2015年12月10日木曜日

反日はどこからくるの

反日を追っています。そして守るべき日本とは何か考えています。

「百人斬り」と野田毅少尉 続き

野田毅「少尉」と表記してよかったのか迷う
東京日日新聞に載った時は少尉だったが最終階級は少佐

【wiki】野田毅 (陸軍軍人)

略歴
鹿児島県南大隅郡田代村(現・肝属郡錦江町)出身。野田伊勢熊の4人兄妹の長男。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)卒業、陸軍士官学校第49期。

1937 年に起こった日中戦争には、第16師団第9連隊第3大隊の副官として参加(階級は陸軍少尉)。南京への進軍中に歩兵砲小隊長・向井敏明少尉との間で行われ た「百人斬り競争」が『東京日日新聞』に報道される。その後、歩兵科から航空科に転科し、広東作戦に参加。この時の模様は、火野葦平『海と兵隊』『広東進 軍抄』に描写されている。

1939年5月19日、『東京日日新聞』によって向井中尉は戦死した野田中尉との約束である五百人斬りの約束を実行していると報道された。この時、野田は生存しており日本にいた。

太平洋戦争が始まると、ビルマ(現ミャンマー)独立のための特務機関である南機関に配属となる。後にビルマ国軍の顧問になる。敗戦時は浜松の航空基地にいたが、熊本第6師団決起の情報を基に九州へ向かうものの、飛行場が閉鎖されたため着陸できず、唐津海岸に不時着した。

1947 年夏、南京への進軍中の百人斬り競争の報道をきっかけに、戦争犯罪の容疑者としてGHQに逮捕される。鹿児島県の警察署に拘留された後、巣鴨拘置所へ、さ らに中国・南京戦犯拘留所に移送される。12月4日、住民捕虜虐殺としての「百人斬り競争」の容疑者として起訴。

12月18日、南京軍事法廷において最初の公判が行われ、東京日日新聞の記事と写真、後に国民党宣伝工作員となったハロルド・J・ティンパーリが その記事を殺人競争という章で紹介した英文書籍等が証拠とされ、証人尋問は行われなかった。向井と野田は無実を証明する書類の到着を待つために公判の延 期、また問題の記事を書いた記者と当時の直属の上官の証人召喚を求めていたが認められなかった。その時に、記事は新聞記者による創作であると弁明した。死 刑判決後にも記者と当時の向井の上司からの証明書などにより再審を求めたがこれも認められなかった。
1948年1月28日、南京の雨花台において銃殺刑が執行された。享年35。野田の名は東京日日新聞の記事が間違った通りに「野田巌」として裁判が進められ、刑も執行された。

wikiの中ではたった一行なんだけど
ビルマ独立義勇軍設立に貢献してビルマ独立に大きな役割を果たしたわけですね
ビルマ独立義勇軍にはアウンサン将軍がいたわけで言わずと知れたアウンサン・スーチーさんのお父さん
【wiki】 南機関 


【youtube】GHQ焚書図書開封 第97回

16:46頃~ビルマの話

日本軍がなぜビルマ進攻したかというと
「援蒋ルートの遮断」のため(蒋介石重慶政府を英米が支援していた)
泰緬鉄道東條英機
東條英機の声明
西尾幹二氏「アジア解放は後付の理屈という説は全くの嘘なんですね」

泰緬鉄道ビルマ野田大尉調査範囲(2カ月
泰緬鉄道は415kmに渡る国際鉄道
白い楕円は野田毅大尉の調査したクワイ河流域

泰緬鉄道1実際の泰緬鉄道の橋は日本の設計
ところが映画『戦場に架ける橋』ではイギリスのフォース橋をモデルにイギリス軍が架けたことになっている

溝口郁夫氏「イギリスにもプライドがあるんでしょう」
日本軍の橋っていうことにはしたくないってことですね
泰緬鉄道3戦場をかける橋のモデル(事実に反する
泰緬鉄道2戦場をかける橋
GHQ焚書図書うちビルマ関連は21点
泰緬鉄道建設で日本が捕虜虐待したとやけに喧伝されてる理由がなんとなく分かるような
タイでもやらかしてた吉田清治。そして宇都宮徳馬

スーチーさん両親
スーチーさんの御両親

再びwikiから
【wiki】野田毅 (陸軍軍人)
遺文
1947年12月28日 (死刑宣告後)
一 日本国民に告ぐ
私は嘗て新聞紙上に向井敏明と百人斬競争をやったと云われる野田毅であります。自らの恥を申上げて面目ありませんが冗談話をして虚報の武勇伝を以って世の中をお髄がし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。『馬鹿野郎』と罵倒嘲笑されても甘受致します。
只、今般中国の裁判に於いて俘虜住民を虐殺し南京屠殺に関係ありと判定されましたことに就いては私は断乎無実を叫ぶものであります。
再言します。私は南京において百人斬の屠殺をやったことはありません。此の点日本国民はどうか私を信じて頂きます。
たとい私は死刑を執行されてもかまいません。微々たる野田毅の生命一個位い日本にとっては問題でありません。然し問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。私の死を以って今後中日間に怨みやアダや仇を絶対に止めて頂きたいのです。
東洋の隣国がお互いに血を以って血を洗うが様なばかげたことのいけないことは常識を以ってしても解ります。
今後は恩讐を越えて誠心を以って中国と手を取り、東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいのです。
中国人も人間であり東洋人です。我々日本人が至誠を以ってするなら中国人にも解らない筈はありません。
至誠神に通ずると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。
西郷さんは『敬天愛人』と申しました。何卒中国を愛して頂きます。
愛と至誠には国境はありません。中国より死刑を宣告された私自身が身を捨てて中国提携の楔となり東洋平和の人柱となり、何等中国に対して恨みを抱かないと云う大愛の心境に達し得た事を以って日本国民之を諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。
猜疑あるところに必ず戦争を誘発致します。幸い日本は武器を捨てました。武器は平和の道具でなかった事は日本に敗戦を以って神が教示されたのです。
日本は世界平和の大道を進まんとするなら武器による戦争以外の道を自ら発見し求めねばなりません。此れこそ今後日本に残された重大なる課題であります。それは何でしょうか。根本精神は『愛』と『至誠』です。
此の二つの言葉を日本国民への花むけとしてお贈りいたしまして私のお詫びとお別れの言葉と致します。
桜の愛、富士山の至誠、日本よ覚醒せよ。さらば日本国民よ。日本男児の血の叫びを聞け。

いつまで血の叫びに耳をふさぎ続ける気だろう?


【youtube】 GHQ焚書図書開封 第97回 

野田毅少尉が「百人斬り」で東京裁判で処刑されたことについて
名誉回復裁判で敗訴ということだけが伝わっているが

地裁では「百人斬りは当時の近代戦においてはあり得ない」ということを言っている

【wiki】百人斬り競争
名誉毀損裁判

戦闘による百人斬りは実際に行われたか

裁判所の判断 - 南京攻略戦当時の戦闘の実態や両少尉の軍隊における任務、一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性等に照らしても、本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の内容を信じることはできないのであって、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果ははなはだ疑わしいものと考えるのが合理的である。
(日日記事=東京日日新聞)

戦犯裁判戦後の1947年、向井敏明と野田毅は南京軍事法廷に起訴された。同年12月18日にが行われた最初の公判で石美瑜裁判長によって「連続して捕虜及び非戦闘員を虐殺した」罪で即日死刑判決を受け、中華民国によって1948年1月28日に南京郊外(雨花台)で処刑された。

北村稔は、ティンパリーによる脚色や『戦争とは何か』の中国語訳版における事実の書き換えが影響し、死刑判決が下ったとしている。

その他
中華人民共和国南京市にある南京大虐殺紀念館では、この東京日日新聞の記事を「虐殺の証拠」として等身大パネルを作成して展示をしている。

台北国軍歴史文物館ティンパーリ百人斬り
田伯烈=ティンパーリ →国際宣伝処の顧問だったティンパーリ 

動画10:48~
西尾幹二氏
(溝口郁夫氏の著書を読み上げて)
平成元年東京日日新聞の後身である毎日新聞社は自社発行の『昭和史全記録Chronicle1926~1989』において、「戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった」と記事の虚構を明らかにしております。





野田少尉遺書のコピー昭和22年12月から翌1月28日までの野田少尉の日記のコピー

野田少尉遺書のコピー3
野田少尉遺書のコピー4

「私のビルマ時代の活躍の秘史はもう秘める必要はありません。ビルマは既に独立したのですから。刻々迫り来る死期ではありますが、忠臣蔵を読んだり、遺書を書いたり、煙草吸ったり、糞をたれたり、飯はドンブリに相変らず二杯食ったりです。呵々

 小生、南京屠殺事件にひっかけられて、死刑宣告。無実の罪だが、日本が敗れたから仕方がない。私の潔白は知る人ぞ知る。「死して護国の鬼となる。さらば。」。ビルマの諸兄によろしく。」

つい最近
「日本は一度たりとも殺し殺されることはありませんでした」とか言った人がいたが
→ 「日本は一度たりとも殺し殺されることはありませんでした」 この嘘つき! 

実際には 戦闘終了=平和 じゃないですね
戦闘が終わって帰国したら突然戦犯に問われ無実の罪で処刑された人がいるわけですね

戦闘が終わっても戦争は今でも続いている
「過去の戦争の反省」というのは大東亜だけでいいの?
その後の情報戦に負け続けている反省はしなくていいの?

泰緬鉄道のこと書こうとしたらスペースがなくなったので続く。 

ちょっと前の笑える記事
ステマのサンプルだよね

韓国ポテトチップ狂騒曲…「日本のパクリ」「竹島陰謀論」浮上
ハニーバターチップ

 【劇場型半島】

  韓国で「ハニーバターチップ」というポテトチップが爆発的ブームを呼んでいる。極端な品薄状態から陰謀説や詐欺まで巻き起こった。日本の製菓会社との合弁 工場で生産されていることから「日本製のコピーだ」との声に加え、売り上げは、竹島を「日本の領土にする運動資金に充てられる」といった根も葉もない噂ま で流れた。日本でも「元祖」といえる製品が売り出されており、わざわざ日本で買いあさる韓国人も現れ始めた。(桜井紀雄)

■1カ月待ち、暴利販売に振り込め詐欺まで
 「ハニーバターチップを手にするのは、天の星を取るほど難しい。最近は、食べたという人を目にできず、買えなかったという声だけが聞こえてくる。こんな品薄現象はこれまで見たことがない」

 大手韓国紙、東亜日報の論説委員は昨年12月、ハニーバターチップのブームについてコラムでこう記した。

 複数の韓国メディアによると、スーパーでは、開店前から行列ができ、一瞬で売れ切れになる。コンビニエンスストアを何軒回っても購入できず、店舗によっては「購入待ち名簿」に記載し、1カ月近く待たされるケースがあるという。

 韓国大手菓子メーカーのヘテ製菓が昨年8月に発売したが、元KARAのニコルやRAINといった芸能人らが「その甘さにハマッた」などとSNS(交流サイト)上に書き込んだことも相まって人気が加速した。

 月間売り上げが10億ウォン(約1億円)を超えると、ヒットといわれる韓国菓子市場にあって、昨年11月の売り上げは約78億ウォンを記録。昨年末までに200億ウォンを突破する空前のヒットとなった。

 入手したハニーバターチップの写真を“戦利品”としてSNSにアップすることが流行し、ある女性は「食べたかったというより、手に入れたことを自慢したかった」とメディアに答えた。手に入らない“レアさ”がブームに拍車を掛けているのだ。

  60グラム入り1500ウォン(約160円)、120グラム入り2500ウォン程度だが、あまりの人気にインターネットオークションでは、3、4倍の高値 で売られ、ニュース専門チャンネルのYTNによれば、他の菓子と抱き合わせ販売し、配送料込みで1万6000ウォンの暴利をむさぼる店もある。

 配送途中での窃盗事件に加え、ネット上で「まとめ売りします」と書き込み、代金を振り込ませたまま、連絡を絶つ“振り込め詐欺”まで横行しているという。

■ロゴが呼んだトンデモ説 韓国にパクリでない菓子は?
 ヘテ製菓側は「24時間3交代制で工場をフル回転させ、生産に当たっている」と釈明する。それでも、あまりの手に入らなさへの不満を反映するかのように、ネット上では、根拠のないさまざまな噂が飛び交った。

 「製造工場が火災になり、生産がストップした」「話題作りのために、販売元が故意に生産量を制限している」といった噂から、病み付きにさせるために「隠し味に麻薬を使っている」「政府が数十年かけて開発した製法を授けた」といったトンデモ説まで登場した。

 極め付きは、「ハニーバターチップを食べることは、独島(トクト=竹島の韓国名)を日本に譲り渡す行為だ」といった突拍子もない非難だ。

 ハニーバターチップは、ヘテ製菓と日本の菓子大手カルビーの合弁工場で生産されている。パッケージにも「ヘテ」と並んで「カルビー」のロゴが大きく表示されている。

 この提携関係から「収益の一部が独島を日本の領土に編入しようとする日本の極右派の運動資金に使われる」という主張だ。

 ここまで極論でなくとも、ネット上には、「日本の製品を丸々コピーしただけじゃないか」や「韓国に日本の菓子をパクっていないものがあるか」といった冷ややかな声が書き込まれた。

ハニーバターチップのヒットを受け、ヘテ製菓関係者が「マイチュウ以来、10年ぶりのヒット製品だ」と韓国紙に語っているが、このマイチュウからして、日本のソフトキャンディー「ハイチュウ」を模したものだ。

 その他、韓国の国民的菓子といわれる「セウカン」は日本のスナック、かっぱえびせんと丸々同じ。チョコスナック、ポッキーに似たペペロなど、日本製と酷似した菓子は枚挙にいとまがない。元祖が日本製でない菓子の方が珍しいといえば、言い過ぎだろうか。

■ハニーバター難民が行き着く先は「本家の国」日本
 ともかく、企業イメージに関わる問題であり、ヘテ製菓側は、さまざまな風聞に対して、全て「根も葉もない噂だ」として否定し、火消しに努めた。

  「竹島資金説」に関しては、韓国のスポーツ紙に、合弁工場で生産しており、「収益の一部はカルビー側に渡る」ことを認めながらも、「ハニーバターチップは ヘテが独自に開発した製品であり、ロイヤルティーは支払われず、日本側に渡る収益は大きくない」と説明。竹島資金説を「根拠がない」ときっぱり否定した。

  ヘテ側は、別のメディアに「1年9カ月の研究期間に数多くの試行錯誤を重ねて見いだした韓国的味だ」とオリジナル性を強調もしていた。韓国の経済紙は、人 気の秘訣(ひけつ)について「何より差別化された味だ」とし、しょっぱさ一辺倒だったポテトチップ市場で、ハチミツの甘さで勝負し、「固定観念を覆した」 とまで手放しでたたえた。

 しかし、日本で、提携先のカルビーから昨年12月に冬季限定の「ポテトチップス・しあわせバター」の販売が始まってから、ブームの風向きが微妙に変わり始めた。

韓国メディアは、「わが国では入手できないハニーバターチップが、日本のコンビニに山積にされている」と伝えた。ほぼ同じ味が入手できると、韓国の“ハニーバター難民”たちが、日本のしあわせバターに熱いまなざしを向け始めた。

 韓国紙、ソウル新聞は、東京発の報道で、日本への韓国人旅行客や留学生らがしあわせバターを買い求めようとする一方、日本でも品薄状態が生じているもようを伝えている。

 ハニーバター難民が、日本在住の知人らに、しあわせバターのまとめ買いを依頼したり、日本のオンラインショッピングで大量注文したりする現象も起き、韓国のネット上で高値で転売する猛者もいるという。
(結局日本にお金落としてるけど・・どうしてこうも矛盾した行動するのか)

■オリジナル? いえ「日本がベースです」…悲しき日本隠し
 ハニーバターチップと、しあわせバターを食べ比べた人たちの感想では、双方、ハチミツとバター風味が決め手であり、「日本版」は隠し味にチーズを使っているなど、少しの違いを除いてほぼ同じ味だという。

 それでも、ヘテ側は韓国紙に「全世界の200~300余りのポテトチップ製品を参考にしており、しあわせバターは参考の一つに過ぎず、剽窃(ひょうせつ)ではない」と断固として韓国オリジナルの味だとの姿勢を崩していない。

  しあわせバターは2009年にテスト販売され、11年以降、冬季限定商品として販売されてきた。発売元のカルビー広報部に取材すると、「しあわせバターが 先にあり、ハニーバターチップは、それをベースに開発したもの。ヘテ製菓がシーズニング(調味)をアレンジした」との答えが返ってきた。

 両者を味比べした韓国人らが日本が「元祖」と感じているように、純粋に「韓国オリジナル」と主張するには無理があり、「日本生まれの味」と理解した方が自然なようだ。

パッケージに堂々とカルビーのロゴを入れているのだから、そこまで「オリジナルだ」と意固地にならなくても「日本の会社と協力した新しい味だ」とアピールしてもいいものを…。

 こと、日本絡みになると、バッシング対象ともなり、企業側も自己防衛のために「日本隠し」に回る。これだけのヒット商品の陰でも、韓国社会の悲しい性が垣間見える。

 ハニーバターチップをめぐっては、マレーシアの格安航空会社、エアアジアの会長が昨年12月にこんな発言をしたことが物議を醸した。

 「韓国ではハニーバターチップというお菓子が人気だそうだが、エアアジアでは、機内サービスとして提供したい。ハニーバターチップは袋ごと提供されるので、皿に盛ることはないだろう」

 大韓航空機の前副社長が、機内サービスに出すナッツを皿に盛らずにファーストクラスの乗客に提供したと、責任者を怒鳴り付け、搭乗機を引き返させた上、責任者を降ろさせた、いわゆる「ナッツ・リターン」事件を痛烈に皮肉ったのだ。

 そのエアアジア機が墜落事故を起こした後、韓国メディアは、この会長発言を蒸し返して報道した。

 ナッツ・リターン騒動同様にハニーバターチップをめぐっても、ニュースのタネが尽きることはなく、当分、騒ぎは収まりそうにない。
産経デジタルiza2015.1.14
http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/150114/wor15011418000001-n1.html

最近見かけたあからさまに怪しい現象

杉原千畝ツイッターステマ
 (ツイッター内を「杉原千畝」で検索したキャプ)

映画『アンブロークン』の時に嫌っていうほど見た
日本で公開されないのはネトウヨの妨害のせい!と言いまくってましたねぇ
アンジェリーナジョリーの新しい映画出てるけど日本で公開されてないよ?これもネトウヨのせい?

ステマ仕掛ける人の「侮り」を感じる・・

昨日見つけた2chスレにあったリンク
【中国】“日本のシンドラー”が“中国のシンドラー”に…「日本軍はユダヤ難民にも残虐行為を行った」とでっち上げ[12/04]
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1449202825/
レス119

それが今日(2015.12.6)になったら
   
   
 google
あれ?記事がない・・・

google検索日本は反ユダヤにあらず毎日新聞
記事自体は存在してたとgoogle先生も言ってるんだけど・・・
消える前にコピペしておいて良かったということかな

社説:視点「アンネの日記」 日本は反ユダヤにあらず

  ユダヤ人の少女アンネ・フランクが隠れ家でつづった「アンネの日記」は、ナチスによるユダヤ人迫害を後世に伝える有名な本である。ところが1月以降、東京 都内や横浜市の図書館を中心に「アンネの日記」や関連本が破られる事件が発覚し、日本の「右傾化」と関連づける海外の論調も出始めた。

  共同電によると、26日付の中国人民解放軍機関紙、解放軍報は「日本のサイトで『アンネの日記は(事実ではなく)小説だ』とする言論が大量に見いだされ る」として歴史否定の動きがあると批判。日記を破いても「記憶を消すことはできない」と指摘した。韓国メディアは、日本にはヒトラーに追随する勢力が少な くないと報じ、在日韓国人などへのヘイトスピーチに象徴される「病的な右傾化現象」との関連に注目している。

  推測は自由だが、犯人像も動機もヤブの中なのに、ここまで言うのはいかがなものか。他国の歴史認識をうんぬんするなら、正確な史実を押さえておくべきであ る。日本は確かにナチスドイツと同盟関係にあったが、ナチスの再三の要求にもかかわらずユダヤ人迫害に同調することはなかったからだ。

 たとえば1938年、首相と陸軍・海軍大臣などで構成する五相会議が決めた猶太(ゆだや)人対策要綱は、ユダヤ人迫害は「日本が多年主張してきた人種平等の精神に合致しない」として公正に扱う方針を打ち出した。その背景にはユダヤ難民を受け入れて対米関係改善を狙う思惑(河豚(ふぐ)計画)や、世界を一つの家と見る「八紘(はっこう)一宇」の思想もあっただろうが、「戦前の日本とナチスは違います」(ヘブライ大のベン・アミー・シロニー名誉教授)というのが常識だ。

 ユダヤ人に「命のビザ」を発給した杉原千畝(ちうね)、そのビザで日本に来たユダヤ人の滞在延長を助けた小辻節三(せつぞう)など、ユダヤ人が恩人と仰ぐ日本人も少なくない。杉原の関連本も破られたそうだが、日本の歴史に反ユダヤ主義を見るのは難しい。仮に今日の日本が「右傾化」し軍国主義が復活しつつあるとの前提に立っても、だから「アンネの日記」を破る者が出るのだという立論は乱暴である。

 他方、大虐殺を体験したユダヤ人には気の毒だ。在日イスラエル大使館は被害にあった図書館に「アンネの日記」などを寄贈した。米国のユダヤ系人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」も強い懸念と怒りを表明した。犯人は日本人なのか、組織的な犯行なのかどうかも不明だが、根の深い事件ではないよう祈りたい。(論説委員・布施広)
毎日新聞2014.2.28
mainichi.jp/opinion/news/20140228k0000m070144000c.html

(´・ω・`)毎日新聞にしては珍しい記事だなぁ・・
ちなみに2chコメント見たら「日本は反ユダヤだった」なんて騙されてる人はいなくてちょっと安心

参考
日本を貶めようとする悪意2 杉原千畝「命のビザ」キャンペーン
上海ユダヤ難民資料館とユネスコとサイモン・ウィーゼンタール・センター

webのショートバージョン(→慰安婦問題で日本を責め続けるミンディ・カトラー 資料編
とかぶるところもあるが、雑誌からの書き起こし



p18・19
強制連行が否定されても「日本は慰安婦に公式に謝罪せよ!」と迫る
アメリカの”反日女傑”
ミンディ・カトラーを知っているか


産経新聞 ワシントン駐在客員特派員
古森義久

 日本と中韓との歴史戦争のカギを握るのはアメリカである。いくら強制連行が否定されても、アメリカでは「慰安婦=性奴隷」説がひろまっていく一方だ。そこには中韓が頼りにする”反日女傑”の存在があった。

「河野談話は日本の閣議決定ではない! だから日本政府の公式の謝罪ではない。日本は慰安婦に公式に謝罪しなければならないのです!」

 8月19日、ワシントンの大手研究機関「ヘリテージ財団」主催の東アジアの歴史認識についてのシンポジウムだった。

  傍聴席のど真ん中のアメリカ人女性が壇上のパネリストに激しい怒声を浴びせた。そのパネリストが日本政府の慰安婦への謝罪は河野談話でもう済んでいるとい う見解を語ったことに対してだった。その女性は日本の慰安婦への謝罪は河野談話でもう済んでいるという見解を語ったことに対してだった。その女性は日本の 謝罪は河野談話だけでは決して済まないと糾弾するのだった。

 この女性が近年、もっぱら慰安婦問題で日本を責め続けているアメリカ人の活動家ミンディ・カトラー氏だった。

 カトラー氏は公式にはワシントンに拠点をおく「アジア政策ポイント」という小さな研究機関の代表である。だが「研究」といっても、その実態はよくわからない。

 きわめて明確なのはカトラー氏が慰安婦問題では日本を悪役と決めつけ、非人道的な犯罪国家であるかのように断じてきた人物だという事実である。その非難は一方的、高圧的、破壊的であり、「日本叩き」とか「反日」 という表現でくくらざるをえない。

 ワシントンでは日本関連のシンポジウム類の開催が多い。カトラー氏はそれらに頻繁に顔を出し、「日本の民主主義はなお未成熟だから」 とか「安倍晋三は危険な政治家だ」というようなとげとげしい発言を繰り返してきた。

  アメリカ議会下院は2007年7月、慰安婦問題での日本非難決議を採択した。同決議は「日本軍が組織的に女性を強制連行し、20万人の性的奴隷にした」と の誤った断定に基づいていた。カトラー氏はこの決議の推進でも大きな役割を果たしていた。だが彼女のそうした動きは日本側ではあまり知られていない。

 同氏はこの決議案審議のための2007年2月の下院外交委員会アジア太平洋小委員会の公聴会では元慰安婦だという証人ら4人とともに唯一のアメリカ人として証言した。

下院公聴会コトラー
(動画みつけた。キャプは米下院公聴会で証言するオランダ人「元慰安婦」とその右後ろのコトラー氏)
→https://www.youtube.com/watch?v=Z7SXLujNcgg

  ここでもカトラー氏は慰安婦問題について「日本の帝国陸軍や国家による強制的な性的暴力」とか「日本軍による女性たちの強制徴用」と述べ、日本軍当局が組 織的かつ政策として女性を強制連行したという非難を繰り返した。そして河野談話や歴代首相の謝罪には「真の公式の日本の謝罪にはならない」と糾弾してい た。

 このプロセスではカトラー氏は決議案主唱者のマイク・ホンダ下院議員(民主党)に全面的に協力し、韓国系の「慰安婦問題ワシントン連合」という組織や、中国系の在米反日団体の「世界抗日戦争史実維護聯合会」(抗日連合会)とも密接な歩調をとっていた。

  とくにカトラー氏は決議のなかの「日本の明白な謝罪」の「明白な(unequivocal)」という言葉の選択を特別に称賛し続けたが、この言葉は抗日連 合会が1990年代の創設期から日本に対し強く打ち出して来た特定の形容詞だった。同連合会がカリフォルニア州議会で当時の衆議院のホンダ氏に採択させた 同種の日本非難決議の表現と同一であり、同連合会とカトラー氏との連帯をも示したといえる。

安倍首相は「ホロコースト否定者」 
 しかしカトラー氏がなぜこれほどまでに慰安婦問題にこだわり、日本糾弾を続けるのか。同氏には日本研究や日本在住の実績はない。スミス・カレッジで中国の歴史を学び、エール大学の大学院では国際関係を専攻したという。

  女性の人権抑圧や人権問題一般に人道主義の観点からの取り組みをした経歴もない。日本の慰安婦について研究した実績もなかった。同氏がもし女性の人権を本 格的に提起する活動家ならば、中国の女性の人権抑圧を「1人っ子政策」や「男児優先」といった観点から非難してもよいはずだ。しかし中国の現在の人権問題 にはなんの言及もせず、70年以上前の日本の問題だけを追及するという奇異さなのだ。

 カトラー氏は1991年にワシントンに「日本情報アクセス・プロジェクト」という小規模の調査機関を開いた。だがまもなく閉鎖に追いこまれ、現在の「アジア政策ポイント」へと発展解消させた。前者では会員や出資者が少なく、経営が難しくなったのだという。

 同氏は自分の誕生日の8月4日がオバマ大統領の誕生日や河野談話の発表の日と同じだという事実を誇らしげによく語る。だが生年は伏せたままである。おそらく60歳前後だろう。

  カトラー氏は自分と意見の異なる相手にはすぐ「右翼」とか「歴史修正主義者」というレッテルを張る。とくに安倍首相に対してはいつも「右翼」と呼び、「ホ ロコースト否定者」扱いをする。「アベは日本国民の個人の自由を奪おうとする」とまで断じる。カトラー氏の述べる日本の状況は以下のようでもあった。

「いまの日本は右翼が非常に強く、多数の政治家、歴史学者、新聞記者らがその恐怖におののき、政府に反論できない。彼らは自宅に深夜の脅しの電話や、不審な物品を受ける。アメリカ人学者多数も同様に脅迫を受けた。」

 米人学者が日本の右翼に脅かされるというのだ。日本社会の実態をまったくつかんでいないことがよくわかる。

 朝日新聞の慰安婦報道での誤報訂正に対しては、カトラー氏はアメリカ側の他の関係者3人と連盟の声明で「下院決議の作成は朝日新聞報道にも吉田清治証言にもまったく影響されなかった」と苦しい弁明をした。

 では日本文による強制連行の証拠はなにかとなると、「日本帝国が軍隊用の性的奴隷システムを組織し、運営したことを示す書類譲渡後述の証拠はインド・太平洋地域に十分に存在する」と、具体性のない答えとなう。

 自分だけを資格もなしに道義上の高所におき、日本の政府や国民に思想警察のような言辞を弄し、反論されると曖昧な答えで逃げる。カトラー氏の日本糾弾がどこまで続くのか、見ものである。


記事の中に
米マンハッタン近郊に新しくできた慰安婦碑という画像があったが
これとは別角度の)
 ニュージャージーunion city慰安婦碑
http://www.nj.com/hudson/index.ssf/2014/08/comfort_woman_fly_in_from_korea_to_join_in_union_city_dedication_monument_unveiling.html
この蝶には見覚えがあるぞ
→ 話し合えとか簡単に言うけどねぇ 


【歴史戦】
中国、上海ユダヤ難民資料を記憶遺産申請へ 旧日本軍が保護の史実を隠蔽 「抗日戦勝70年」の一環に
上海ユダヤ難民記念館

  【上海=河崎真澄】戦前に欧州を追われ、上海に逃れてきた3万人近いユダヤ難民の資料を「世界記憶遺産」として国連教育科学文化機関(ユネスコ)に登録す る申請作業が中国で進んでいることが8日、関係者の話で分かった。ユダヤ難民は旧日本軍が当時、上海北部の日本人居留区に「無国籍難民隔離区」を置いて保 護した経緯があるが、中国側はこうした事情をほぼ封印し、「抗日戦争勝利70周年」の一環として、中国がユダヤ人保護に貢献したかのように国際社会にア ピールする考えだ。

 今回の申請作業を進めているのは、戦時中は摩西会堂(ユダヤ教会)と呼ばれ、現在は上海市虹口区当局が管轄している「上海ユダヤ難民記念館」。記念館が集めた難民の名簿や遺留品、旧日本軍が管理した隔離区(通称・ユダヤ難民ゲットー)に関する資料、難民から聞き取った証言などをまとめ、中国政府とともに登録を働きかけている。
申請作業と並行し、9月3日に北京で大規模な軍事パレードなど一連の抗日戦勝利70周年記念イベントを行うのに合わせ、記念館や「リトルウィーン」と呼ば れたユダヤ難民の住居やダンスホール、カフェなどが立ち並ぶ、当時としては自由を謳歌(おうか)したエリアの建築物改修を終える予定だ。

 戦前の上海では、アヘン戦争(1840~42年)を経て英国などが設置した租界や、1937年の日中戦争の後にできた日本人居留区への上陸には必ずしも正式な書類は必要なかった。

 元駐リトアニア領事代理の杉原千畝(ちうね)氏が人道的な見地から発給し続けた「命のビザ」を手に、日本を経由して、当時は世界でも限られた難民受け入れ地だった上海に向かったユダヤ難民も少なくなかった。
 42年、ナチス・ドイツが日本に「最終解決」と称してユダヤ難民の殺戮(さつりく)を迫ったが、旧日本軍はこれを拒否。43年に「無国籍難民隔離区」を置き、許可なく域外に出られない制限を加えてナチス・ドイツに説明する一方、ユダヤ人の生命を守った歴史がある。
 日本がユダヤ難民を保護した理由として、上海社会科学院歴史研究センター王健副所長は、「旧日本軍がユダヤ難民を当時の満州などに移住させて利用しようとした『河豚(ふぐ)計画』が背景にある」とみている。
中国は昨年6月、「南京事件」と「慰安婦」を世界記憶遺産に登録申請し、日本政府が反発している。
産経ニュース2015.2.4
http://www.sankei.com/world/news/150809/wor1508090004-n1.html


【上海余話】
“日本のシンドラー”が“中国のシンドラー”に…「日本軍はユダヤ難民にも残虐行為を行った」とでっち上げ

 戦前に欧州を追われ、上海に逃れてきた3万人近いユダヤ難民に関する資料を集めた「上海ユダヤ難民記念館」をしばらくぶりに訪れ、その変化に強い疑念を抱いた。日本の元駐リトアニア領事代理、杉原千畝氏についての展示がほとんど抹消されていたからだ。

 数カ月前までは杉原氏の写真とともに、日本を経由する「命のビザ」を外務省の命令にそむいてまで発給し続けた「日本のシンドラー」の展示があり、国民党政権の駐ウィーン総領事でやはりユダヤ人に通過ビザを発給した何鳳山氏とともに淡々と紹介していた。
ところが9月3日の「抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70年」行事に合わせ、同記念館が改装した結果がこれ。杉原氏に代わって何氏が「中国のシンドラー」と紹介され、「日本軍はユダヤ難民にも残虐行為を行った」との根拠なき主張にすり替わっていた。

 上海の日本人居留区で旧日本軍が「無国籍難民隔離区」を設置して保護し、ナチスドイツからユダヤ難民の「最終解決(虐殺)」を要求されたが拒絶したことは、中国人研究者から以前教えてもらった史実だ。

 日本のシンドラーに泥を塗るのはだれか。国際社会はこの国の歴史歪曲(わいきょく)を厳しく監視する必要がある。日本では5日、戦後70周年企画の映画「杉原千畝」が封切られる。(河崎真澄)
産経ニュース2015.12.4
http://www.sankei.com/column/news/151204/clm1512040005-n1.html

それで探してみたら案の定ですわ
中国軍事パレードに参加したユネスコ事務局長イリーナ・ボコバ
サイモン・ウィーゼンタール・センターから特別賞をもらってると(爆

イリーナボコバサイモンウィーゼンタールセンタークーパー
http://www.novinite.com/articles/171872/UNESCO+Head+Irina+Bokova+Gets+Simon+Wiesenthal+Center+Special+Award
2015.11.19だから最近ですね

なぜか写真が切れているけど右にいるのは紛れもなく
何かと日本に口出してくるエイブラハム・クーパー氏
Iris Chang Abraham cooper
左:『ザ・レイプ・オブ・南京』アイリス・チャン氏
右:サイモン・ウィーゼンタール・センター エイブラハム・クーパー副所長
中央:徳留絹枝氏
視界に入るノイズ:サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)

UNESCOのHP
The United States helps to launch “historic” exhibit at UNESCO on the history of the Jewish People in the Holy Land
2014.6.11
http://unesco.usmission.gov/wiesenthal-unesco.html
UNESCOとサイモン・ウィーゼンタール・センターの合同展示会をやるとな

SWCは上海ユダヤ難民資料館登録にも顔を出してくることだろう。。。

歴史修正主義者だと?
どっちが?

以前から引っかかっていたけどこれも繋がってる話かもなぁ
潘基文アウシュビッツ訪問
ニダーの裏にユダヤ

参考
「国に背き、家族を危険に晒し、守り抜いた6千の命」 こんな大嘘許しちゃいけません
日本を貶めようとする悪意2 杉原千畝「命のビザ」キャンペーン 
【拡散希望】サイモン・ウィーゼンタール・センターと創価学会と中国共産党

SHANGHAI navi 上海獶太(ユダヤ)難民紀念館 (観光ガイド)
シャンハイユダヤ難民記念館

http://www.shanghainavi.com/miru/420/ 

JTBがグループ社員に送った「創価学会様に選挙協力」メール

〈特定団体への協力依頼について〉──こう題された社内メールを受け取った大手旅行代理店「JTB」グループの中堅男性社員が明かす。

「任意の協力とはいえ特定の候補者の応援署名を集めろというのは入社してから初めて。しかも、それが創価学会からの要請で公明党を応援するというんだから驚きました」

 文書は11月27日付で、JTB取締役旅行事業本部長の名前で社員向けに送られた。文書にはこうある。

〈国内研修会をはじめとした各種需要を頂戴している創価学会様より、支援政党である公明党への支援要請がJTBグループにあり、営業政策上の観点から各事業会社においても可能な範囲での協力を求められております〉(以下、〈 〉内は文書から抜粋)

 まず東京・神奈川・千葉に住む社員には比例代表向けに〈公明党の政治活動を支援します〉と題した用紙への署名集めを、太田昭宏国交相と前職の上田勇氏がそれぞれ出馬した東京12区と神奈川6区の居住者には各候補の支援者名簿を作るための署名集めを要請している。

 JTB社員向けメールでは、あくまで〈社員個人としての任意協力〉と強調しているが、〈出来る限りの協力をお願い致します〉と念押ししているのだから、控え目にいっても「支援要請」である。

 世界有数の旅行代理店であるJTBは修学旅行などの教育旅行や官公庁のイベントなど、公共性の高い業務を多く抱えている。大口顧客とはいえ、特定政党の支援を社員に一斉メールで堂々と要請するのは他の大企業では考えにくい。

 JTB広報室は「グループ2社で協力依頼した。あくまで任意の協力依頼であり、会社として特定の政党を支援することはない」と説明したが、取締役名で社内メールシステムを使っているのだから、「会社として支援」していないという説明はいかにも苦しい。

 民主党も共産党も、JTBの顧客なら頼めば協力してくれるのか。あまりにも国政選挙を軽く考えているのではないか。
※週刊ポスト2014年12月19日号
NEWSポストセブン2014.12.8
http://www.news-postseven.com/archives/20141208_290959.html


JTB、社員に公明党支援を要請 創価学会から依頼受け

  旅行大手のJTBが、14日投開票の衆院選で、公明党に協力するよう求める文書をグループ2社に送っていたことが分かった。公明党の支持母体の創価学会か ら依頼があったという。旅行業は国土交通省が所管しており、太田昭宏国交相は公明党公認で東京12区から立候補している。

 JTBによると、文書は11月27日付で取締役旅行事業本部長の名前で送られた。公明党公認の候補者がいる東京12区と神奈川6区に住む社員には、支援者名簿をつくるための署名を集めるよう要請。他の社員にも、公明党への支援を表明する趣旨の署名を集めるよう求めた。
 創価学会は各地で大規模な研修会などを開いており、JTBとは多額の取引があるとみられる。創価学会は「これまでお付き合いがあることもあり、協力をおねがいした」(広報室)とコメントしている。
JTBは「組織的に特定の政党を支援しているのではない。あくまで任意のお願いで、強制ではない」(広報室)としている。(土居新平)
朝日新聞DIGITAL2014.12.9
http://www.asahi.com/articles/ASGD94QJDGD9ULFA00K.html

国土交通大臣が公明党だから
旅行関係はそうならざるを得ない面もあるんかな

JTBというと日本海を東海表記したことで抗議街宣があった

JTB系韓国ガイド絶版 日本海を「東海」と表記

 旅行情報誌などを出版するJTBパブリッシング(東京・新宿)は28日までに、同社が2005年1月に発行したガイドブック「JTBキャンブックス 韓国鉄道の旅」の地図で、日本海を「東海」と表記していたとして、この本を絶版にしたと発表した。7千部を発行しており、書店などにある約千部を30日から回収する。

 東海は、韓国政府が主張する呼び名で、同社は「日本政府の見解に照らし、適切ではなかった」としている。今月23日から電話やメールによる指摘が約20件寄せられ、絶版を決めた。〔共同〕
日本経済新聞2012.1.28
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG28024_Y2A120C1CC1000/

キムチ悪いですね。

なぜJTBのことを書いているかというと
「日本は反ユダヤ国家だった」という
侮日プロパガンダ映画『杉原千畝 スギハラチウネ』に関わっているから

杉原千畝JTB
https://www.facebook.com/sugiharachiune.jp/posts/514639555371607

JTB杉原千畝
http://www.jtbcorp.jp/jp/koryu-ouentai/special/index.html


ホロコースト展アンネフランクと杉原千畝ホロコースト展アンネフランクと杉原千畝2
https://www.soka.ac.jp/campuslife/holocaust/

共催 創価大学 サイモン・ウィーゼンタール・センター

ふふ
『アンブロークン』再びですかね?
→ 【アンブロークン the unbelievable BROKEN story】 

追記2015.12.5
この続きを書こうと思っていたのだが意味不明な非難をされたので
いつか気が向いたら書く・・・かもしれない

JTBの提供している資料を見ると
国に背き、家族を危険に晒し、守り抜いた6千の命」
という映画CMのナレーションとは逆に 
国に背いたのではない事実が浮き彫りになり、映画とは矛盾することが分かると思う。
期間限定だと思われるので見るなら今のうち。
→http://www.jtbcorp.jp/jp/koryu-ouentai/special/index.html

(自社資料と矛盾する映画に協力するのはやはり上記のような事情なのだろう・・と思うわけですね)

参考
「国に背き、家族を危険に晒し、守り抜いた6千の命」 こんなん大嘘ですから。
日本を貶めようとする悪意2 杉原千畝「命のビザ」キャンペーン 
【拡散希望】サイモン・ウィーゼンタール・センターと創価学会と中国共産党 


SEALDsTOKAI日本は殺し殺されることはなかった

http://togetter.com/li/907420

「日本は(戦後70年間、戦場で)一度たりとも殺し殺されることはありませんでした。
再び若い命が無駄にされるようなことになりそうな歴史の分岐点に立っていると思います。
安倍政権を倒すべく、新しい日本作るために手を取り合って一緒に頑張りましょう。」

一連のツイートに突っ込み入りまくってるが
『SEALDsTOKAI「日本は一度たりとも殺し殺される事はありませんでした」・・・・』
http://togetter.com/li/906296

竹島は?
(→釜山収容所 拿捕された漁船乗組員のその後
東アジア反日武装戦線や日本赤軍は?
朝鮮戦争時の日本特別掃海隊は?
等々

この中になくて引っかかっていたので書いておこう

池上彰も「驚くべき史実」と語る占守島の戦い
『歴史街道』 2015年12月号

歴史街道編集部

「まさに教科書に載っていない歴史」(池上彰)
 今年の夏以降、にわかに話題を集め続けている太平洋戦争期の「秘史」がある。1945年8月の「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」だ。

 占守島の戦いとは、太平洋戦争が「終戦」した2日後の1945年8月17日深夜(18日未明とも)、日本領だった千島列島北東端・占守島に、ソ連軍が攻め込んだ出来事だ。当時、日本とソ連は中立条約を締結していたが、ソ連は千島列島、樺太、さらには北海道の北部を日本から奪い取ろうと「不法侵攻」を仕掛けた。

 この時、ソ連軍の侵攻を食い止めたのが、占守島に残っていた日本軍将兵だった。この史実は、戦後の日本においては、作家の浅田次郎氏が小説『終わらざる夏』で題材にしたことはあったが、語られることは多くはなかった。

 しかし今年の夏、「終戦70年」を契機として、いくつかのメディアが占守島の戦いを取り上げた。また、11月上旬には、今年に占守島などで見つかった日本軍将兵の遺骨が、ロシアから日本の遺族団へと返却されたことも報じられた。

  そして、ここにきて再び、地上波のテレビでも占守島の戦いが取り上げられるなど、メディアの注目も高まっている。11月22日(日)19時54分から放送 される『池上彰の教科書に載っていない20世紀~戦後ニッポンを救った知られざる人々~』では、実際に占守島をルポ取材。番組についての記者会見で、 ジャーナリストの池上彰氏は「(もしも日本軍守備隊の活躍がなければ)北海道北部に『日本民主主義人民共和国』ができていたかもしれない。まさに、教科書 に載っていない20世紀の歴史」だと指摘した。

 「当時、ソ連のスターリンは第2次世界大戦の戦いを『大祖国戦争』と呼んだ。祖国を守る戦い、ドイツから祖国を守る戦いだったはずが、実は『祖国の栄光のために』と、日露戦争で日本が領有化した土地を『奪い返す』という思いも抱いていました。

 実は、占守島で日本軍の守備隊が必死に戦った結果、北海道北部がソ連に占領されないで済んだんじゃないか……。これは、驚くべき話です」(池上彰氏)

「8月15日、皆が無事に帰れたわけじゃない」(宮崎美子)
 同番組に出演し、実際に占守島で取材した宮崎美子氏は、次のように語る。

 「終戦って、いつなのか。1945年8月15日じゃなかったのではないか。どこで区切りつけるのか。占守島の戦いは、まさにその話。8月15日に玉音放送があって、その場で全部戦闘は終わり、皆、無事に帰れたわけじゃなかった。そこから始まった戦いがあって、その結果が、今の北方領土問題にもつながっています。

 今回、ロシアでの取材で現地の方の話を聞きました。千島列島は、もともとは平和的にロシアと日本で条約が結ばれて、平和裏に日本の領土になったのですが、そうじゃないように現地では教えられていました。『日露戦争の時に奪い取られた千島列島を、我々が血で購って取り返した』と。

 『だから北方領土も自分たちのものだ、当然だろう』って怒られたこともありました。そうした点は、実際に取材を行なわないと分からないことです」(宮崎美子氏)

 ロシアの教科書には、占守島の戦いでは「正義の戦いとして載っている」(池上氏)という。その一方で、日本においては宮崎氏が「正直、私もこれまでは知らなかった」と語るように、ほとんど語られることはなかった。

 だからこそ、今こそ占守島の戦いを伝えたい。そう語るのが、池上氏の番組のプロデューサーを務めた堀靖彦氏だ。

 「占守島と聞いて、終戦後に日本とソ連が死闘を繰り広げた場所という史実を、果たしてどれだけの日本人が知っているでしょうか。歴史を知ることこそが、私たちの進むべき道を教えてくれます。

 正しい歴史認識のためには、正しい歴史教育が必要なのは言うまでもありません。そんな思いを抱くなかで、今回の番組も生まれました」(堀靖彦プロデューサー)
占守島の戦い池上彰宮崎美子

  池上氏は、「占守島の戦いに関しては、まだ当時を体験したご存命の方もいらっしゃいます。しかし、これからは、そうした方々がいらっしゃらなくなっても、 『日本には色々な戦いがあったんだよ』と伝え続けることが必要ではないでしょうか。今回は占守島の戦いですが、インパール作戦やノモンハン事件もそうで しょう」と語る。

 占守島の戦いがなければ、戦後の日本の歴史は、多かれ少なかれ変わっていた可能性が高い。その意味では、終戦後、待ち 焦がれていた故郷に帰る夢を置き、再び武器を手に取った日本軍将兵の姿は、池上氏が語るように、先の大戦の史実の中でも、特に今後も語り継がれるべきであ ろう。
ironna
http://ironna.jp/article/2415?p=1 

【wiki】 占守島の戦い 

ソ連軍の上陸
当初、日本側は上陸してきたのはソ連軍と断定できず国籍不明としていたが、次第にソ連軍と認識するに至った。ソ連軍が占守島に上陸したとの報を受け、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、第91師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出した。

こんなところにオトポール事件の樋口季一郎中将がいたんですね
【wiki】樋口季一郎
 樋口季一郎とユダヤ人脈

この時戦わなかったら一体どうなってたでしょうね
だから9条教徒は嘘つきだっていうんですよ


【youtube】戦後70周年 奇跡の将軍・樋口季一郎

『杉原千畝 スギハラチウネ』という「日本が反ユダヤだった」という侮日プロパガンダ映画が公開されるが
そんなものには惑わされないように
日本を貶めようとする悪意2 杉原千畝「命のビザ」キャンペーン
 

コメントで教えてもらいました

坂東忠信の日中憂考
『南京雨花台で毛沢東がゲロってる虐殺狂言』2015.10.13

南京の虐殺の記憶をとどめた雨花台公園には、「人民英雄碑」が建てられており、そこには毛沢東の揮毫により「国民党政府在雨花台曽経屠殺了三十万共産党烈士」(国民党政府は雨花台においてかつて30万人の共産党烈士を殺した)と書かれている
http://taiyou.bandoutadanobu.com/?eid=1235451

坂東忠信 太陽にほえたい!
『毛沢東が認めた南京虐殺の犯人』2010.7.28
http://ameblo.jp/japangard/entry-10603254540.html

雨花台
中 華門外にある広大な丘陵地帯で、名前は、六朝時代にさる名僧が説法をしたところ、感動した天帝が花を雨のように降らせたという伝説に由来する。しかし、そ の詩的で美しい響きとは裏腹に、この雨花台は中国近現代史上、おびただしい犠牲者の血が流れた場所として有名だ。太平天国軍は ここで清軍と何度か流血戦を行ったし、辛亥革命のときも清軍との間で激戦が繰り広げられた。 そして1927年4.12クーデター以来、蒋介石の手によって処刑された共産党員や 進歩的人士の数は10万人以上にものぼるという。園内には、『国民党政府在雨花台曽経屠殺了三十万共産党烈士』(30万人が国民党によって殺害された)と いう毛沢東の揮毫になる記念碑がある。またいわゆる南京虐殺の際は、一般市民を含む30万人以上の人が日本軍によって虐殺されたといわれている。現在、こ こは当時、犠牲になった人々の遺体をまつる烈士陵園となっており、中央には死地におもむく烈士をかたどった巨大な「革命烈士犠牲者彫塑群」が建立されてい る。 併設の烈士記念館には、鄧中夏や琿代英、トウ演達など多くの革命家と烈士たちの事績と遺品が展示されている。 なおここでとれる雨花石は、殺された人々の血によって赤く染まっているのだといわれる。 市の南郊、中華門外の小高い丘陵地帯にある。
http://china-redtour.com/spot/kaihou_ukadai.html
(このサイト初めて見たんですが色々参考になりまつ)
https://twitter.com/Jnkmrgenkai/status/663899015499542532

なぜそんな碑があるかというと・・
こちらの動画で分かると思います
中国共産党は中国国民党を非難していた→【wiki】南京事件 (1927年) 
(=共産党政権正当化に使った)

【ニコニコ動画】高森アイズ-南京大虐殺 へのソボクな 3つの疑問 - はじまりはいつも朝日

南京大虐殺へのソボクな3つの疑問

疑問その①
「南京」記念館は何故1985年(昭和60)まで作られなかったのか?

もし本当に首都だった南京で日本軍によって30万人もの同胞が虐殺されたのであれば、中国共産党政府は1949年の建国直後にこうした記念館を建設するのが当然ではないか。
日本では昭和20年3月の東京大空襲などで亡くなった犠牲者を慰霊し、追悼する東京都慰霊堂が、昭和26年9月に、それまでの震災記念堂を改称して、整備されている。
それに比べ、建国後36年も建設が放置されていたのは、まことに不可解だ。
恐らく解答としては、2つの可能性しか考えることができないだろう。
一つは、「大虐殺」がウソだったということ。もう一つは、30万人の同胞が虐殺されても長く関心を寄せないほど、中国共産党政権は冷酷この上ない政権であること。

疑問その②
中国の国定教科書は何故1981年(昭和56)まで「南京大虐殺」を一切取り上げていなかったのか?

中国は、わが国の検定教科書と違い、国定教科書が使用されている。共産党独裁政権下の国定教科書には、当然、共産党の歴史認識がストレートに反映されていると見るべきだ。
ところが、その教科書にしばらく「南京大虐殺」が登場していなかった。これも不可解な事実だ。
この場合も、やはり解答としては、2つの可能性しか考えることができないだろう。
「大虐殺」がウソだったか、共産党政権が冷酷この上ない政権かのいづれかであろう。

疑問その③
日本の歴史教科書は何故昭和50年(1975)まで「南京大虐殺」を一切取り上げなかったのか?

ただし、占領下に文部省によって編まれた昭和22年、同24年の教科書には「虐殺」ではなく、「虐殺行為」についての記述があった。
これが占領当局(GHQ)の意図を反映したものと見るべきことは、言うまでもあるまい。
そこで独立回復後の記述を見ると、昭和50年の教育出版の中学校教科書に「4万2千の殺害」に触れたのが最初だ。
この時の検定教科書で「南京大虐殺」に触れたのは、この教育出版1社のみだった。
この後、他社や高校教科書へと拡散して行く。
そこでややこまかく見ていくと、昭和50年度教科書の検定結果は昭和49年に発表され、検定申請は昭和48年、教科書の作成そのものは昭和47年に進められている。
この前の教科書は昭和47年度版で、教科書の作成そのものは昭和44年に進められている。
ならば、昭和44年から昭和47年までの間に、「南京大虐殺」の実在を証明する新資料の発見や新たな学問研究の進展などがあったのだろうか。
そんなものは何もなかった。ただあったのは、朝日新聞紙上での本多勝一記者「中国の旅」の連載と、その単行本化だけだ。
朝日紙上での連載が昭和46年、単行本化が昭和47年のことで、まさに昭和50年度版の教科書作成が進められていた時期である。
本多記者の「中国の旅」が日本の歴史教科書に「南京大虐殺」を持ち込むキッカケになったことは、ほぼ疑う余地がないだろう。
しからば、本多氏の「中国の旅」の信憑性はどうか。すでに中国の政治プロパガンダをそのまま垂れ流したものとして批判が多く寄せられている。
それより、日中国交樹立への機運醸成に社を挙げて力を注いでいた当時の朝日が、こうした連載と単行本を企画した動機と背景の解明が重要であろう。

結論:こうして「南京大虐殺」をめぐる事態を、これまでの研究の成果も踏まえて、大づかみに整理すれば

(1)もともと中国国民党が戦時プロパガンダとして捏造したものを
(2)東京裁判が日本断罪のために利用し、
本来ならそこで使い捨てにされるはずだったのに、
(3)日中国交樹立の時期に朝日新聞が何らかの動機と背景のもとにキャンペーンとして取り上げ、
(4)ついにその利用価値に気づいた中国共産党が、対日歴史カードおよび国内の民主化要求を反日ナショナリズムに流し込む「魔法の杖」として活用することになった。

つまりそれは、ウソのバトン・リレーと言うべきだろう。


高森明勅氏
「最初の走者は中国国民党であります。そしてそのバトンが東京裁判に渡され、そして東京裁判のバトンがですね、道端に棄てられるはずだったのが、がっちりと朝日新聞社が受け止めましてですね、懸命なダッシュをはじめた。そのダッシュを受けてですね、中国共産党は南京大虐殺については冷淡だったようであります。というのは、国民党のプロパガンダだから。それに対して共産党のプロパガンダは別にあったわけですね。それが三光作戦で す。日本軍による三光作戦。これをプロパガンダとして使ってですね、あれは国民党のプロパガンダだと。うちのプロパガンダとは違うと。思っていたんです が、なかなかこれは効き目があるぞと。いうことですからがっちり受け止めてそして走りはじめて、国定教科書に入り、そして南京大虐殺記念館が出来、そして 今回大掛かりなリニューアルまでこぎ着けたと。いうわけで南京大虐殺はウソのバトン・リレーでありました。」

参考
南京大虐殺記念館を作った田辺誠
語られざる金丸訪朝団の謎 田辺誠死去

三光作戦といえば
はだしのゲンの生むトラウマ 

この人が後にユネスコにお勤めになると。興味深いものがありますね。
ユネスコはフランス共産党のメンバーが作った( ̄д ̄)

【歴史戦 第10部・終わらぬプロパガンダ(6)】
「南京事件」広めた本 著者の豪人記者は中国からカネ貰って執筆した…そんな本が「百人斬り」脚色、裁判をも影響
ティンパーリwhatwarmeans

 「南京事件」(1937年)を世界に広め、極東国際軍事裁判(東京裁判)にも影響を与えたとされる『戦争とは何か(WHAT WAR MEANS)』(38年出版)の著者、オーストラリア人記者のハロルド・ティンパリー。その正体は、日中戦争勃発後の39年に中国国民党宣伝機関の英国支部で責任者だったことが、台北市にある国民党の党史館に残る史料で明らかになった。

 ティンパリーはいつの時点で国民党のエージェントになったのか。

 米コーネル大図書館の史料からは、ティンパリーが日中戦争初期の段階から、宣伝工作に関与していた実態が浮かぶ。

 史料は1930~40年代にかけて、米海軍の情報将校や武官として上海や重慶に駐在したジェームズ・M・マクヒューがまとめた。

 国民政府が37年11月に漢口(湖北省)に移転する前、ティンパリーは、中国・国民政府のトップである蒋介石夫妻の私的顧問だった同じオーストラリア人ジャーナリストのウィリアム・ヘンリー・ドナルドから宣伝工作に参加するよう勧誘された。
いったんは断ったが、国民政府側に宣伝工作の監督や調整への関与を自ら働きかけ、国民政府の元財政部長、宋子文から月額1000ドルを受け取ることで合意した。

 国際宣伝処長だった曽虚白は、自伝で次のように記している。

 「われわれは漢口で秘密裏にティンパリーと長時間協議し国際宣伝処の初期の海外宣伝計画を決定した」
 「目下の国際宣伝では中国人は絶対に顔を出すべきでなく、国際友人を探して代弁者になってもらわなければならないと決めた」
信憑(しんぴょう)性を疑問視
 ティンパリーは38年6月、『戦争とは何か』を英国で出版した。同書の執筆の経緯はどうだったのか。曽は自伝で次のように記した。「手始めに、金を使ってティンパリーに依頼し、南京大虐殺の目撃記録として本を書いてもらい発行することを決めた」
 曽の述懐の通りであれば同書は第三者の外国人ジャーナリストとしての客観的立場からではなく、国際宣伝処の意向を受けて執筆されたことになる。
 これに対して、一部の中国人学者らは約50年が経過した段階での、曽の回想の信憑性を疑問視する。学者らは南京の公文書館にあるとされる史料などを根拠に、「ティンパリーが書き上げた原稿を国際宣伝処が買い取って発行した」と主張する。
もっとも、米コーネル大所蔵のマクヒュー報告書が示したように、ティンパリーは同書執筆前の段階で、すでに中立的ではなかったことは明白だ。

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 台北にある国民党の党史館が所蔵する「極機密」の印が押された史料「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」には、「本処(国際宣伝処)が編集印刷した対敵宣伝書籍」として、オーストラリア人記者、ハロルド・ティンパリー著の『戦争とは何か(WHAT WAR MEANS)』(1938年出版)の中国語版名が記載されている。
 中国語版の序文を書いた文化人の郭沫若は、日中戦争勃発にあわせ、中国共産党や国際共産主義運動組織コミンテルンの支援で亡命先の日本から極秘帰国し宣伝を行っている。
 国際宣伝処は同書を反日世論工作のための「宣伝本」として位置づけ、中国語版『外人目睹中之日軍暴行』を出した。他にもニューヨーク、日本、コペンハーゲン、パリでもそれぞれの言語で出版された。英米版は12万冊出版されたという。
 同書は「南京大虐殺をいち早く世界に広めた本」(南京大虐殺記念館長の朱成山)だといわれ、連合国による戦犯裁判にも影響を与えたと指摘されている。
伝聞も含まれ
 国民政府が開いた南京軍事法廷の複数の判決書には『戦争とは何か』が登場する。

 特に「百人斬り」を実行したとして訴追された向井敏明、野田毅の両少尉に対する裁判では、ティンパリーによる脚色や中国語訳版における事実の書き換えが影響し、死刑判決が下ったことが立命館大特任教授、北村稔の研究で明らかになっている。

 同書は旧日本兵による放火、強姦(ごうかん)、殺人といった数々の暴虐行為を記すが、伝聞も多く含まれる。

 「4万近くの非武装の人間が南京城内や城門付近で殺され、うち約30パーセントは兵隊になったことのない人々だ」
 「少なくとも中国中央部の戦闘だけで中国軍の死傷者は30万人に上り、ほぼ同数の民間人の死傷者が発生した」
 これらはティンパリーが南京で自ら見聞きした内容ではなく、自身は当時、上海にいた。執筆材料としたのは、南京にとどまっていた匿名の欧米人や南京安全区国際委員会の報告で、それらをまとめ、「編著」の形をとった。後に分担執筆者の一人と判明した米国人、マイナー・ベイツは国民政府の「顧問」でもあった。
日本孤立狙う
  日中戦争の発端となった盧溝橋事件(1937年7月)勃発後、中国・国民政府のトップ蒋介石は国際宣伝の強化を図った。同年11月に設置された国際宣伝処 は翌年2月に国民党中央宣伝部に移管されたが、実態は蒋の直属組織だった。宣伝の狙いは国際世論を味方につけ日本を孤立させること。
対外宣伝工作を取り仕切ったのは、米ミズーリ大でジャーナリズムを専攻後、米国の新聞社で記者として経験を積み、上海で英字紙の編集長を務めた経歴を持つ董顕光。蒋の英語教師を務めたこともあり、蒋の信頼が厚い人物だった。

 「一切の宣伝の痕跡を消し去り、外国人を利用して各国での宣伝工作を推進する」

 中央宣伝部副部長に起用された董はこの方針に基づき、それまでのキャリアの中で培った人脈を駆使して、中国に同情的、あるいは中国を支持する外国人記者を国際宣伝処で雇った。
 国際宣伝処は外国特派員が中国内で発信する電報を検閲し、中国に不利な情報の流出を防ぐ一方、ロンドン、ニューヨーク、パリをはじめ各国の主要都市に支部を設け、中国に有利なニュースを現地で発信した。
 ティンパリーは董が大きな信頼を寄せた外国人記者の一人だった。董は自著の中で、ティンパリーをこう紹介した。
 「彼は中国の勝利が民主主義世界にとって重要だとの信念を持って、私のスタッフになった」
キーパーソン
ティンパリーは国際宣伝処の英米支部の開設に大きく貢献し、1938年7月には国際宣伝処の顧問に就任、9月にはマンチェスター・ガーディアンを辞職した。その後の活動は党史館にある秘密文書「中央宣伝部半年中心工作計画」に示された通り、国際宣伝処の対外宣伝工作のキーパーソンとなった。

  台北の史料館、国史館に所蔵されている蒋介石の日記などをまとめた『事略稿本』によると、ティンパリーは41年5月13日、蒋介石に面会し、夫人の姉であ る宋慶齢が「(対日)抗戦に役立っていない」と、蒋に苦言を呈した。それほどティンパリーが重用されていたことがうかがえる。

 宣伝工作の「責任者」として、国民党と蜜月関係にあったティンパリーだったが、やがて仲たがいしていく。
 董は自伝で、ティンパリーが専用のクルーザーや車を要求するなど高慢な態度を取るようになったと批判した。ティンパリーは41年後半以降、同処との関係が悪化、徐々に「宣伝工作の戦線」から姿を消す。(敬称略)
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 英字メディアを舞台とした中国の「宣伝戦」はいまも変わらない。
  最近では、3月20日付の英紙フィナンシャル・タイムズ(FT)=電子版=が、「中国の慰安婦」と題する長文の記事を掲載した。1942年に16歳で慰安 婦にされたという山西省の女性(88)が、日本兵が自宅に押し入ってきたときの記憶を振り返るとともに、日本政府を相手取って起こした謝罪・賠償訴訟も棄 却され、中国政府の支援もなく精神的なトラウマを抱えて生きているという仕立てだ。
中国人慰安婦の数を「20万人」としているが、根拠は「中国人学者の推計」とあるのみだ。

 この女性は国営新華社通信(英文)も昨年9月に配信した記事で取り上げていた。中国にいる元慰安婦や関係者が自由に外国メディアからの取材に応じることはないとみられる。

 米紙ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)も昨年6月、『中国人慰安婦』を出版した中国人教授に取材した。この教授は「歴史と未来のために、旧日本軍が敵国の女性や市民を言葉にならないほど残忍に扱ったという点を指摘することも重要だ」と、執筆の動機を語っている。
  慰安婦というと韓国のイメージが強く、中国人慰安婦には焦点はあたってこなかった。しかし、昨年6月、中国は慰安婦に関する資料を国連教育科学文化機関 (ユネスコ)記憶遺産に登録申請した。今後の展開をにらみ、欧米メディアを巻き込んだ宣伝戦が始まっている。=第10部おわり
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この企画は池田祥子、岡部伸、河崎真澄、田北真樹子、田中靖人、原川貴郎、矢板明夫が担当しました。
産経ニュース2015.4.23
http://www.sankei.com/premium/news/150423/prm1504230008-n1.html
 
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