| 地下鉄サリン事件 救急医療チーム最後の決断 |
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| 平成7年3月20日、東京は無差別テロに襲われた。地下鉄に毒ガスサリンをばら撒かれたのである。人類史上経験のないテロに、学生、OL,地下鉄職員も巻き込まれ、5000人がうめいていた。 多くの患者が運ばれたのは東京築地の聖路加国際病院、院長は日野原重明。目が見えない、襲いくる謎の痙攣。どんな薬を使えばいいのか。未曾有の毒ガステロに挑んだ、医師たちのドキュメントである。 |
| ページ・カウンタ | sincs07.03.01 |
彼には、若き日の忘れられない思い出があった。昭和20年の東京大空襲のとき、100万人が焼け出され傷を負った。日野原は治療に当たったが、病院に入りきれない患者が、野外で亡くなった。彼はこの時、大災害に耐えられる病院を絶対作って見せると誓った。 日野原は新病院の設計に工夫を凝らし、酸素の配管を病院中の壁にめぐらし、礼拝堂も緊急時には広い病室になると設置、また24時間対応できる救命センターを設けた。 若手の医師でローテーションを組み、研修を積ませた。若手の医師で指揮官に抜擢されたのが、救急医石松伸一だった。若いが冷静沈着だとして推薦された。石松は身が引き締まった。 |
第2次大戦でナチスドイツが開発、その威力は青酸カリの500倍、体内に取り込むと筋肉の動きが麻痺し、呼吸停止を起こす。あまりの酷さに国際条約で製造を禁じられていた。なぜ松本で、サリンが使われたのか。犯人も目的もわからなかった。 その半年後の平成7年3月20日午前7時50分、地下鉄日比谷線「小伝馬町駅」。通勤ラッシュが始まっていた。改札口には、笑顔の耐えない駅員、大室が いた。8時2分、北千住発中目黒行きの電車がホームに入ってきた。電車が止まった瞬間だった。乗客が次々とホームに倒れこんだ。駅員が駆けつけると、電車 の床の紙包みから、透明な液体がしみでていた。 東京消防庁には、都内5つの駅から出動要請が入った。何か危険なガスが漏れている。地下鉄駅員は、倒れた乗客を必死で運び出した。改札口の大室は、乗客の最後の一人が運び出されるまで離れなかった。誰もいなくなった改札口に、一人倒れた。 |
聖路加病院は大騒ぎになっていた。患者の心臓マッサージを始めたが、まるで反応しなかった。2分後さらに4人の患者が運ばれてきたが、全員呼吸が止まっ ていた。石松は、若手に地下鉄の様子を見てくるよう指示した。3分で地下鉄築地駅に到着、唖然とした。重症患者のほかにも、200人以上の人が倒れてい た。救急隊員が言った。「これだけの患者の受け入れ先が獲得できません。どの病院も手一杯、しかし治療が遅れれば危ない」と。若手医師は「すぐ連れて行かないと」、電話も入れずに、聖路加に向かった。 院長の日野原が言った。「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる」と。館 内に一斉放送が流され、緊急招集し精神科医も産婦人科医も救命センターに呼んだ。病院中の空きベッド、車椅子が集められた。続々と重症患者が到着、急いで 救命センターに運んだ。続いて意識はあるが目の痛みや吐き気のある患者が、タクシーやバスでやってきた。日野原は言った。「軽症患者は礼拝堂に運べ」。看護婦が礼拝堂に走り、壁の配管に人工呼吸器を取り付けた。点滴台と毛布を運び込むと、礼拝堂が広い病室に変わった。 重症患者が運ばれた救命センターでは、必死の蘇生が続いていた。小伝馬町で倒れた駅員の大室も運ばれてきた。体は動かせず、目も見えない。そして筋肉の 麻痺で呼吸が止まりかけている。石松は、症状を抑えようと硫酸アトロピンを点滴したが改善しない。そのとき、「これは何だ」すべての患者に共通する症状があった。縮瞳、瞳が異常にちじんでいた。縮瞳は、有機燐系の農薬中毒に特徴的に起こるといわれていた。 その時、同僚の奥村は、半年前の事件を思い出していた。松本サリン事件。サリンの症状は、当初は農薬中毒事件と報じられていた。またサリンか?石松の脳 裏に一本の薬が浮かんだ。有機燐系農薬に有効とされる解毒剤「パム」。しかし、筋肉の麻痺は取り除くが、一方それ自体に毒性を併せ持つ危険な薬だった。 原因が特定できない中で患者に投与すれば、患者の命を危うくする恐れがあった。サリンかどうか、どうやって確かめるのか。石橋は、究極の決断を迫られた。 |
事件発生から一時間、聖路加の収容患者は100人を超えた。だんだん呼吸が弱くなる患者たち。救命センターには、治療の指示を仰ぐ電話が殺到した。「パムを使いましょうか?急ぎましょう」。石松は「待て、患者の命がかかっている」。 地下鉄職員の大室は意識がなくなり、人工呼吸器が頼みとなった。全身に痙攣が始まっていた。このままでは、心臓が止まる。 その頃、長野県松本市。一人の男がテレビの築地駅の光景に見入った。信州大学付属病院の柳沢医師。松本サリン事件で被害者の治療を担当していた。インタ ビューで、瞳がやけに小さかったと証言している、これはサリン中毒の大きな特徴である。直ちに聖路加病院に電話し、救命センターの石松に告げた。「サリンの症状に似ています」。後は石松の決断だけが残された。 石松はパムを見つめた。静かに席を立った。集中治療室で告げた。「パムを投与する」。同僚の奥村がうなずきながら、パムをあけて注射器に吸い取り、点滴ボトルに注入した。重症患者8人に投与した。石松はじっと知らせを待った。30分後、奥村が駆け込み、「パムが効きました」、心臓が止まる前兆の痙攣が消えた。 しかし、薬剤部で大問題が持ち上がった。パムは特殊な薬、在庫が20人分しかなかった。薬剤部長の井上がパムを扱う問屋、名古屋のスズケンに電話をかけた。「東京中でパムが必要になる。ありったけのパムを運んでくれ」と。責任者の小林は、各地の倉庫にパムを集めるように指示した。小林は新幹線に乗り、沿線の浜松、静岡、横浜の各倉庫からパムを受け取る作戦を取り、合計230人分が集まった。 東京の聖路加病院、非番の看護婦が駆けつけていた。臨時の血液検査コーナーが作られた。足りなくなったカルテは、手作りで、患者の首にぶら下げた。午後1時、新たなパム約200人分が到着した。患者に次々に投与された。 その頃、集中治療室に、地下鉄職員の大室の治療が続いていた。その手が動いた。意識が戻った大室、懐かしい声が聞いた。「大丈夫かい?」母のゆき子が枕元で涙ぐんでいた。大室は「大丈夫だよ」と答えた。この無差別テロに立ち向かった病院スタッフ1200人、必死の戦いは夜通し続けられた。 |
事件の2日後、衝撃の犯人が明らかになった。オーム真理教だった。この地下鉄サリン事件で、12人の尊い命が奪われた。地下鉄では、2人の職員が殉職した。 あの日、最後まで改札に踏みとどまった大室さんは、事件の1週間後、職場に復帰した。病み上がりの体を押して改札に立ったとき、乗客に声をかけられた。「おはよう。姿が見えなかったから、心配したんだよ」「ちょっと休みをいただきました」と言いましたが「嬉しかったですね」。 事件から丸10年、厳しい現実がある。被害者の半分が、今なおサリンの後遺症で苦しんでいる。石松は事件と向かい続けている。被害者の追跡調査と定期健診を続けている。あの事件にかかわった医師の使命だと思っている。 日野原院長「病院を建て直してから14年になるが、病院は時として戦場になる。あの事件をきっかけに、みんな心に刻んだものと感じている」と。 |
| ▼所感: 人類史上、例のない無差別テロ、あの地下鉄サリン事件からちょうど10年になる。日野原院長が、戦時中の東京大空襲で、病院にも入れず野外で亡くなった 事実を反省し建てたという、スペースの広い聖路加国際病院がこの事件で生きた。100人もの患者を収容し治療することができたのは、院長の先見の明だっ た。 また、松本サリン事件の経験から、危険な解毒剤「パム」を使用する決断に至ったのは幸運だったといえる。しかし、10年たった今でも、全身麻痺や脳障害 で治療を受け、後遺症に悩む人々が大勢おられることを忘れはならない。 ニューヨーク9/11テロの、被害者への政府の保証金や支給される援助金が、大変 手厚いものだと聞いている。一方、日本政府を狙ったこのテロに巻き込まれた人々に対する援助は、十分だろうか。 オウム真理教の教祖麻原にそそのかされ、毒ガスサリンを造って一審で死刑になっている東大理系卒のエリート犯人たちや教祖の麻原は、事件後10年どう なっているのだろうか。裁判は遅々として、進んでいるようには見えない。全く情報が見えてこないのは残念でならない。未だ指名手配中の犯人3名が、逃亡中 なのも気になることだ。 |
| 人間ドキュ | since 07.03.01 |
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