高木健一が中心となっていたインドネシアの補償問題では、インドネシア政府は、199
2年、「慰安婦問題について過大視しない」「韓国が日本に対して行ったような要求も出すつもりもない」と声明を発表した。しかし高木はそれでも地元紙に「200万円の補償が出る」と広告を出し、約2万人の自称元慰安婦を集めた。
これに対してインドネシアタイムスの会長は取材に応じ、「ばかばかしい、インドネシアにいた2万人の日本兵一人ひとりに慰安婦がいたというのか」「我々には、日本罵倒体質の韓国や中国と違って歴史とプライドがある。お金をくれなどとは、360年間、わが国を支配したオランダにだって要求しない」と話した。
村山政権の時の1996年、日本政府がインドネシアに対して、元慰安婦を含む高齢者の福祉事業のために3億8千万円を拠出することになった。インドネシアはこの申し出を受けたが、それまでの高木ら日本の共産党、朝日新聞、日弁連の動きに対して腹に据えかねていたようで、「インドネシア政府は、この問題で補償を要求したことはない」「日本との補償問題は1958年の協定により完結している」と声明を出した。
またインドネシアのある閣僚は「今回の事件の発端は日本側だ。悪質きわまりない。だが、我々は日本人を取り締まることはできない。インドネシアの恥部ばかり報じてインドネシア民族の名誉を傷つけ、両国の友好関係を損なうような日本人グループがいることが明白になった。あなた方日本人の手で何とかしてください」と語った。
日本でも、高木ら「人権派弁護士」のこのような動きに対して、「自作自演」「火のない所に煙を立てて回っている」「慰安婦を食い物にしている」と非難している者も多い。結局、高木らのインドネシアでの企ては失敗に終わった。
この慰安婦問題の運動は、「日本帝国主義、軍国主義の被害者を地の果てまでも出かけて探し出し、訴訟など考えもしなかった当事者に、原告になるよう説得し、訴訟を通じて事実をつくり出す」「被害者がいてそれを支える運動ではなく、反日運動のため被害者を見つけ出して利用する」ものであったが、それはその後も韓国で続くことになる。
この当時の日本の政治状況は、消費税導入とリクルート事件などの影響で、1989年の参院選では、土井たか子を党首とする社会党が、改選議席の倍以上を獲得した。また翌年の衆院選でも社会党は大きく票を伸ばした。しかし社会党の勢力拡大に危機感を持った民社党や公明党が社会党から距離を置き始め、1991年の統一地方選では社会党は敗北するなど、政情は極めて流動的だった。政界はその後、日本新党、新党さきがけ、新進党、民主党、社民党、自由党などが入り乱れ、合従連衡を繰り返しながら1990年代後半に入って行く。
このような、日本の政情の混乱は、慰安婦問題を取り上げる勢力にとっては好都合だった。特に、社会党代表の土井たか子のもとでのマドンナ旋風は、フェミニズムを抬頭させ、その勢力が福島瑞穂らとともに、慰安婦問題を大きく取り上げるようになった。
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