2015年5月30日土曜日

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週刊スモールトーク (第120話) 大航海時代Ⅴ~ポルトガル海上帝国~

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大航海時代Ⅴ~ポルトガル海上帝国~
■ジェノヴァの商人
 ポルトガルは、ヨーロッパの西端にある小さな国である。国土面積は日本の1/4、人口は1000万人ほど。オリーブ油とワイン以外、これといった産業もない。ところが、歴史上燦然と輝く大航海時代は、この小さな王国から始まったのである。
 ポルトガルが大航海時代を先行した理由は3つある。王室が海洋貿易を主導したこと、ジェノヴァ商人が参加したこと、地理に恵まれたことである。ポルトガルはイベリア半島の西方にあって、大西洋に面している。しかも、南北に長く伸びて、寄港地が並ぶので、航海者にとって都合が良かった。
 13世紀、イタリアの商業都市ジェノヴァとヴェネツィアは、地中海貿易の覇権をめぐって激しく争っていた。そのと き、ジェノヴァが目をつけたのがフランドル地方だった。フランドルは英語名フランダース、日本では童話「フランダースの犬」以外あまり知られていない。と ころが、ヨーロッパでは経済と文化の中心地として有名である。
 中世のフランドルは、現在のベルギーを中心にフランス、オランダの一部を含む地域で、北部は北海に面していた。13世紀以降、毛織物工業を中心に商業が大発展し、大砲の生産でも世界一を誇った。都市部では、裕福なブルジョアが台頭し、独特なフランドル文化も生まれた。中でも有名なのが、フランドル絵画である。
 15世紀に、ファン・エイク兄弟が油彩技法(油絵)を確立し、16世紀には、ブリューゲルが素朴な農民生活を描い た。17世紀に入ると、巨匠ルーベンスが立体的でダイナミックな画法で革命を起こす。眺めているだけで、無数のシーンを連想させる不思議な力がある。童話 「フランダースの犬」の中で、主人公ネロが憧れるのもこのルーベンスだ。このような
商業の発達 → 都市の繁栄 → ブルジョアの台頭 → 文化の発展
の歴史の方程式は、北イタリア都市とルネッサンスにもあてはまる。
 豊富なヒト・モノ・カネにくわえ、高い文化を誇るフランドル地方に、ジェノヴァ商人が目をつけたのは自然の成り行きだった。ジェノヴァ商人は、フランドル地方と地中海を結ぶ交易の乗り出した。
1.フランドル地方の毛織物を地中海世界に運ぶ。
2.東アジアの香辛料や地中海のオリーブやブドウ酒をフランドルへ運ぶ。
 問題は貿易ルートである。ジェノヴァ商人は、地中海からジブラルタル海峡を抜け、大西洋を北上し、そのまま北海に入り、フランドル地方に到る。何の変哲もない海路だが、一つ問題があった。「大西洋」である。
 この時代、ジェノヴァ商人が利用したのはガレー船だった。ガレー船は、古くから地中海で、海戦や貿易に使われた。地 中海は風が弱く、吹いたり吹かなかったりで、推力としてはあてにできない。そこで、船の両舷にたくさんの櫂(かい)を並べて、人力で漕いだのである。一 応、帆もあったが、あくまで補助。また、地中海は波が穏やかなので、喫水が浅く、船体が低くても問題はなかった。つまり、ガレー船は内海専用の船だったのである。
 ところが、大西洋は外洋で、風が強く、波も高い。喫水が浅く、船体の低いガレー船はすぐ転覆した。そのため、ジブラルタル海峡を抜けた後、大西洋を一気に突き抜けるのはムリ。イベリア半島の沿岸沿いに、恐る恐る北上するしかなかった。
 また、ガレー船にはたくさんの漕ぎ手が必要なので、その分、積み込む食糧と水が増える。ところが、ガレー船は船体が 低い分、積める量が少ない。そのため、頻繁に寄港し、補給する必要があった。こうして、ポルトガル西岸部の港町は、ジェノヴァ商人の寄港地として栄えたの である。その後、ポルトガルはジェノヴァとの関係をさらに深め、ジェノヴァ商人から「航海術」と「金融システム」を学んだ。大西洋に面した細長い国土が、大航海時代に必要なアイテムを呼び寄せたのである。
■ポルトガルの歴史
 ここで、大航海時代以前のイベリア半島の歴史をみてみよう。この地は、紀元前2世紀頃、ローマ帝国の属州だった。5世紀に西ゴート族、8世紀にはムーア 人によって征服されている。ムーア人とは、イスラム化したベルベル人のことである。7世紀、アラビア半島に興ったイスラム勢力は、8世紀初頭にはアフリカ 西北部に侵入、勇猛で知られたベルベル人を征服した。その時、イスラム教に改宗したベルベル人、つまりムーア人がイベリア半島を征服したのである。
 711年、西ゴート王国は 崩壊し、生き残った王侯貴族はイベリア半島北部の山岳地帯に逃げ込んだ。すでにキリスト教化していた西ゴート族は、そこで、いくつかのキリスト教国を建て た。その中に、西ゴート王国の貴族ペラーヨがいた。718年、ペラーヨは土着のアストゥリアス人と組んで、アストゥリアス王国を建国、コバドンガの戦でイ スラム軍をやぶった。これが、レコンキスタ(国土回復戦争)の始まりである。レコンキスタとは、イスラム勢力に征服されたイベリア半島を、キリスト教国が 再征服する戦争をさす。この戦いは、その後800年もつづき、1492年、グラナダの陥落をもって終了した。
 ペラーヨが創設したアストゥリアス王国はレオン王国に継承され、その後、配下のカスティーリャ伯が勢力を拡大、961年に独立した。これが、カスティーリャ王国である。1037年、カスティーリャ王国はレオン王国を併合し、レオン・カスティーリャ王国となった。以後、レコンキスタはレオン・カスティーリャ王国が主導していく。
 1093年、レオン・カスティーリャ王国は、アンリ・ド・ブルゴーニュにポルトガル伯の爵位を与えた。その子アフォ ンソ・エンリケスは、1143年にカスティリャ王国から独立し、ポルトガル王アフォンソ1世として即位する。1179年には、ローマ教皇の口添えもあり、 ポルトガルの独立が承認された。これが、ポルトガル王国の起源「ブルゴーニュ朝」である。
 ポルトガルのレコンキスタ(国土回復戦争)は、1249年に終了し、1260年には、アフォンソ3世はリスボンに遷都し、強力な王権を確立する。この頃、ヨーロッパ諸国は、国王の力が弱く、地方は諸侯が支配する封建国家であった。ではなぜ、ポルトガルはいちはやく中央集権体制を確立できたのか?おそらく、レコンキスタのおかげ。イスラム教徒との絶え間ない戦いで、強力なリーダーシップが生まれたのである。
 このように、ポルトガルが盤石な国家体制を整えた頃、先のジェノヴァ商人のフランドル貿易が始まった。1300年に 入ると、ポルトガル西岸の港町は、ジェノバ商人の寄港地として大いに栄えた。さらに1317年には、ポルトガルとジェノバ商人の未来を決定づける事件が起 こる。ポルトガル王ディニスが、ジェノヴァの商人エマヌエレ・ピサーニョに貿易特権を与え、ポルトガル海軍総督に任じたのである。
 その話が伝わると、ジェノヴァから多くの航海者がポルトガルに移住した。ジェノヴァ人にとって、ポルトガルは夢の国 となったのである。結果、ポルトガルの航海術はますます向上し、海軍力も強化された。ポルトガル王室が描いたビジョン「海洋貿易立国」が現実になろうとし ていた。
 やがて、利にさといジェノヴァの金融業者までが、ポルトガルに移住してきた。投資や融資で一儲けしようというのである。この頃、ジェノヴァ商人は高度なイスラム金融を習得していたが、それをポルトガルに持ち込んだのである。ポルトガルにとって、まさに、濡れ手に粟(ぬれてにあわ)だった。
■プレスター ジョン伝説
 1385年、ポルトガルに革命が起こった。ジョアンが立ち、新しくアビス朝を興ったのである。新王ジョアン1世は「海洋貿易立国」をさらに加速させる。平和的な貿易にくわえ、軍事行動にうってでたのである。
 1415年8月21日、ジョアン1世は3人の王子に命じて、北アフリカのセウタを占領させた。セウタは、アフリカの モロッコにある歴史の古い町である。ジブラルタル海峡に面し、大西洋と地中海を結ぶ点にあり、古代より軍事の要衝であった。紀元前5世紀には、すでにカル タゴが町を築いていた。
 ところで、ポルトガルは、なぜセウタを攻めたのか?こ の頃、セウタはイスラム教徒の支配地だったが、ポルトガルとイスラム商人の取引はうまくいっていた。わざわざ、戦争を仕掛けなくても、アフリカ貿易に支障 はなかったのである。むしろ、アフリカ貿易を妨げる可能性もあった。アフリカ内陸部から沿岸部までの貿易も、イスラム商人が支配していたからである。沿岸 部だけでなく、内陸部まで支配するには手間も暇もかかる。なぜ、そこまでして、全支配をもくろんだのか?
 すべてを支配すれば、儲けを丸取りできる?もっともだ。だが、もっと説得力のある理由もある。「プレスター ジョン伝説」だ。12世紀以降、ヨーロッパで流布された「東方のキリスト教国」のことである。1096年、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還すべく、ヨーロッパ・キリスト教国は十字軍を編成した。この長躯の遠征は、200年も続いたが、戦果は一進一退、かんばしくなかった。
 このような苦境を背景に、流布されたのが、「プレスター ジョン伝説」だった。東方に強力なキリスト教国があり、その君主プレスター ジョンと同盟すれば、イスラム教徒をはさみうちにできる。さらに、
「プレスター ジョンはイエス・キリストの誕生を伝えた東方の三博士の子孫である」
というまことしやかなエピソードまでつけくわえられた。ヨーロッパ中の期待がかかったわけだが、問題は場所。アフリカ、中央アジア、インド ・・・ サッパリ、見当もつかなかった。
 そんな中、ポルトガル王室が「プレスター ジョン王国」をアフリカ内陸部に求めたとしてもおかしくはない。とすれば、自分が同盟しようとする国の探索を、敵対するイスラム商人に任せるわけにはいか ない。「プレスター ジョン王国」を本気で探すなら、アフリカ貿易を丸ごと支配するしかない。実際、ポルトガルは、セウタを前哨基地として、周辺のイスラム勢力を攻撃してい る。なにはともあれ、セウタ攻略が対イスラム戦略のターニングポイントになったことは間違いない。
■エンリケ航海王子
 セウタ攻略に参加した3王子の一人が、有名なエンリケ王子である。昔々の歴史の授業では、エンリケ王子はサグレス岬に航海研究所や航海学校を建設した大 航海時代の大功労者、と教えられた。ところが今では、いささか誇張である、に訂正されている。とはいえ、大航海時代の功労者であることは確かで、今でも 「エンリケ航海王子」の名で親しまれている。だが、エンリケ航海王子の貢献は、大航海時代の闇の部分によっている。アフリカの奴隷貿易である。
 1433年、ジョアン1世がこの世を去り、ジョアン2世が跡を継いだとき、エンリケ航海王子はアフリカ西海岸の航海権を得ている。彼は、占領したセウタを基地として、西アフリカの探検と貿易に尽力する。サハラ砂漠を行き来するイスラム商人に、織物、小麦、ガラスを売りつけ、かわりに、アフリカの砂金や象牙を買い、ポルトガル本国に持ち込んだのである。
 1445年、エンリケ航海王子は、西アフリカのアルギンに最初の商館を開設した。この頃から、貿易の中心は砂金から黒人奴隷に変わり、利益も急増した。それを目の当たりにしたジェノヴァの金融業者たちは、奴隷貿易に出資し、莫大な利益を得た。奴隷貿易は急拡大し、1450年から1500年の間に、15万人もの黒人奴隷が売買された。黒人奴隷はポルトガルに運ばれ、家内奴隷や農作業者として使役された。
 後に、アフリカの黒人奴隷は、北アメリカや南アメリカの大規模農園に投入され、アメリカ奴隷制度を 作り上げた。15世紀末から19世紀末の400年間で、アフリカから南北アメリカに送り込まれた黒人奴隷の数は1000万人。この闇の奴隷貿易の創始者こ そ、エンリケ航海王子だったのである。もちろん、どんな人間でも、罪があれば功もある。たとえば、「マデイラ ワイン」。
■マデイラ ワイン
 1419年、ポルトガルの航海者ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコは、大西洋を航海中、偶然、マデイラ諸島に漂着した。マデイラ諸島は、北大西洋にある 火山群島で、セウタから西方1100kmの位置にある。翌年には、エンリケ航海王子の指導のもと、ポルトガルからの植民が始まった。サトウキビが栽培さ れ、砂糖が重要な輸出品となった。
 ここで注目すべきは、栽培、精製、販売、資金調達をジェノヴァ商人が支援したことである。ジェノヴァ商人が、ポルトガルの海洋貿易事業に、いかに深く関わっていたかがわかる。17世紀後半になると、マデイラ諸島では、ブドウ栽培とワイン作りが始まり、砂糖をしのぐ産業になった。これが、有名な「マデイラ ワイン」である。
 ワインは、ビールとならんで、古い歴史をもつ酒である。今では、世界中の温帯地方で生産されている。古くは、祭祀 (さいし)に使われ、のちに、家庭の食卓にも上るようになった。ワインは、ブドウの果汁を酵母でアルコール発酵させた醸造酒である。アルコール度数は 9~13度。ところが、アルコール度数19~20度という超弩級のワインも存在する。その名も「酒精強化ワイン」。醸造時に、ブランデーなどのアルコールを加え、度数を高めたものだ。
 ブランデーは、ワインと同じブドウを原料とする蒸留酒で、アルコール度数は40~50度。蒸留酒とは、ワインのような醸造酒を加熱し、蒸留してアルコール濃度を高めたものである。安物ブランデーは飲めたものではないが、高級ブランデーはやみつきになる。口当たりがいいぶん、スルスル飲めるので、注意が必要だ。若い頃、あやうくアルコール依存症になるところだった。貧乏で、高価なブランデーがすぐに買えなくなったので、命は助かった。
 「酒精強化ワイン」はブランデーで濃度を高めたワインなので、その威圧的な命名も納得できる。強い酒で知られる日本 酒でさえ、13~15度。お手軽なビールで4度強。一方、アルコール度数を高めると、良いこともある。酸化や腐敗を防ぎ、長期保存や長駆の輸送にも耐えら れる点だ。また、ブランデーやウィスキーなら、栓をするのを忘れても、風味は落ちない。とはいえ、フタなしでも風味が変わらないのは、それだけエキスが高密度なわけで、そんなもの胃袋に入れて大丈夫?
 ところで、酒精強化ワインには「世界三大酒精強化ワイン」なるものがある。スペインのシェリー、ポルトガルのポート ワイン、そして、マデイラ ワイン。つまり、マデイラ ワインは世界のトップブランドなのだ。それにくわえて、マデイラ ワインにはもう一つ特徴がある。加熱しながら熟成させるという、蒸留酒のような製法で、ワインというよりはブランデーに近い。
 マデイラ ワインの製法は以下のとおり。まず、ブドウの果汁を発酵させ、その後、樽に入れ、倉庫で加熱する。昔は、倉庫の1階で火を焚いて、加熱したが、今は太陽熱を利用しているという。いずれにせよ、数ヶ月もの間、45度前後で暖めるので、管理が難しい。今なら、コンピュータ制御で何とでもなるが、昔は大変だっただろう。熱加減に失敗して、倉庫の樽が全部台無し、という事もあったのでは?ということで、妙にそそられるワインである。
 そこで、マデイラ ワインを試してみることにした。行きつけの酒屋をはじめ、あちこち電話してみたが、どこにも置いてない。こういう時、地方都市は不便だ。そこで、最近オー プンした複合型スーパーに行ってみた。オープンしたての大型店は、たいてい品揃えがいいからだ。予想が的中し、マデイラ ワインを発見!ラベルには、
「MADEIRA WINE ・・・」
間違いない。価格は2450円。さっそく、1本購入し、飲んでみた。
 芳醇で濃厚で、キャラメルを甘く焦がしたような独特の風味がある。ワインというよりは、口当たりのいいブランデーだ。ワイン特有のサッパリ感はないので、食事をしながら飲む酒ではない。食前酒、食後酒に向いている。だが、個人的には、つまみなしで、ストレートに飲む方が ・・・ これはヤバイ。
 インターネットで「マデイラ ワイン」を検索すると、いろんな銘柄が出てくる。メジャーなところでは、1本6000円~2万円。昔の高級ブランデーやスコッチなみの価格だ。気軽に買える酒ではない。マデイラ ワインの生産者は、ほとんどが家族経営で、生産数に限りがあるからだという。ということで、こんな美味いワインが飲めるのも、エンリケ航海王子のおかげ、ということにしよう。
■ポルトガル海上帝国
 マデイラ諸島が発見された後も、大西洋では新しい島が次々と発見された。こうして、ポルトガル商船は、北欧から西アフリカまで進出したのである。イスラ ム商人は、東アジアの香辛料を地中海まで運び、ポルトガル商人は、北欧の魚介類、フランドル地方の毛織物、アフリカの砂金や象牙を地中海に持ち込んだ。ポ ルトガルは、地中海世界と大西洋沿岸のヨーロッパ諸国をつなぐ役割を果たしたのである。
 この海洋貿易は、ポルトガルに巨万の富をもたらした。大西洋沿岸の港町は寄港地として栄え、首都リスボンは人口35万人に達した。当時、世界有数の大都市である。これも、ポルトガル王室の国家ビジョン、エンリケ航海王子の功績だが、忘れてならないのはジェノヴァ商人。彼らは、航海術、農業技術、農園経営、資金調達、すべてにおいて、ポルトガル海上帝国をささえたのである。
 一方、ジェノヴァ商人が手を貸したのはポルトガルだけではなかった。ポルトガルのライバルのスペイン、そして、コロンブスのアメリカ大陸発見にも大きく関与したのである。ジェノヴァ商人は大航海時代の隠れた大功労者だった。
《つづく》
参考文献:
増田義郎 著 「大航海時代」世界の歴史13 講談社
by R.B
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