2015年5月30日土曜日

高木健一が中心となっていたインドネシアの補償問題では、インドネシア政府は、199
­2年、「慰安婦問題について過大視しない」「韓国が日本に対して行ったような要求も出­すつもりもない」と声明を発表した。しかし高木はそれでも地元紙に「200万円の補償­が出る」と広告を出し、約2万人の自称元慰安婦を集めた。
これに対してインドネシアタイムスの会長は取材に応じ、「ばかばかしい、インドネシア­にいた2万人の日本兵一人ひとりに慰安婦がいたというのか」「我々には、日本罵倒体質­の韓国や中国と違って歴史とプライドがある。お金をくれなどとは、360年間、わが国­を支配したオランダにだって要求しない」と話した。
 村山政権の時の1996年、日本政府がインドネシアに対して、元慰安婦を含む高齢者の­福祉事業のために3億8千万円を拠出することになった。インドネシアはこの申し出を受­けたが、それまでの高木ら日本の共産党、朝日新聞、日弁連の動きに対して腹に据えかね­ていたようで、「インドネシア政府は、この問題で補償を要求したことはない」「日本と­の補償問題は1958年の協定により完結している」と声明を出した。
 またインドネシアのある閣僚は「今回の事件の発端は日本側だ。悪質きわまりない。だが­、我々は日本人を取り締まることはできない。インドネシアの恥部ばかり報じてインドネ­シア民族の名誉を傷つけ、両国の友好関係を損なうような日本人グループがいることが明­白になった。あなた方日本人の手で何とかしてください」と語った。
 日本でも、高木ら「人権派弁護士」のこのような動きに対して、「自作自演」「火のない­所に煙を立てて回っている」「慰安婦を食い物にしている」と非難している者も多い。結­局、高木らのインドネシアでの企ては失敗に終わった。
 この慰安婦問題の運動は、「日本帝国主義、軍国主義の被害者を地の果てまでも出かけて­探し出し、訴訟など考えもしなかった当事者に、原告になるよう説得し、訴訟を通じて事­実をつくり出す」「被害者がいてそれを支える運動ではなく、反日運動のため被害者を見­つけ出して利用する」ものであったが、それはその後も韓国で続くことになる。
 この当時の日本の政治状況は、消費税導入とリクルート事件などの影響で、1989年の­参院選では、土井たか子を党首とする社会党が、改選議席の倍以上を獲得した。また翌年­の衆院選でも社会党は大きく票を伸ばした。しかし社会党の勢力拡大に危機感を持った民­社党や公明党が社会党から距離を置き始め、1991年の統一地方選では社会党は敗北す­るなど、政情は極めて流動的だった。政界はその後、日本新党、新党さきがけ、新進党、­民主党、社民党、自由党などが入り乱れ、合従連衡を繰り返しながら1990年代後半に­入って行く。
 このような、日本の政情の混乱は、慰安婦問題を取り上げる勢力にとっては好都合だった­。特に、社会党代表の土井たか子のもとでのマドンナ旋風は、フェミニズムを抬頭させ、­その勢力が福島瑞穂らとともに、慰安婦問題を大きく取り上げるようになった。

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