)
そしてもう一枚の写真(b)が暗い倉庫内(建造物にはモザイクをいれた)の写真だがこれはなんなのか?なぜこの2枚の写真を何の説明もなく他人に預けたのだろうか?
下の「資料3」の赤い部分、日航123便の垂直尾翼はその70パーセントが見つかっていない。
「資料1」の写真は暗い倉庫でフラッシュ無しで撮影されたようで、解像度が非常に悪かったのを
最大まで解像度を上げ補色処理をしたものだが、何にみえるだろう?
折れ曲がりボロボロだが、これは失われた「70パーセント部分」ではないだろうか!?
相模湾上空で失い行方不明のはずの垂直尾翼の写真をなぜ自殺した自衛隊員がもっていたのか、もし自衛隊で回収したのであっても隠す必要はどこにもないはずである。
ここで一つのある「うわさ」に行きつく、「日航123便は自衛隊に撃墜された」と言ううわさである。
ありえない!なんのために自衛隊が民間機を撃墜しなければならないのか、
そんな必要もメリットも何もない。荒唐無稽な話としか思えないだろう。
この空域は当時横田基地が完全に独占しており、自衛隊が日常的に使用出来るような空域ではない。自衛隊や民間航空機が飛べるようになったのは、ずっと後になってからだ。
よく自衛隊は民間機や客船、漁船などを敵にみたて、ぎりぎりまで接近しミサイルのレーダーロックの訓練を頻繁に行っているのは有名な話だが、ここでミサイルを誤射するなどは絶対あり得ない!
別の可能性、自衛隊機と衝突したのであれば飛行中の破損はさらに甚大であるし機長たちも事故前にわかるはずである。
「資料1」の右はじ部分まくれあがってるような部分があるがそこにオレンジと黒の色が見えるが、123便に使用されている塗料は白黒赤だけであり、
「オレンジ色」は一切使われていないという。
事 故当時のニュース映像で日航側の事故調査員が金属片を回収しようとして証拠隠滅の容疑で自衛官に連行されたが、自衛官がなぜ連行なんかしてるのか関係者の 間で疑問だった、その後この映像は一切流れることはなかった。このとき調査員の回収しようとした金属片も日航機には使用されていないはずの「オレンジ色」 の破片だった…
いずれにしても、この自殺したとされる自衛官は、このJAL123便墜落の秘密を握っていて殺されたと見るのが妥当ではないのか。
しかし、全ての事実を自民党政権は葬り去った。
私の大切な友人がその犠牲となって御巣鷹山に眠っている。
証拠は消されても、事件が時効となっても私は忘れない。
日本、韓国、ハワイ、グアムに駐留する米軍基地内で読まれている「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」という雑誌がある。
1985年8月12日 日航ジャンボ旅客機が御巣鷹山に墜落した事故、事故原因は今もって不明のまま日航は補償金を支払った。
1985年8月27日号には以下の記事がある。
事故当時、横田基地に配属されていた米空軍の輸送機U130のパイロット、マイケル・アントヌッチ中尉は以下のように証言する。
「事故当日、空中戦の演習を行っていた米軍練習用戦闘機から事故が起こったとの緊急無線が入り、一番近くを飛行していた私のU130輸送機がその戦闘機が報せてきた日航ジャンボ機の事故現場に向った。
いつものように練習用戦闘機が、日本の民間旅客機をターゲットにミサイル発射のシュミレーション演習を行っていたところ、安全装置が解除されていることに気づかず、実弾ミサイルを日航ジャンボ機に命中させてしまった、というのが無線の第一報の内容だった。」
この現役空軍中尉は後に日本政府から、「現場に行かなかった事、第一報の無線も聞かなかったように発言するよう要請された。」と証言している。
米軍人コミュニティ向けの新聞「スターズ・アンド・ストライプス」の一面に突然表れたアントヌッチ証言とは何か?この証言の全訳文を米田氏の著書「御巣鷹の謎を追う」から引用しよう。少し長いですが、ぜひ読んでみてください。
注
・一部を除き漢数字はアラビア数字に置き換えてます
・カギ括弧([])内の数字は、私が付け加えた段落番号です
------------------------------(ここから)------------------------------
「スターズ・アンド・ストライプス」の証言報道 1995年8月27日
(前文)
撤退命令が出ていなければ東京近郊の山中に墜落した日航123便事故の2時間後に、米海兵隊は生存者を救出できただろう。
(経歴)
1982年から90年まで米空軍に在籍したマイケル・アントヌッチ氏。現在はカリフォルニア州サクラメント市でインサイド・カリフォルニア誌の編集を行っているサクラメント・ビー紙とマイケル・アントヌッチ氏の許可を得て再録した。
[1]
10 年前の1985年8月12日に、日航123便は本州中部の山間に墜落し、520人が死亡した。単独の航空機事故としては航空史上、最悪の犠牲者を出す結果 となった。日本の救助隊の現場への到達が遅れたのではないかとの論議が起こった。最初の救助隊が日航機にたどり着いたのは墜落後12時間後だった。実際、 もし日本当局を困惑させまいとすることがなかったならば、最初の救助隊(米海兵隊チーム)は墜落後、2時間以内に墜落機の捜索ができていただろう。生存者 は4人だった。(しかし)それ以上の多くの人が助かったかもしれない。
[2]
123便墜落事故の余波(被害拡大)について、私は 独自の見方をしている。事故当時、私はそのことについて「他言無用」の命令を受けていた。しかし、大事故から10年経過した今、私があの晩 、東京から西に35マイル離れた横田基地に向かう米空軍C130のナビゲーターとして見たこと、聞いたことを、話さずにはいられない。
(図:米軍のC130輸送機)
[3]
当 時、私は横田基地の空軍中尉だった。当日8月12日の午後6時30分ころ、我々は沖縄から横田に向け飛行中、大島上空にさしかかった。われわれは最初、日 航123便の機長が管制塔に緊急事態を宣言したときには、さして気にもしていなかった。(なぜなら)軍では、緊急事態を宣言し、エンジンを止めて平穏無事 に着陸することはよくあることだから。しかし、6時40分ころ、再度、日航機長の声を聞いた。その声は非常に動揺しており、管制とのやりとりは、航空の標 準語である英語ではなく日本語だった。こんなことは、几帳面な東京管制官の通常の離陸管制では考えられないほど異常なことだった。
[4]
ずっ と後日になって知ったのだが、123便は(垂直)尾翼と下部方向舵の一部をなくしており、操縦不能であって、高濱雅巳機長はスロットルレバーの調整のみで 操縦し、高度を変えようとしていた。また123便は緊急降下が必要な緊急事態である急減圧が起きていた。同機は絶望的な状態だったのだ。
[5]
わ れわれは、周波数を横田基地に切り替え、オオクラでホールディングするよう指示された。旋回中に、横田管制が123便に横田基地への着陸を許可するのを聞 いた。このときから、われわれは事態を真剣に注視するようになった。123便の緊急事態は相当に深刻で、目的地に到着できそうになかった。だから、めった にないことだが、当該乗員は米軍基地への着陸を希望したのだった。
[6]
横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目だっ た。われわれにも(横田基地への)進入許可を出したが、ちょうど7時過ぎに123便がレーダーから消えた、と伝えてきた。そして123便を捜索できないか と聞いてきた。われわれは、あと2時間は飛べる燃料を持っていたので機首を北に向け、捜索に向かった。
[7]
管制では123便が レーダーから消えた場所をよく分かっていなかった。当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、 航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起 伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の 斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。
[8]
当機の指揮官、ジョン・グリフィ ンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経 度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地か ら、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。1時間で到着できただろう。
[9]
副操縦士のゲーリー・ブレイは管制に 「海兵隊に急ぐように伝えてくれ。もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね]といった。管制官からは「生存者はいない様子。了解」との返答があった。 「ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった」とゲーリーは無線を外して私にそういった。当機は8時30分まで先回 を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダー で地上から空中までを探してみた。8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。
[10]
午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。
[11]
将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので「司令部、海兵隊は救助続行をきぼうしている」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。私は「了解。基地に帰還する」と応答した。
[12]
ブ レイは渋々そのことを海兵隊に知らせた。海兵隊も了解しており、引き上げ始めていた。われわれの到着から2時間経過した午後9時20分に、最初の日本の飛 行機が現れた。管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。日本側が現場に到着したことで、安心してその場を引き上げた。もっとも、我々の燃料もほとんど 使い果たしていた。
[13]
横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。我々を待っていたのは、第 861戦術飛行隊副司令官、ジョエル・シルズ大佐であった。グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、大佐は「ご苦労だった。今回のことについてマスコミ には一切他言無用」といった。
[14]
われわれは、緊張を強いられた17時間にも及ぶ飛行を終え、休息をとるために飛行中退のビ ルに向かった。そのとき、日航123便が満席に近い500人以上もの乗客を乗せていたことを日本のテレビを見て知った。起こった事故の大きさに驚き、声も 出なかった。スケジューラーが翌日の午後、一週間の任務で沖縄へ出発するようにとの指令をわれわれに伝えたので、その静寂が終わった。乗務員はそのまま放 置されたが、そんなことは通常ないことであった。
[15]
翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。ニュースは、日本 の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。私はすぐに地図のとこ ろへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示した、という自信があった。私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだ し、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側 にあったのだろうか?
[16]
墜落から2週間たって、タイの首都、バンコクにいたとき、私は墜落の写真が表紙になった『タイム』 と『ニューズウィーク』を買った。これで4人の生存者がいたことを初めて知った。4人のうちの落合由美さんの記事を読んでゾッとさせられた。彼女は墜落 後、意識があったときのことを語っている。残骸の下で動けなかったが、彼女はヘリコプターを発見し、手を振って合図したが、すぐには返答がなかった。「次 第に私は眠くなった」「気がつくと男の人の話し声が聞こえ、もう朝だった」と彼女はいっている。
[17]
落合さんはまた、看護師 に、数人の子どもたちの声を聞いたが闇の中でその声は次第に途絶えていった、と話している。私は打ちのめされたような気がした。海兵隊が吊り上げによる救 助を許可されていたならば、さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが見つけられるところまで 接近していたのだ。
[18]
『ニューズウィーク』誌によると、日本の当局は、捜索開始命令が午後9時30分まで出されなかった、 と述べている。(しかし)その時刻はわれわれが墜落地点を確認した2時間後だった。最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時 40分だった。午前7時15分になって日本の捜索隊は、警察(自衛隊のこと)のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。海兵隊のヘリコ プターが同じことをやろうとして許可されなかったときから、11時間もたってのことだった。
[19]
こういう大惨事での米国の役 割については、『タイム』や『ニューズウィーク』誌でも、われわれのC130や海兵隊の行動を報道することはなく、記者たちは日本の当局が公表したことを 鵜呑みにしている。『ニューズウィーク』は、日本のF4戦闘機が午後7時21分に山の中の炎上地点を確認したと伝えていた。当時の日本はF4を持っていな かったし、在日米軍基地にもF4は配備されていなかったという事実を除けば、これはよくできた話である。
[20]
また『タイム』 は、日本の航空自衛隊が派遣した2機の航空機が、炎上地点を確認したと伝えている。このことは、午後9時30分まで捜索命令が出されなかった、という軍 (自衛隊)の前述の言明と矛盾している。夜から朝にかけて、いったい何が起こっていたのだろうか。日本の救助隊は、墜落現場から42マイル離れた上野村に 対策本部を設置しつつあった。後になって、日本の緊急事態対策問題に精通しているある人から、彼らが1機ではなく2機の米軍機が自分たちよりも2時間も早 く現場に到着していたことに、びっくりしていた、と聞かされた。この人物は「日本の乗員は、あなた方が行ったようにとっさに捜索を実行するなんてことは絶 対できないだろう」「彼らの救助活動のやり方といえば、マニュアルなど文字になっているものでしかできないのだ。しかし、あなたたち(空軍と海兵隊)はそ れを見事にやってのけた」と私に語った。
(管理者註:42マイル(約65km)は4.2マイルの誤りか?)
[21]
私が 日本に戻ってきたころには、この話は立ち消えになっていた。われわれ乗員たちは、ある連絡(承諾)を受け取ったが、われわれの期待とはずいぶん、かけ離れ ていた。われわれは、日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあった、ということにされた。しかし、この調査は、当然のことながら あっという間に終わった。なぜならフィルムを持っているものなどだれ一人いなかったし、写真を取れるような明かりも十分なかったのだから。そのうえ、マス コミは、われわれがそこを飛んでいたことなど、誰も知らないのだから、報道されるはずもなかった。
[22]
1987年3月、私は横田基地を離れ、サクラメントのマザー空軍基地で航法教育に携わる大尉として着任したが、そのとき、空軍表彰メダルを授与された。そこにはこう書いてある
「アントヌッチ大尉とその乗務員は、日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて、墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した」
私は空軍が私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は「まだ、生存していた人たちを救出できなかった」と付け加えたかった。
「23」
日 航123便事故は、実際二つの惨事がある。第一は墜落事故の衝撃で人々が死亡したことである。第二には、遺体収容を援助した医師たちの証言に表れている。 つまり、もっと早く救助隊が到着していれば、負傷者、または致命的でなかった乗客を発見できただろうということだ。ある医師の証言は私の体の心まで震え上 がらせた。彼は「もし、発見がもう10時間早ければ、われわれはもっと多くの生存者を発見できたであろう」といっている
------------------------------(ここまで)------------------------------
以上の証言に加え、米田氏が指摘する、アントヌッチ氏の3つの事実誤認を列記。
1.[19]航空自衛隊は主要基地にF4E戦闘機を配備していたというのが正しい
2.[8] 米軍厚木基地には海兵隊の救難部隊はない。米陸軍座間基地のUH1ヘリ
が救難に向かったのが正しい
3.[5]123便が横田基地への緊急着陸を求めていたような証言になっているが、
123便は操縦に追われ横田からの呼びかけに応じきれなかったのが正しい
→私は米田氏の3.の指摘は間違っていると思う。
それと、肝心な
「事故当日、空中戦の演習を行っていた米軍練習用戦闘機から事故が起こったとの緊急無線が入り、一番近くを飛行していた私のU130輸送機がその戦闘機が報せてきた日航ジャンボ機の事故現場に向った。
いつものように練習用戦闘機が、日本の民間旅客機をターゲットにミサイル発射のシュミレーション演習を行っていたところ、安全装置が解除されていることに気づかず、実弾ミサイルを日航ジャンボ機に命中させてしまった、というのが無線の第一報の内容だった。」
という部分が翻訳から抜け落ちている。
事故調ではレーダー記録とフライトレコーダ(CFR)を解析した結果として発表されたが、あらゆる民間での調査や分析とは違っており、事故調の発表は捏造だと言える証拠が多数見つかっている。
抜け落ちた部分からは、在日米軍戦闘機は我々日本人をターゲットに、日常的に「撃墜演習」を行っているという事実を示している。
ある民間の調査では、撃墜した戦闘機は、日本の自衛隊の訓練機だとされるものもある。
この空域は横田基地が完全に独占しており、自衛隊が日常的に使用出来るような空域ではない。
しかも重大事件が起こったにもかかわらず、抗議するどころか日本政府(自民党政権)がそれをもみ消した。
当時ロックフェラーが小佐野賢治と組み日航株の買い占めを行っていた。しかもロックフェラーが本拠地にしようと欲しがっていたのが不二家の銀座の土地であった。しかし不二家は頑強にこれを拒否していた。
当日飛行訓練の機の安全装置が何故解除されていたのかは依然謎のままであるが、墜落した日航機には、その不二家の社長が乗っていた。
その後、不二家は土地を小佐野に売り、当時株買い占めの邪魔をしていた山洋興産は持ち株15%を小佐野に売り渡している。
小佐野はロックフェラーの代理であり、ロックフェラーにはCIAが裏に居た。
諸説があり真実は闇の中だが、単なる事故とは思えない。
墜落したJAL123便の遺品の中から座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41 歳)は、尾翼が吹き飛ぶ6分前、飛行機の窓から123便を追尾するように飛行してくる物体に気がつき、それをカメラに収めている。
1990年10月14日付の朝日新聞朝刊一面に掲載されたこの写真は、JAL123便事件の謎を解く、唯一の貴重な物的証拠として後世に遺ることになる。
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/acea0c09dd04784b61172500fc4edc23
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/2ae393ac6bf8cc30807ba140c33183f8
自衛隊員の自殺率の嘘
1981年より自衛隊員の自殺数の調査が行われている、そして1982年から自殺数が急激に上がり1986年には年間90人以上と81年から73パーセントも増加している。
だ が実は1981年に調査を開始した記録はなく、1986年に急に以前から調査していたかのように自殺数を公表しはじめた、一省庁のなかで年間これだけの自 殺者が出るのは、不自然であり不審であるが報道すらされなかった、しかもなぜわざわざ81年から調査しているなどと嘘をつかなければならないのだろうか?
自殺率増加という一見マイナスイメージしか生まない情報操作はなにを意図したものであろうか?
最初に不審な自殺者が出たのが1986年7月、二人の航空自衛隊パイロットだった、そしてつづいて同年9月12日14日と航空自衛隊員が二人自殺する、(これを皮切りに謎の自殺数増加がはじまる)
そのうちの一人(12日死亡)が友人に預けていた二枚の写真があるのだが、
一枚は7月に自殺した同僚二人の写真(a)である。
(ぼかしをいれてある)この写真の二人だが、当時隊内では同性愛者の心中ではと茶化されておわったという、
この時の状況だが二人は自殺をはかった直後に発見され、自衛隊病院に運ばれ病院内で死亡ということで、司法解剖も、検視解剖もされなかった。
だがこの写真の異様さに気づくだろうか、身長ほどの高さで吊られているが、踏み台もなにもない、しかもパラシュートコードを使ったというが、このコードは6mmほどで300kg近い耐力があり、首への食い込みは太いロープなどと違い血管も神経も切断する。
それを偶然自殺直後に発見し撮影までした後、病院に搬送するまで生きているとは考えづらくはないだろうか?(4人とも遺書は残していない)
そしてもう一枚の写真(b)が暗い倉庫内(建造物にはモザイクをいれた)の写真だがこれはなんなのか?なぜこの2枚の写真を何の説明もなく他人に預けたのだろうか?
下の「資料3」の赤い部分、日航123便の垂直尾翼はその70パーセントが見つかっていない。
「資料1」の写真は暗い倉庫でフラッシュ無しで撮影されたようで、解像度が非常に悪かったのを
最大まで解像度を上げ補色処理をしたものだが、何にみえるだろう?
折れ曲がりボロボロだが、これは失われた「70パーセント部分」ではないだろうか!?
相模湾上空で失い行方不明のはずの垂直尾翼の写真をなぜ自殺した自衛隊員がもっていたのか、もし自衛隊で回収したのであっても隠す必要はどこにもないはずである。
ここで一つのある「うわさ」に行きつく、「日航123便は自衛隊に撃墜された」と言ううわさである。
ありえない!なんのために自衛隊が民間機を撃墜しなければならないのか、
そんな必要もメリットも何もない。荒唐無稽な話としか思えないだろう。
この空域は当時横田基地が完全に独占しており、自衛隊が日常的に使用出来るような空域ではない。自衛隊や民間航空機が飛べるようになったのは、ずっと後になってからだ。
よく自衛隊は民間機や客船、漁船などを敵にみたて、ぎりぎりまで接近しミサイルのレーダーロックの訓練を頻繁に行っているのは有名な話だが、ここでミサイルを誤射するなどは絶対あり得ない!
別の可能性、自衛隊機と衝突したのであれば飛行中の破損はさらに甚大であるし機長たちも事故前にわかるはずである。
「資料1」の右はじ部分まくれあがってるような部分があるがそこにオレンジと黒の色が見えるが、123便に使用されている塗料は白黒赤だけであり、
「オレンジ色」は一切使われていないという。
事 故当時のニュース映像で日航側の事故調査員が金属片を回収しようとして証拠隠滅の容疑で自衛官に連行されたが、自衛官がなぜ連行なんかしてるのか関係者の 間で疑問だった、その後この映像は一切流れることはなかった。このとき調査員の回収しようとした金属片も日航機には使用されていないはずの「オレンジ色」 の破片だった…
いずれにしても、この自殺したとされる自衛官は、このJAL123便墜落の秘密を握っていて殺されたと見るのが妥当ではないのか。
しかし、全ての事実を自民党政権は葬り去った。
私の大切な友人がその犠牲となって御巣鷹山に眠っている。
証拠は消されても、事件が時効となっても私は忘れない。
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