「市民外交」の伝道師
2007年5月14日-18日連載
日本経済新聞 ひとスクランブル「人間発見」
(聞き手は日本経済新聞編集委員 春原剛氏)

下田会議、日米議員交流、そして日米欧委員会(現・三極委員会=トライラテラル・コミッション)-。戦後日本の国際化を彩る数々の対外交流を陣頭に立って進めてきたのが、日本国際交流センター理事長の山本正さん(71)である。欧米、そしてアジアの政財界と日本をつなぐ懸け橋として「タダシ・ヤマモト」の名前は今日も世界を駆け巡る。

(前略)

「ケネディ」と再び縁 信越化学社長の下で国際活動
米国から帰国した山本さんを待ち構えていたのは、またも「ケネディ」だった。当時、ケネディ大統領の実弟で司法長官のロバート(ボビー)・ケネディ来日を招請していた信越化学工業の小坂徳三郎社長(後の衆院議員)①の下で、対外関係秘書として新たな活動を始める。

一九六二年七月の帰国直前に「小坂さんのところで国際的な活動を行うので、アシスタントを探している」という情報が人づてに耳に入ってきました。あのボビー・ケネディを日本に呼んだ人だ、というのです。このケネディという言葉に私は即座に飛びつきました。

帰国して一週間後に小坂さんとの個人面談に臨み、その一週間後には東京・丸の内にあった信越化学のオフィスで働き始めていました。最初にいただいた会社での肩書は「社長付」でした。

ボ ビーを日本に招くという考えは当時のライシャワー駐日米大使が温めていたものです。当時、この企画を手伝っていた人の中には東急エージェンシーの社長だっ た前野徹さんらがいました。あのころ、小坂さんは「従来とは違ったタイプの国際化をやりたい」と漏らしていました。「有志の会」と称して勉強会を開く小坂 さんの下には、後の佐藤政権で沖縄返還交渉を巡って重要な役割を演じることになる若泉敬さんも頻繁に顔を出していました。

 日米教師交流に携わる 沖縄返還交渉、人脈づくりに一役 
米国留学で培った英語力とタイプライターの技量。そして何よりも新たな使命感に燃える山本さんは、始業一時間前からタイプの前に座り、社長直々の「特命」を次々とこなしていった。

最 初にいただいた指示は、信越化学と直結する半導体事業の米国パートナーとの調整という業務でした。しかし、次の仕事から内容が一変します。米国のフォード 財団が主体となってコロンビア大学のハーバート・パッシン教授らが提唱していた「日米教師交流」というプロジェクトを立ち上げよ、というのです。当時は日 教組がとても活動的だったのですが、これに対抗する勢力を育てるという思いが経済界にはあったようです。

小坂さんから「とにかく向こうに 行って、交渉してくれ」と言われ、そのままこのプログラム発足を手がけることになりました。最終的にこの計画は「現場教師米国短期留学プロジェクト」とし て発足し、六四年から四年間にわたって小・中・高の日本人教師約四十人を米国に送り出すことになりました。

六〇年代初め、池田内閣で外相 を務めた小坂善太郎さんの実弟でもある小坂徳三郎さんはライシャワー駐日米大使と共に、ケネディ大統領の国家安全保障問題担当補佐官であるマクジョージ・ バンディ(後のフォード財団理事長)の腹心とされたウォルト・ロストウ特別補佐官の来日実現を試みる。水面下で工作したのも若泉・山本のチームだった。

ロストウ来日もライシャワー大使の発案から始まっています。大使が小坂さんに相談を持ちかけ、小坂さんは若泉さんに依頼し、アシスタントに私を指名したのです。

ロストウは六五年四月に来日しますが、その実現のために行動を共にした若泉さんの人格、見識にはいたく感激しました。ロストウの来日後、若泉さんらとホワイトハウスを訪問したこともありました。

あ のころ、日米関係はベトナム問題や沖縄返還問題など多くの難題を抱えていました。ロストウの来日を契機に、若泉さんは彼との個人的関係を深めたのだと思い ます。そうした縁もあって若泉さんは後に沖縄返還交渉を巡り、重要な役割を演じることができたのだと思います。 (2007年5月15日火曜日 夕刊)

 「下田会議」立ち上げに奔走 ドライブで偶然、会場決める
経済大国への道を歩み始めた日本への米国政府・議会の関心を反映し、山本さんに新たな課題が持ち込まれた。米コロンビア大学に設置されている「アメリカン・アセンブリー」から「日米関係を考える会議を立ち上げたい」と相談されたのだ。

アメリカン・アセンブリーは、鉄道王といわれたハリマン②が保有するアーデンハウス③と呼ばれる私邸で毎年、米国各界の有力者を集めて固有のテーマをとりあげてじっくりと議論する場として知られていました。そのテーマとして日米関係が取り上げられたのは一九六五年の十月末のことです。

ほどなく窓口役のハーバート・パッシン米コロンビア大学教授から連絡があり、フォード財団が中心となって「ジャパニーズ・アメリカン・アセンブリーとして、フォローアップをやろうじゃないか」ということになりました。これが後に「下田会議」と呼ばれることになります。

民間日米交流の場としては草分け的な存在となっている下田会議だが、誕生までには多くの曲折があった。

米 側からの打診を受けて早速、小坂徳三郎さんに相談しました。当初、米側は財団法人の国際文化会館に手助けを要請するのですが、あくまでも討議結果を本にし てまとめたいとする米側と「ステートメントは出せない」とする日本側とで折り合いがつかず、我々が折衷案を模索することになりました。結局、私がひねり出 した「ステートメントではなく、討議要約を発表する」という案でまとまり、ようやく六七年九月に記念すべき第一回の「下田会議」が実現します。

会 議の舞台が下田になったのは本当に偶然です。当時、会議場を探すため、パッシン教授と二人で伊豆半島をドライブしていた時、下田にあるホテルを目にした教 授が「あそこがいい」と言ったのがきっかけです。アーデンハウスに雰囲気が似ているというのが主な理由でした。同時に地形上、警備がしやすいことも決め手 となりました。

 日米の有力者 勢ぞろい デモ隊から抗議文受け取る
当時の米国の日本に対する関心の高さを示すかのように、米側からは後に駐日米大使となるマイク・マンスフィールド上院院内総務やドナルド・ラムズフェルド下院議員(後に国防長官)ら米政界の有力者、若手有望株が多数参加しました。
日本側の関心も高く、マンスフィールドさんの基調演説が主要紙の一面トップ記事になったのを覚えています。

日 本からも保守系エスタブリッシュメントを代表する人材が多数集結しました。その会議場には予想通り、多数のデモ隊も押しかけました。彼らから「米帝の走狗 (そうく)である山本」などと拡声機で名指しされたにもかかわらず、警察当局に「デモ隊の代表に会ってほしい」と言われ、日本側参加者の一人だった中曽根 康弘さんと一緒に抗議文を受け取りました。

その後、軌道に乗った下田会議は、後の日米関係を支える貴重な人材を日米両国で数多く育成していくことになる。

第一回会議の内容はパッシン教授と国際政治学者の武者小路公秀さん④が 取りまとめ、「日米関係の展望」という一冊の本にしました。これに続いて六九年に開催した二回目の会議で、パッシン教授から驚きの提案がありました。討議 の取りまとめ役として当時、新進気鋭の日本学者として頭角を現しつつあったジェラルド・カーティスさんを推薦してきたのです。

この時、 カーティスさんはまだ二十九歳。まもなくコロンビア大の助教授になろうとしているところでした。打診を受けた時は半信半疑でしたが、カーティスさんは見事 にまとめ役をこなし、神谷不二さんと共に「沖縄以後の日米関係」と題した本にまとめあげました。後にカーティスさんが米国を代表する日本政治学の権威にな るのは、ご存じの通りです。 (2007年5月16日水曜日 夕刊)

(後略)
http://www.jcie.or.jp/japan/others/kiji/2007/200705nikkei.html

小坂徳三郎信濃毎日新聞の小坂一族である
出て行けと言われるのは自業自得:民団

②ハリマン
日米開戦のきっかけとなったとも言われるハリマン事件のハリマンですか
(諸説はありますが)
パールハーバーの誤算(1)米も欲した満鉄利権、確執は満州での“すれ違い”から

③アーデンハウス
arden house harriman
【wiki】Arden(estate)

④武者小路公秀さん
これは
さすがに驚いた

武者小路公秀氏といえば主体(チュチェ)思想国際研究所理事
エセ人権活動家 武者小路公秀キムイルソン主義研究HP
【沖縄の真実】③沖縄の「属国化」を見据える中国 琉球独立運動を後押しする報道も

そして有田芳生議員が国会議員宛てに出したヘイトスピーチに関するアンケートの差出人だが
人権擁護法案のために非・国民が必死な件

まさかその裏に
david rockefeller tadashi yamamoto
従軍慰安婦問題の黒幕 

心底胸糞悪いカラクリですねえ

参考
日本の中の北朝鮮 チュチェ思想研究会
徐は主体思想研究会員