英国海軍軍人が語るマレー沖海戦秘話5年前、英国に渡り、サー・フォールに取材を終え、帰路につこうとしておりましたら、サー・フォールから、「貴君は武士道を知っているか」と質問をされました。曖昧な返事をしましたら、その後約1時間、みっちり「武士道」について解説されました(笑)。サー・フォールは、新渡戸稲造が書いた「武士道」を熟読していたのです。 ところで、サー・フォールの友人に、グレム・アレンという元海軍大尉がいます。93歳になるアレン氏は、1通の手紙を書いて私に渡し、「日本に帰ったら、このメッセージを日本の人々に是非伝えてほしい」といいました。 彼は、マレー沖海戦のとき、イギリス海軍東洋艦隊旗艦、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」に乗り、東洋艦隊司令長官フィリップ提督の副官を務めていたそうです。 1941年12月10日、マレー沖海戦が行われましたが、その2日前に日本海軍航空隊が真珠湾に集結した米艦隊攻撃をして見事な成果をあげておりました。 アレン大尉は、フィリップ提督に「日本海軍航空隊は油断ならない相手です」と進言したそうです。しかし、フィリップ提督は、「アジア人ごときに何ができる か」とせせら笑い、「日本の飛行機が攻撃に成功したのは、港に停泊している艦船をだったからこそ成功したのだ。高速で移動するわが艦隊に対抗できるはずが ない」と、アレン大尉の進言を無視してしまいました。 フィリップ提督は、自らをネルソン提督に擬していたそうです。英国がアジアに有する植民地(権益)を確保するため、自らを犠牲にしてまで日本帝国海軍を撃滅するつもりでいたのでしょう。 ところが、日本海軍の雷撃機が飛来して攻撃を始めるや、フィリップ提督は、「こんな見事な雷撃、見たことがない」と絶句したそ うです。そして「プリンス・オブ・ウェールズ」、随伴戦艦「レパルス」は、約2時間の戦闘に後、あっけなく日本海軍航空隊に撃沈されてしまいました。そし てフィリップ提督は艦と運命を共にされました。 一方、日本海軍航空隊は、雌雄を決するや、指揮官機の指示により、一切の攻撃を中止し、護衛駆逐艦による両戦艦乗員の救助活動を妨害しなかったとのことです。 この結果、救助駆逐艦は、両戦艦の生存者を救助するため沈みかける船体に横付けしてまで救助活動に専念したそうです。 これは英国海軍将兵に感動を与えました。この主人公がアメリカ軍だったらどうだったでしょうか? 大東亜戦争中、被弾炎上する日本海軍艦艇の甲板上にいる乗員や、漂流している将兵目がけて、戦闘機が空中から一斉に機銃掃射を浴びせております。 勿論米軍は、救助活動する日本海軍艦艇も容赦なく攻撃しております。 閑話休題日本海軍が立派だったのは、この救助駆逐艦が、母港のシンガポールに帰還する間、上空を飛行しながらも一切攻撃を加えず、見守っていたそうです。アレン大尉は、こうした日本海軍航空隊の的確な攻撃ぶりと、紳士な統制を見て感動したそうです。この情報は間もなく、アジアに展開する全英国海軍に伝搬し、日本海軍への敬意に変わっていったのです。 ところで英海軍は、日本のテクノロジィにも瞠目したとも語っておりました。 そもそも英国東洋艦隊の航路選定は、自国の雷撃機の航続距離を基準に算定し、マレー半島陸岸から離れた位置に航路を決定していたのです。ところが、日本の航空機の航続距離は優にその2倍あり、しかも搭載の航空魚雷の威力は、当時世界最高水準にありました。 思えば、300年間鎖国をしてきた日本は、開国以来、西洋列強に追いつけ追い越せと必死の努力を続けました。そして、わずか70数年で、世界最高水準のテクノロジーと海軍航空戦力を構築したのです。これは欧米人にとっては驚異だったのです。 現在でも英国人に中には、「プリンス・オブ・ウェールズ」を撃沈したのは、ドイツ空軍だったと盲信している人々がおります。私は、この日本人の能力、ポテンシャルは凄いと思います。 アレン大尉は、「偉大なる日本海軍」と前置きし、「生涯忘れ得ない日本人への敬意」と題して 第1、日本軍海軍航空隊の見事な統制力。 第2、その優れた技術力。 第3、日本軍の武士道。 を強調し、「日本国民に敬意と感謝を伝えてくれ」と再三強調しておりました。 また、アレン大尉の後日談があります。 彼は、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」亡き後、重巡洋艦「エクセター」に配属されました。 昭和17年3月1日、その「エクセター」がスラバヤ沖で日本艦隊に包囲されたとき、「エクセター」艦長ゴードン大佐は、「これは敵わない」と思い、兵員たちに退避命令を出しました。 ところが、艦長がこの命令を出す前に、艦長の指示でアレン大尉がマストに登り、それから降りてきたら、甲板上には兵員たちは誰一人としていませんでした。 見切りをつけた兵員たちが、艦長の退避命令の出る前に、日本艦船に助けをもとめて海に飛び込んでいた可能性が高いのです。 海に飛び込み、「雷」の僚艦である「電」に救助されたイギリスの兵員たちは、「電」で尋問された時、 「万一の時は、日本の艦艇に向かって泳げ、そうすれば彼等は必ず助けてくれる」 と上司からいわれていたと発言していたそうです。 これはマレー沖海戦における日本海軍の武士道的行為が語り継がれていたからなのです。 一方、英国海軍もまた立派でした。 わが国が連合国に降伏した昭和20年8月、シンガポールに駐屯していた日本の海軍部隊が、日本に引き揚げるとき、英海軍は、日本海軍士官に限って麻袋に入れた砂糖一袋を持参させたのです。 広島にある「紅葉饅頭」は、日本海軍士官達が持ち帰ったこの砂糖を使うことによって息を吹き返したといわれています。当時日本は焼け野原で、砂糖も枯渇しており、ヤミ市場では高値で取引される状況にありました。 武士道とは、戦うときは全力をもって戦う。しかし、戦いが終わると、互いに健闘を称え合い、勝者は敗者を労る。戦いで傷ついた者たちには、救いの手をさし延べる。 なんと素晴らしい武士道精神、騎士道精神ではありましょうか。 アレン大尉は、日本海軍による歴史的偉業として、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、「レパルス」の沈没は、大英帝国の終焉を意味した。「われわれイギリス人の世界制覇の夢は完全に消えた」と語りました。 私はこの1連の話を聞きながら感動しました。私たち日本人は、こういう先人の業績を知った上で、海外で堂々とした態度をとらなければいけません。 ■ 軍人への待遇の差〜戦前と戦後先生がたにお願いしたいことがあります。「工藤艦長はイギリス兵を救助した、よかったね」ということで終わってほしくありません。工藤艦長が示したリーダーシップの根幹を、是非教育の場で生徒に教えてもらいたいのです。いかなる教育があって、あのようなリーダーが生まれてきたかを教えてもらいたいのです。帝国海軍の指揮官教育を掘り下げていきますと、特徴的な要素がいろいろな発見できます。 われわれが防衛大学に在籍しているときの校長は猪木正道先生でした。猪木校長はこれを踏襲しておりました。 「君らはスペシャリストではなくて、ジェネラリストになるべきだ。将来、国家に有事が起きたとき、貴君らは軍指揮官になるとは限らない、国家がこのような 将校教育を受けた人材に総理への登壇を望むかも知れない。従って貴君らは、その日に備え、国家のエリートとして、心身ともに鍛え、かつ幅広い識見を涵養し ておくべきである」と強調し、古今東西の歴史書や文献を読むよう諭しておりました。 要するに猪木校長は、世界史の視点に立脚し、国家エリートの育成と将校教育をリンクさせようとしたのです。そのための使命感、誇りを我々に醸成しようと大変な努力もされておられました。 しかし、今の防衛大学、自衛隊はどうかというと、このような誇りを持たせるような施設(学生クラブ)も全部廃止されたばかりでなく、生徒にこのような視点を与える教育さえスポイルしております。防衛大学の行内PXにも大きな本屋がありましたが、潰れました。 戦略観を育成するには、古今東西の書を読み、沈思黙考する時間がなければなりません。こうしたゆとりが、現在の防衛大学教育から完全に消滅したのです。これでは真の戦略家、国家エリートは生まれません。 連合艦隊司令長官山本五十六大将は、旗艦「大和」のなかで、古事記や万葉集をはじめ、英語の本まで読んでおりました。 山本長官は、非常に重厚な思考力をもつ軍人であり、今でも米国をはじめ世界の海軍軍人から(中国軍も含む)「海軍指揮官の鏡」と敬意される戦略家です。 そうした指揮官教育が今の日本から消えてしまいました。 また、戦後、自衛隊員への冷遇は目に余るものがあります。飯島利一先生の授業(「空の武士道〜航空自衛官の殉職」)と、関連しますが、昭和30年代に、自衛隊で殉職したある先輩がいました。 この先輩は、支援戦闘機スクリーン・セーバーで発進しましたが、エンジンにトラブルが発生しました。管制塔からベールアウト(脱出せよ)との指示が出されましたが脱出せず、田んぼに突っ込んで殉職しました。 このとき、運の悪いことに、燃料の補助タンクがはずれ、バウンドして民家に飛び込んで全焼してしまいました。その家のなかで2人の学生が授業をサボって麻雀をしていたため、不幸にも2人とも犠牲となってしまったのです。 さて、当時の防衛庁長官はどういう行動をとったでしょうか。 殉職したパイロットの奥さんは、防衛庁長官が弔問に来るだろうと思い、身重の身で、ふらふらする体を同期の自衛官夫人たちに支えられながら待っていました。 しかし防衛庁長官は、現れませんでした。あろうことか、防衛庁長官が向かったのは、亡くなった麻雀学生の家だったのです。 長官は、死亡した麻雀学生1人あたり1億円、2人で2億円の賠償金を出させとそこで明言しました。ところがベイルアウトせずに殉職した先輩には、3千万円か4千万円の慰労金が支給されたのです。 国家が自衛官をこのように粗末に扱っていますと、自衛官は「国家のために働いて殉職しても、この程度の扱い方しかされないのか」と思うようになってしまうことでしょう。 公のために身命を捧げようとする人間に敬意を払う日本人を育てる道徳教育、歴史教育をしなければ、日本の未来はないと思います。 さて、満州事変以降の海軍兵学校の教育はスパルタ式になりましたが、工藤艦長が出た大正10年当時の兵学校教育には、大正デモクラシーのゆとりがあり、また、「武士道」というカリキュラムもありました。そこで育てられた人材は、エリートとして突出していたと私は思います。 工藤艦長は51期でしたが、私が学生として在籍していたときは、50期、51期、52期の先輩たちから指導を受けました。52期の高松宮殿下は、鈴木貫太郎閣下が校長であったとき、兵学校予科に学ばれておられました。 50期、51期、52期の先輩たちは英国流ジェントルマンの気風、またユーモアセンスがあり、日本人離れした重厚な風格がありました。 ■ リーダーシップ教育と武士道皆様ご存じのように、昭和14年頃まで、帝国海軍は、ロンドン海軍軍縮条約によって、補助艦保有量で英米に対し劣勢比率を課せられておりました。日本側は その不利を補うため、乗員の居住空間をできるだけ狭くし、これにより生じたスペースにできるだけ多くの武器を積載してこの劣勢比率をカバーしょうとしまし た。駆逐艦でいいますと、兵員1人あたりの居住空間は僅か1.3立方メーターです。水兵達は、「棺桶よりも狭い」と自嘲していたそうです。また彼等が1日自由に使える真水の量は、洗面器1杯分だったそうです。 一方、赤道直下で行動する艦船の、その甲板はゴム草履を履いても歩けないくらいに熱せられました。そういった過酷な環境のなかで、駆逐艦「雷」も戦闘行動をとっていました。こういう過酷な条件下で、駆逐艦「雷」は、世界海軍史上空前絶後の救助劇を敢行したのです。 海面を漂流する敵兵を発見し、工藤艦長が「敵兵を救助せよ!」と命令したとき、乗員たちは我が身をかえりみずイギリス兵を救助しています。そして、自分た ちの糧食や被服下着までイギリス兵に提供しています。過酷な状況におかれている乗員たちを自分の命令ひとつで従わせることのできた工藤艦長のリーダーシッ プは、たいへんなものでした。 私は、工藤艦長のような指揮官を育てた海軍兵学校教育は、復活すべきと確信しております。そこには、部下を心服させる人格と識見を育てる教育があったのです。そして武士道教育こそ、エリート教育、真のリーダー教育の根本にあるべきものであります。 鈴木貫太郎閣下は、海軍兵学校の校長のとき、生徒だった工藤艦長に、常々「2等水兵にも人格があるのだから、絶対に叩いてはいけない。叩かずに、モチベーションを高める努力をせよ」と言っていました。山本五十六閣下も、鈴木閣下と似た教育方針をもっておられました。 私は、ある方からこんな内容を記した手紙をいただきました。 「(中略)昭和18年8月、私は工藤中佐とともに、私は多磨霊園にある山本五十六長官のお墓に詣でました。そのとき、山本五十六長官がいわれた言葉、部下 指導にあたっては、『やってみせ、言ってきかせて、させてみせ、褒めてやらねば人は動かじ』をしみじみ反芻しました」。 私が艦隊勤務をしていたときに、かつて山本長官に仕えたという元水兵や高級将校がいらっしゃいました。その方たちは、異口同音に、「山本長官に接すと、この方のためなら命も惜しくに思わせる、ものすごいオーラが感じられた」といっていたのを思い出します。 明治以来、脈々と受け継がれてきた海軍兵学校魂、武士道精神は、昭和の戦争でまさに花開いたのだと言って良いでしょう。 ■ 帝国陸軍の武士道最後に、陸軍の武士道について申しのべます。私がこうした講演を行うと、「日本の艦隊が敵兵を救助したのは、勝ち戦の時だったからではないか」という方がいます。しかし、それは実際の日本軍のことを知らないからでしょう。私の親戚に陸軍の少佐がいました。彼は、インパールで戦死しました。その後輩が私の叔父に送った手紙を、私は運良く見つけまし た。その手紙に書かれていたのは、昭和20年1月、終戦直前の話でした。フィリピンからアメリカの捕虜200人くらいが輸送船で広島に着きました。この 200名はみんな大怪我をしていました。 実は、台湾沖でこの捕虜を乗せた日本の輸送船が日本に向けて北上していたところ、突然米軍機が、この輸送船めがけて急降下して きたのです。アメリカ兵たちは救出に来たと思って、甲板で出て、歓声をもって手をふったら、あろうことか、この米軍戦闘機は、この捕虜達に機銃掃射を加え たのです。それで即死した兵士もいました。 重傷を負ったアメリカ兵たちは、日本の艦船に救助され、捕虜として広島の病院に運び込まれたのでした。帝国陸軍の医師たちは、 彼らを非常に丁寧に治療し、手当をしました。アメリカ兵捕虜のなかにマラリアに罹った者が3名いたのですが、当時、マラリアの特効薬は、西部医軍管区(広 島から沖縄の範囲)軍病院施設のなかにも、4本しか残っていなかったのです。 この貴重な特効薬を、沖縄出身の青年軍医がアメリカ兵捕虜の治療のために使用したいと上司に申し出ました。上司は、「日本兵を火炎放射器で焼き殺したり、戦車でひき殺したりするようなアメリカ兵に、貴重な特効薬をもちいるわけにはいかない」と拒否したそうです。 しかし、青年軍医は、自分の判断でこの特効薬を使い、そして、3名のアメリカ兵捕虜の命を救ってあげました。 それを知った病院長は、この軍医を窃盗罪で憲兵隊に告訴したそうですが、青年軍医は、憲兵隊司令に向かって堂々と「戦いに敗れた敵を大事に扱うのが武士道ではありませんか」と主張したところ、憲兵隊司令は、「そうだ。お前のいう通りだ」といって、軍医を放免しました。 8月15日に戦いが終わった後、日本国内に拘束されていたアメリカ軍の捕虜たちは帰国して行きました。 まもなくアメリカの調査団が日本にやってきて、戦時中におけるアメリカ軍捕虜に対する虐待はなかったかどうか、調査を始めました。 件の青年軍医が沖縄に帰るために福岡で待機していたところ、GHQのリーガル・オフィス、すなわち法務部のスタッフが、非公式 に訪問し、「軍医殿、私は捕虜たちから貴方の親切な処置について聞きました。捕虜に成り代わって、お礼を申しあげます。貴方が示してくださった自己犠牲の 精神、武士道精神を、アメリカ人である私たちは一生忘れません」と感謝の言葉を述べられたそうです。 日本は大東亜戦争に敗れましたが、帝国陸海軍の将兵たちは、いたるところで武士道精神を発揮して戦ったのです。 沖縄で戦った牛島中将は、戦後、悪く言われています。しかし、牛島中将ほど沖縄住民の安全を願っていた方はいませんでした。 地上戦が始まると、すぐに牛島中将は米軍のバックナー中将に軍使を派遣し、沖縄本島南部知念半島を非戦闘地域に設定したことを認めるよう求めました。本島北部へ避難するチャンスを逸した住民を保護するための処置でした。 牛島司令官がとったこの住民保護の処置を、日本人よりもアメリカ人のほうが高く評価しているのです。嘉手納米空軍基地のなかに、米軍によって、「初代基地司令官ジェネラル牛島」と記した立派な碑が建てられています。 ほとんどの日本人はこの事実を知らないでしょう。 歴史は正しく見直されなければなりません。当時の関係者の多くは、他界してしまいました、こうした世界が讃える武士道的精神は数多く埋もれているのです。我々はそれを内外に発信していこうではありませんか。
(完)
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2013年9月9日月曜日
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